坂本ほか三者出資=「三共酒造」を語源 通称地名「三共」に「三共八千代寿司」&バス停「三共」240624
坂本ほか三者出資=「三共酒造」を語源 通称地名「三共」に「三共八千代寿司」&バス停「三共」240624

 釧路駅北口は昭和初期に商家・民家が集まり始めた。
 「三共 さんきょう」「大曲 おおまがり」「治水 ちす」の通称地名と路線バス停留所が設けられている。
 いずれも「鳥取街道 とっとりかいどう」の路線に沿っている。

 通称地名「三共」の語源。それは大正から昭和初期にかけ現在の共栄大通四丁目から春日町4番にかけての一帯に三共酒造の蔵と倉庫が設けられていたことによる。
 三共酒造の社屋写真は『鳥取町六十年誌』に掲載されている。
 古川忠一郎『釧路発達史』の「付録 事業及人物」51ページによると、大正元年10月に来釧した坂本原永(さかもとげんえい)という人の来釧がコトの始まり(44頁)。

 山サ共盛の佐々木松三郎、福井邦雄、名西惣吉らの共同出資で、三共株式会社が創られた。
 南大通一丁目に名を残す山サ共盛関係者とも繋がりのある点が、「釧路の酒造と水」として興味あるところ。
 釧路新聞社刊『わがマチの人物地図』第一集によると、「共栄大通四丁目の角、現在堀薬局のあるあるあたりから、春日町の鉄道官舎のあるあたりまで、その酒倉があった」とする。

 初代支配人は坂本原永。昭和12年当時、坂本は三共㈱専務取締役を務めた。
 写真が掲載された『鳥取町六十年誌』は昭和18年の発行。
 銘酒「三共正宗」を提供していたことがわかっている。戦時の物資統制をくぐりぬけたかがカギとなっている。

 酒造会社の名残りで、「北中~現業所=市道」と「共栄大通」交叉する付近は、いまも〝三共″と呼ばれている。
 くしろバスは「三共」の停留所を設け、阿寒バスは「三共通」の呼称を宛てる。
 寿司店で「三共八千代寿司」。また若松町18番に奉祀されているのは「共栄稲荷神社」。
 坂本原永さんは坂本病院長、坂本一さんの祖父にあたり、民政系に隠然たる発言力をもっていた。