2024年07月の記事


高等教育経験者50%、高度情報社会が言われつつ 女性の“生きづらさ”解決策=「<100年先>への積み重ね」240615
高等教育経験者50%、高度情報社会が言われつつ 女性の“生きづらさ”解決策=「<100年先>への積み重ね」240615

職業を離れて40か月。
  社会には「女性特有の身体の変化や”女性らしさ”の押し付けによる生きづらさ」が、と。
 24年6月15日掲載の「『虎に翼』で考える”生きづらさ”の解決策、鍵を握るのは<100年先>への積み重ね」は指摘する。

 ”生きづらさ”の招待。
 「適齢期の女性が結婚をしないのは地獄行き」から始まり、「結婚・出産でキャリアを諦めなければならない理不尽」。 「仕事に励めば視聴者に「子どものことは?」と突っ込まれる矛盾」。
 いずれも「ドラマに詰め込まれている」主人公が当面した課題。

 それが21世紀も四半世紀を過ぎようとしている今、現代を生きる女性たちにも当面。
 投稿者はそう、書いている。「自分が日頃友人と共有している悩みとさほど変わらない」。
 具体的には。
 「転職先の面接で結婚の予定があるか聞かれた」「育児休暇を取ったら社内のポジションが下がるかもしれない」「生理痛で仕事を休むのが気まずい」…。

 そうか。「100年前の時代を生き抜いてくれたヒロウイン=寅子たちからのメッセージ」
 「私たちが今できることは、100年先に投資するつもりで『明日』という直近の未来の生きやすさを積み重ねていくことなのだ」。そう続け・・・・。

 かつ、「今抱えている生きづらさはすぐに解決することはない」。
 「だが、生きづらさを抱えているのは自分だけじゃないと確かに分かる」。「明日も何とか生きてみようと思える」
 「そう思わせてくれたことへの、(ドラマに対する 筆者注))称賛と安堵のため息なのである」。
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津波口承伝説7話、避難地名2所、被災モニュメント2所 アイヌ民族伝承と津波被災 in 釧路国
津波口承伝説7話、避難地名2所、被災モニュメント2所 アイヌ民族伝承と津波被災 in 釧路国
22年春のことだが「アイヌ民族社会で語り伝えられた津波伝説」という内容で、原稿を記載した。
 釧路国にはアイヌ民族社会でこれまで長期にわたり語り伝えられてきた津波来襲を語る口承伝説が7話、津波来襲に備えて二か所の<避難地名>が残されている。
 口承伝承は戦前に更級源蔵、佐藤直太郎、渡辺茂氏らの採話によって記録されたものである。

 それぞれ『北海道アイヌ伝説集』『北海道伝説集〈アイヌ篇〉』『釧路叢書 第九巻』などに収録、もしくは採録されていた。
 2005年になって地質学者の高清水康博氏が「北海道における津波に関するアイヌの口碑伝説と記録」を発表し、「実際に津波が起きていた」とする内容が示された。
 そこらあたりを念頭に北海道東部釧路国の津波伝承、津波避難地名、それに後世においてモニュメントを設置したケースをまとめて、みるに。


 「津波口承伝説7話、避難地名2所、被災モニュメント2所 アイヌ民族伝承と津波被災 in 釧路国」ということになる。
 (1)象徴性=紫表示、(2)象徴性と実在性の境界=薄茶表示、(3)実在性=茶表示の三グループに位置づけられる。そう読んでみた点である。

 (1)象徴性=紫表示
 ①(シャリ生活圏)オホーツク海-藻琴山-屈斜路湖
-オプタテシケヌプリ-クッシャロコタン(クスリ生活圏)
 ②(ネモロ生活圏)野付水道-西別川-虹別の一本木-多和川-釧路川(クスリ生活圏)

 (2)象徴性と実在性の境界=薄茶表示
 ③(クスリ生活圏)太平洋-釧路川古釧路湾-ツルハシナイ川
-鶴居・キラコタン岬-根釧台地-(ネモロ生活圏)
 ⑦(シラヌカ生活圏)太平洋-コイトイ沼の神岩‐白糠・恋問-庶路川-阿寒・ウエンペツ川‐阿寒川

