2007年12月の記事


やっと開業
色々、教えられてやっと開業にこぎつけた
まだ、ログインの下を出したままだが
消したら、どう更新するのかな?
誰か教えて。
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宝塚記念大的中(H17.6.26)
今年前半の最後の総仕上げ
上手く当たってしまった
明らかに先行場に不利なレース展開になると思い
思い切って抜擢した「スイープトウショウ」がやってくれた
安田記念の内容から充分買える馬

阪神 11R 宝塚記念
  ◎ スイープトウショウ
  ○ ゼンノロブロイ
  ▲ ハーツクライ
--------------------------
 ◎ 前走だけ走れば充分
 ○ 崩れないのはこっち
 ▲ 展開的に面白い
馬 11390 W 2920 1560
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初連続万馬券的中(H17,5,14)
5月14日(土)
メイン新潟、東京、連続万馬券的中

新潟11R
ポイント:⑫ヘイセイピカイチ、
クイーンC2着、桜花賞善戦の実績あり、
前からもっと走って良いと思っていた馬、
今日は抜群の気合で距離短縮に期待で押える

東京11R
ポイント:⑫ステンカラージン
明らかに展開有利、絡まれなければ面白い
思い切って4頭に流す
ちなみに、この馬3月に
7万台の万馬券を出していて
この時も取らせて貰ってる
ありがたい馬である。
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殿堂入り馬券(H17.3.13)
H17.3.13
阪神12R 123万円払い戻し

今日は前半調子悪かったが
後半から好調
最終12R(中京、中山、阪神)3Rにコロガシ
中京、中山と目出度く外れ
世の中甘くない(当たり前?)
でも今日は、運の女神が見捨てなかった
阪神最終レース
大外「リーサルウェポン」揉まれなければ面白いと、パッドックで雰囲気の良い馬に流し
ステーカラージン逃げ
リーサルが上手く2番手
最後まで行った行ったの大当たり
W万馬券的中
馬連:75290×1000=752900
ワイド:16230×3000=486900
総額 1239800円払い戻し
勿論、7万円台は初めて
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名馬リキエイカンの大往生
北海道新聞(人に詩あり)より、全文。
  浦河町の鮫川 清一さん(47)
7月2日、日高管内浦河町の鮫川牧場で、
1頭の名馬が息を引き取った。
35歳と2ヶ月27日。
あの5冠馬シンザンの最長寿記録まで14日に
迫っていた。
同牧場社長の鮫川清一さん(47)は
「リキ』のことを、我が子のように語るのだった。
「リキ、リキと呼ぶと、寄ってくるんだ。
背中に痒い所が有ると口をとんがらせてね。
そりゃ賢い馬だったよ」

1970年4月29日、8万の観客を集めた
阪神競馬場での第61回天皇賞。
リキエイカンが末脚鋭く逃げ切った。
当時の新聞は『3分25秒6』のレコード勝ちだったことや、『鮫川牧場産」であることを短い記事で伝えてる。

鮫川さんは祖父から『この血統だけは絶やすな』といわれてた。 リキの祖先をたどれば、日本サラブレット界の始祖に行き着く。
近親からも活躍馬が出ていた。そして、牧場の期待どうりにリキは天皇賞を制した。
通算成績は47戦13勝だった。

だが、リキエイカンは、その後、数奇な道を歩む。種馬となったが優れた産駆には恵まれなかった。当時、国内産の種馬が冷遇されていた事も災いした。 忘れもしない80年秋、鮫川さんは、ある噂を耳にした。 『リキがと畜場に連れて行かれる』。 たとえ天皇賞馬とはいえ、経済的価値がなくなれば処分される例は当時は、大部分だった。

リキが居る日高管内の牧場に走った。
1頭の汚れた馬がいた。『血統書で馬の特徴を調べなければ分からないくらい変わり果てていた」。鮫川さんは十数万円を払い、リキをつれて帰った。丁寧に丁寧に、汚れを落としてやった。涙が自然とあふれてきた。
『情けなくて情けなくて・・・。あの時の事を思い出すと今でも涙がでそうになるんだ」
牧場が生産馬を引退後に引き取る事は馬産地では常識外のことだ。 馬を養う経費はそう安いものではない。えさ代などで最低でも年間百万円はかかる。種馬は稼がなくなったら、淘汰もやむなし。鮫川さんは馬産地のその常識には従わなかった。

胆振管内の高校を卒業して、父の後を継いだ。
馬がというより、動物が好きだった。道端に捨て犬が居ると放ってはいられない。今牧場に十一頭の繁殖牝馬のほか六匹の犬が居る。

あの日から20年余り、1日の始まりと終わりはリキのために有った。前日の夜、どんなに酔っても、朝の5時にはリキの馬房に行った。仕事が終わった後にも必ず馬房に行った。
「リキ』と声をかけて、世話をする。
『馬は、見てあげないと、なにを求めているか分からないから』
リキは歯が弱いから水に浸下柔らかいえさを毎日用意した。寝藁も、体に負担かけないよう、ふかふかの物を準備した。専用の小さい放牧地も作った。
『この馬が出てくれたから牧場の今があるんです。最大の功労者はリキなんだ。これは金の問題じゃないんだ」
リキは5年程前から目が見えなくなった。足も不自由になった。それでも、必死で生きようとしていた。鮫川さんにはそれが分かる。

容体が急変したのは7月2日早朝、鮫川さんはリキのそばに居た。『寝たら起き上がれないのが分かっていたんだろうね。死ぬ前は横たわる事もしなかった。かわいそうで見ていられなかった。自分の子供のような者だから」
リキが死んだ。ぽっかりと心の穴があいたような気持ちだ。牧場のそばを秋には鮭が遡上する元浦川が流れる。夏の太陽が降り注ぐと牧草の緑は一段とまぶしくなり、河音が優しく響く。

去年の夏と同じ牧場の風景。が、リキのことが時々、頭をよぎる。
『シンザンの記録を抜けなかったのは残念だったけど、リキは機械じゃないから・・・。
リキに聞いてないけど、今ごろ天国で『幸せな一生だった』と言ってくれると思うんだ」
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馬がつむぐ夫婦の絆 芦沢勝利・訓子さん /鹿児島
◇第2の人生を楽しむ
 「経済的に豊かな暮らしとは言えない。でもね。精神的収入は大きいですよ」
 自宅の庭に置いたパラソルの下で、芦沢勝利さん(64)と訓子(よみこ)さん(61)夫妻が顔を見合わせて笑う。そんな2人の視線の先にはさく囲いの中でゆったりと動く2頭の馬。
 ◆すれ違い生活
 97年7月、山梨県から大崎町に2頭の馬と共に移住した。それまで勝利さんは甲府市役所、訓子さんも隣町役場に勤務する共働きの公務員だった。
 経済的には不安はなかった。だが、趣味の野球で週末を不在にしがちな勝利さんの後姿を見ながら、訓子さんは砂をかむような日々を過ごしていた。40代前半のころだ。
 ある日、訓子さんは意を決した。寂しさを打ち明け、「共通の趣味をつくりたい」と勝利さんにもちかけた。
 妻からの思いもよらない提案。「ちゃんと働いて家庭を守ってるじゃないか」。勝利さんにはそんな気持ちもあったが、訓子さんの真剣なまなざしに夫婦としての絆(きずな)を結い直そうと決心した。
 ◆馬との出合い
 2人の趣味探しが始まった。テニス、ゴルフ、バドミントン、陶芸、絵画、俳句などあらゆることを試した。だが、「どれも付け焼き刃。しっくりこなかった」(訓子さん)。
 あきらめかけていたある日、何の気なしに訪ねた乗馬クラブ。小さな女の子が馬を怖がりもせず、無心にひづめの泥を落としている。訓子さんは「見てると、馬が女の子をいたわっているような、なんとも言えない優しさを感じたんです」。2人の行く末を決める運命的な出合いだった。
 馬とは無縁だった2人が乗馬クラブに即入会。その後、2頭のオーナーになった。ひまさえあると愛馬に会いに出かけた。それからは馬が飼える暖かい土地探しの国内旅行を重ねた。「鹿児島県内を5年ほどかけて回った。ここはと思う町役場に手紙で問い合わせた。親身になって相談に乗ってもらったのが大崎町だったんです」
 ◆夢が実現
 「愛馬で砂浜を駆け回りたい」。こんな2人の“夢実現”の舞台が大崎町横瀬。志布志湾の砂浜に近い土地を借りて自宅ときゅう舎を建てた。定年後の予定だったが「永住の場所が決まったら、2人ともさっさと辞めてここに来てしまった」。
 今年7月で移住から丸6年。早朝から始まる馬の世話の傍ら、2人はすっかり地域に溶け込んでいる。勝利さんは町内の町おこしグループ員として河川や砂浜の清掃ボランティア。保健士免許を持つ訓子さんは、町の介護保険サービス関連の仕事で忙しい日々だ。
 ◆結び直した絆
 共働き時代にほつれかけた夫婦の絆を馬が結び直してくれた芦沢さん夫妻。人からうらやましがられると言うが、訓子さんは「何も特別なことをしているわけではない。夢に向かって踏み出すか、夢のままで終わらせていいと思うのか。それだけですよ」。訓子さんの言葉に隣の勝利さんが幸せそうにほほ笑んだ。【新開良一】(毎日新聞)
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トーヨーアサヒ
トーヨーアサヒは私が一番好きな馬、又は尊敬する馬、競馬の面白さを教えてくれた馬です
よそのHPに、載ってたので(まずいが!)
あえて紹介します!

