2003年11月の記事


サンタクロースとクリスマス旅行
ぬいぐるみのウサギが書いた最初の手紙の日付は
11月30日。消印は12月1日である。
フェリックスという名のうさぎのぬいぐるみが
出した手紙を集めた絵本「フェリックスの手紙4」。

数通の本物の手紙が貼り付けられ
そいつを引っ張り出して読む。

明日のロケに持っていく一冊に加える。

ギネスレコード時速580kmの日。
宙を飛ぶリニアは、トナカイよりも速いか?
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村の鍛冶屋かモダンタイムスか。
27日と28日の2Dロケ分のOK出しをアップ。
ウェブに放り込み、DVDに焼く。

スタッフ諸君は、しかし洗濯などできたのだろうか。
まったく休みゼロでこの10日あまりが過ぎた。
制作部の何人かは、今月一ヶ月で東京に戻ったのが2日だけという猛者もいる。

土気色した若いスタッフを見るたびに気が萎えそうになる。

あと数日。
すくなくとも現地組はそこまでで解放してやれる。
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バーチカル・リミット
件名: バーチカル・リミット
送信日時: 2003年 11月 30日 日曜日 5:43
差出人: Toru Mashiko
宛先:万博リニアチーム


27日と28日に追加撮影した2D撮影分の素材整理を渡辺がアップ。
30日中に、OK出しをします。
1日に現地に入りますのでDVDをお渡しできるようにします。
なおこのOK出しにはダビングの関係で音声が入っていませんが、
撮影原版にはすべてカメラマイクの音が生きています。
さらに主要なシーンについては別途録音部が音を録っていますので
編集時にはそれらを加えます。


撮影スタッフのみなさん
ハードなロケが続いていますが、
もうひと踏ん張りで切所を越えられます。
とりわけ12月2日のギネスレコード挑戦を
この秋の総決算として成功させれば、言うことなし。
現時点では「ギネスレコード挑戦」が
構成上の本編ラストシーンになりますので
制約は多いですが、この秋の最後の力を注いで下さい。
疲労がピークに達していると思いますが、
重ねてお願いします。前半戦の天王山を乗り切って下さい。


制作部のみなさん
みなさんにはさらに20日の試写まで
テンションを維持するようにお願いします。
ぼく自身、すでに限界点を迎えつつあるような気もしますが
泣くも笑うもあと三週間。
突破あるのみです。
それぞれのバーチカル・リミットをにらみながら
倒れずに、頑張って下さい。


すべてのみなさん
クランクインから二ヶ月。
半年がかりで準備してきた走行シーン撮影は
すべてワタクシが想像していた以上の
テイストとインパクトを持つ素材としてカタチを結んでいます。
懸案だった基地絡みのシーンも
来年に控える本番に向け、十二分な手ごたえを持つことができました。
さわりのシーンをウェブにあげておきました。
余裕があったら眺めて下さい。800インチのスクリーンを想像しつつ…
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J.トンプスン《取るに足りない殺人》★★★★★
扶桑社刊
1949年に出版されたトンプソン初のノワール。
タイトルだけは知っていたが読んでみてしみじみ才能のスゴミを痛感。
三川基好の訳もとてもいい。
読み進めるのが惜しくなるような晩秋向けの一冊。
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金庸《鹿鼎記》第4巻★★★★
やっと読了。金庸先生お得意の中だるみ状態が続く。
全8巻にもかかわらず、主人公は未だ頓珍漢のまま。いささか不安も募る。
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Sarah BrightmanのWhat a Wonderful World
を聴きながら夜の中央高速をひた走った。
窓を全開にし、雨と濃霧の闇に音を解き放つ。

あのとき、3年前の2月にはじめて福島入りしたとき
雪の山に向けて聴かせたのがフィリッパ・ジョルダーノ。

とうぶんの間、この撮影のトーンをこの
What a Wonderful Worldでいこうと、唐突に決めた。

昨日、待ち時間にメインスタッフに聴かせ、
その旨を伝える。

昨日は朝から雲ひとつない秋晴れ。
トンネル内のR8000カーブ地点に3DHD-950を据え、
明かり区間の走路に3DHD-CCDを埋める。

漆黒と青空を500km/hがすっ飛んでいく。
胸の内にWhat a Wonderful Worldが聞こえている。

ああ、勝ったな。
キャンバスチェアに座って太陽を浴びながら
そう確信した。

Sarah BrightmanのアルバムタイトルはHarem。

なんだか、おかしい。
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Don't Let Me Downで雨の大月へ
雨。
なんとか起きる。
渡辺に電通にバイク便でDVDを送るように頼む。
茶漬けでも腹にいれたら大月へ向かおう。

二日間、休みながら仕事をしていた。
気分だけはかなりラクになった。はず。

昨日仕入れた
LET IT BE…NAKEDから
Don't Let Me Downあたりをリピートか。
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わかちもつ何もなければ持って来い火鍋を俺は冷えたる薪
http://homepage.mac.com/torum_3/r1118/iMovieTheater299.html
ひさしぶりに自分の仕事を見る。

赤裸々に自己の想いを告げたあと…

よくもこんな始まりができたものだ。
あの頃が若かったからなのか
賢明さんや辻や横江がいて
十代の九段時代を引きずっていたからなのか。

ただ単に、
福島泰樹の歌に浸りたかったからか。

サウンドシティで1巻目の編集中の朝、
ふいに3巻目は福島さんで行こう、と決めた。
なぜ、誰も異を唱えなかったのか、不思議だ。

あれがなければ
たぶんその後の展開もない。
短歌とロックではじまる料理ビデオ。

録音の時、レベルが飛びそうになって
内山君が慌てたことを覚えている。

なんとか、DVDをやき終わった。
これからすこし眠って、山梨。


《わかちもつ何もなければ持って来い火鍋を俺は冷えたる薪》
福島泰樹
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ガーン!エラー。
2枚目を約ながら1枚目をチェックしていたら
がーん!
後半でしっかりエラー。
QuickTimeムービーの方を再生しても問題ないので
たぶん書き込みの時のエラーだろうと
勝手に判断し、いま再書き込みをセットした。
くそっ、これで1時間以上起きていなければいけなくなった。

エラーした板はインターメディア製。
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最高速と空力のOK出し
いまDVDに書き出しているところ。
渡辺が不眠不休で整理してくれたので
なんとか明日からの山梨入り前に片づきそうだ。
それにしても、うどんすすりながら、よくやれている。

あかりやさんのメールがやっと復旧。
これから月末までバリ行きだとか。
こっちは山梨うどんの里。あっちはバリ。

年末には満ちゃんのところで
夏の島の物語を聞きながら
この一年を振り返ることになりそうだ。
そのときおれは過去として話すのか
未来として話すことになるのだろうか。
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机上のみ大掃除
車両基地のOK分をDVDに焼く。
とりあえず2枚。明日の提出用に。
最高速試験、空力ブレーキ試験のOK出しは
渡辺の荒出しをもらつてから今夜もしくは明日。

時間待ちに机の上の整理にかかることにする。
この2か月、積水ハウスの地震実験とリニアの走行実験ロケが続いたので
すべてがごちゃごちゃになって、さすがに不安になってきた。

年末前だが大掃除である。
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OK出し
まず21日、22日撮影分のOK出し。
約17分にまとめたものをwebにアップ。