 (3)実在性=茶表示
 ④(アッケシ生活圏)太平洋-汐見川=ヌサウシコタンペツ-疱瘡神カスンテ-別寒辺牛川‐(ネモロ生活圏)
 ⑤(クスリ生活圏)太平洋-クシロの津波‐釧路川(クスリ生活圏)
 ⑥(クスリ生活圏)津波と春採湖‐釧路川(クスリ生活圏)
 ⑦(シラヌカ生活圏)太平洋-コイトイ沼の神岩‐白糠・恋問-庶路川-阿寒・ウエンペツ川‐阿寒川
 ⑧(シラヌカ生活圏)太平洋‐茶路川-白糠のアイヌ語地名:キラコタン-茶路川(トカチ生活圏)
 (佐藤宥紹「Ⅵ 補論 伝承・記録に読む自然災害」 酒井多加志監修『釧路の自然災害と防災・減災』所収 釧路市 2022年)
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近代120年の地域開発理念&鮪利益=地域の開発質量に投資 武四郎像・嵯峨久像に寄せて240724
 近代120年の地域開発理念&鮪利益=地域の開発質量に投資 武四郎像・嵯峨久像に寄せて240724

北海道東部の中核都市・釧路市の幣舞界わいに位置する二つの像。
 幣舞公園の「松浦武四郎蝦夷地探検像」と冨士見坂西沿いに位置する「嵯峨久寿像」。
 「松浦武四郎蝦夷地探検像」に「阿寒国立公園生みの親」、「嵯峨久寿像」には「釧路漁業の父」と高評価が寄せられる。

 その意味を考えて見ることにした。「松浦武四郎蝦夷地探検像」の主=松浦武四郎の佐賀家家臣に贈った書簡。
 そこには「資源豊富&水系輸送で海陸輸送最適地 」と記載。明治初頭に佐賀藩が厚岸・川上二郡に農業移民と炭鉱技術者を送り込む積極的な要因となった。
 故に、武四郎の主唱を「1858~1975年=官民釧根投資誘因論理」と意味づけた。

 「嵯峨久寿像」の体現する点を考察してみる。
 碑文記載は「鰊旋網漁」に出漁。大正二年「十八隻六十三人犠牲」を出した鮪漁出漁漁船海難を機に<漁船動力化>を導入。
 「流網漁業組合之設定並漁港会社設立」時点で寿像=生存中の立碑建設(昭和5年)が実現。

 その後も最大の困難、すなわち長く辺境地漁業の販路流通を独占してきた「前貸商人既得権」を否定する生産者市場の開設を(昭和13年)達成した。
 「嵯峨久寿像」はここまでの業績を体現し、日本と釧路の経済が「1920年=工業近代化・漁船動力化 」の<社会すう勢>を「鮪漁業の利益をもって巧みに地域開発に<後戻り>することのないの可能性」を誘因した。

 二つの像は「外発誘因の釧路経済」のもと、今を生きる市民の二世、三世先に「在来者 定着の 過程」を用意した点が重要。

 24年7月24日、錦町の会場で開催。<女性経営者のつどい>で担当した「2024年7月例会 5年先の経営~外来撤退&在来試される釧路、次の時代の読み方~」から、その前半。
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河岸オブジェクト、、高名芸術家、パリモードまがいのファッションショー 芸術の都・パリのエコミュージアム240726
川面&河岸のオブジェクト、、高名芸術家、ファッションショー 芸術の都・パリのエコミュージアム24072

日本時間27日深暁の33th近代五輪 `PARIS2024開会式を録画でチェック。
川面&河岸のオブジェクト、高名アーティスト、パリモードまがいのファッションショーの表現芸術、エッフェル塔・ノートルダム寺院・凱旋門の歴史的建造物。
セーヌ河の川面を200隻かの船で行進の各国選手団。夏の五輪で初。野外での<マチ中開会式>。

聖火台は固定施設ではなく、浮揚性の気球で会期を輝かせる。
芸術性の高さ。伝統的価値の蓄積。芸術の都・パリならではのエコミュージアム。
理念、既存施設の再利用、そこに高いセンスの芸術性。他の体感を圧する迫力、表現力が問歳ではないか。フランス国民の<底力>が存分に発揮されて。

3年前。五輪を機に「老朽化の新施設更新」。結果は観るも無残、聴くに堪えぬ「利権構造と汚職疑惑」。

205の国と地域及び難民選手団。10500人余の選手と役員等1万5000人。32の競技に329種目で競われるスポーツの祭典。
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「今は目に見えないサルウシナイ川」流域には高等教育機関がある文教風致の地 城山モシリヤ学の定義210315
 「今は目に見えないサルウシナイ川」流域には高等教育機関がある文教風致の地 城山モシリヤ学の定義210315
 2023年夏あたりから、「城山モシリヤ学コミッション」って<なにに取り組んでいる>のと、聞かれるようになった。