「刻む」
トーヨーアサヒ(1973・12・23=第7回ステーヤーズS)
 第12回ジャパンカップは、外国馬が圧倒的有利という下馬評を覆して、日本代表のトウカイテイオーが父シンボリルドルフの志を継いで、見事、父子二代制覇を果たした。
 馬連ではかなりの穴馬券と思われたが、トウカイテイオーの単複を買った人が多かったのか、払戻所の前には長い行列ができていた。
 私は二階のテラスに出て、人が掃けるのを待つことにした。
 眼下のパドックでは、最終レースに「手を出そう」という連中が周回を重ねる馬たちを熱心に見ている。その周りでは、後ろにあるオッズ板を見ながら馬券の買い方を検討している者たちが群がっている。こうして一段高い所から見渡してみると、若者と女性の姿が目立ち、ここ数年の間に競馬ファンの層が大きく変わってきているのが読み取れる。
 パドックの「勝負師たち」を脇に見ながら、家路を急ぐ人たちが通り過ぎていく。その表情は明るい。とくに若者たちの顔はまるでコンサート帰りのそれである。
 かつての競馬場には、勝者と敗者の二種類の人間しか存在しなかった。ところが、最近では、この分類では通用しない要素も出てきた。昨今の競馬場の雰囲気からすれば、楽しめた者と楽しめなかった者に分類したほうが自然なのかもしれない。
 私はパドックの左端に視線を移した。いつも私が馬を見る時に立つ場所である。もう、かれこれ三十年近くも同じ場所から馬を見ているが、なぜか不思議に気持ちが落ち着くのである。同じような「くせ」を持つ人は私だけではないようで、レースの度に足を運んでいると、周りの何人かが同じ顔ぶれになることも多い。
 私が目をやった一角に懐かしい顔を見つけた。その男を見るのは十八年ぶりだろうか、だいぶ額が広くなってはいたが、間違いなく私の知っている男である。
 その男と初めてあったのは、昭和48年のハイセイコーブームに沸く春のクラシック・シーズンだった。
 私はいつもの場所に立って、朝の陽の光を浴びながら、ゆっくりと周回を重ねる未勝利馬たちを見ていた。オープン馬と比べると、いかにも線が細い。このクラスを抜け出せない成績も頷ける。その中でも「やや太めかな」と見えるものの、馬体のよさが目立つのは初出走の2頭だった。この2頭は成績不振の経験馬よりも、こちらの方がまだ可能性があるということで人気になっていたが、いってみれば「危険な本命馬」だった。
「8番の馬がいいよなあ」
 と隣の男が言った。それは独り言のようにもとれたし、私に話しかけたようにもとれた。「うまく逃げれば面白いかもな」
 と私が応じた。
 その馬は、これまで3回走って、いずれも大敗していた。もちろん、人気はまるでなかった。それでも「買える」根拠はあった。どのレースでも4コーナーまで逃げていること。1着との差が縮まってきていること。ダートから芝に変わったこと。この三点である。
「ようしあの馬から総流ししてやる」
 男は「お前もどうだ……」というように大声を上げ、窓口に向かった。
 レースは人気馬2頭が消え、2着に8番の馬が逃げ粘って、大波乱となった。
 男は「やったぜ」という言葉を笑顔で表しながら、パドックに現れたが、私の方は、ささやかに⑧の複勝を取っただけだった。
 このことがきっかけで私と男の付き合いが始まったが、二人が会うのは毎週日曜日の東京競馬場だけだった。私は彼の名前も職業も私生活のことも何ひとつ知らなかった。もちろん彼の方も私のことを何も知らないに違いなかった。彼が私を「あんた」と呼んだので、私も彼を「あんた」と呼んでいた。ただ知ってることといえば、二人とも無類の逃げ馬好きということだけだった。それにしても、よく飽きもせずに競馬場に通ったものだ。
 昭和48年4月1日。第23回ダイヤモンドS3200㍍が中山競馬場で行われ、小島太騎乗のトーヨーアサヒがあっさりと逃げ切り勝ちを演じた。連勝は同枠に人気のクリイワイがいたため、⑦ー⑧は340円しか付かなかったが、単勝は800円という好配当だった。「いやあ、トーヨーアサヒの楽勝だったな」
 と私が言うと、彼は意外にも
「俺、あの馬、嫌いなんだ。ムカムカするんだ」
 と吐き捨てるように言った。
「だって逃げ馬、好きなんだろ」
「でもアイツは別だよ。嫌いだよ。見てて楽しくないもんな」
 確かに彼の言うように、トーヨーアサヒは430㌔そこそこの小柄な馬で、正確なラップを刻みながら黙々と走るところから「走る精密機械」と呼ばれていたが、その走りっぷりは非常に地味で、見ていて「もどかしくなる」ような逃げだった。
「あんなに自分を抑えて走って楽しいかよ。逃げ馬ってえのは、大空を飛ぶように、もっと自由に自分をさらけ出して、走るもんじゃないの」
 私は「なるほど」と思いながら、彼の「逃げ馬論」を聞いていたが、彼が、なぜこれほどまでに、トーヨーアサヒの「走り方」にこだわるのか理解できなかった。
 その後、トーヨーアサヒは京王杯SH1800㍍で逃げられず5着、アルゼンチン共和国杯2400㍍ではクリイワイの3着と逃げ粘り、次の安田記念1600㍍はまた逃げられず15着と惨敗した。しかし7月の日経賞2500㍍ではまた見事に逃げ切ってしまった。こうして実績を重ねていくうちに、それまで単なる中距離馬と見られていたトーヨーアサヒは、むしろ長距離の逃げ馬として評価されるようになった。
 秋になって、京王杯AHこそ中山競馬場に出かけたが、また東京競馬場通いが始まった。 私と男の「競馬場の付き合い」は、相変わらず続いていたが、私生活を語ることはなかった。ただ一度、あれほど競馬に入れ込んでいた彼がちょくちょく休むようになった10月ごろに、「このごろ出席率悪いよ」と声を掛けると、珍しく実家の話をしたことがあった。「いやね実は親父が入院してね。このところ、毎週、田舎に帰って『リンゴ園のオヤジ』よ。うちの親父も、よくまあ、あんなめんどくせえことを、ものを言わねえヤツを相手に何十年もコツコツとやってきたもんだ。十年一日のごとく一生を送るなんて、俺にはとてもできねえなあって思ったよ」
 12月になると、開催が中山ということもあってか、彼は全く姿を見せなくなった。
 同じ年の12月23日。中山競馬場で第7回ステイヤーズS距離3600㍍が行われた。一週間前に有馬記念が行われたため、出走メンバーは小粒で、トーヨーアサヒには「勝ってくださいよ」といわんばかりのレースだった。トーヨーアサヒは断然の1番人気だった。 ゲートが開くと、インコースの①番枠のタカジョーがスタート良く飛び出したが、増沢末夫騎乗のトーヨーアサヒが「俺が逃げる」という構えを見せると、タカジョーは2番手に控えた。その後にカシハタ、ヌアージターフと続く。トーヨーアサヒを先頭にゆっくりとゆっくりと、まるで「お散歩のような」レースが続く。競り掛ける馬はいない。緊迫感もスピード感もない。とりあえず決められた距離を走って、まあ、最後の方だけ真剣に競走しましょう、といったところだ。ちなみに最初の1000㍍のラップが63秒3、次の1000㍍が64秒8、その次の1000㍍が64秒4である。レースは勝負どころの最後の3ハロン、つまり600㍍にどれだけスタミナを温存できるかにかかっていた。
 2周目の3コーナーに差し掛かると、後方にいた郷原洋行騎手騎乗のリュウトップが、さあ、そろそろ始めようか、というようにまくって出た。すると、これを合図に各馬が動き出した。3000㍍を走った後で、どこにこんなにスタミナを残していたかと思えるほどの軽い動きで、ここにきてやっとレースが始まったという感があった。トーヨーアサヒは、いままで温存していたスタミナを一挙に吐き出すようにフィニッシュを決めようとエンジンを全開にした。追い上げるべき2番手のタカジョーの脚の方が遅れがちだ。後方のヌアージターフやリュウトップも追い込んで来たが、トーヨーアサヒに49秒8ー36秒9というマイルレース並みの脚で上られては、手の打ちようはない。
 レースはなんら山場を迎えることなく終わった。誰かが「これじゃまるで戦前のマラソンじゃないか」と言ったが、まさにその通りだった。
 しかし、トーヨーアサヒの逃げには華麗さはなかったが、なんと言われようと、「勝つ」ことを宿命づけられた「男のしたたかさ」があった。
 トーヨーアサヒの単勝は290円、連勝⑤ー⑧740円。1番人気と2番人気の組み合わせとししたら信じられないほどの「おいしい」馬券だった。
 私が当たり馬券を手に、ふと、前方の払戻所を見ると、並んだ列の中にあのトーヨーアサヒ嫌いの男がいるのが目に入った。
 一瞬「どうして」という思いが私の頭の中を駆け巡った。彼がトーヨーアサヒを嫌う理由に私自身も共感するところがあったから、この光景は驚きと同時に寂しさをもたらした。私は彼のあの頑固さが好きだったのに……なにか裏切られた感じがした。一方、見てはならないものを見てしまったようで、とても声をかける気などなく、私はその場から離れた。 あの日以来、彼を競馬場で見かけることはなかった。
「覚えてる」
 私は彼の正面に回って声をかけた。
「おお」
 彼は言葉にならない声を上げた。そして私の手を強く握り締めた。肉厚の掌が熱かった。「まだ、やってたんだ」
「いや、もう競馬はやっていない。田舎に引っ込んでしまったからね。今日はたまたま知り合いに不幸があって、東京に来たものだから、懐かしく寄ってみたんだが、まさかあんたに会えるとはね。相変わらず逃げ馬を追いかけているの」
「まあ、そんなところだよ。逃げ馬って言えば、昔、トーヨーアサヒが勝った暮れのステイヤーズSの日、俺、あんたを見たんだよ。払戻所の前でね」
 男の顔に狼狽の色が走った。
「ああ、あの日、ステイヤーズSの日……恥ずかしいところ見られたな」
「実を言うと、俺、あの時、あんたを見て腹を立てていたんだよ。あれだけトーヨーアサヒが嫌いだなんて言っておきながら、こっそり馬券は買ってるじゃないかってね。とにかく、あんたのトーヨーアサヒ嫌いは普通じゃなかったからな」
「俺がトーヨーアサヒを嫌いだったのは、あの走り方がうちの親父の生き方そっくりだったからだよ。俺は、そんな親父が嫌で嫌でたまらなく家を飛び出したんだよ」
 「そうか、やっぱりな。なんとなくそんな感じはしてたんだ。でも、そんなあんたが、どうしてトーヨーアサヒを買う気になったんだ」
「あの年の秋口に入院した親父が暮れに死んでね。その親父が死に際に、俺にこう言ったんだよ『お前は自由でいいなあ』って……その時、親父も俺と同じ思いだったんだなあって気が付いたんだ。その俺もいまじゃ『リンゴ園のオヤジ』よ」
「それで、あの日……」
 パドックの脇で話し込んでいるうちに、ベルが鳴り、ファンファーレが聞こえた。
「いいのか」
「ああ」
 私たちは連れだって出口に向かった。今日は、彼の名前を聞こう、と思った
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私の、トーヨーアサヒの思い出
ステイヤーズSが来ると
2001 11/29 00:30


トーヨーアサヒを思い出す
この馬には、競馬を教えて貰った
競馬は、強い馬が勝つんで無いと
上手く乗った馬が勝つ
競馬は、どの馬が、1番実力発揮できる
状態に持っていけるかが、鍵を握る

トーヨーアサヒは、「逃げる精密機械」と
呼ばれた、始めから最後まで12秒台のラップで走る、逃げ馬
と言う事は、2000m位までだと、馬なりで
普通の馬が12秒台のラップ行くので逃げれない
でも長距離だと、皆折り合いを意識して、行きたがらない、その時がトーヨーアサヒの出番
12秒台で、他の馬を引きつけながら逃げる、有力馬はアサヒを、いつでも交わせると
後ろの馬を意識しながら走る、4角に掛かると皆が仕掛ける、アサヒも必死に逃げる、追いかけるほうも、
12秒台で息の入らないペースだったために
思うように伸びない、それをあざ笑うように
アサヒが逃げ切る
ある程度の人気馬になってしまうと、他馬の目標になるから
早めに潰しに行くと、自分が差されるので
アサヒが、潰れるのを待つしかない
実力が下でも、自分の形に持ち込めば
どの馬にもチャンスがある事を教えてくれた

人生もそうである、人のまねをするのでなく
自分の持ち味をどう出すかだと思う

引退して直ぐに、トーヨー牧場に会いに行った
アサヒは、小柄でみすぼらしい馬だった
良くこれで走ったと感心した
気が小さくらしく、近寄ってこない
見かねた牧場の人が、傍までつれて来てくれた

つい2、3年前まだ生きている事を
競馬ブックに書いてあった、トーヨー牧場の
関係する牧場で、大事に扱われてると書いてあった、なぜか、牧場の名前は書いてなかった
このまま行くと、最長寿馬も夢でない感じのことも書いてあった
どっちにしても、とっくに死んでると思っていたので、関係者に感動した

競走馬の、ふるさと案内の掲示板に、書くと
ついこの前、トーヨー牧場であってきたとの書き込み、それではと思い、今年の4月にトーヨー牧場に会いに行った丁度昼寝の時間らしく、
誰も、居ない たまたま1人帰ってきたので
アサヒは居ますかと聞くと、2、3ヶ月前から勤めたので、良く解からないけど今は居ないとの
返事が返ってきた、どこに行ったかもわからないそう、ただトーヨーアサヒと書いてある
飼い葉桶はあると言う、最近まで居た事は間違いないが、
何か、これ以上突っ込んで聞きたくなかった
死んだと言う言葉は聞きたくなかった
生きていると信じたかった
今でも、どこかで生きていると、思う事にしている
尚、牧場の人には、すごく親切に、案内してくれた、感謝してます。
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天皇賞馬テンメイ、その母天皇賞馬トウメイの軌跡 Ⅱ
トウメイが、天皇賞、有馬記念を勝ちながら
最強と呼ばれない不運の馬で有った
その子、テンメイはどんな馬で有ったのか
テンメイを語る時、彼の戦跡より、
鮮烈に、中央競馬史上に残る
出来事がある

テンメイの成績は 36戦6勝(中央)26戦7勝(公営)
天皇賞、京都大賞典、菊花賞2着
まず不運なのは、
その時代、最強と呼ばれてた
マルゼンスキーが、8戦 全勝で引退してしまったことだ
その後に残された馬は、相当の戦跡を残さない限り
名馬と呼ばれない事だ
テンメイが勝った天皇賞で、マルゼンスキーが走っていて
マルゼンスキーが、勝ったのならしょうが無いが
テンメイは、戦う前に負けていた事になる
それと、晩生の血と、天皇賞に勝った馬は
天皇賞に出れない、不運が有った