こいつが800インチの大スクリーンにかかるのだと考えると、ゾクゾクする。

不思議な見たことのない生き物のようだ。
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松井激情
NHKスペシャル「松井秀喜」を見る。
1シーズンできるかぎり仕事をさぼってライブ中継を見てきた
その一瞬一瞬を思い返しながら
まことによくできた特番を愉しんだ。

あらためて「命がけで挑む」と会見したことが甦った。
振り返ってみれば、その会見どおりのシーズンだった。
イチロー、松井と大リーグ放送を見るにつけ
日本とアメリカの野球がまったく異なるものであることを
つくづく思い知らされる。
気がつくと、今年はプロ野球をまったく見ていない。
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スターらんどホテル
「激動の1週間」という言い回しが昔、あった。
おれが十七歳のころのこと。

比ぶべくもないが、展開だけは「激動」の1週間が過ぎた。
甲府の山奥、星とリニアの寒村で。

滞在中、一日ごとに村の秋が濃くなっていった。
昼は染みるような青空と500km/h超。
日が暮れると満天の星。夜明けは朝霧。

座ると人の形にへこんだままのベッド。
くさったような古油でで揚げられた得体のしれないフライ群。
農村なのにタイの古米のような味の飯。
二十年前のまだスターバックスもタリーズもなくひたすら薄いだけがとりえの「アメリカン」のようなホテルのコーヒー。
飯を食っていると素っ裸のガキが走り回り、
金歯を光らせたおばさんがあたりかまわぬ大声で話しまくる。

この秋の我が宿。
都留スターらんどホテル。

カタカナとひらがなの混じったトンチンカンな看板が
闇の底に浮かぶのを見ると、ほっとするようになった自分がおかしい。

まずは最初の切所は越えた。
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急変。金庸。夜霧のブルース。
東京に戻り築地で4時間打ち合わせ。雨。
首都高が混んでいるというので神田に周り南海でカツカレー。
書泉グランデに立ち寄り金庸の「鹿鼎記」第4巻などを入手。
大手町から上に上がる。
談合坂SAで休憩。霧が出ていた。
コーヒーを飲み都留に。
実験センターを横目にブリッジをくぐりスターランドホテルに。
JRの横田さん北森さん、撮影の鈴木さん、葛西さん、制作の尾崎さんが先着していた。
合流し、話に加わる。

30分ほどで抜け出し部屋に戻った。
バスタブに湯を張り、クナイプを落とす。
山梨もまた、雨。

テレビをつけ、ひさしぶりにのんびりした気分に浸りながら
昨日から今日にかけての急変をぼんやりと振り返った。

ま、乗り越えた、のだと思う。

今夜は眠くなるまで金庸先生でも読みながら過ごそう。
ひさしぶりに宇崎竜童の「夜霧のブルース」を聴きながら。
前半戦、明日明後日が切所となる。
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忙中閑
けっきょく打ち合わせが終わったら十二時を回っていた。
部屋に戻り、風呂からあがったら二時過ぎ。
七時半にフロントからの電話で起きた。

小春日和。
空力ブレーキを3カメてで撮影。

太陽が山陰に隠れると一気に十℃くらい下がる感じだが
一日好天気だった。

忙中閑あり。
そんな言葉も浮かぶ。
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命の別名をひさしぶりに
8時。一足先にホテルに送ってもらう。
東京から井上さんと坂本さんが打ち合わせに来るので。
スタッフは真っ暗な中、懐中電灯を炭坑夫のように灯し明日のためにカメラセッティング。
シャワーを浴び髪を洗った。

ひさしぶりに中島みゆきをパソコンの音で聞いている。

「命の別名」。

もう少ししたら二人がつく。
話をして泊まっていけるのか
それとも明日のためにとんぼ返りなのか。

リニアの夜は深く濃い。
窓を開けて空を見上げると降るような星である。

午後4時近く、目の前でギネスを塗り替える瞬間に立ち会った。
560km/h超。

12月2日にかけ、さらに580km/hを目指す第一歩。

おれは進んでいるのか
とどまっているのか
後退し続けているのか?

携帯からこぼれた井上の声が明るかったのが
せめてもの救いか。
あるいは、彼の自棄?
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24℃から3℃へ
東京は汗ばむ一日だったが中央高速を下るにつれてぐんぐん気温が下がった。
ホテル着11時。顔を合わせたスタッフによれば明日朝の予報は摂氏3℃とか。
聞いただけで寒けに襲われた。

明日は、まず580km/hまで。
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佳境
3時から7時まで築地で打合せ。
いったん蒲田に戻り一週間分の荷造り。
これから大月へ。
いよいよ佳境。
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■北丹後地震
■北丹後地震

1927年(昭和2)3月7日18時27分に京都府北西部の丹後半島に発生した地震。規模M7.5。この地震で郷村(ごうむら)、山田両断層が出現した。この断層沿いの町村で建物倒壊率が高かった。死者は全体で2925人。住宅の被害は家屋の全壊が1万2584戸で、京都府だけでも全壊が4899戸、半壊が4603戸であった。この地震は、地震研究所が設置されてまもないときに発生し、余震分布、地殻変動、断層調査など各種の近代的調査や研究が行われ、地震研究上一時期を画す地震となった。この地震の約2時間半前に、三津(みつ)、砂方(すながた)の沿岸が約1メートル隆起したという話もある。〈宇佐美龍夫〉
(C)小学館
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三陸沖地震
■三陸沖地震

青森、岩手両県の太平洋岸、三陸沖に発生する地震。沿岸から約200キロメートル沖の日本海溝沿いに発生するので、陸上での震度はV以下と弱いが、地震後約30分から1時間で、北海道から東北、関東地方沿岸を襲う大津波が発生している。過去のおもな大地震は以下のとおりである。

●三陸沖のおもな巨大地震

(1)発生年月日 1793年(寛政5)2月17日
 規模(M) 8.2
 断層型 逆断層?
 死者(人) 12か13

(2)発生年月日 1896年(明治29)6月15日
 規模(M) 8.5*
 断層型 逆断層
 死者(人) 21959

(3)発生年月日 1933年(昭和8)3月3日
 規模(M) 8.1
 断層型 正断層
 死者(人) 3008

(注:*については6.8説も有力。規模のMはマグニチュード。『理科年表』(1986)等による)
 三陸地方のリアス式海岸ではとくに波高が高くなり、上記の(2)の地震での最高波高は30メートルを超えた。(1)と(2)では余震が多く、(3)では少なかった。(1)による死者数は少なかったが、(2)、(3)ではともに甚大な死者を出した。この地震では三陸沿岸は相次いで津波に襲われるので、防潮堤を築いたり、集落を高地に移動させたり、対策を講じている。津波は太平洋を横切って、約6時間後に遠くハワイまで達し、さらに北アメリカ沿岸、チリ沿岸などにまで達している。
〈宇佐美龍夫〉
(C)小学館
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濃尾地震
■濃尾地震

1891年(明治24)10月28日6時38分ころ、愛知・岐阜両県にまたがって発生した地震。規模はM8.4。死者7273人。全半壊の家屋22万2501、道路破裂2万0067か所、橋梁(きようりよう)損落1万0392、堤防崩壊7177、山崩れ1万0224か所などの被害が発生したが、もっとも被害の大きかったのは美濃(みの)と尾張(おわり)の地方であった。この地震で、北北西―南南東の方向に延長80キロ以上にも及ぶ根尾谷(ねおだに)の大断層が出現した。とくに岐阜県本巣(もとす)郡根尾村水鳥(みどり)付近では西側が約6メートル隆起し、南南東方向に約2メートルずれた。余震が多く、岐阜県では10月の有感余震は720回に達した。この地震で、福島県西部岩代(いわしろ)地方、静岡県伊豆地方から西は岡山県美作(みまさか)地方に至る広域で温泉水の増量がみられた。→根尾谷断層 →地震
〈宇佐美龍夫〉
(C)小学館
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漆喰
■しっくい