「城山モシリヤ学の定義」
城山モシリヤ学は旧サルウシナイ川水系の集水域に形成されている生活、生業、文化及び文化財を対象に、
 調査し、考察し、付加価値を創造し、その形と意味を体系化のうえに、
 記録し、情報発信を積み重ねる、総合的、市民参加型の生涯学習体系

21年3月15日、地域コミュニティ放送<FMくしろ>の「くしろ歴史探訪」で紹介した。
音源は現在も残されており、以下のURLでたどりつくことができる。
  https://fm946.com/broadcast/podcast05/2021/03/post-6517/
 (放送のコメント)「≪放送日 2021/03/15≫ 今は目に見えないサルウシナイ川という河川が釧路川に流れ込んでいました」

同年3月、離職したことを機に、「城山モシリヤ学コミッション」を立ち上げ、掲載写真の事業と情報発信源を示すことにした。
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高齢者介護
  なんとも考えさせられる「やるせない」気持ち  自身にも不明=老後の一人暮らし240725

4月初旬に届けられた一葉のハガキ。記載があった。
 ボランティアしてもう三年以上。近所の人たちは、認知症のヒトにはやさしさのカケラモもない。
 市も支援センターもです。長生きも考えものだと思う、今日、このごろ。

 返して一筆。
 少子高齢化と申しますがねー。高齢者介護福祉サービスを企画するお役人。中間で地域に定着を担当する地方役人。現場を預かる支援センターの職員。
 担当する人、従事するする人、それを見守る人。その多くは、「自身が高齢にはなっていない居ない人、自身が<高齢だと>とは思っていない人」が
従事する。

 近々、暑中見舞いを兼ねて一葉を頂く。冒頭に記載があって。
 五月にとなりの要介護の奥さんの命を救うことはできたものの、そのまま、
ビニールシートにくるまれて施設へ運ばれて。問答無用。あきのあるところへ運ばれて行き。

 世に地域資源マップ。転じてそれは、「地域振興」から「身近に位置する高齢者関係機関」に転じた。
 システム=ハードの<見えるか>は進むも、ソフト=プログラムと言うよりその運用のヒト。
 そこに、不自然。そこにもまた、地域差があるようで。
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 「独自の技術で需要を掘り起こそう」 紙の本をつくる=形ある文化 新旧技術が守る240721『北海道新聞』(日曜版)
 「独自の技術で需要を掘り起こそう」 紙の本をつくる=形ある文化 新旧技術が守る240721『北海道新聞』(日曜版)

「独自の技術で需要を掘り起こそうとする動きがある」。
 かく伝えるのは、紙に<箔押し>や<凸凹をつけるエンボス加工>ら本の表紙&箱の加工に取り組む印刷会社のプリプレス・センター。
「プリプレス」とは「印刷前工程とよばれ、広告や出版の企画から、印刷用刷版(さっぱん)の作成までの工程」と、いうことだ。

 電子出版。その市場拡大に対して紙の本は不振にあえぐ。そう、言われている。
 本の表紙や箱の加工に加えて、目下、商品券などの偽造防止に箔押しや凹凸は不可欠な技術。
 積極的には、<手にできるリアルな形で文化を伝える紙の本作り>。
 <紙の本>には、「長期にわたり語り伝え、記憶されるべき重要なメッセージ>が満載だ。

 24年7月21日 北海道内配布紙の日曜版。
 札幌市中央区の印刷会社プリスセンターの印刷現場。それに編集会社 i・word社。
 コラム風に「紙とデジタル 理過度に差?」とも。はて、どのように考えるや。
 
 因みに「凸字=エンボス」「凹字=デボス」の称があるようで。本製本で表紙に金や銀、箔押しの凹字印刷に接しているが。
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ごみ拾い&コーヒー 生まれる新たな地域コミュニティ=東京・板橋240721
 ごみ拾い&コーヒー 生まれる新たな地域コミュニティ=東京・板橋240721

朝7時のnhkGニュース。特集で「ごみ拾い&コーヒー 生まれる新たな地域コミュニティ 東京・板橋」。
 途中から視聴。慶応義塾大学教員のコメントが二点。述べられていた。
 「子育てや緊急事態のときに助け合える」「参加者同士の新しいコミュニティが出来ることで住みやすいマチづくりにつながる」。