4歳夏を越してからは徐々に力をつけていったテンメイは
クラシック最終便である菊花賞へと駒を進めた
テンメイは直線で一旦は抜け出すもゴール前でプレストウコウに差され、
惜しくも2着に終わった。
ちなみにこのレースでは、杉本清アナがテンメイが先頭にたったところで発した
「トウメイが待っている。」の実況が有名である。
その後、決して順調とは言えない競走生活を送ったテンメイが
次に大レースに姿を見せたのは5歳秋、
昭和53(1978)年11月26日府中3200mを舞台に行われた天皇賞・秋であった。
一番人気はリュウキコウ。テンメイは4番人気であった。
レースは有名な「カンパイ事件」で幕を開ける。
第78回天皇賞がスタートした
予想通り、ダンケンジがハナを切り、順調にレースが始まったかに見えたが
5番ゲートの、パワーシンボリがゲートの噛み付いた為
そこだけ開かなかったのだ
慌てて、スターターが赤旗を振り、3、4コーナーの係員が白旗を振った
それに気づいた騎手は、必死に馬を止めようとしたが
一旦、その気に成った馬達は、中々止まらず、先頭の馬は
一周目の4コーナーまで達して、やっと止まった

これが、スタートのやり直し「カンパイ」である
江戸時代末期から、明治の初期に掛けて
日本の競馬が、開始された時、外人スターターが「カンバック」と
言った所、日本人には「カンパイ」と聞こえた事により、競馬用語になった

このアクシデントは気性的におっとり型であったテンメイにはプラスに働いたかも知れない。
レースはカカり気味に先行した菊花賞馬プレストウコウをゴール前でテンメイが捕らえ快勝、
菊花賞の雪辱を果たすとともに史上初の天皇賞母子制覇を達成した。
天皇賞の母子制覇は現在に至るもトウメイ・テンメイ母子が唯一無二の例である。
母トウメイが天皇賞を勝った時と、馬主(近藤克夫)、調教師(坂田正行)、騎手(清水英次)、
厩務員が全て同一であったばかりか、
12頭立ての12番枠で2着馬との着差半馬身というところまで
一緒ということでも話題を集めた。
だが、このカンパイは、テンメイにとって不運だったかもしれない
母、トウメイと同じ様に、カンパイが無ければ、プレストウコウが勝ってたんで
無いかと思われたからだ。


この時代、天皇賞は勝ち抜け戦であり、一度勝ってしまったテンメイは出走できない。
適したレースに恵まれぬまま彼の競走生活は低迷を続け、遂に引退することになった。
ところが、テンメイの引退後の処遇を巡り大きな問題が発生する。
体が小さい事などの理由で、中央競馬会の種牡馬試験の受からなかったテンメイは
ルイスディール産駒でヘヴィーステイヤーであるためテンメイを種牡馬として
引き取る先がなかなか見つからなかったのだ。
紆余曲折を経て、オーナーの近藤は「青森で種牡馬にする」と発表、
ようやくテンメイにも安住の地が見つかったかに思われた。
しかし運命の女神は彼に平穏な生活を許してはくれなかった。
彼はオーナーによって地方競馬へと売り飛ばされていたのである。
そして岩手へ

「天皇賞馬、岩手競馬へ」、日本競馬界に激震が走った。
青森の牧場で種牡馬となっていたはずのテンメイが
公営岩手競馬の水沢競馬場で走るという。
当時の天皇賞の価値は今日考えられているよりはるかに高い、
今でいえば「ジャパンカップ」に勝った馬が
地方競馬で走るる様なものである
多くの競馬関係者にとって晴天の霹靂ともいうべきニュースであった。
テンメイの女性ファンが中心となって
「テンメイを守る会」が結成されるなど社会的反響も大きいものがあった。
一方、受け入れる側の岩手競馬にしてみても、
あまりの騒ぎにむしろ困惑ぎみであったといってよい。
岩手の競馬ファンも大きな期待(あるいは好奇)をもって彼を迎えた。
しかし、それから約3年もの間、
周囲の人間の思惑をよそにテンメイは黙々と走り続けた。
競走成績はそれほど芳しいものではない。
芝の長距離戦を得意としたテンメイにとって、小回りでダート、
しかも最長でも2000メートルしかない番組では、
その実力を充分には発揮できるはずもなかった。

それでも彼はやはり岩手の競馬ファンにとっては「スター」であった。
岩手競馬の有馬記念とも言うべき暮れの
大レース桐花賞(ファン投票によって出走馬を選出する)において、
テンメイは3年連続でファン投票一位で選ばれたのである。
さらに数年前に企画された岩手競馬を代表する馬をファン投票で選ぶというイベントで、
彼は岩手競馬から引退して15年余りを過ぎていたのにもかかわらず
堂々の4位にランキングされた。
テンメイは岩手競馬ファンの記憶には今なお生き続けている。

引退そして・・・
岩手競馬の規則によりテンメイは9歳のシーズンをもって現役を引退した。
やはり、彼を種牡馬として迎え入れたいというオファーは無かった。

母のトウメイが、競走馬として中々競馬場にたどりつか無かったと対照的に
息子テンメイは、競馬場から出るに出れなかった

結局、「テンメイを守る会」の中川さん達が取った行動は
一日百円ずつ、貯金する事だった
一人、一月三千円、10人以上で3万円を集める事
そして、今の馬主に会いに行く事だった
馬主は「一千万で買った馬、それを回収しない事には」と言った
度々、会いに行って、四十二万円集まった頃
百万円なら譲っても良いと言った
馬主も、大の「テンメイ」フアンだった様だ
種牡馬として買ったものの、自分の馬として走らせたくなった
これが真相かもしれない
牧場に依託する形で種牡馬入りに漕ぎ着けることとなった。
しかし、種牡馬が来るとなれば、特別の放牧地を作らなければ成らない
専用馬房を作るのに、百万円、「守る会は」何とか、二百万円作った

この「テンメイを守る会」のとった行動については当時相当の物議を醸した。
引退馬の処遇にファンがどこまで介在するべき(してもよい)のか、
現在でもこの問題に明確な解答は得られてはいない。
ただし、多くのマスコミがテンメイの種牡馬入りの経緯については
冷淡な態度を取り続けたことは書いておきたい。
種牡馬入り後のテンメイに関しては、成功しなかったこともあって
速やかに忘れ去られていったようである。

私は、地方で走り続けた、テンメイの話を聞いたとき
なんて人間は、ひどい事するんだろうと思った
でも「旅路の果ての名馬たち」を読んで
少々、この考えに疑問を持ってきた
走るために、うまれて来た、サラブレッド
走ってこそサラブレッド、なのかもしれない
種馬になった馬は幸せか?
種馬にしたのは、人間である
最近、ちょっと走ると、負けない内に引退させる傾向がある
放牧地でのんびり生活してる馬は、幸せなのだろうか
こればかりは、馬に聞かないと解らない
人間に当てはめたらどうだろう
定年になっても、働きたいという人も
ゆっくりしたいと言う人も居るだろう
でも、大抵の人は、生きがいを無くす人が多いのではないだろうか
人間は、人に認められてこそ、生きていて楽しい

テンメイは、走るのを嫌がることは無かったそうである
ただ、9歳になって初めて、走っててムチを入れられて
尾っぽを振って、嫌がった
調教師は、そこで引退を決意したそうである

14歳まで走った、オースミダイナ
15歳に成っても、走る気は満々だったそうだが
ダイナ自身の、脚が動かなく成って来た
そこで引退を決意
馬は、走るのが自分の仕事と考えてる
そういう風な、生き物に作り上げてきたのは人間である

テンメイは、走りたく無くなるまで、走り続け
その後、多くの人に可愛がられ
サラブレッドとして、最高の一生を終えたのではないか
そんな風に思えてきた
残念なのは、テンメイの血が、ほとんど残ってないという事
2002年現在、ツルギハンテング(母の父がテンメイ)
藤沢牧場生産が中央競馬で走ってる

テンメイは、競走馬の引退と言う事に
中央競馬会、オーナー、ファンに、重大な問題を
提起してくれたのではないだろうか
まだ、引退馬の不遇は耳にするが
テンメイが、居なかったら、闇に葬られていたかもしれな


1993年10月7日
「昭和53年の天皇賞馬(秋)テンメイ、藤沢牧場で左前肢を
骨折、安楽死の処置を取られた、20歳」

同時期、ライバル「プレストウコウ」韓国で、生涯を閉じる

1997年4月7日、母「トウメイ」
幕別牧場にて、32歳でこの世を去る

最後に、実際にテンメイの引退後を、見てきた
「みどりのじゅうたん管理人:おぎ」さんの、メールを載せます

テンメイは藤沢和雄調教師の実家でもある、
苫小牧の樽前の藤沢武雄さんのところに居ました。
馬房から自由に出入りが出来るようにしてあげたりと、
とっても可愛がってもらってました。
種付け頭数は数頭でしたが、藤沢さんの繁殖に配合したりと、
活躍馬は出ませんでしたが、
テンメイの血を引いた繁殖が藤沢さんの所に一頭いるはずです。
彼はリンゴが大好物で、食べた後ぺコちゃんのように
舌をだして美味しかったぁ~って顔をしたり。
私も良く会いに行きました。

平成5年10月7日に毎日過ごしている場所で、脚を骨折し、残念ながら永遠の眠り
についてしまいました。
彼が毎日過ごしていた放牧地の片隅に彼のお墓があります。
会の人たちが建てました。とっても立派なお墓です。
私も毎年命日の頃、彼に手を合わせに、彼の眠っている場所に行ってます。
今彼がいた放牧地にはどさんこがいます。
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天皇賞馬テンメイ、その母天皇賞馬トウメイの軌跡 Ⅰ
そのⅠ 母トウメイの軌跡

トウメイの母は、トシマンナは、地方競馬で未勝利、底に流れてる血に
オーナは、期待を掛け、シプリアニにかけた、
まだタカツバキ、ヒカルイマイも出してない、無名の種牡馬だった

生まれたのは、小さい牝馬だった
後に、新聞で「ねずみのような馬」と書かれたほど
誰が見ても、みすぼらしい牝馬だった
でも、素質には期待はしてが、競りにかけても、結局売れず
誰も引き取り手は無く、何とか、安く売り、買い手が見つかったが
預かってくれる厩舎が、中々見つからなかった
やっと、預かってくれる厩舎が公営の大井に見つかった
しかし、調教師が亡くなり、振り出しに
競りの時、進めた中央の清水厩舎に、何とか入厩したが、
結局、厩舎の厄介者扱い、誰も、滅多に手入れもせず
担当の厩務員も付けて貰えなかった
ほったらかし、トウメイは牧場から入厩して、
今までの扱いとの、ギャップに、きっと、苛立ったのか、
気の荒い馬に成っていった、
それは、人間が落ちこぼれ扱いをされ、誰も信じれなくなったのと
同じなのだろうか。
それは、競走成績に現れる、優等生と扱われてきた馬たちのに
復讐とも言える、並み居る優等生に、噛み付いた
負けると、レースの後、悔しそうに首を上下にし、いつまでも
四肢を地面に叩き付けたそうだ

ねずみのような馬は、新馬戦で2着、続く新馬戦で初勝利
順調に、勝ち星を積み上げ、厩舎の期待の星に成った
この時、トウメイは、丁寧に扱われ、ピカピカの馬体に変わっていた

シンザン記念2着、京都4歳特別を快勝
いつしか、桜花賞の1番人気に支持される
桜花賞で、5番手につけたトウメイは、楽に先行馬を捕らえ
ゴールに向かった、それを待ってた様に、お嬢様育ちとして鍛えられた
ヒデコトブキが、今日のために生まれてきたとばかりに
久保敏騎手の水車ムチに応え馬体を並べた、虐げられたトウメイと
お嬢様育ちのヒデコトブキが、牝馬としては、異例の300Mの叩き合いを演じた、
スターホースの子ヒデコトブキを
フアンは、スーパーホースになる事を望んでいたかもしれない
内のトウメイは、外のヒデコトブキに、並ばれ小さいトウメイは
ほとんど、隠れて見えなかった、ゴールした時は、2分の1馬身
お嬢様が勝った、レコードタイムだった、これが、死闘を物語ってた。
負けた、トウメイは何時までも、興奮して、人間を困らせた
気持ちが落ち着かず、飼い食いが落ちオークスまで、休養した
一方、勝ったヒデコトブキは、右前脚を痛め、1年の休養に入った
トウメイは完調で挑めなかった、オークスは3着に敗れた。
その後休養したトウメイにまた不運が、清水調教師が亡くなり
佐藤勇調教師にひとまず転厩したが、成績が振るわず休養

トウメイと言う名前は、実は、高速道路の東名では無い
メイトウ(名刀)と、付けるとこを、受け付けれず、反対にし
トウメイにしたそうだ。

五歳になったトウメイは四度目の転厩し、
開業したての坂田厩舎には入る
自信をなくしたトウメイは厩舎の配慮で
骨っぽい相手にぶつけず、オープンで力試しをして行く
オープンで、天皇賞候補ダテホーライを破り
天皇賞とも考えたが、回避し、阪急杯に向かい
4着になり、脚を痛める、
復帰までは、半年以上かかる引退させようと言うことも考えたが
競走馬として復帰させる道を選んだ
フアンやマスコミに、まだ稼がせるのかと言う声も聞かれた