漆食、漆喰とも書く。消石灰に糊(のり)、すさ、粘土、砂などを混ぜた塗り壁材料。構成材料の組合せで多くの種類がある。普通のしっくいは消石灰に糊とすさを混ぜるか、さらに砂を加える。砂の入らないものは上塗り用で「のろ」ともよばれ、白色のものが多いが、着色されたものもある。消石灰は加水して空気中に放置しておくと炭酸ガスと化合して硬化するが、消石灰を水だけで練ったものは粘性が乏しく、塗りにくいうえに乾燥に伴い大きく収縮する。そのためツノマタ、ギンナンソウなどの海藻類を加工した糊材を加えて塗りやすくし、さらに、すさや砂を混ぜて硬化後のひび割れを防ぐ。すさは麻または和紙をほぐして短く切断したもので、ひび割れを分散させるために加える。砂はしっくいの乾燥収縮を低減させると同時に塗り厚を一定に保つ役目を果たす。
 消石灰は紀元前3000年の昔、すでにエジプトで製造され、これを主材とした塗り壁は世界各国に分布しているが、しっくい塗りは日本独特の工法で、その起源は奈良時代初期から平安時代後半とされている。初めは主として寺院建築に塗られたが、鎌倉時代には土蔵にも用いられ、戦国時代に城郭の仕上げに塗られるようになって全国的に普及し、江戸時代には庶民の住宅にも盛んに使用された。
しっくいは本来、木造建築物の小舞(こまい)下地に壁土を塗り、その仕上げとして用いられたものであるが、明治時代に西洋の建築技術が導入されて以来、れんが造、鉄筋コンクリート造などの壁面にも塗られるようになって現在に至った。
 塗付けは下塗り、むら直し、中塗り、上塗りの順で施工される。調合は下地に近い塗層ほど糊量およびすさ量を増し、砂は、むら直し、中塗りなど塗り厚の大きいものに多く加え、上塗りには入れない。下地は小舞、木ずり、モルタル、コンクリートなどであるが、小舞下地の場合は中塗りまで壁土を用い、上塗りをしっくいとする。しっくいは乾きが遅いので1回の塗り厚をなるべく薄くし、そのつど十分に乾燥させねばならない。コンクリート下地の場合は下塗りから上塗りまで3〜6回に分けて塗り付け、塗り厚の合計は1.5センチメートルくらいになる。しっくいは伝統に培われ、優れた性能をもつが、工期が長くかかりすぎるため、能率のよいセメントモルタルやプラスターに押され、現在ではあまり用いられない。〈矢野光一〉
 建築用のしっくいは一般に白色であるが、土蔵などには灰墨を混ぜた鼠(ねずみ)しっくい、黒(くろ)しっくいが塗られることもある。幕末から盛んになった土蔵造の商家などにも鼠しっくい、黒しっくいが用いられることが多い。また、江戸時代中期から土蔵の妻などの外壁に、家紋や水などの文字をしっくいによる浮彫りで施すことが流行する。これはさらに松竹梅などの彫刻に発展する。その後、室内の壁や欄間(らんま)にも彩色されたしっくい浮彫りが施されるようになり、鏝絵(こてえ)の名で普及する。鏝絵の名手としては、幕末から明治にかけて活躍した伊豆の長八こと、伊豆松崎の入江長八(生没年未詳)が有名である。国重要文化財旧岩科(いわしな)学校校舎(静岡県賀茂(かも)郡松崎町岩科、1880年9月25日落成)には、彼の千羽鶴や山水の浮彫りのしっくい鏝絵が残り、長八の66歳の作といわれている。また同町松崎には長八美術館があり、彼の代表作が展示されている。
〈工藤圭章〉

(C)小学館
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浅間山
■浅間山

長野・群馬県境にそびえる三重式の成層・円錐(えんすい)火山。標高2568メートル。おもに安山岩からなる。有史以後(685年以後)も近年までしきりに噴火を繰り返してきた日本の代表的活火山。那須(なす)、富士両火山帯が合する位置にあるが、普通、前者に属させる。更新世(洪積世)末期、数万年前にまず成層・円錐火山が形成されたのち、大規模な水蒸気爆発でその東半が吹き飛ばされ、カルデラを生じたが、同山の西側はいまも第一外輪山(黒斑(くろふ)山など)として残存する。その後、南側山腹に寄生火山の石尊(せきそん)山(溶岩円頂丘)を生じた。約2万年前、そのカルデラ内に粘り強い石英安山岩(デイサイト)質の仏岩(ほとけいわ)溶岩流が噴出して偏平な楯状(たてじょう)火山ができ、その東方には石英安山岩質の寄生火山、小浅間(溶岩円頂丘)を生じた。約1万1000年前、大爆発して石英安山岩質の火山砕屑(さいせつ)物を関東北部一帯に厚く降り積もらせ、かつ、同質の軽石流が火山の南北両側の麓(ふもと)を広く覆った。現世に入り、約5000年前にカルデラ内で噴火活動が再開され、第二外輪山、前掛(まえかけ)山が形成されてきた。
 有史以後の二大噴火は1281年(弘安4)と1783年(天明3)におき、ともに大爆発、火砕流、溶岩流が発生し、噴出物総量は前者は約30億トン、後者は約10億トン。後者では死者1152人を出した。鎌原(かんばら)遺跡はそのときのものである。天明大噴火後、前掛山火口内に中央火口丘の釜(かま)山が生まれた。釜山火口はほぼ円形で直径約350メートルであるが、深さは絶えず変動し(0〜250メートル)、活動期には浅くなる。爆発型噴火が特徴で、噴出物総量数十万立方メートル、噴煙を山頂上数千メートル以上にあげ、噴石、降灰、爆風などでしばしば惨害を出す。
 1911年(明治44)わが国最初の火山観測所を震災予防調査会が設け、22年(大正11)創設の軽井沢測候所と、33年(昭和8)創設の東京大学地震研究所浅間山支所がその観測研究を受け継いだ。測候所は火山状況を定期(毎月)、臨時の火山情報として公表している。山頂部は裸地であるが、山腹にはカラマツ、アカマツ、シラカンバなどの森林や低木草原が広がり、裾野(すその)は開拓され、軽井沢、北軽井沢の高原別荘地帯がある。夏の避暑、春秋の行楽、冬のスケートと来遊者が絶えない。風光に恵まれ、野鳥に富み、上信越(じょうしんえつ)高原国立公園に属する。
JR信越本線中軽井沢、信濃追分(しなのおいわけ)、小諸(こもろ)と、吾妻(あがつま)線長野原草津口の各駅から登山路が通じ、約4時間で登頂できるが、近年は、頂部は常時立入り禁止になっている。小諸市立と、長野原町立の火山博物館がある。〈諏訪 彰〉

【地】5万分の1地形図「軽井沢」「上田」
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安政の大地震
■安政の大地震