 そうした趣旨であったと思う。舞台は東京都板橋区。呼びかけは30歳前後の母親が<子育て>のさなかに、「必要性を感じた」こと。
 「東京 板橋 ごみ拾い&コーヒー 新しい地域コミュニティ nhkG」のキーワードで調べても、直接の記載にはヒットしなかった。
 しかし、類似の記載は多く、ある!!。

 ●https://www.city.toshima.lg.jp/suzuran/202211cleanupcoffeeclub.html=ゆるくつながる新しい地域コミュニティ「Cleanup & Coffee Club」 東京都豊島区
 ●https://www.senshu-u.ac.jp/social/senshu_sdgs/sdgs_practice/gureenbird117.html
【SDGs】ゴミ拾いを通じて地域コミュニティを築く グリーンバード専修大学チーム

 「文学作品ゆかりの舞台を特定し、対象地に<意味の表示サイン>を記す」。
 そうした呼びかけで応じてくださる<新しい地域コミュニティ創造>がスタートして3年目にはいった。
 「作品を読む」の営みを<学ぶ・まねぶ>。
 「作品の舞台&作家ゆかりの地点」を特定する<遊ぶ>。
 「読み、現地確認」で<学ぶ・まねぶ>と<遊ぶ>の褒美に<ほめる>。

 <学ぶ・まねぶ><遊ぶ><ほめる>の三語。その末尾をあつめて<ぶぶる>を立ち上げて、開いた例会は去る7月15日で13回目。
 一巡してみて気がついたこと。それは・・・・・・・。
 「サイン計画」。その前に「環境の整備」。地域の生涯学習教材ながら、対象地は放置状態。

 ここは、「ごみ拾い&コーヒー 生まれる新たな地域コミュニティ」。そこと結合させてみようか。
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手先器用が見込まれて その道50年 女性職人85歳「ゆったり 土と歩んで ~栃木県 益子町~」nhkBS4K240714
「手先が器用、そこが見込まれて」 その道50年 女性職人85歳「ゆったり 土と歩んで ~栃木県 益子町~」nhkBS4K240714

タイトルからすぐに茨城・笠間焼と栃木・益子焼の関係を思い浮かべて、即、録画。
 冒頭は「素朴な風合いの益子焼で知られる焼き物の里」。
 「90年以上続く窯元には85歳の女性職人が。益子の粘土にこだわって静かに土と向き合い続けている」と。

 益子町の観光協会。冒頭には益子焼の記事。
 「江戸時代末期、笠間で修行した大塚啓三郎が窯を築いたことに始まる」と。
 老技芸師の思い入れは、なんといっても「土」。 
 「優れた陶土を産出すること、大市場東京に近いことから、鉢、水がめ、土瓶など日用の道具の産地として発展をとげ」と、観光協会は紹介。

 伝統工芸。ニーズが蒸発。その懸念があるも、そこは本州。
 「育てる力」&「支える力」の基盤が堅固。そういうことか。
 「窯元は約160、陶器店は50。若手からベテランまでここに窯を構える陶芸家も多く、その作風は多種多様です。春と秋には陶器市」。次はネット販売で<底支え>果たすや。
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うつ病要因「過度・度重なる・持続するのストレス」 フリージャーナリストの13年間240704
 うつ病要因「過度・度重なる・持続するのストレス」 うつ病要因=フリージャーナリストの13年間240704 12:00配信

医師
 うつ病は「過度なストレス」「度重なるストレス」「持続するストレス」が原因。
 「人は、ストレスが溜まると自律神経系と内分泌系、免疫系のバランスが崩れ」
 「全身倦怠感や頭痛、肩こり、動悸、腹痛・下痢などの消化器症状」
 「湿疹などの皮膚症状などが出てきます」
 これらを総称して「自律神経失調症」と呼び、この「自律神経失調症」が<うつ病の前段階>。

罹患者 女性
 「うつ病は心の病」と思っていましたが、全く違いましたね。
 「脳の病気」だと実感。

 医師 男性
 辛いことがあって憂うつになった経験は誰にでもあると思いますが、うつ病は、そういった状態とは全く違います。
 (診断基準)「一日中、ひどく憂うつな気分を感じる」「一日中、何をしても面白くないし、何かをしようという気持ちも起きない」など9つの症状。
 最初の2つのどちらかを含む5つ以上が2週間以上続くと「うつ病」と診断。