6歳に成ったトウメイは、オープンを使いながら
レース勘を取り戻していった、5戦目に昨年と同じ
マイラーズカップに出走し、ダテテンリュウ、タマホープという
牡馬の強豪と顔をあわせた、どん尻から、直線外に持ち出し
大きな牡馬を2頭を瞬く間に抜き去り、悠々とゴールインした
次のオープンでも、楽勝し、さらに昨年の無念を晴らすべき
再び、阪急杯に挑戦し、小さな牝馬が、58Kのトップハンデを
背負い、二十一頭の混戦を、物ともせず、強烈な末脚で、一蹴つして
四連勝を飾り、トウメイの強さはさらに増してきた
さすがに、もう走らすのは、可哀想という声は聞かれなくなった
天皇賞に、挑戦しようか・・・・・
百六十万で、ささやかな楽しみを求めたオーナーと
開業したての若い調教師は、だいそれた夢を、
闇の中の、一筋の光として捉えてきた
手始めに、牝馬東京タイムズ杯楽勝し
天皇賞に駒を進める

天皇賞挑戦を表明した時には皆びっくりした。牝馬に3200mはあまりに過酷。
ましてやトウメイはマイル戦での斬れ味を売りにする馬。
いくらトウメイが勝負根性に優れた強い馬だといっても勝ち負けは難しいのではないか?
その思いは騎乗する清水騎手も同じだった。
しかしさんざん悩んだあげく、清水騎手は極めて楽観的な2マイル克服法を編み出した。
「3200mといっても結局は2マイル戦。トウメイの得意なマイル戦を
2度走って来るつもりで乗ればいいのだ・・・」
 果たして天皇賞で3番人気に押されたトウメイは
その言葉通りマイルを2度走ったのか、直線マイル戦のような鋭い追い込みを見せて
ダービー馬ダイシンボルガード・菊花賞馬アカネテンリュウ以下牡馬の強豪を
抑えて見事に天皇賞を獲得した。牝馬が天皇賞を勝ったのは
クリヒデ以来9年ぶりのことで、これ以降も昭和55年のプリティキャスト、
そして平成9年のエアグルーヴ(ただし2000m)ただ2頭しか記録されていない。

昭和四十六年十二月十九日有馬記念
トウメイの最後のレースだった
この時、私はもうすぐ二十一歳に成ろうとしてた二十歳の大学生だった
トウメイの印象は、切れ味と根性のあるマイラーだった
天皇賞を勝っても、まだ、有馬記念勝つまでは?
私は、春の天皇賞馬、メジロムサシに期待してた
一番人気菊花賞馬アカネテンリュウ、春の天皇賞馬メジロムサシ、
昨年の秋の天皇賞馬メジロアサマ、ダービー馬ダイシンボルガード、
トウメイは五番人気だった

皆が、この馬に期待しようと、競馬場についた時、思わぬものを
発見する、競馬歴は長いが、こんな事は、この時だけだった
なんと、出走取り消しが、二十一頭も居たのだ、馬のインフルエンザだった
その中に、有馬記念に出る、アカネテンリュウ、メジロアサマ、カミタカが居た
有馬記念史上初の六頭立てになった
私は、これで、メジロムサシでどうしようもないと思った

スタートして、3コーナーに掛かった時、馬群はスローペースの
団子状態、メジロムサシは中段、トウメイは最後方を何時ものように進んだ
4コーナを回ると、逃げたサンエイソロンに、長距離馬コンチネンタル、
ダイシンボルガードが、並びかける、本調子に無いのか、メジロムサシは
最後方に下がった、トウメイは大外に回り、いよいよ最後の坂にさしかかる
勝負どころに差し掛かった、トウメイは、何時ものように行くぞとばかり
尻尾を、グルグル回した
トウメイは、レースを知っていて、ムチなんか使うな、言われなくても走るよと
ばかりに、尻尾をまわす、下手にムチを使うと、走らないそうだ
尻尾を、三回、四回と回したトウメイは、今日も貰ったとばかりに
牡馬二頭に襲い掛かった、有馬記念の緊張感のせいか、騎手は使っては
いけないムチをトウメイに当てた、そんな事には気にもせず
二頭並ぶまもなく、ゴールした、正に完勝だった

私は、アカネテンリュウ、メジロアサマの居ない、有馬で勝っても
本当に強いとは、思わなかった
トウメイには、生涯この事が付回す、有る意味不運な馬である

戦後最強牝馬の称号を手土産に牧場へ戻ったトウメイは繁殖生活に入り、
初仔と第2仔ルイスデールの牡馬を産んだ。
余談だがトウメイがルイスデールのところに種付けに出かけたとき、
過去を思い出すようなトウメイらしい目にあった。
種馬場の係員が馬運車から降りてきたトウメイを見てトウメイと思わず
次のように言ったという。
「今日はトウメイという偉い馬がやってくる。すまないが後にしてくれ。」

牧場に戻った、トウメイは競走馬当時の気性が嘘のように、大人しく、
遠慮深い馬に成っていた、有る意味、本当の姿なのだろう
やはり、トウメイにとって、落ちこぼれ扱いされてた事への
つっぱり精神で走っていたのだろうか
柵の中で、二十頭もの繁殖牝馬の中で、いつも一番最後を付いて回る
新入りが入ってきても、新入りの後をついて回るほどであった
トウメイの馬主が亡くなり、牧場を閉鎖する事に成ったが
先代の意思を引き継ぎ、トウメイだけは、売らず牧場に残した
たった、一頭のための牧場であった、1頭だと寂しいので
遊び相手に、ポニーを買ってきて、一緒にしてやり
大切に、扱われた、そのポニーにさえ遠慮する、トウメイであった

1997 4/7(月)
71年(昭46)の天皇賞・秋、有馬記念を制覇した名牝トウメイ(32歳)が
北海道・幕別牧場で老衰のため死亡した。通算成績31戦16勝、4歳時は桜花
賞2着、オークス3着。大活躍した6歳時の71年は年度代表馬に輝いた。78
年秋の天皇賞馬テンメイを出し、母子制覇は史上初の快挙だった。

大川慶次郎のコメント
トウメイ 素晴らしい勝負根性があり、見た中で最強牝馬か!

そのⅡ トウメイの傑作テンメイの軌跡に続く
(このコラムは、吉永みち子「旅路の果ての名馬たち」、HPの情報、その他を参考に
  私の、感想を織り込んで作ったものです)
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元騎手、調教師 境勝太郎さん いつも馬がいた
01.夜明けの牧場に通い詰める
 騎手、調教師と馬一筋六十三年。調教師時代、はっきり物を言うんで「境のラッパ」と言われた。競馬場のエレベーターで「こんな腐れ馬、よく勝った」って言ったら、馬主さんが後ろにいたこともあった。

 でも、強気だから吹くんじゃなく、ちゃんと馬の状態見て正直に言っただけ。太いか細いか、調子はどうか、朝昼晩見てわからなけりゃプロじゃない。だからきゅう務員に馬の目方は量らせなかった。きゅう舎は肉屋じゃないんだから。

 自分だけで勝ったんじゃない。馬主、調教師、きゅう務員、騎手、みんなのおかげ。昨年引退したが、朝は暗いうちに起きちゃう。今も日高に行くし、スポーツ新聞に書いたりと、馬とは切っても切れないよ。

 生まれは羊蹄山と岩内の間にある小沢村。両親は今の広島県大竹市から北海道に来た。国鉄勤めの父は頑固だが世話好き、仲人をよく頼まれた。母は機転が利く明せきな人だった。兄弟は男五人と女三人、僕は三男。みんなが頭良く、僕だけ天下一品の悪がきで、運動神経だけはよかった。隣がニセコでスキーもうまく、野球の騎手チームではキャッチャーで、東京競馬場のある府中の東芝と試合をしたほどさ。

 家は国鉄宿舎で、線路を渡って二十分の所に牧場があった。朝三時、乳を搾り終わると牛を山に放し、夕方に小屋に戻すんだ。朝四時ごろ行くと、牛を追う馬に乗せてくれてさ。農耕馬でない格好いい馬で「境のあんちゃん、馬乗りうまいね」と言われてたんだ。

 当時十二歳ぐらい。毎日のように、学校行く前に乗るんだ。たまに、八キロぐらい離れた所に、てい鉄打つため乗って行ったりとか。動物好きで、何にしても馬が好きだった。かわいがればなつくしな。ただただ馬に乗りたかったんだ。

 近くの倶知安競馬に行くと、馬も騎手の服もきれいで「あんなふうに乗ってみたいなあ」と思っていたんだ。小沢で貨車がよく入れ替えして一時間ぐらい止まってたんで、貨車に積まれた馬に青草持ってってね。きゅう務員らしき人が「あんちゃん。そんなに好きなら、背ちっこいから馬乗りになりなよ」って。

 兄弟は堅い所に勤め、僕も国鉄に入り車掌の仕事をしたかった。でも身長が足りなくてね。今は身長一五三センチだが、当時一四五センチぐらい。それで子供心に騎手になろうと思ったんだ。

02.世話の後はいつも腹ペコ
 小沢の尋常高等小学校を出て、ひと夏、母の妹がいた北見に行った。馬が二頭ぐらいいて「乗れる」と思ってね。ジャガイモとかハッカを作る農家さ。クワで掘った作物を後ろから拾って馬車にのっけて、でんぷん工場に持って行くんだ。きつい仕事だったよ。

 次に小樽の鎌倉病院に行った。院長は馬の血液の研究かなんかで博士になった人。道庁にいた叔父さんの知人で、朝里の牧場に馬を置いていた。「馬乗りになるなら、ここで勉強しなさい」と言ってくれ、二カ月ほどいたんだ。その後、院長が馬を預けていた縁で、札幌の清水茂次きゅう舎を紹介してくれ、一九三五年(昭和十年)に騎手見習いになった。 清水先生のきゅう舎は札幌競馬場前にあり、六、七十頭飼ってた。兄弟子は七人。師匠の靴磨き、先輩の服の洗濯と寝る暇ない。師匠の靴はピカピカに磨き、少しでも墨が付いてると、たたかれた。下っぱなんで、一番早く朝三時に起きて、十数頭乗り込む。全部終わってからやっと自分の担当馬を手入れするんだ。馬を洗うのも今なら温水シャワーだけど、当時は水で洗い、乾くまで体を一生懸命ワラでこするんだ。大変だった。あんなに働くと腹減ってな。パン屋がパンやトウキビを売りにくるんだ。でも師匠からは毎月一円とか五十銭しかもらえない。買えないから、ちょっと失敬したこともあったさ。

 師匠のお母さんが、かまにこびりついたお焦げで作った握り飯をよく差し入れてくれた。今なら入れ歯で食えないけど、うまかったなあ。仕事は厳しかったが、札幌の街は馬でどこでも行けた。北一条通りの女子高を通る時、女の子を見るのが楽しみだったよ。

 見習い騎手になった直後の三五年、ダービーでガヴアナーという馬が勝った。きゅう舎でラジオを聞いてたが、静内の生産馬が三着に入り大騒ぎ。当時は千葉の下総御料牧場、岩手の小岩井農場の馬が強く、ガヴアナーも小岩井。道産馬は歯が立たなかった。

 馬乗りになるのに、親は反対だった。特に父は村でも一番というほどの厳格な人でね。猛烈に怒った。昔は騎手なんて極道者と思われていたから。「一人前になるまで帰ってくるな」と言われたな。三五年十一月、えさのエン麦をつぶす作業をしていて、ローラーで右手の中指と人さし指の先をつぶしたんだ。それで久しぶりに帰ったんだけど「だから早くやめろ」って。騎手になれないかなと思ったけど、幸いけがは大したことなかった。

 九十三歳まで生きた父は、まじめできちょうめんだった。なのに僕みたいなのが育って。人間でさえそうなんだから馬の将来だってなかなかわからんよな。

 僕と中央競馬のスタートは重なってるんだ。当時は札幌をはじめ全国十一の競馬倶楽部が独自に騎手免許を出していた。三六年から倶楽部が統合され、今の日本中央競馬会(JRA)の前身「日本競馬会」が誕生。僕もこの時、免許取って正騎手になり、全国で乗れるようになったのさ。