1855年(安政2)10月2日午後10時ごろ江戸に発生した地震。震央は荒川河口付近で、規模はM6.9と推定される直下地震であった。江戸の町方での倒壊した家屋は1万6000、倒壊した土蔵は1400余、死者約4700人といわれたが、武家・社寺方を含めると、倒壊した家屋は2万、死者は1万人余と考えられる。地震後、火災が約30か所から発生したが、風が穏やかであったことが幸いし翌朝10時ごろには鎮火した。江戸市中の焼失面積は、関東大震災(1923)のときの約20分の1である。現在の江戸川区や葛飾(かつしか)区方面では、地面の割れ目から水や泥が噴出するなどの顕著な液状化現象がみられた。津波はなかったが、深川(ふかがわ)や木更津(きさらづ)(千葉県)あたりでは海水の動揺があった。このほか井戸掘り中の地鳴りや、発光現象などの前兆現象が報告されている。
 現在の世田谷区のあたりでは被害がなかったことがはっきりしているが、江戸以外の木更津での蔵の崩壊、幸手(さって)付近(埼玉県)での著しい液状化現象や家屋の倒壊、利根(とね)川、荒川流域での被害などが報告されている。
 東京直下に、この地震と関連のありそうな地震断層は未発見で断定はできないが、フィリピン海域のプレート中で発生したともいわれている。〈宇佐美龍夫〉
 江戸市中における被害が大きかったなかで、山の手の被害は比較的少なかったが、小石川の水戸藩邸では藤田東湖(とうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)らが圧死している。幕府は5か所に救小屋(すくいごや)を設置して被災者を収容し、大名には帰国を許したり貸付金の返済延期、旗本・御家人には貸金などの応急措置をした。地震直後から、焼失地域を示す一枚摺(ずり)をはじめ、地震に関する綴本(とじほん)、錦絵(にしきえ)類の出版は甚だ多く、なかでも鯰絵(なまずえ)と称されるものの多くは、震災により巨利を得た大工、左官や材木商などを風刺しており、よく当時の世相を表している。また鯰絵は民俗学の立場からも注目されている。〈南 和男〉