 再び罹患者 女性
 (2011年、報道局の記者兼キャスターとして仕事)「2月にニュージーランドで大地」「3月11日に東日本大震災」
 「翌日から現場に入り、飲まず食わずに近い環境でずっと取材」「4月にウィリアム王子の結婚式ということで、祝賀ムードのイギリスで、華やかな結婚式の取材」。
 (結果)「脳がショートした」という表現が一番しっくりくる感じ。

「丸岡いずみ、まさか私が「うつ病」に。元気な自分を見失ったあの頃」 240704 12:00配信
  https://news.yahoo.co.jp/articles/01ee131428d0078c501f0504952191915458c1fd
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 「良い贈り物を残してくれた」 津軽平野・弘前市「特集 小さな旅nhk 彩りの四季40th」240715
 「良い贈り物を残してくれた」 津軽平野・弘前市「特集 小さな旅nhk 彩りの四季40th」240715
 
「リンゴが採れるまでは出稼ぎに出ていた」
 「(リンゴが)採れるようになり、一家で育てることに専念でした」
 「思えば良い贈り物を残してくれた」。

 リンゴ農家の家付き娘さんに入り沿った男性は、ポツリと。
 「秋は津軽平野を彩る真っ赤なりんご」。放送開始から40年を迎えた「小さな旅」。
 「海の日」の朝は、「特集 小さな旅 彩りの四季40th」の放送。

 1955年前後、「貧窮」が伝えられ、「金の卵」と称された新卒中学生を、「就職集団列車で送り出す」を余儀なくされた東北地方。
 番組で「春は福島県浪江町の人たちの心のよりどころになっている桜並木」。
 「夏は北陸の名峰・白山に咲き誇る小さな花々」「冬は長野市の山あいで続く伝統の炭焼き」。

 <モノを創るコトできるヒト>が残った。それが<出来なかったヒト>、北海道に新天地を求めた。
 移住の初代、二代目、三代目までは、なんとか<官も面倒を見た>。今、4代目が観てる<景色>は?。
「残るも地獄、去るも地獄」であった 津軽平野。

 集団就職で離郷のヒト。離郷するも戻ったヒト、行かなかったヒト。
 <歯を食いしばり、新種を改良し育て、暮らしを創造した>。
 残されたヒトは語る。「思えば良い贈り物を残してくれた」
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3月=コブシ、4月=チシマサクラ、5月=モクレン&エゾヤエサクラ、樹木の花暦240713
 3月=コブシ、4月=チシマサクラ、5月=モクレン&エゾヤエサクラ、樹木の花暦240713

 6月=スモモ&フジ、7月=ハシドイ、開花期7~8月=シャラノキ(ナツツバキ)。「シャラノキ(ナツツバキ)」は釧路であまりみかけないが。
 「花の咲く木」で検索。花をつける樹木の花暦。
 「人気」というより需要低迷の軌道輸送の沿線。なかには「沿線に桜並木」の血の滲=にじむような蓄積も。

 東海道線に接続する大垣駅から樽見駅までの19駅、34.5㌔を約1時間。
 「大正12年に観音堂建立記念植樹として植えられ」「三木市制50周年記念事業の一環として植樹されたのが最初で、今年、三木市は70周年を迎えることから、植樹して20年」。
 多様な記念の節目が起点となって、「沿線の桜」の形と意味が顕在化している。
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味噌・醤油・麹・酢 釧路駅北口「三共酒造」余聞録240624
 味噌・醤油・麹・酢 釧路駅北口「三共酒造」余聞録240624

 大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)のもと、山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
 所在地は現在の共栄大通四丁目2番から、春日町4番に至る一帯。所在地の南を通過する釧路市道に「三共通 さんきょうどおり」の路線名。
共栄大通を通過する路線バス停に「三共」が残る。

 今回注目は、現在の共栄大通二丁目2番の地点に二点。一はその角地に醸造工場があったこと、二は隣接して市橋豆腐店が開設していた。豆腐店は今も現存する。
 「釧路の酒造と水で三題」240624の釧路駅北口編ということになる。

 昭和45年3月発行、『わが町の人物地図 第二集』の記載から紹介する。
 新潟県西蒲原郡生まれ、根っからの〝醸造屋″と評の高かった創業者が、昭和2年に「共栄」と呼ばれた地で「味噌、醤油の醸造工場」を開設する。
 昭和44年の紙面掲載当時、68歳と記載があるから<当主26歳のころ>となる。