03.給料をもらえず貧乏続く
 初レースは一九三七年(昭和十二年)七月の札幌。キヨタマという馬だった。一年先輩の兄弟子と一緒に出走した。師匠がレース前「どうせ勝てる馬じゃないから、二人のうち先にスタートした方に一円やる」って言うんだ。

 今のゲートと違い、昔は綱が上がるんだ。一斉に出られるわけじゃなく、あんちゃんなら技術もなく、なかなか出してくれない。八頭立てだったかな。六着ぐらいだったけど、先輩より僕がスタート良く、清水茂次先生から一円もらった。今の千円ぐらいかな。

 初勝利は三八年四月、小倉でホンラクという馬だった。札幌の琴似の馬主の馬でね。最初からハナ(先頭)を切りっ放しで行った。自分が担当、世話してた馬だったし、うれしかったなあ。こそっと馬主さんから二円もらったが、先生に見つかり取り返された。騎手として一回乗ると当時十円ぐらいの手当だが、騎手の分は先生の所で止まっちゃう。昔はそんなもんだった。今なら賞金の五%は翌週火曜日には騎手の口座へ振り込まれるけど。 貧乏だったから、実家から、家で飼ってた綿羊で編んだ靴下を送ってくれた。それでも兄弟子のお下がりの靴下もらって。湯飲み茶わんを入れ、かかとの穴を繕ったもんさ。乗馬ズボンもダブダブのお下がり。兄弟子のズボンをいいなあと言ったら「売ってやる」と。でも金がない。初めて質屋に行った。

 父親から「なきゃ困るだろう」と、岩内で買ってもらった腕時計があった。これを持って質屋に行くと、十円だったか貸してくれた。後で借りたお金を返しに行ったが、利子分も払うんだもんな、それが払えず流しちゃった。
 師匠からきちんと給料をもらったのは弟子入り十年目の四四年。初代東京馬主協会長、栗林友二さんのクリヤマトに乗り、東京競馬場でのさつき賞を勝ったんだ。戦時中で馬券発売はなかったが、十頭立てでハナ切りっ放し。初めてクラシックレースで勝った。その時、先生から四百円ぐらいもらったんだ。
 半分を結納金に使った。家内は京都で行きつけの玉突き屋の娘。でも結婚後すぐ徴兵された。旭川の騎兵第七連隊通信中隊。ガダルカナル要員だったが、入隊前日に部隊が玉砕。兄弟子もそれで死んだ。三カ月教育で帰された直後、再び召集、もうだめだと観念した。覚悟の再召集だったが、入隊四カ月で戦争が終わってしまった。負けるはずだよ、馬乗りやってたのが無線係やれだもんな。でも要領よくて、部隊長付きとなり馬を世話したんだ。「けるから」ってだれも見る者いなくてさ。終戦三日前に長男が生まれた。出征中なので「征勝」と名付けた。

 清水先生は騎手としてもペース判断が素晴らしく、時計で計ると言った時間でぴったり戻って来る。例えば「千六百メートルをハロン十五秒で」と言えば、一ハロン(二百メートル)十五秒のペースで、計百二十秒かかるんだが、僕も新弟子時代は上手に乗れず、二秒違えばステッキでよくたたかれた。


04.登録間違えた先生に激怒
 清水茂次先生の騎乗はいつも時間が正確だった。それがしゃくで、先生の時計を計り「二つ(二秒)遅れました」とうそついた。そうしたら「おかしいなあ。どこで遅れたかなあ」と首をひねり、新聞記者に確かめに行った。戻ると「間違ってるのはおまえだ。時計も満足に取れないのか」って。結局また、たたかれた。

 ペース判断こそ騎手の条件で、時計の分からん乗り役はだめ。僕も弟子にうるさく言った。車だって今五〇キロか六〇キロなのか分からなけりゃな。僕が今まで一番感心した騎手は福永洋一君だ。千メートルでもペースが速いと思えば後方に控え、三千メートルでも遅いとみれば果敢にハナに立つ。武豊君も状況の読み取りが速い。

 清水先生の思い出だが、馬を見る目は日本一だった。安い馬を見つけ成績を残した。一九七一年の天皇賞、有馬記念を勝ったトウメイなんか代表的な例。買った時は百六十八万円の安馬さ。大した先生だったが、恨んだこともあったよ。

 僕が新馬時代から乗っていたニパトアという牝馬がいた。四二年(昭和十七年)、函館で六頭立ての大きなレースで、五頭が同じきゅう舎でね。先生は「おまえ、挟まって出られないだろう」と、ここはこう乗れ、あそこはああ乗れと教わって。三コーナーまで必ず後方に付けろ、そして外からかわして行けと。審判室の真ん前の外枠いっぱいに出して見事に勝った。その後、東京競馬場でも勝った。連勝の結果、東京で秋の天皇賞に出ることになったんだ。

 ところが、いつのまにか弟弟子が騎手登録されていた。「どうしたんだ。負けたわけでも、下手な乗り方したわけでもないのに」と聞いた。そしたら「間違えて登録した」って言うんだ。結果は快勝。頭にきた。飲める方じゃないんだけど、一気にウイスキーをコップ半分飲んで、先生の家に押しかけた。出刃包丁持って。でも家に行くと「いない」と。留守だった。帰り道は酔いが回って歩けなくなって、この話は終わりさ。

 さて、戦後、除隊になり、今の中央競馬会の日高支所(静内)に行き、馬の育成を手伝った。四六年五月、競馬会の配属で札幌の川崎敬次郎きゅう舎に移った。札幌では次に稗田虎伊、星川泉士きゅう舎と移り、この後は京都から阪神、再び京都に戻って中山と合計九つのきゅう舎を回った。「給料増やすからうちに来い」って言われたり、関西から関東の中山に出てきた時も「乗り役いないから困ってるんだ」って誘われたんだ。おだてられたのかな。

 思い出の騎乗は五〇年の桜花賞。道庁で課長を務めていた叔父が、道内で事業やっていた斉藤健二郎さんという馬主さんと知り合いだった。その斉藤さんが「おいっ子に一匹買ってやる」と言ってくれた。当時は札幌の星川きゅう舎にいたんだが、持ち乗りになった牝馬がトサミツルだ。持ち乗りとは、馬の世話や調教もやり本番のレースも騎乗すること。でもレース前、ちょっと困った状態になった。


05.牝馬でダービー3着に
 桜花賞は京都や中山でやってたが、一九五〇年から阪神競馬場に移った。僕自身も阪神に初めて出場した年だった。トサミツルは一カ月前から阪神に入った。ところが、けいこを強めにしたら、レースが近いと感じ、途端にかいばを食わなくなったんだ。

 もともと食いは細かったけど往生した。ひと晩中、えんばくを手に持って食べさすんだ。うまやで一緒に寝て。でも本番では見事に勝った。苦労したから、余計うれしかったよ。あのころ桜花賞で勝つと五十万円。当時は賞金の歩合を取って乗ってたが、乗り役ときゅう務員分で計一割で五万円。騎乗手当など加えると七万円になった。

 ぼくは飲まんけど、のんべを連れて宝塚に行った。乗馬ズボンはいてたんだが店に断られた。けったくそ悪くて。金いっぱい持ってるのに。そうしたら、中から店のおやじが飛んで来て「境さんじゃないですか」。そうだと答えると「いやー失礼しました。入ってください」と言うのさ。競馬やる人間だったのかな。仲間三人と入ったら、すてきなのが出て来たな。豪遊だ。毎晩芸者二、三人あげて。

 クインナルビーも忘れられない馬だ。オグリキャップの五代上の母で、最近のファンも聞いたことがあるかもしれない。四白(足元が白)でくり毛のきれいな牝馬だった。本来の乗り役がいたが、所属していた京都の石門虎吉きゅう舎から「境君、この馬走るから京都に来たら乗ってくれないか」って誘われてさ。それで札幌から移った。

 五〇年代初め、強い牝馬がほかに三頭いた。女優高峰三枝子さんが馬主のスウヰイスー。松山吉三郎きゅう舎のオークス馬だ。短距離が速かったわな。シンザンで有名な武田文吾きゅう舎はレダ。中距離に強いタカハタは“大尾形”の尾形藤吉きゅう舎所属だった。

 五二年、桜花賞はスウヰイスーに破れ三着だった。一カ月半後、男馬に交じりダービーに挑んだ。一週間前、馬が熱発して一日けいこを休んだ。どうせ勝てないんだからと調教師から「危なくないように乗ってきな」って言われたんだ。

 府中の東京競馬場、芝二千四百メートル。出走は三十一頭。タカハタが一番人気。後の菊花賞馬になったセントオーが二番人気。ところが、人気馬はもまれて、抜け出せなくなった。中はゴチャゴチャ。昔のダービーは、今と違い頭数も多く、一コーナー回るまで生きた心地がしなかった。僕の目の前で四、五頭ひっくり返ったこともあった。今なら内に入ったらすぐ罰金。ビデオで全部撮られるしね。あのころは挟むとか、外に張り出すのは、普通のことだった。

 こちらは危なくないように外らちいっぱいに回った。結果は三着だったが、男馬に引けを取らなかった。僕はダービーに何度か乗ったが、これが最高位。完調だったら楽勝だったかもしれないし、今でも、もう少しうまく乗ってれば勝てたかも、って反省してるんだ。


06.終盤で差し勝ち大騒ぎに
 一九五二年のダービーで三着だったクインナルビーは、翌年秋の天皇賞に挑んだ。今度は万全だった。府中(東京競馬場)の三千二百メートルを3分23秒0で駆け抜けた。レコードだった。男馬を相手にしなかった。記録は十年ぐらい消えなかったんじゃないか。長い距離は強かった。今度は芸者街の神楽坂で騒いだ。かみさんにおこられたけどな。

 この馬の父は三九年(昭和十四年)のダービー馬クモハタ。五三年に伝染性貧血で薬殺されたが、その年に子供が天皇賞を勝つとは因縁だな。

 約三十年の騎手生活で落馬は何度かしたが、鎖骨を折ったぐらいで、大きなけがはあまりなかった。

 でも札幌の障害で落馬した際、大差で離していたので再び飛び乗ると、ちょうど後ろから来た馬に跳ねられた。痛くもかゆくもなく、次のレースに出ようとしたが、だめと言うんだ。汗だと思って頭に触ったら血。ようけ出たなあ。十針縫った。

 騎手として通算勝利は五百三十四勝。最初の清水茂次師匠はよその人を頼まず、全弟子を平均に乗せた。多く乗れて感謝しているが、当時の五百勝は今の千勝以上だろう。レースが毎週あるわけではないし、札幌終わると京都へ行く程度。値打ちあった。

 五百勝目を函館で挙げた六四年、アジアの騎手交流戦に中央競馬会からフィリピンへ派遣された。今の副理事長北原義孝さんが通訳で行ってくれた。向こうの競馬はずいぶん遅れていたが、おもしろかった。

 本来、乗り役は抽選で決めるんだが、知らずに行くと「口をチャックしろ」って。「うちの馬主はフィリピンで一番偉い人だ」と説明するんだ。この馬主さんが日本で中山競馬を見たとかで、調教師に電話で「うちの馬にサカイを乗せろ」ときたらしい。大きい馬で引っ掛かり大変だった。「そんなの乗れるか」と言うぐらいあぶみも長かった。「スタートしたら行け」と言われてたが、外枠から馬が寄ってきたので後方から行った。

 手綱を引き待機していたが、しまい(終盤)をスーッと行って、差し勝った。「(先行逃げ切り型の)フィリピンで、あんな勝ち方初めて見た」と場内大騒ぎ。調教師からすき焼きごちそうになったよ。
 騎手のハンデは、日本では速いのが重いが、おかしなことに馬体が大きいのが重い。タオルに水掛けて負担重量を六十二キロなら六十二キロになるように重くするんだ。タオルを鞍(くら)の下に入れると、とんでもなく高くなる。「これじゃ乗れない」って言うと「タオルを降ろして乗れ」。騎乗後の計測では、てんびんばかりみたいのに「どんと乗り、揺れていったん戻って真ん中に来たら降りろ」って。

 騎手の取り分は一着十万円、二着五万円、三着三万円。日本から僕を入れ騎手三人が出場、みんなで分けようと約束してた。僕が一、二着で計十五万円。結局五万円ずつ分けたが、現地では使い切れない。地元騎手の家でごちそうになったり、いい思い出だらけ。暑いのには往生したけど。