(C)小学館
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災害年表
636
岡本宮(皇居)炎上。古代より火災を防ぐ手段がなく、祈祷に頼るほか、衣服の赤色禁止など、火の字を忌み嫌いことばを改めて気を紛らわす。塔の九輪(相輪)上の「火炎」→「水煙」、「火事」→「水流」など
670
法隆寺落雷で炎上。以降、土倉・土屋の出現
764〜6
桜島、海底噴火で新島形成。死者多数
775
伊勢・尾張・美濃大風雨。死者300余人
802
京都で平安京遷都後初の大火。明治に至る約1000余年間に京都では400回以上の大火を数える―室町時代に町家の「うだつ」出現、城郭建築の発達(城)、防火構造であるしっくい塗りの出現(生子壁)
869
三陸地震、三陸大津波、死者多数
874
京都、大風雨、洪水
989
「永祚の風」という大風。寺社家屋倒壊多数
1181
干魃による飢餓死者、疫病死者多数
1251
鎌倉大火。以後鎌倉に大火が頻発
1293
相模地方地震。死者数1000〜2万3000人
1448
京都洪水。五条橋、勢多橋流壊、死者多数
1596
浅間山爆発。死者多数
1601
江戸大火。以後、明治に至る江戸の町は延焼距離2キロメートルに及ぶ大火約90回を数える―かや葺き・藁葺き屋根に土を塗ることを命令
1629
大名火消の設置→明治元年廃止
1640
北海道駒ヶ岳で噴火、津波、死者700余人
1649
定火消(旗本火消)の設置→明治元年廃止。消火法は破壊消防
1657
明暦の大火(振袖火事)。江戸三大火事の一つ。江戸城本丸焼失。焼死者10万人以上といわれる―瓦葺きの禁止→享保5年解除。延焼防止対策として「火除地(空き地)」「防火堤」「広小路」の設定を行う。「穴蔵」の発生と奨励
1666
越後高田地方地震。死者1500人
1668
寛文の大火。2月1、4、6日の3日にわたり出火
1673
京都大火。皇居炎上。類焼5000余戸
1682
天和の大火(お七火事)。八百屋お七の火事として有名。お七は翌年鈴ヶ森で火あぶりの処刑
1683
「火付盗賊改」の設置
1703
元禄地震。三浦・房総変動、死者7500人
1707
宝永地震。室戸・串木変動、死者4900人
1708
京都大火(1万余戸焼失)
1720ころ
町火消の設置(いろは四十八組)→明治5年消防組→明治14年警防団→昭和22年消防団→現在
1720
享保の大火。翌年の大火を含め延べ14万戸焼失―瓦屋根の許可と奨励→桟瓦の発明(延宝2=1674)が寄与。明暦以来の防火対策の推進。土蔵造、塗屋造の奨励
1724
大坂の大火。大坂第一の大火。全市の3分の2が焼失
1732
享保の飢饉。西海・畿内で蝗害、餓死者多数
1741
北海道渡島大島噴火、津波。死者約1500人
1742
京都・東海・北陸大洪水。死者1200余人
1753
竜吐水(りゅうどすい)(原始的なポンプ)の発明
1772
明和の大火(目黒行人坂の火事)。江戸三大火事の一つ。同地大圓寺より出火し、日本橋から千住まで延焼。火付盗賊改長谷川平蔵が放火犯人を捕らえた。めいわくの年という
1783
浅間山噴火。火山泥流などで死者1152人
1783〜87
天明の飢饉、冷害による被害全国に及ぶ
1788
京都大火。18万3000戸焼失
1792
雲仙岳爆発、津波の被害大。死者1万4524人
1806
文化の大火(丙寅(へいいん)の火事)。江戸三大火事の一つ。芝から出火し市中全域焼失、死者7200人
1828
越後地方地震。死者2647人
1829
文政の大火。江戸下町繁華街の全焼
1833〜37
天保の飢饉。干魃、冷害全国的被害大
1837
大坂大火(大塩平八郎の乱)
1840
筑前大洪水。流・溺死者88人
1847
善光寺地震。山崩れ水害、死者数千人
1854
京都大火。4月6日、皇居炎上
1855
安政の大地震。約30か所より出火。死者約4700人、潰家焼失約1万6000戸―防火策として石造家作、防火幕の提唱
1864
京都大火(蛤御門の変)。「どんどん焼け」と呼ばれる。2万余戸焼失
1872
和田倉門祝田町大火。明治建築史上もっとも興味深い都市計画と建築活動の発端となる―洋風不燃街区の設置(銀座の煉瓦街)
1884
大風雨。死者2328人
1888
磐梯山爆発。諸村落埋没、死者461人(磐梯式噴火)
1891
濃尾地震。根尾谷断層出現、死者7273人
1896
三陸沖地震。死者2万1959人
1902
伊豆鳥島噴火。水蒸気爆発、死者125人
1909
大阪北の大火―大阪府建築取締規則の公布(天井高は7尺以上にすること、屋根は防火材料で葺くことなど)
1910
中部・関東・奥羽地方洪水。浸水家屋52万戸
1911
吉原の大火。明治末期最大の大火
1919
都市計画法および市街地建築物法の制定(防火地域の指定、耐火構造、防火戸などの設定など)
1923
関東大震災。死者9万1344人
1927
北丹後地震。郷村断層出現、死者2925人
1931
日本航空輸送会社の旅客機墜落、日本最初の旅客機事故
1932
白木屋火災。ビル火災の第一号。はしご車開発と婦人下着普及(下着をつけていない女性従業員が飛び降りることを恥じて多数亡くなる)
1933
三陸沖地震。死者3008人
1934
函館市大火。24時間延焼、焼失家屋2万4000戸
1939
西日本干害、7〜8月雨量平年の20〜40%
1940
静岡市大火。焼失家屋5000戸
1942
防空建築規則の公布(木造建物の防火構造改修推進)
1943
鳥取地震。鹿野断層出現、死者1083人
1945
東京大空襲。三河地震。死者1961人。枕崎台風。死者行方不明3756人
1947
カスリーン台風。死者行方不明1910人
1948
消防法の制定
1950
建築基準法の制定
1954
洞爺丸台風。死者行方不明1698人
1957
諫早豪雨。死者行方不明992人
1958
狩野川台風。死者行方不明1269人
1959
伊勢湾台風。死者行方不明5101人
1960
チリ地震による津波。死者行方不明139人
1961
北海道を除く日本各地で豪雨、山陰・四国・近畿・中部・関東に死者行方不明357人
1963
豪雪、死傷者231人
1964
東北・関東北部・甲信凍霜害、被害99億2000万円。北日本冷害、被害580億円。新潟地震。M7.5、死者26人
1965
松代群発地震
1966
全日空機東京湾墜落事故、死者133人。北日本冷害。台風24・26号による風水害、死傷者1251人
1967
関東以西干害。中部以西豪雨、死傷者983人
1968
台風7号による崖崩れと飛騨川バス転落事故で死傷者112人。十勝沖地震。M7.9、死者行方不明52人。建物全半壊3677戸
1969
北日本冷霜害。関東以西、梅雨前線の発達にともなう大雨により風水害で死傷者89人
1970
大阪市天六駅地下鉄工事現場でガス爆発事故、死傷者499人
1971
北日本・東日本冷害、被害総額1333億円
1972
中部・北関東凍霜害。麦など被害78億円。全国的豪雨で死傷者1052人
1973
九州を除く全国干魃、被害額900億円
1974
伊豆半島沖地震。M6.9、死者78人。原子力船『むつ』放射能漏れ事故
1976
北海道・東北・北陸・関東・甲信地方で冷害、被害総額4093億円。香川・岡山中心に台風17号と秋雨前線が重なり風水害。死傷者・不明169人。酒田火災。焼失1774戸、死傷者964人
1977
全国的に雪害・凍害、死者行方不明75人。米海軍偵察機住宅地墜落事故、民家2戸全焼、死者2人負傷者6人
1978
全国干害。農作物被害1382億円。森林被害65億円。宮城県沖地震。M7.5、死傷者164人
1979
関東・東海・近畿・中国・四国・九州地方で凍害。麦・野菜など被害総額118億円。台風20号により全国で死傷者11人。御嶽山噴火。東名高速道路日本坂トンネル内の玉突き炎上事故。死者7人、負傷者4人
1980
冷害、全国規模で被害総額6919億円
1981
日本原子力発電敦賀発電所で高濃度の放射能漏れ事故。3回にわたり、約100人が被災。北炭夕張新鉱ガス突出事故。93人死亡
1982
長崎で豪雨、時間雨量187ミリ記録。台風10号、愛知県知多半島に上陸後、本土を横断。死者行方不明89人。北海道日高地方で地震。M7.3、重軽傷147人
1983
島根県と山口県を中心に集中豪雨。土砂崩れ・河川の氾濫で死者・不明112人、負傷166人。伊豆三宅島で21年ぶりの噴火。324戸が全焼、住民2000人が避難
1984
熊本県五木村で集中豪雨で山崩れ。住民17人が生き埋め、5人が死亡。長崎県雲仙岳付近で群発地震発生
1985
台風6号が首都圏を通過、31都道府県で死者行方不明8人。長野県地附山で地滑り。老人ホーム、団地など70戸が全半壊、死者26人。日航ジャンボ機、御巣鷹山墜落事故、死者520人
1986
伊豆大島三原山大噴火、全島民避難離島。台風10号の影響で、東海・関東・東北地方で記録的大雨、栃木県茂木町全町冠水、茨城県石下町で小貝川の堤防決壊。東伊豆の熱川温泉「ホテル大東館」火災、死者24人
1987
東北縦貫自動車道で50台玉突き事故、死者1人負傷者37人。東村山市の老人ホーム「松寿園」火災。高知・生見海岸の落雷事故、死傷者12人は落雷事故として世界最大級
1988
ディスコ「トゥリア」の照明落下事故。北陸自動車道玉突き事故。中国修学旅行列車の衝突事故。ソ連客船『プリアムーリエ』炎上事故。海上自衛隊潜水艦『なだしお』と遊漁船『第一富士丸』浦賀水道で衝突。JR東中野駅追突脱線事故
1989
伊豆東方沖群発地震・伊豆沖海底噴火。越前海岸の落石事故。スキューバダイビングの水難事故。東京・江東区の高層マンション火災、24階67メートルの高さで発生。北アルプス真砂岳の遭難事故
1990
JR御徒町駅ガード下道路陥没事故。花博ウォーターライドの墜落宙吊り事故。阪急航空ヘリコプター墜落事故、死者10人。千葉・茂原市の竜巻、1745戸が全半壊
1991
島原半島雲仙普賢岳(雲仙岳)、大火砕流、死者43人。信楽高原鉄道列車衝突事故。美浜原発冷却水漏れ事故。台風19号が全国各地に被害をもたらし、死者62人、負傷者126人
1992
島原鉄道列車正面衝突事故
1993
北海道南西沖地震。M7.8、津波で奥尻島民に死者行方不明244人(奥尻(町))
1994
名古屋空港で中華航空機墜落炎上、死者264人
1995
阪神・淡路大震災、淡路島近くを震源としM7.2、死者6433人。兵庫県内で20万余りの建物が倒壊、ライフラインもまひし、30万人余が避難
1996
北海道古平町の豊浜トンネルの岩盤崩落、死者20人。広島県基町高層住宅火災、バルコニーを伝わり9階から20階まで延焼、住民多数避難
1997
伊豆半島東方沖で群発地震が活発。東海村臨界事故、茨城県東海村再処理施設で使用済み核燃料アスファルト固化処理施設で火災・爆発が発生し、放射性物質が飛散37人被曝。鹿児島県出水市で土石流発生、19人死亡。東京都築地市場火災、店舗119店、2200平方メートル消失
1998
台風4号、死者行方不明21人。台風7号が近畿・北陸を直撃し死者行方不明11人、奈良県の室生寺の国宝五重塔など近畿各地の文化財に被害。和歌山県白浜町の9階建ホテルで火災、約1万2000平方メートル消失したが全員避難
1999
栃木県佐野市で古タイヤ火災、3日間燃え続け約20万本消失した。東京都新宿で飲食店街火災、28店舗680平方メートル消失。西日本、梅雨前線による大雨被害。広島県死者23人、行方不明8人。福岡市では地下街に濁流が流れ飲食店水没。台風18号で九州・中国地方に被害、さらに高潮による被害も重なり死者25人を出す。茨城県東海村のウラン加工施設で国内初の臨界事故が発生し2人死亡、43人被曝、周囲の住民に避難命令が出された
2000
日比谷線脱線衝突事故で乗客5人死亡、重軽傷者多数。長大トンネル内での車両火災、大阪府と奈良県を結ぶ水越トンネル内でトラックが延焼し18人負傷。北海道有珠山の噴火、避難民が約1万2000人に達した。愛知、岐阜、三重を中心とした豪雨、3県合わせて約5万6000戸が浸水、東海道新幹線も22時間ストップ。三宅島火山噴火、全島民が島外に避難。鳥取県西部地震、鳥取県日野町ほか2市町・島根県安来市に避難勧告発令
2001
ハワイ・オアフ島沖で、アメリカ海軍の原子力潜水艦に衝突された愛媛県立宇和島水産高校の漁業実習船えひめ丸が沈没、高校生4人を含む9人が行方不明。芸予地震、広島県安芸灘を震源とする震度6弱、M6.4の、中四国、九州、近畿地方の広い範囲にわたる強い地震で、中四国地方を中心に交通網、電気、水道などのライフラインが寸断された。兵庫県明石市の花火大会で見物客が歩道橋で将棋倒し、小学生など10人が死亡。東京都新宿区歌舞伎町の雑居ビルで火災発生、44人死亡
(C)小学館
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東山魁夷
■東山魁夷