 新潟から渡道。網走の醸造工場を経て大正9年、北大通十一丁目1番(のち大浦履物 はきもの 店のところ)で開業。釧路駅北口の発展を見越して、新興地の「共栄」に、と。
 選んだ地点には、南大通にあったサ一村上商店の醸造所があった。
 跡地に設けた新工場。味噌・醬油のみならずコウジ・酢を手がけ、販路は「雄別・春採・尺別など近在の炭鉱の飯場」。国鉄・雄鉄・臨港鉄道等、鉄道網輸送の要衝に近い製造所。

 もちろん近隣の「共栄住民も<はかり買い>で買い求めた」と。戦後、統制撤廃に加えて、満州・中国本土への出荷をあきらめた大手が地方進出。あおりをうける。
「もう十年余りになろう」ということだから、昭和33、34年時点かに醸造工場を閉鎖。
 空地化した用地に「共栄フードセンター」名の食品センターに転換させた。間もなく学業を終えて戻る「子息の帰省を心マチ」と。

  そこはさておきこの豆腐店。元はと申すと味噌・醬油など醸造技術の指導者が始めた。創業者は旧制釧路中学の卒業生(昭和18年)が、北海道味噌醤油工業協同組合の研究所で二年間学んだヒト。
 隣接の市橋豆腐店には醸造工場の創業者息女が嫁す。両家は姻戚筋にあたる。
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みそ
 三者出資の三共酒造が語源 三共八千代寿司、バス停・市道名と往時は「三共パン」240624

 大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)のもと、山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
 所在地は現在の共栄大通四丁目2番から、春日町4番に至る一帯。所在地の南を通過する釧路市道に「三共通 さんきょうどおり」の路線名。
共栄大通を通過する路線バス停に「三共」が残る。

 今回注目は、現在の共栄大通二丁目2番の地点に二点。一はその角地に醸造工場があったこと、二は隣接して市橋豆腐店が開設していた。豆腐店は今も現存する。
 「釧路の酒造と水で三題」240624の釧路駅北口編ということになる。

 昭和45年3月発行、『わが町の人物地図 第二集』の記載から紹介する。
 新潟県西蒲原郡生まれ、根っからの〝醸造屋″と評の高かった創業者が、昭和2年に「共栄」と呼ばれた地で「味噌、醤油の醸造工場」を開設する。
 昭和44年の紙面掲載当時、68歳と記載があるから<当主26歳のころ>となる。

 新潟から渡道。網走の醸造工場を経て大正9年、北大通十一丁目1番(のち大浦履物 はきもの 店のところ)で開業。釧路駅北口の発展を見越して、新興地の「共栄」に、と。
 選んだ地点には、南大通にあったサ一村上商店の醸造所があった。
 跡地に設けた新工場。味噌・醬油のみならずコウジ・酢を手がけ、販路は「雄別・春採・尺別など近在の炭鉱の飯場」。国鉄・雄鉄・臨港鉄道等、鉄道網輸送の要衝に近い製造所。

 もちろん近隣の「共栄住民も<はかり買い>で買い求めた」と。戦後、統制撤廃に加えて、満州・中国本土への出荷をあきらめた大手が地方進出。あおりをうける。
「もう十年余りになろう」ということだから、昭和33、34年時点かに醸造工場を閉鎖。
 空地化した用地に「共栄フードセンター」名の食品センターに転換させた。間もなく学業を終えて戻る「子息の帰省を心マチ」と。

 隣接の市橋豆腐店には醸造工場の創業者息女が嫁す。両家は姻戚筋にあたる。
そこはさておきこの豆腐店。元はと申すと味噌・醬油など醸造技術の指導者が始めた。創業者は旧制釧路中学の卒業生(昭和18年)が、北海道味噌醤油工業協同組合の研究所で二年間学んだヒト。
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壇ノ浦=安徳天皇入水 檀ノ浦=屋島合戦 探してみたい「壇」と「檀」の<違い定着>由来を240708
 壇ノ浦=安徳天皇入水 檀ノ浦=屋島合戦 探してみたい「壇」と「檀」の<違い定着>由来を240708

●「壇ノ浦合戦場」=山口県下関市みもすそ川町1 1185年(寿永4年/元暦2年)3月「治承・永寿の乱」(「源平合戦」における最後の戦い」)
 ●「檀ノ浦の戦い」= 香川県高松市屋島西町(香川県高松市屋島の東側にかつて存在した浦) 元暦2(1185)年の源平合戦の主戦場=屋島の戦いがあった屋島東麓の低所
●掲載の国土地理院図で「赤●印=壇ノ浦」&「緑●印=檀ノ浦」であって、源平合戦の意味は異なるのだが。