07.馬場穴だらけ よく転倒
 節目の五百勝は函館でクインフォーラという馬で挙げ、当時史上十三人目(現在五十三人)ということで、中央競馬会から表彰された。自分でもよくやったと思う。別に乗り方がうまかったというわけでなく、いい馬に乗せてくれたから、これだけ勝ったんだよ。今体重は七〇キロ超し、医者には減らせって言われてるけど、当時は四八キロから五〇キロ。減量しなくても体重は維持できた。出遅れもなかったな。意外ときちょうめんだったんだろうな。

 四十歳半ばで、ちょっと年も感じていた。それに今のゲートの機械ができて、だれが乗っても、ちゃんと全員一緒に出られるようになった。昔の綱のバリアなら、ベテラン連中が若いあんちゃんを出させてくれなかったもんだ。でも若い人も乗れるようになると、次第にぼくらの乗る馬が少なくなってきて。じゃあ辞めようかというわけさ。少しは寂しかったけど、すぐ調教師の免許が下りたからね。地味に調教助手なんてやってられんが。おれの性格からして。

 今は調教師試験は大変でしょ。何十人受けるのか知らないけど。最近は調教助手が受けるの多くなったが、なぜ免許下りるかと言うと、大学出が多いから。学科が主になったからね。

 僕が受けた時のこと。ある人が「やあ、勝ちゃん。おれ、あんまり勉強してないんだ。勝ちゃんのできたところ、見せてくれればいいなあ」って。仕方ないから「横に座れよ。おれのできたところ書けばいいじゃないか」って答えた。「じゃあ、頼むよ」と言われ、試験を受けに馬事公苑に行ったんだ。ところが、席はあいうえお順。その人間はかなり後ろの席で、ぼくとは離ればなれ。答案用紙に「来年また来ます」って書いたそうだよ。笑い話みたいなもんだなあ。

 僕はちゃんと受かった。一九六六年三月、免許が下りて、いよいよ調教師の開業だ。場所は千葉県の白井町。今は競馬学校があるけど、当時はすごい田舎でね。競馬場のある中山にいたかったけど、競馬会から二十馬房割り当てられて行ったんだ。電話もきゅう舎に無かった。回線が無く、付けられないということだった。電話局も無かったから役場に予約入れてね。でもつながるまで一時間かかるんだ。中山から車で四十分だから、直接行った方が早かった。

 うちのきゅう舎は競馬会の事務所から一番近かった。でも「境さん、電話だよ」って警備員役の農家のおじさんが言いに来てくれるんだが、走ったって三、四分かかる。馬主さんの奥さんから「何やってんのよ」ってよく怒られていた。

 白井は当時十三人ぐらいしか調教師はおらず、調和取れていた。例えば、ある調教師が左回りで追いたいと言えば、じゃあ左回りとなる。わりと妥協性、融通性があったな。それで、結構走ってくれたしな。でも馬場は悪く、ぼこぼこ、穴だらけ。乗ってた馬がひっくり返り、着ていたシャツが真っ赤になった。

08.初出走 無事に走ってほっとした
 馬もろともひっくり返り、シャツも何も血で真っ赤。でも自分自身は痛くなく、けがはなかった。へんだなあ、と馬を見たら、馬の耳が半分なくなってたんだ。起き上がる時に、自分の耳を踏んだようだった。

 白井の馬場は穴ぼこだけでなく、おまけに小さかった。七ハロン(一ハロン=二百メートル)の追い切りをやろうと思えば、カーブの所からスタートしなければならない。それで、僕はレース前の追い切りを五ハロンしかやらなかった。三千メートル使おうが三千二百メートルの競馬だろうが、直前追いは五ハロンしかやらなかった。

 ふだんハードな調教をしてたし、直前は心臓を固めるだけでいいんだから。最近は五ハロン追いが増えたようだけど、良いか悪いは別として、これがおれのやり方だった。良かったんだろう。結構勝ったしね。

 長い距離の追い切りはやろうにもやれなかった白井だが、高松三太君のアローエクスプレスなんて種馬になるほどの馬も出たし、まあやり方は良かったんじゃないかな。その高松君もすでに亡い。調教師の同期生でもあり、騎手時代から最も仲良かった。ベテラン調教師にも意見をきちんと言う、筋を通す男だった。

 さて、うちのきゅう舎は二十馬房あたっても、当時七頭しかいなかった。久恒久夫君(現調教師)が乗り役で、きゅう務員はたった一人。きゅう務員に、へき地手当として三千円出していたんだが、ほとんど来なかった。東京競馬場に行くには三人がかり。残りの馬の世話はできないわけで、カイバをつける人を別に頼まなくてはならなかった。あのころは苦しかった。

 調教師として初めて出走させたのはオーダイヒメという馬。開業した一九六六年の四月、中山の千六百メートル。十六頭立ての十五着。アラブの馬で、あまり覚えてないけど、当時は無事走ってほっとしたんだろうかなあ。

 初勝利は札幌だった。三カ月後の七月、コクセンという馬。うれしいなんてもんじゃない。騎手でも調教師でも、初勝ちは格別さ。これがおれのきゅう舎の勝つ始まりだ。

 コクセンは続いて札幌で連勝したが、後に障害に下ろした際、東京競馬場でコースを間違えて大けが。それで地方競馬の大井(東京)に行ったんだが、残念なことだった。

 馬の世界からそれるけど、調教師になった年の九月、すぐ下の弟が死んでしまった。桧山管内北桧山町の丹羽というところの郵便局長やってたんだが、弟一家四人が殺されたんだ。おれは新潟競馬にいて、電報受けて駆け付けた。火葬場で警察官が「犯人すぐ捕まりますよ」って言うんだ。「どうして」って聞くと「犯人のボタンが落ちていた」と言ってた。実際、間もなく犯人は捕まった。

 弟は評判の良い局長だった。農家から慕われていたみたいだったなあ。そんな事件もあり、両親は小沢(後志管内共和町)に居られないって、札幌に出て兄貴の家に同居したんだ。それにしても何とも痛ましい事件だった。

09.全会長だったから勝てた
 調教師はいいスポンサーがつくかどうか。つまり馬主次第だ。僕は五年前亡くなった全演植会長には本当に世話になった。

 全氏は韓国(慶尚南道)生まれで、東京の府中を中心に焼き肉店やパチンコ店、スーパーなど事業展開するさくらグループの会長。僕に馬を買ってくれるカズさんという馬主の友人だった。調教師を開業したてのころ、中山競馬が終わると道路が込むので、時間つぶしにごはん食べたりマージャンしに白井に遊びに来るようになったんだ。

 二十代で馬主になったそうだが、あまり勝てなかったらしい。ある時、カズさんが日高管内静内町の谷岡牧場から馬を六百万円で買ったんだが、その後、会長に売った。ダイイチテンホーという馬で、八つか九つ勝った。特別レースも五つぐらい取ったかな。これが僕と、馬主さくらコマース、谷岡牧場という関係の始まりだった。

 全会長は馬に理解があり、血統にも明るかった。会長がいなかったら、僕はこんなに勝てなかった。ようけ走らせても、種馬が一頭も出ないきゅう舎だって結構ある。うちからは十頭以上出たからな。

 よく二人で日高で馬見て回った。有名なノーザンテーストの子がこんなに走る前、飛行機の中で「社台(ファーム)には、ぼつぼつ(買いに)入らなければならないですね。もう社台の時代だ」と。それで社台から買うようになった。先が読める人だった。

 生産者にも世話になった。谷岡牧場は、僕が食べてもおいしそうだった。良い草は故障が少ない。それに、この牧場は良心的だった。先代の谷岡幸一さんは、例えば僕が「いい馬だから取ろう」って言うと、「いや、先生。ちょっと腰が甘いので少し様子見て、それから持っていってもいいよ」って具合だ。

 トウショウボーイの素晴らしい子がいた。ただ脚がそって、ちょっと危なかった。僕は会長に「買わない方がいい」と言った。後で会長から電話で「先生、買ったよ」って。「谷岡牧場の馬だから全部取るんだ」と言うんだ。三千万円で、二回競馬してだめだったが、生産者と馬主の深い信頼関係を見る思いだった。

 ところで、「サクラ」の冠がつく馬はたいてい、ピンクの勝負服の小島太(現調教師、網走管内小清水町出身)が乗ってた。うちのきゅう舎所属と思っている人も多いが、僕の娘と結婚しただけで所属でも何でもない。

 開業三年目ごろからうちの馬に乗り始めた。会長は小島を「フトシ、フトシ」とサクラの馬に乗せたがった。なぜか知らんが、本当にかわいがってた。きゅう舎にサクラの馬が増えるにつれ、最近引退した東信二君ら、うちの弟子は乗る機会が減ってしまった。東君は有馬記念も勝つほど、決してへたな騎手じゃないんだが。申し訳なかった。

 太一辺倒の会長も一度怒ったことがあった。サクラスターオーが一九八七年の弥生賞に挑む直前「太に乗らせるな」って言い出した。

10.前日に記念撮影を約束
 サクラスターオーは全演植会長の要請で、うちから平井雄二きゅう舎に移っていた。一九八七年の弥生賞直前、会長から平井君に「太を乗せるな」と電話があった。平井君から相談を受け、僕は「じゃあ、うちの東を乗せとけ」と答えたんだ。代わった東信二騎手は見事に弥生賞を制覇。さつき賞も勝った。ダービーは故障で出なかったが、菊花賞も勝ち二冠だ。同じサクラでも、よそのきゅう舎の馬で勝つとは皮肉だが、なぜあの時、会長は小島の騎乗を嫌ったのかなあ。
 調教師になって一番気に入り、ほれ込んだのはスリージャイアンツだ。七九年秋、初めて天皇賞を取った。あんなに自信を持って使った馬はなかったよ。

 静内の北西牧場産。歌手の北島三郎さんを育てた新栄プロダクション会長の西川幸男さんと北島さんが設けた牧場だ。馬を見に行くと実にいいんだが、値段は三千万円で即金という。即答できなかった。僕が帰った後、大ベテランの調教師が来て、すぐ交渉したそうだ。しかし西川会長は「境先生が欲しいと言ってるんです。返事が来ないことには売れない」と答えたそうだ。僕は調教師十年目。大先生を差し置いて、売らないでくれた。

 この馬は西川会長自身やキョウエイやインターの冠の馬主松岡正雄会長ら三人が共同で買ってくれた。それでスリーだ。七九年、ダイヤモンドステークスで重賞を勝ち、毎日王冠、目黒記念は三着。そして十一月の天皇賞・秋(東京競馬場、三千二百メートル)。うちにブルーマックスという長距離に強いのがいて、調教で併せ馬やるとジャイアンツはいつも五馬身遅れる。でも天皇賞前は逆だった。

 勝てると思った。前日、会長の長男山田太郎(本名・西川賢)さんに電話した。「明日は絶対ネクタイ着けて来てよ。勝って記念の写真撮るから」と。太郎さんは「新聞少年」をヒットさせた元歌手。今はプロダクションの社長だが、元芸能人とは思えない腰の低い人だ。「冗談でしょう」と本気にしなかったが「必ず勝つ」と返事した。

 メジロファントムに追い込まれ、写真判定にもつれたがハナ差で勝った。冷や汗もんだったが、ネクタイは無駄じゃなかった。

 キョウエイグリーンも思い出に残る牝馬だ。馬主は松岡会長で、息子征勝や弟子の媒酌人など公私にわたり世話になっている。開業八年目の七三年、スプリンターズステークス(中山競馬場、千二百メートル)で初めて重賞を取ったんだ。

 ハナ(先頭)に出る馬が多そうな短距離。こちらは逃げ馬で「勝てるわけないから、(手綱を)引っ張って抑えて行け」と東に言った。指示通り中団辺りにぽつんと位置し、最後の直線で矢のように一気に脚を使い、差し切った。

 実は松岡会長がハワイに行っていなかった。いてもやらせてくれたけど、逃げ馬として人気なのに好位から差す作戦は、ファンの目がうるさい。前年(三着)に続く一番人気だったし。この時はうまくいった。

11.苦節53年夢実現にただ涙
 競馬で最高の夢はダービー制覇だ。騎手では三着が最高だったが、調教師として一九八八年、ついに念願を果たしたんだ。

 サクラチヨノオーは八七年、函館で新馬戦を勝ち、朝日杯三歳ステークスを制して、翌年ダービーにつながる弥生賞も取った。しかし、ダービーは入着ぐらいはあると思ったが、あまり自信なかった。何か足りない気がしていた。運動中、立ち上がってしまい、一人乗って、もう一人が引っ張らなきゃならないほど気性が悪かったんだ。