(1908―99)日本画家。明治41年7月8日横浜に生まれる。本名新吉。1931年(昭和6)東京美術学校(東京芸大の前身)を卒業して研究科に進み、33年から35年までドイツに留学。47年(昭和22)の第3回日展で『残照』が特選。50年から審査員となり、第11回日展出品作『光昏(こうこん)』で56年に日本芸術院賞を受ける。65年には日本芸術院会員、日展理事となり、69年に文化勲章を受章。74年に日展理事長となった。この間、60年に東宮御所壁画『日月四季図』、68年には皇居新宮殿壁画『朝明けの潮(うしお)』を完成させ、翌年毎日芸術大賞を受ける。また73年から唐招提寺御影(とうしょうだいじみえい)堂障壁画の制作に携わり、81年にこれを完成させた。87年に所蔵していた自作を長野県に寄贈。90年(平成2)には、同県にそれらを所蔵した長野県信濃美術館・東山魁夷館が開館した。文章をよくし、『わが遍歴の山河』『風景との対話』など著書多数がある。平成11年5月6日死去。(C)小学館
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3分弱の超体感
9月末から11月7日までの素材で
「臨場感」をテーマに一日の走行シークエンスをまとめる。
rstudioの村井君が急きょ録ってくれた音素材を渡辺君に頼みあててもらう。
ステレオで再生するだけで
あきれるような体感効果あり。

ため息が出た。

それにしても
どうしてこの時期にこんなことをしなければならないのか
その不快感だけが増していく。
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午前4時の震度4
昨日のDVDで地震実験シーンを見ている最中に
ぐらりと揺れた。テレビをつけると茨城沖で震度4。
どこか鈍いいやな感じの揺れだった。

全体が16分弱のムービーにメニュームービーと音楽を追加し
2枚目からは約8分の仕上がり。
倍速であるだけで、ずいぶんと速い感じだ。

渡辺からのデータ待ちながらのんびりと過ごした。
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緋牡丹と唐獅子
4時から新宿の打ち合わせに参加。挨拶も兼ねて。
山田部長、羽田部長たちから労いを。
石丸教授も喜んでくれていたと福田さんから。

メッセージビデオは新聞CMと同じ20日解禁。
TV-CMは末から。

帰りに、ねぎしで相馬さん、中山さん、夏苅さんたちと麦とろを食べる。
ほんとうはどこかゆっくりした場所に連れていって
慰労したかったが、つまらぬ「仕事」が待っているのであきらめる。

てんとまるの無い「仕事」に切り替えながら
熱が醒めると、三日前まで昂ぶりとともに見ていた映像が
どれも玩具のように見えてくることに気づかされる。
「どう?」と言いたい相手も、
「どうだ!」と励ましたい自分もいない。
ひたすら早く目の前の義務を始末したい。
ウエブにアップしておいたあれこれ、
デスクトップに残しておいたここまでのファイル、ムービー、ピクチャー合計150ギガバイトを
すべてごみ箱に捨てた。
さらに「完全に消去する」を選んだ。

この後は、静かな気持ちで「頼まれた」範囲だけを処理していく。
長いこと仕事してきたが、ここまで共感するものを見失ったのははじめての体験。

くそのような時間をくそのように過ごすだけ。
ま、得難い経験ではあるが。

17日の夜、東京に戻れば「愉しいMA」ですよ、
と中山に囁かれた。悪魔の囁きに聞こえた。
天使の誘いに聞こえた。

見切り時を誤ってさえいなければ、
こんな不甲斐ない時を過ごす事もなかったが。

自業自得では、ある。
夏のはじめに、さらば、と告げるべきだった。
あのときにスーツに袖を通しネクタイで首絞めたこと
それがすべての間違いだった。

昨日、二通のメールをまったく別々のメーリングに宛てた。
朝は天国気分の一通。夜は地獄に落ちた一通。

思い浮かべた歌。
ひさしぶりの藤純子「緋牡丹博徒」。

  ♪ むすめごころをとせいにかぁけぇてぇ

車の中で鼻歌を歌いながら、
なんだかおかしかった。唐突すぎて。
なぜ「唐獅子牡丹」ではなかったのか?

などと考えているうちに
すべてがバカらしくなってあくび。
また、涙がこぼれた。
喜怒哀楽とかかわりのない涙というのは
ほんとうに間抜けなものだ。
とりかかっている「仕事」にふさわしくはあるが。
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ここからはビジネス
ぐっすりは眠れたが起きてみても
加速感、戻らず。
超スピードで加速していくあのlinearが
一瞬のうちに目の前を飛び去っていく。
その突き抜けていく感覚をとらえはじめていたように
感じはじめた矢先だった。

想像が現実の姿をとりはじめた瞬間に
自分の中で10ヶ月間ごまかし続けてきた幻影が消えていた。

これから先は、ビジネス。
たんたんと進むだけだ。
足場が決まれば、迷うこともない。
たかが万博じゃねえか。
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くそして寝よう
さて書くか。書かぬか。

今夜のところは書かぬが、花。か。
くそでもして寝る。
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件名 : [tojibu3:00475] ここがロードスだ。ここで跳べ!
件名 : [tojibu3:00475] ここがロードスだ。ここで跳べ!
送信日時 : 2003年 11月 13日 木曜日 4:46
差出人 : Toru Mashiko
宛先 :tojibu3@


ひとことだけ。

とにかく素晴らしいメッセージビデオができたこと、報告します。
徹底して地震の話だけを展開しているにも関わらず
プレビューし終わったときに、鼻の奥がツンとしました。




関わったすべてのみなさん
約4か月半にわたった航海を終え
やっと港にたどりつくことができました。
積水ハウスと関わって十年になりますが、
この話を福田さんから受けたとき、
ふと、ここがロードス島になるのだ、と思いました。
跳べれば先へ。踏み切り所を誤ったら潰える。
直感的にそう覚悟しました。
スタッフのみなさんに対し、ろくな説明もないままに
前に行こう、とだけ言い続けたのは
きっと自分自身への鞭だったのかもしれません。


加納さんの独立
平野さんとの別れ
実験初日に多摩川で眺めた東京満月…
うれしいことかなしいこと
こもごもの4か月。
4時少し前に広尾のrstudioで二枚目のDVDを焼きながら
あれもこれもがフラッシュしていきました。
へとへとになったけど、
とても爽快です。
やったな、という思いが
五臓六腑の疲れを溶かしていくのがわかります。
湯治部、初の総力戦、勝利であると、宣言します。