 『源平盛衰記』を読んだのは小学校5年生。学部2年の時にどっちが、どっち?。混乱した。「二つある!!」。
 確かに「土」と「木」の「偏 ヘン=漢字を構成する左側の部分」に違いがあるのだが。 その命名期、発生時期があったはずながら、いつ、どうして、なぜ?。そこが不明。
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「はずせないキーワード、あとは<語り部の思い>」 質深く量で圧する知里幸恵の口述記録
 「はずせないキーワード、あとは<語り部の思い>」 質深く量で圧する知里幸恵の口述記録
 24年7月1日、市内を中心に釧路国、根室国に配布されている紙面の月曜文化欄には次の一文を載せた。

 「被災では碑文・記録を残すことも。他面、アイヌ民族は重要事項を口承 こうしょう で伝えて来た。供え物を施し祈り重ね、伝承を途切れさせず。碑文内容は碑設置世代で忘れられるも、アイヌ民族の口承伝承は百年単位で継承済み。素直に注目せねば」。
(「橋南春採湖プロムナード33ー40  市道ある丘越え 春採湖の津波ー再来の備え 大木司稲荷大神」 佐藤宥紹)。

 読んでくださった方から、次のメッセージをいただいた。
 「口承えで、伝え続けるのは、大変そうです」。
 そこに、実は「知恵」がある。根室国の出身で本市に在住された北道邦彦氏は、知里幸恵著『アイヌの叙事詩』の解説で示す。

 神謡は「特殊で優れた口承文芸」、「叙事詩は文字を使わないからこそできる芸術」(152p)と書かれている。
 そのうえで神謡の伝承者を、「そっくり暗誦しているということではないのです」。さらに応じて。

 「いくつかの継承するべきキーワードとストーリーの概要を受け継ぎ、時代と場面によって『自在に語ることのできる能力』『文字に頼る民族には考えられない特殊で優れた口承文芸』、と。
(北道邦彦著「4.まとめと検証」■ 『アイヌの叙事詩』から』 北海道出版企画センター 北方新書015 2012年)。

 釧路国には二基の津波災害モニュメントが残された。
 (A)「十勝沖地震・チリ沖地震津波災害復興記念碑(母子像) ; 存在住所. 浜中町暮帰別東1丁目233番」
(B)「マサルカの地からキラコタンへ避難 津波高度10メートル標識」(JR北海道白糠駅前」
 (「往時の木柱、移転後の新津波高度標識 JR北海道・白糠駅220330」
https://blog.goo.ne.jp/pacific0035/e/d020c5195d7b433572cc366bb3c1a4d7)

 (A)は1960年5月と1952年3月の津波被災碑。(B)はアイヌ民族津波伝説を元に1970年には木柱であったたが、駅前整備とあわせ写真に変更。
 因みに「アイヌ民族津波伝説」は5件、津波被災地名は2件が確認されている。いずれも江戸時代に発生の津波伝承を1955年時点までは継承していたと、言うこと。
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「文字では言葉が正確に伝わらぬ」891004 文字文化をもたぬ社会240701
 「文字では言葉が正確に伝わらぬ」891004 文字文化をもたぬ社会240701

 1989年の秋、根室市で開かれた「クナシリ・メナシの戦い100年」のレセプションで、隣り合わせのエカシが、つぶやいた。
 そこで、「なぜ」など聞き返すことはしなかったが、口で伝える口承伝説が、百年単位の時間的スパーんで持続する場面をみて、受け止めた。

 見えてきた点。そこを3点にまとめると。
 1)たいせつなコトは相手の目をみつめながら語りで伝える、
 2)「語り」には言葉の温度、感性、強弱、抑揚がある、
 3)つまり「伝えるべき思い入れ」が、文字ではそがれてしまう。

市内を中心に釧路国、根室国で配信される『釧路新聞』に投稿した。
 「オンネ・パラ・コツ(onne-para-kot 大きく・ひろい・凹み)は掲載左図の赤色○印の地点」。
 「富士見と鶴ヶ岱・春湖台をむすぶ市道「富士見緑ケ岡通」の最も標高の低い地点だ。標高・2メートルで、確かに建設会館と幣舞中学校の標高に比較するに、凹地」