 五月二十九日、府中の二千四百メートル。東京競馬場は満員だった。二十四頭立ての三番人気。最後の直線、正面スタンドの僕が見ている前では、メジロアルダンに半馬身かわされていた。それに、後ろからコクサイトリプルが追って来た。差す馬でなかったから「二着になれ、二着でいい」って応援したんだ。あとで調教師仲間に笑われた。「そんなばかな応援ない」って。

 決勝点入ったら、騎手の小島太がステッキ振り回した。何やってんだと思ったら、周りから「勝ってる。勝ってる」って言われた。メジロの馬を差し返したんだ。写真判定だったけど、電光掲示板に着順がポッて出たでしょ。その瞬間、思わず泣けて、泣けて。終わって立とうとしたら、腰が抜けて立てないの。やっと馬場に下りて行ったら、すでに関係者は勢ぞろいして待ってた。

 静内の谷岡牧場には大阪のだれだかから「絶対に勝つ」と手紙来てたんだって。谷岡牧場からも夫婦で見に来てたな。それにしても、よく勝った。気性の激しさが、最後に差し返す力になったのかな。

 競馬に携わる者の第一の目標がダービー。同じ年に生まれた九千数百頭から十八頭が選ばれ、そしてその頂点の一頭。見習い騎手でこの世界に入ってから五十三年目だった。喜びは寝てからもじわじわ込み上げてきたよ。重賞はフロックでは勝てない。特にダービーは。馬主、調教師、きゅう務員、騎手-全員の気が合わないと。調教師は「速い時計で追い切りしたい」、きゅう務員は「速いのはだめ」、乗り役は「もう少しやらなきゃ」と意見が違っては勝てない。この時はちゃんと一致してたんだな。

 僕のやり方が満点とは言い切れない。会社で言えば社長が偉くたって、仕事はもうかるもんでない。競馬も会社も同じだよ。それにこの時は、あまりほめないんだが、乗り役の小島太がうまかった。

 ダービー制覇から半年後、チヨノオーの弟サクラホクトオーが朝日杯三歳ステークスを勝った。強い勝ち方は兄貴より上で、これで翌年のダービーも勝てると思った。しかし、四歳になって弥生賞、さつき賞と雨にたたられた。道悪がうまくなく、大敗続きでリズムを崩してしまったんだ。
 ダービーは良馬場だったが九着。秋にセントライト記念を勝ち、菊花賞に臨んだ。ところが、四コーナーで膨らんだ瞬間、姿が競馬場のテレビから消えちゃったんだ。

12.俗説覆す天皇賞レコード
 サクラホクトオーはテレビにも映らないほど、外らちいっぱいに走った。勝ったバンブービギンから〇・四秒遅れの五着。うまく乗ってたら楽勝だったかも。騎乗の小島太が下手くそだった。インディアンは手綱一本で真っすぐ走るのに、何で二本持ってるのに外に飛んで行くんだ。

 小島がうまく乗ったのは、サクラユタカオーの天皇賞・秋だ。ユタカオーが生まれた時、静内の藤原牧場から電話が入った。「テスコボーイの子が生まれましたが、残念ながら栗毛(くりげ)です」と言うんだ。テスコの栗毛の子は走らないといわれていた。テスコは軽種馬協会の種馬で、セリに出すことになってたので、俗説と気にせず三千五百万円で競り落とした。

 新馬戦をレコード勝ち。以降三連勝したが、脚元は不安だった。雨降りがへたで不良馬場の共同通信杯を勝ったが骨折。五歳秋、毎日王冠をレコードで制し、天皇賞・秋へ。しかし、大外枠の十六枠だった。大外なら勝てないと書いた新聞もあった。でもレコードで勝った。中距離の瞬発力はすごく、気分よく走らせた小島も素晴らしかった。

 ユタカオーは種馬としても優秀だ。サクラバクシンオーも子供の一頭。短距離では負ける気がしなかった。千二百メートルは八戦七勝でスプリンターズステークスを連勝。一九九四年の1分7秒1は昨年までレコードだ。

 バクシンオーは社台の生産馬。母のサクラハゴロモはノーザンテーストの子で、故吉田善哉さんに買いたいと申し込んだ。でも「社台の基礎牝馬として残したい。残念だが売るわけにいかない」と断られた。そこで「じゃあ、境君。貸すよ」と言われ、借りたんだ。三年で三千万円。だけど故障もあり、予定より早く二年で返した。代わりに初子をちょうだいって。父親にはユタカオーを交配した。それがバクシンだ。ただでもらい、それが五億円以上稼ぎ、四億五千万円で売れたんだ。バクシンの子がこの夏、札幌でデビュー勝ち。出世しそうだ。

 サクラチトセオーも忘れられない。トニービン産駒(さんく)にしては、柔らかくケツの格好がよかった。まだ日本レコード持ってるのかな。九四年京王杯で千六百メートル1分32秒1。小島が騎乗停止で的場が乗った時だ。出遅れて、一番ケツで行き、最後差して勝った。この時からケツから行くようになったんだ。九五年の安田記念は最も悔しいレースだった。この時も、後方一気。外国馬と一緒に決勝点を越え、写真判定だった。届かなかった。能力がそれまでと言えばそうだが、とても悔しかった。

 チトセオーは同年秋の天皇賞を制し、三冠馬ナリタブライアンにも勝った。当時のブライアンは体が少し崩れていた。社台の吉田照哉さんと一緒に見比べ「今日はうちの馬の方がよく見える」と話してたんだ。四歳の時、二着を何馬身も引き離し、こんな強い馬はないと思ってたが、天皇賞は十二着。本調子でなかった。ブライアンは九月に急死。何とも残念だなあ。

13.念願だった有馬記念快勝
 最後の大物はサクラローレル。定年を控えた一昨年の有馬記念だ。その年は春先から「今年は重賞を十勝する」と宣言していた。十勝なら当時は記録だった。

 ローレルが生まれた時、ちょうど谷岡牧場にいたんだ。皮膚の薄い子は走ると言われるんだが、これまで見たことないほど薄くきれいな子だった。絶対走ると思った。だが故障もあり、デビューは四歳の一月。その後も脚が不安で、やっと秋から五歳正月の金杯まで三連勝したが、目黒記念は小島太がへたでクビ差二着。そして両脚骨折で一年以上休んだ。
 その間、きゅう務員が一人定年になったのを機に、他のきゅう舎で調教助手をしていた孫の小島良太を呼び寄せた。持ち乗りきゅう務員としてローレルを担当させ、調教は良太以外乗せなかった。それが功を奏したのか、六歳で復帰戦の中山記念に勝った。当時「調教だけで仕上げ切った」とトウカイテイオーの有馬記念と並び称されたよ。

 天皇賞・春もナリタブライアンを退けて勝った。九月のオールカマーも順当に勝ち、次は秋の天皇賞だった。しかし、十六番という大外の枠を引いてしまった。そこで乗り役の横山典弘騎手に「二千メートルの外枠だから、ある程度行っておけよ」って言ったんだ。それなのにケツから行って、あわくって中に入り、出れなくなって脚を余しての三着。記者の前で怒った。「こんなリーディングジョッキーいるか」。あんまり他のきゅう舎の乗り役は怒らないが、あの時は違った。

 十一月のジャパンカップは馬主に使わないよう頼み、十二月の有馬記念一本に絞った。ローレルは目いっぱい走る馬で、疲労回復は遅い。それでジャパンを使わなかったんだ。みんな目指すのは四歳ならダービーだが、五歳以上の古馬なら有馬だ。僕自身、有馬だけは騎手としても調教師としても勝ってなかった。

 有馬記念の前、記者六、七十人を相手に「日本に負ける馬はいない。絶対有馬は勝つ」と言った。翌日のスポーツ新聞に「境ラッパ、鳴り響く」と見出しが躍った。だけど自信があった。正直に言っただけだ。

 乗り役はノリ(横山典)。なぜ代えなかったのか聞かれるが、あれだけの騎手だ、二度も失敗しないよ。次も乗ってもらうためにもあんなに怒ったんだ。今回はただ「向正面から三コーナーまでに、外に出れよ」って注意しただけだ。

 師走の二十二日、中山競馬場。十四頭立ての一番人気。ローレルはマーベラスサンデーに二馬身半の差をつけて勝った。ノリは名実共に一流騎手になった。僕も本当にうれしかった。

 翌年三月、僕は定年を迎え、調教師になった小島太に七頭託した。ローレルは四月の天皇賞・春を惜敗し、九月にフランス遠征でフォア賞に出た。レース十日前に良太から国際電話があった。てい鉄が合わないということだった。脚に負担がかからない打ち方を指示したが、向こうの鉄屋さんは、日本のきゅう務員の言うことを聞かなかった。

14.付き合いはまだまだ続く
 「故障の原因は八割がてい鉄」と僕は言うんだが、サクラローレルはそのまま走り、一発で参った。屈腱(けん)炎だ。途中で武豊君が気付き、最後は流した。一番人気だったが最下位八着だった。今夏は岡部幸雄、武君と仏のGIを連勝した。ローレルは僕自身が連れてってみてもおもしろかったと思ってたが…。

 一九九六年にスポーツ功労で文部大臣表彰された。某有名解説者のおかげだ。九五年、サクラキャンドルがクイーンステークスを勝ったが、その人が「メンバーに恵まれた」と、くさした。頭にきてキャンドルを一カ月後のエリザベス女王杯に出して勝った。その二週間前、兄チトセオーも天皇賞制覇。ひと月で兄妹がGI三勝し、それで功労賞だ。

 「馬にほれるな」。故清水茂次先生に教えられた言葉だ。馬を見ては天下一の先生は「ほれずに、何回も見て買え」と言っていた。この言葉を胸に何度も北海道へ足を運んだ。ある時、社台で故吉田善哉さんが「これ走るよ」って勧めてくれた。ノーザンテーストの子だが、顔が嫌でトモ(後脚)の格好も好きでなかった。さくらの全演植会長は買おうと言ったが反対した。この馬がダイナガリバー。他きゅう舎に入り、八六年のダービーも有馬記念も勝たれた。馬を見るのは本当に難しい。

 僕は外国産馬は一匹も入れたことない。八、九割は日高産。日高びいきだもの。今、かなりマル外にやられてるが、内国産馬もユタカオーをはじめ、最近ローレルやマヤノトップガンなどGI馬が種牡馬に下りて来た。楽しみだ。

 調教師三十一年で通算六百五十六勝。重賞五十三勝。馬の状態を読むのは当然の仕事で、調教師ならみな同じ。ただ、僕は馬主にも、生産者にも恵まれた。きゅう務員や乗り役も一生懸命だった。あるきゅう務員は馬をシャワーに入れ、乾かして脚をマッサージし、納得いくまで世話してた。何にしても一生懸命やらなきゃだめということだ。

 それにうちのばあさん(喜久枝夫人)も。京都で知り合い、ライバルは一人いたが、師匠が「遊んでばかりいないで早く嫁もらえ」って。戦時中、府中の大国魂神社で国民服着て式挙げた。家内の手料理を喜んでくれたのも全会長との付き合いの始まり。こんな嫁さんもらわなければ、今ごろ刑務所でも行ってさ。

 僕は大胆な方でもなく、失敗は多かったが悔いない。ただ好きなことやってきた。くよくよしてもしょうがないがな。馬はかわいい。言葉が分かるなんて言わないけど、大事に世話すると、ちゃんとこたえてくれる。人と馬に恵まれたな。体も丈夫だし、馬との付き合いはまだまだ続くよ。
 それはそうと、あんた馬券買うのかい。引退して一度買ったが、孫の小遣いにもならん。家族に迷惑掛けない程度にやることだ。
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史上最強馬「カブラヤオー」星になる
2003・8・9、 カブラヤオー大往生
また、俺の競馬人生に足跡残した馬が、星になった
一番聞かれて困るのが、この馬とあの馬と、どちらが強いと思いますかと云う質問だ、特に昔の馬と比べてくれと言われると困る、今と昔は、馬場状態が全く違うからだ、昔は結構、今から比べると走りずらい馬場だったからだ。
でも、30年競馬をやっていて、最強馬はと聞かれて、無理に言へといえばこの馬しか居ない「カブラヤオー」 滅茶苦茶な馬だった
その時、「テスコガビー」と云う逃げ馬も居て、どちらも、「菅原泰夫」が乗っていた、こんな滅茶苦茶な騎手は居ないと思った
違う騎手が乗っていたら、もっと、楽に勝っていたと思っていた
「カブラヤオー」が、ダービの時のゴール前バテながら、2着「ロングファスト」を1馬身4/1退けた時は、レベルの低いダービと思った、しかし、その後ラップを見て、驚いた、こんな馬が要るのかと、ちなみに3着は「ハーバーヤング」若き日の岡部が乗っていた