年の暮れには旨酒をもうね。




さいごに井口さん
いい音楽でした。
救われたな、そんな思いを抱かせる曲想だった。
このことを特に伝えたいと思います。ありがとうございました。



2003.11.13 朝  益子拝
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ちと疲れたな
ベッドに3時間だけ沈没。
3時から築地でオールスタッフ。
30分ほどで広尾へ。
4時から11時まで音の整理。
井上さん、佐藤さんが来てlinearの打合せ。
戻ってナレーション原稿の直し。いま送ったところ。

明日。というより今日。
11時東京テレビセンター。5.1チャンネルのサウンドイメージ確認。
その後、13日の打合せ。
2時広尾rstudio。ナレーション録音。
4時-7時六本木地下。編集の続き。
7時-endless広尾rstudio Mix
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満月から始まった実験が幕を閉じる。氷雨
朝6時を回る。
六本木TSP地下。
最後のテロップを入れている。
外は、まだ氷雨。

ま、いいものができつつある。
後は、音だ。
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氷雨とGALA
GALAの樋澤さんとひさしぶりに仕事ができそうだ。
そう考えただけで気が軽くなる。
あっちもこっちも「実験」ばかりが続いたので
さすがに嫌気が差しはじめていた。
美術の世界に遊べるなら、願ったり。
いくらかバランスもとれるだろう。

飯を食ったら六本木。
編集仕上げ。

昨日あたりから冷え込んできている。
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Chicago★★★★★
DVDで観た。
アメリカはやっぱりスゴイ。
映画館のスクリーンで観るべきだったな。

積水ハウスの編集、ほぼ順調に推移。
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メモ
12月5日午後6時
虎ノ門パストラル新館1階鳳凰東
ふくしま懇親会
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飛ぶ夢から地を這う世界に
しっかり1時間余分に眠った。
寝坊。
スタジオに1時間遅刻で到着。
修正パートからはじめてもらうように
ゆうべ中山に頼んでおいて正解だった。
井口さんから音楽イメージ届く。
プロローグはタイプ2がベター。
各セクションがやっとスピードに合ってきた。
このペースならたいていの課題はクリアできる。はず。

G412インチでは画面が小さすぎるので
三日間のスタジオワーク用に渡辺が17インチディスプレイとスピーカーをとりにオフィスに戻った。

このところのペースを考えると15インチ買っちゃったほうがいいかな、と思う。
G%のノートが出たらと思っていたが時間切れかな。

今日から最低三日間、六本木の地下生活。
地上10cmを飛ぶ未来から文字通り地を這うような
大地震実験ワールドへ。
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早朝シーン完璧
午前4時にホテルの駐車場に降りる。空に星。
夕べは妙に暑く、けっきょく一睡もできず、小説を読みながらフロントからの電話に出た。
基地は深い闇の中。途中、濃霧。
セッティング。うまいぐあいに霧が晴れ、日が昇る。
地上と山頂と2ポジションでスタンバイ。
車体に朝の空が映り、美しい合成のような映像になった。
寸前までレンズの曇りをとり続け、本番中は無事。
満足の行くテイクが撮れた。
撤収し、ホテルに戻る。
休憩と朝食。これから2時間後にセンターに移動。
撮了後に再び濃霧。
朝の町を深い霧が覆い、ところどころを差し込んだ朝日が染める。

第四回目ロケは、まず成功。
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ほたるを出たら雨
窓の外1m足らずのところを500km/hのリニアが
衝撃音と旋風とともに走り去っていく。
3km離れたトンネル入れ口に飛び込んだ瞬間、
まずドン!という衝撃と同時に空気圧が急変。
それから数秒後に白い塊が轟音をひいて現れ消える。
通過するたびに重い水を含んだ綿で側頭部をやわらかく打撃される気分あり。
試走が10回を数えたあたりですこし気持ち悪くなっていた。

7時前に基地でスタッフと別れ、センター近くの「ほたる」へ。
同伴は照明の酒匂さんとプログレッシブの佐々木さんと大山さん、そして渡辺。
店は準備中の札をかけていたが、入れてもらえた。
うどんを打ってくれるというので、上がり込む。
店を出たのが9時前。雨。
東京に帰り着くまで、ずっと雨の中を走った。
予報より一日はやい雨になったのだから、7日はきっと晴れるだろう。
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台本アップし、想いは桧枝岐のぬばたまの夜へ飛ぶ
さて積水ハウスの台本にかかろうとしたら
八重洲から呼び出し。
11時過ぎに戻った。4時間のロス。
熱い風呂に入り、夜11時過ぎの昼飯?をかっこみ
スタートしたのが午前1時。
やっと書き終わり、夏苅さんのドットマックに放り込む。
これから1時間あまり眠ったら、大月へ。
第4回目のロケ。
いったん戻って、明日夜にまた大月へ。第5回ロケの前乗り。

問答の中で
「死ぬ気でやってもらわなきゃ」
「死ぬ気でやってますよ」
というのがあった。

思い出すと火照る。
勢いとはいえ、バカなことを言ったもんだ。

すでに一人は斃れた。
さらに何人か危ない顔色になっている。

盛り返せるものなら盛り返してやりたい。が。


が、さてどこまで行けるのか。
正直なところ、わからねえ。

福島県の懇親パーティーの知らせが届いた。
今年は12月5日。
佐藤知事にお目にかかったら、来年こそは福島三昧とすることをお伝えしたい。

夢想しているのは、桧枝岐神社で歌舞伎の変わりに開く
月光夜会その壱。

福島さんが絶叫し、俊がパーカッションで吠え、
菊池さんがしびれるような音色を奏で
永畑さんが花を添える。

漆黒の空に、煌々と満月。
ああやりてえなあ。
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編集初日は凡々と過ぎた
1時間、遅刻。
電話に気づかず、目覚ましに気づかず。
春のような眠りから覚めず、寝過ごした。
朝食とシャワーをあきらめ、六本木へ。
たんたんと、つなぐ。
雨。

一倉宏というコピーライターと会った。
まっすぐであたたかいコピーだった。

福田さんから31日のリニア初の夜間飛行の記事を読んだと聞いた。
webでチェック。山梨日日新聞のヘッドラインが良かった。

  《闇の中、光の帯》

リニアの走路には、鉄道と違ってまったく明かりがない。
山奥の真っ暗闇を、たしかに一条の光が
時速500kmで地上10cmを疾走していく光景は
見飽きない。

そのことをいちばんよく山梨日日がとらえていた。
ヘッドラインに、愛と事実が、ある。

ま、好みといえばそれまでだが。
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リニア実験線、初の夜間走行
リニア実験線、初の夜間走行 連続走行2500キロも

 リニアモーターカーの耐久性能を調べる連続走行実験が31日、山梨県都留(つる)市と大月市をまたぐ山梨リニア実験線で行われ、これまでの1日の最長走行距離1219キロを2倍以上上回る2524キロを達成した。

 実験は午前7時から午後9時過ぎまで14時間連続で実施され、全長18.4キロの実験区間を78往復した。これまでの走行実験は午後4時で終了しており、夜間の走行実験は初めてだった。高速で走り去る車両のテールライトが光線のように暗やみの中を走った。

 この日走った約2500キロは、東京から中国・上海までの距離にほぼ等しい。山梨リニア実験センターは「短い距離で減加速を繰り返すことで耐久性と信頼性が確認できた」と話した。

《朝日新聞11月1日朝刊》より
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闇の中、光の帯
2003年11月01日(土)山梨日々新聞
闇の中、光の帯
山梨リニア、初の夜間走行
 鉄道総合技術研究所とJR東海は31日、都留、大月両市にまたがる山梨リニア実験線で、一日の走行距離を増やすため初めて夜間にまで及ぶリニアの走行実験を行った。