 同紙の月曜文化欄「橋南春採湖プロムナード33ー40  市道ある丘越え 春採湖の津波ー再来の備え 大木司稲荷大神 佐藤宥紹」に掲載されている。
 さっそく寄せられた。「オンネパラコツ。なぜ、アイヌの人たちは、文字を持たなかったのか」。
 答えになるかどうかは置き、次の記載を掲載してもらったことがある。釧路市中央図書館のホームページに、今も残されているようだ。
 「釧路短期大学附属図書館長の佐藤宥紹氏が大学教育について触れ
 「大学で学ぶ若者たちに、『地域の何を伝えているのか』を改めて考える必要性がある」
 「我々が使う本などの『文字』での伝達とアイヌなどが伝承で伝える『声に出す言葉』での伝達では、伝わる内容に差があることについて述べられました」
 「言葉によって伝わる『温度、感性、抑揚』が、文字になるとそぎ落とされてしまう」
 「『文字を持たない文化』、自らとは違った様式の文化も尊重することが、お互いの尊厳を守ることにつながると語りました」
 (https://www.trc.co.jp/information/151121_kushirosymposion.html 市立釧路図書館にて、釧路が誇る文化遺産の「デジタル化記念報告会&国際シンポジウム」)
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公共事業
「事実上の公共事業」 時代と政権=北海道経済、日本経済に占める位置240629

 催事の事例報告で自治体関係者が明らかにした、と。
 「かつて北海道の一次産業は、本州に資源や食糧を供給するための事実上の公共事業であったという見解を示したうえで」(『釧路新聞』 2024年6月30日 13面)
 24年6月29日開催「北前船寄港地フォーラム」に先立ち開催。
 パネルデスカッション「北陸復興支援について」内の各種報告で「あらたなまちづくり」と題する報告のなかで。

 1980年代初頭 (北海道経済)「本州経済を補完する役割」 今はなき北海道総合調査室の報告
 1970年代初頭 (北海道経済)「北海道は沖縄と共に本州の内国植民地」 当時の北海道近代史研究者の見解。
 1960年代   (北海道の教育)「北海道と沖縄では本州とは違う独自の教科書が採用された」 明治・大正期の教育史。
 1600年代初頭 (家康政権)「(信長・秀吉政権の)朝鮮半島出兵の修復&関係改善、琉球と蝦夷地に内国植民地」
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坂本ほか三者出資=「三共酒造」を語源 通称地名「三共」に「三共八千代寿司」&バス停「三共」240624
坂本ほか三者出資=「三共酒造」を語源 通称地名「三共」に「三共八千代寿司」&バス停「三共」240624

 釧路駅北口は昭和初期に商家・民家が集まり始めた。
 「三共 さんきょう」「大曲 おおまがり」「治水 ちす」の通称地名と路線バス停留所が設けられている。
 いずれも「鳥取街道 とっとりかいどう」の路線に沿っている。

 通称地名「三共」の語源。それは大正から昭和初期にかけ現在の共栄大通四丁目から春日町4番にかけての一帯に三共酒造の蔵と倉庫が設けられていたことによる。
 三共酒造の社屋写真は『鳥取町六十年誌』に掲載されている。
 古川忠一郎『釧路発達史』の「付録 事業及人物」51ページによると、大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)という人の来釧がコトの始まり(44頁)。

 山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
 南大通一丁目に名を残す山サ共盛関係者とも繋がりのある点が、「釧路の酒造と水」として興味あるところ。
 釧路新聞社刊『わがマチの人物地図』第一集によると、「共栄大通四丁目の角、現在堀薬局のあるあるあたりから、春日町の鉄道官舎のあるあたりまで、その酒倉があった」とする。

 初代支配人は坂本原永。昭和12年当時、坂本は三共㈱専務取締役を務めた。
 写真が掲載された『鳥取町六十年誌』は昭和18年の発行。
 銘酒「三共正宗」を提供していたことがわかっている。戦時の物資統制をくぐりぬけたかがカギとなっている。

 酒造会社の名残りで、「北中~現業所=市道」と「共栄大通」交叉する付近は、いまも〝三共″と呼ばれている。
 くしろバスは「三共」の停留所を設け、阿寒バスは「三共通」の呼称を宛てる。
 寿司店で「三共八千代寿司」。また若松町18番に奉祀されているのは「共栄稲荷神社」。
 坂本原永さんは坂本病院長、坂本一さんの祖父にあたり、民政系に隠然たる発言力をもっていた。
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