 この日の実験は、一日の走行距離を従来よりも延長した場合の耐久性を検証することが目的。これまでの実験は、午前10時から午後4時までの6時間で行っていたが、今回は午前7時から午後9時までの14時間に拡大して実施した。

 同日午後1時半には、走行距離が1325キロに達し、これまでの一日の最高走行距離(1219キロ)を突破。日が落ちてからも車体のヘッドライトや室内灯を点灯させ、光の帯を引きながら最高時速500キロで疾走した。

 この日の実験では最終的に、2524キロを走行した。7日にも今回と同様の実験を行う。
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そうかあの日2524キロ走ったのか
 1日最長の2524キロ走行
 リニア 実験線で達成

 JR東海などは31日、リニアモーターカーの走行実験を山梨リニア実験線(山梨県都留市、大月市)で実施、1日の走行距離としては最長の2524キロを達成した。


 実験は午前7時から午後9時すぎまで行われ、全長18・4キロの実験区間を、加減速を繰り返しながら最高500キロで78往復した。

 JR東海は「営業線の最適な設計を検証するために有用なデータが得られた」としている。(共同通信)
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第2回ロケ分OK出しアップ
27日28日のOK分を編集しDVDに焼く。
けっこうかかった。

ひとねむりしたら六本木で積水ハウスの本編集初日。
今日は実験を中心にまとめるつもり。
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宝島「このミス」ベスト6を慌ててメール
今年は、迷った。特に国内。

●「今年のベスト6」(国内)

   書名/著者名/出版社名

   1.終戦のローレライ 福井晴敏 講談社
   2.サウンド・トラック 古川日出男 集英社
   3.ワイルド・ソウル 垣根涼介 幻冬舎
   4.非国民 森巣博 幻冬舎
   5.僕のなかで壊れていない部分 白石一文 光文社
   6.ららら科學の子 矢作俊彦 文芸春秋


しびれるような感覚を持続しながら日本の小説を読まされた一年だった。
バブルが遺したものは、人の想像力はどこまでも行けるのだ、
という想いだけなのかもしれない。
番外に北方謙三の「水滸伝」、紀和鏡「夢熊野」、石黒耀「死都日本」、水村美苗
「本格小説」を挙げておきたい。とりわけ本格小説は十年に一冊の「大ミステリー」。
行き着くところまで行ったら、謎が残るのは愛だけだから、ね。




●「今年のベスト6」(海外)

   書名/著者名/出版社名

   1.サイレント・ゲーム R.N.パタースン 新潮社
   2.ドリームキャッチャー S.キング 新潮社
   3.深夜のベルボーイ J.トンプソン  扶桑社
   4.鉤 D.E.ウエストレイク 文芸春秋
   5.ギャングスター L.カルカデラ 新潮社
   6.王者のゲーム N.デミル 講談社


成長することを拒んでしまった成長小説。サイレント・ゲーム、ドリームキャッチャー
の濃密さと斬新さがここにある。世界が留まるとき、人の想いもまた留まる。
西洋的深さと限界がせつせつと綴られていくことの出口のない快感。
番外に金庸の「鹿鼎記」。武侠シリーズラストとなったが、ここ数年、
落ち込んだときのビタミン剤であり続けてくれた金庸先生に敬意を表したい。
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am3:30-pm11;00リニアロケ3回目は19.5時間
30日の夜は6時から9時まで新宿で打合せをし、中央高速に。
談合坂SAで磯部焼と金つばを1パックずつ。
渡辺と餅を1.5個ずつ分け、金つばは1個ずつ。
移動しながら咽に詰まらせないように食べた。
ホテルに着いたのが11時30分。
何本か電話し、ベッドにはいるが眠れず。
結局、2時間ほど仮眠してモーニングコール。
冷え込んでいたのでシャワーはあきらめ、着込む。
真冬のロケ支度。ホッカイロを腹と腰に4個仕込み、外へ。
午前4時。満天の星空。吐く息が白い。
ホテルの駐車場に総勢三十人余りのスタッフ。
闇の底の基地へ。

基地の裏にある駐車場で制作部が仕入れてきた朝食。
山腹班と走路班の二班に分かれ、暁闇の中、セッティング。

6時にセッティング完了。40分に出庫するリニアを待つ。メインカメラのレンズの曇りが取れない。
冷え込みのせいか、ぬぐってもぬぐっても片側が雲る。
肉眼ではストレートに見えているが、カメラを通すとまるで深い霧が出ているようだ。焦る。
焦っている間に、リニア始動。雲りをとりきれないままにREC開始。
反対側を狙っているBカメはクリアな映像が撮れていた。
一発勝負なので、撤収。いったんホテルに戻る。
ホテルで1時間休息を兼ね、午後からの連絡態勢をチェック。

センターへ向かう。屋上班とクレーン班に別れ現場へ。
カメラセッティングし、午前中の走行シーンを2ポジションで撮影。

昼食を挟み、薄暮撮影の準備にかかる。
3時に照明班到着。ナイトシーンの準備に基地に向かう。
4時からキャメラを上げる。約31m地点。
5時30分まで変化していく走路をさまざまに撮影。
さらに日没後1時間、ナイトシーンも収録。

撤収後、即基地に移動。
早朝と同じポジションにカメラセット。
あわただしくライトテストをした後、山腹と走路で
実験を終えて帰ってくるリニアを待つ。空には三日月。
夕食抜きで、缶コーヒーで暖を取りながらの待機。
9時少し前、無線が入る。ライトオン。
闇に沈んでいた周囲が浮かび上がる。
3D効果、予想以上にスゴイ。夜の力は偉大である。
いや照明の力と言うべきか。

トンネルからリニアが牽引されてくる。
黄色い牽引車の後にほの白いリニアの車体が見えた瞬間、勝った、と思った。
背筋が寒くなるような、インパクト。

こいつを800インチに映したら…

OKを出し、空を見上げた。
星とやや太めの三日月。その他は漆黒の闇。
プロデューサー、キャメラマンと興奮をさましながら
撤収をはじめた何人かに声をかけた。
気がついたら車の中で眠っていた。
撮影終了から1時間経っていた。

ミーティングをするから
スタッフに話をしてほしいとJR東海の北森氏。
半ば眠りながら車から降り、基地裏の空き地に。
月明かりの下で30人余りのスタッフが輪を作っていた。
北森さんの短い挨拶の後、うながされ、話をした。
何を話したかうろ覚えだが、18時間に渡る撮影がぶじに行ったことと
ラストカットの素晴らしさについて寝言交じりで話したのだと思う。
それと越すべきハードルが、これでさらに高くなった、ということも。

真っ先に輪を離れ、基地を後にした。
第1回ロケの初日の夜、基地を出てすぐのあたりで
車に引かれた猫の死体を見たが、夕べもまた猫が死んでいた。
街灯も人家の明かりもまったくない山道の中を
月夜と猫の死体とスタッフ達と眠りについたリニアを後に
ひたすら東京を目指した。

談合坂に寄って晩飯をとるつもりが、行きすぎてしまい、次のSAに入ったときは日付が変わっていた。
渡辺と二人、たったままで熱いそばを腹に流し込む。

10分ほど走ったところで、渡辺がSOS。
パーキングに停めて、短い仮眠をとった。

早朝6時40分から夜9時までの連続走行試験を撮る
リニアロケ、3回目は、こうして過ぎた。
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