他所で拾ってきた、記事を載せます

■カブラヤオーが大往生

 8月9日(午後3時)、1975年の2冠馬カブラヤオー(31歳)が、
老衰のため繋養先の(社)日本軽種馬協会那須種馬場で死亡した。
同馬は1995年の種付を最後に、繁殖から引退して、
同場で余生を送っていた。

 カブラヤオー(父ファラモンド、母カブラヤ)は1972年6月13日に
新冠・十勝育成牧場で生まれ、
1975年の日本ダービー、皐月賞の2冠を制し、
同年のJRA年度代表馬に輝いた。
戦績は13戦11勝2着1回(重賞5勝、
他にNHK杯、東京4歳S、弥生賞)。

種牡馬としてはミヤマポピー(1988年、エリザベス女王杯)、
グランパズドリーム(1986年、日本ダービー2着)、
マイネルキャッスル(1992年、京成杯3歳S)、
ニシキノボーイ(1981年、大井・東京王冠賞)などを輩出した。

 種牡馬を引退して、余生を送っている30歳を越える馬は、
ノーザンテースト(32歳)、カシュウチカラ(30歳)がいる。
現役種牡馬の最高年齢は、ロイヤルスキーの(29歳)。
競走馬の日本での最長寿記録は、1996年に死亡したシンザンの35歳。

1972年生まれ、♂  桁外れの逃げ脚を持った馬でした

彼は6月13日生まれと、サラブレットの中では極端に遅生まれであった。
そのために買い手がなかなか見つからなかったという。
カブラヤオーと聞けば多くのファンは、逃げ馬を連想するだろう。
そのように彼はとにかくスタートから前へ前へと
突き進んで圧勝する馬であった。
彼は、初戦は敗れたものの二戦目から9連勝した。
その9連勝の中には狂気の逃げとまで言われた
皐月賞、日本ダービーが含まれている。
ダービーで彼は最初の1000メートルを58秒6(普通は1秒強)という、
とんでもないハイペースで先頭を走った。
そしてそのままゴールまで先頭で走りきったのである。
彼がダービーを走った75年は、牝馬のテスコガビーとともに
逃げ馬のクラシックであった。
 しかし、そのスピードが負担であったのかもしれないが、
菊花賞の前に左前脚屈腱炎を発症し、三冠の夢は絶たれた。
一年間休養したものの復帰後も屈腱炎を発症し、引退した。
彼の主戦騎手であった菅原泰夫騎手は、彼の引退後逃げた理由を明かした。
それは彼が他の馬を極端に怖がったからであったという。
主戦騎手や調教師は彼の現役時代にそのことをずっと隠していたのだ。
 生涯成績13戦11勝と安定感も備えた逃げ馬であった。

「カブラヤオー」面白リンク
http://depo2002.hp.infoseek.co.jp/kaburaya/kaburayao-1.html
http://www5d.biglobe.ne.jp/~vivizo/page012.html
http://www.d1.dion.ne.jp/~guiru/dendou2.htm
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オースミダイナー物語 第2回
同一重賞4連覇。故障も多い競走馬が、そもそも5年続けて同じレースに出走し続けることが至難の業なのに、それを勝ち続けるというのは常識を超えている。しかも、通常なら競走馬としてのピークをとっくに過ぎている10歳からの連覇となれば、これはもうギネス級の記録だ。驚くよりほかにない。
 その「瑞穂賞」(9月19日、ダ1600m)で、5連覇の偉業に挑むオースミダイナー。この夏は、涼しいを通り越して寒いと感じる日も多かったこともあって、元気一杯だ。蹄鉄の擦り減るのが早く、打ち替えが多いため、エトワール賞の直後には蹄が痛んでいたが、その状態を良化させるため、蹄鉄を打ち替えないで3週間ほど軽い調教を続けた結果、いつでもレースに使えるぐらいまでに回復した。その後も体調の変動はなく、瑞穂賞に向けては何の不安もなく、調整が進められている。
 瑞穂賞は、昨年までゴールデンウィークに行われていたが、今年の番組改編で初秋の旭川開催に移された。例年、夏場を境に下降線に入りがちなダイナーにとっては、5連覇を目指すレースの移動は厳しい変更だった。しかも、瑞穂賞に出走するために

は「年内3走以上していること」という制約が付けられてしまった。赤レンガ記念、ステイヤーズカップを使った後は一息入れて、といきたいところだったが、もう1回走っておかないと大目標のレースなのに出走すら出来ない。「1走1走が引退レースのつもりで出している」と常々口にする若松平調教師が、当初予定になかったエトワール賞に出走させたのは、実はそんな理由もあったのである。
 そのエトワール賞で見事な快速ぶりを披露し、「まだまだ大丈夫」と強烈にアピールしたオースミダイナー。「同一重賞5連覇」への期待は高まるばかりだ。
      ◇   ◇   ◇   ◇  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇
「若さの秘訣? うーん、やはり食欲が一番なんじゃないですか」
 13歳となった今でも、食べる。とにかく食べる。若駒にも全く引けを取らない食欲。カイバ桶からこぼれた燕麦(えんばく)のくずを、丁寧に、なめるように全て拾って食べてしまう執拗さ。一粒も残さず食べてくれて、厩務員さんの掃除の手間も省けてしまうので、みな感心しているそうだ。調教に出ていく前には、厩舎の出口に掛けてある燕麦のえさ箱に顔を突っ込み、口いっぱいを含んで調教に向かう。お行儀悪い?この「行為」が許されているのは、ダイナーだけだ。調教が終わり、戻ってくる道すがら、通路脇に生えている良さそうな草を見つけると、立ち止まっていつまでも食べているという。
 「大目に見てるんですよね、ダイナーは。まぁ、普通は走らない馬に限ってよく食べるんですけど、この馬だけは別格ですね」と若松師。
 通常、食べさせている量は他の馬と同じだそうだ。1日3回、1回あたりの量は1.5~1.8升で、その中身(1日あたり)は燕麦5~6升に加え、ふすま、カルシウム、塩、ビタミン剤、リンゴ、ニンジ
ン、ガーリック(にんにく)など。中でも「にんにく味噌」が大好物で、スタミナ維持のため欠かさずに与えているという。
 だが、そこは健啖家のダイナー君、勿論それだけで足りるはずはない。放っておくと寝ワラにまで手をつけてしまうので、ダイナーの馬房だけは「オガクズ」が敷き詰められている。夏はまだしも、ふかふかの寝ワラの布団とは違い、冬はたいそう冷える。「本当は暖かくして快適に過ごさせてあげたいんですよ。でも、食べてしまうんじゃねぇ」
 それでも、風邪なんかひいたことはないし、鼻水もたらしたことがない。下痢も便秘もほとんどない。内臓が丈夫な証拠だ。歯も丈夫で、噛み合わせもスムーズ。食いの悪い馬は、やすりで歯を削ったりもするが、ダイナーは歯の治療なんてしたことがない。
 内臓や歯が丈夫だから、心ゆくまで?食べられる。その旺盛な食欲ゆえに、13歳の今まで若さとパワーを保つことが出来ているわけだ。
 そんなダイナーにも、満足に食べられない、つらい時期があった。     (続く)

      ◇   ◇   ◇   ◇  ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇   ◇

 現役最高齢馬・オースミダイナーが、13歳の今まで一線級の競走能力を維持できた背景には、自らの運動能力・身体機能のレベルの高さもさることながら、それらを衰えさせなかった厩舎関係者の人知れない努力の数々があります。現在の状況と併せて、人間に例えれば「中年」に相当するオースミダイナーが今でも若駒たちを圧倒する能力を発揮できる秘密等を、エピソードを交えながら紹介していきます。お楽しみに。
 なお、本連載はJRDB・古谷剛彦(ふるや・たけひこ)および北海道競馬運営改善対策室・神谷健介(かみや・けんすけ)が担当します。
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オースミダイナー物語 第1回
オースミダイナー物語 第1回
 「名馬」。それは、人々に期待以上の感動を与えられる馬のことを言うのかも知れない。
 エトワール賞でのオースミダイナーのパフォーマンスは、まさに名馬のそれだった。
 「何とか勝ってほしいけど」「でも、さすがにトシだし……」「い
や、まだまだ頑張れるはず」。
1番人気に推された赤レンガ記念、2番人気のステイヤーズカップで本来の走りを見せられなかったダイナーへの評価は、否定したくとも前2走の結果が突き付ける現実と、それでも募るほのかな期待が入り混じるなかで、確実に下がっていた。
昨年、最高齢重賞勝ちという離れ業をやってのけた「北海道スプリントカップ(統一GⅢ)」と同じ1000mという得意距離なのに、8頭立て5番人気。その事実がファ ンの偽らざる気持ちを表現していた。
 でも、やはり看板役者は違った。直線を向くとアッサリ前を捕らえ、Vロードを驀進。最後は手綱を抑える完勝ぶりで、勝ち時 計の59秒7も今年の旭川開催での圧倒的1番時計。札幌との馬場差を考えると、昨年のスプリントカップ時点から衰えるどころか、さらにスピードに磨きがかかったのかと思わせる勝ちっぷり。涼しい顔で「衰え」の懸念を払拭してしまった。
 ゴールの瞬間、スタンドから拍手と感嘆の声が沸き起こった。実況の声にも力が入った。みんなが待っていた勝利だった。

         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 腫れたまま固まった屈腱。右前脚の球節は肥大化し、痛々しくも見える。昨年あたりから血膨れも出てきた。バンテージをとった脚元には、スピード豊かな走りの影に隠れた歴戦の傷痕が残っている。
 オースミダイナーの競走生活は、まさに脚部不安との闘いだった。
 4冠馬トウカイテイオーと同期生。JRA・小林稔厩舎でデビュー後、休み休み使われながらダートで6戦5勝という戦績を残した。1度使うと不安が出るといった繰り返しで、「重賞でも」と感じさせた能力を全快させることはできなかった。結局、5勝目を挙げた後、長期休養に入り、平成6年夏、そのままホッカイドウ競馬・若松平厩舎に移籍した。
 右ひざの状態が思わしくないということで転厩してきたオースミダイナーだが、レースを使えるような状態までは良化しないまま、2年以上の月日が過ぎた。潜在能力に期待した若松師はそれでも焦らず、じっくりと時を待った。そして、使えそうな状態までようやく回復した平成8年10月24日、帯広の1200mで能力検査を受けた。タイムは1分15秒0。1分20秒を切ればまずまず、と言われた馬場での好時計に、厩舎サイドの期待も高まった。
 復帰戦は11月10日の帯広短距離特別。538キロと太目の造りではあったが、佐々木明美騎手を背に楽々と3番手を追走、直線ではビュンと一伸びし、能検と同タイムで快勝。若松師は「これはオープンでも通用しそうだ」との感触を得た。返す刀で、11月24日の十勝川特別(帯広ダ1800
m)に柳沢好美騎手で出走、「2、3番手で折り合っていけば」という師の考えをよそに、2コーナー からハナを奪う積極果敢な競馬でそのまま押し切ってしまった。「来年は道営記念を獲れる」。師の期待は一気に高まった。
 しかし、この期待感が、オースミダイナーに再び回り道をさせる引き金となる。
 冬休みに入り、連戦の疲れを癒してあげたいとの親心から、楽をさせた。すると、ダイナーの馬体重はみるみる増え、年明けに量 ってみると560キロ手前まで増えてしまっていた。「これは重過ぎる」。そう判断した若松師は、急きょ、運動量を増やした。
 3月には時計も出せるようになったが、寒さもこたえて左前脚に軽い屈腱炎を発症してしまった。浅屈腱の内側が断裂し、熱と腫れが出た。が、外側半分は正常な状態だった。冷却するなど陣営の懸命な努力があり、それ以上の悪化にはいたらずに済んだ。
 春シーズンは、ブリスターをかけたり食事面での調整で馬体を増やさないようにしながら、その年の8月9日に何とか復帰緒戦を迎えることができた。3着に終わったが、希望の光は見えた。その後も満足な乗り込みができない状況は続いたが、2走目、8月24日の「ネプチューン特別」で何とか勝つことができた。10月19日の更別特別(5着)を最後にシーズンを終えたが、若松師は今でも 「この年の3走が一番辛かった」と振り返る。
 「けがの功名」とはよく言ったものだ。この一年間、ずっと脚元との相談という状態が続く中で、若松師はじめ厩舎スタッフは独特の調教スタイルを確立したのだった。ラスト2Fはビシッと追い、その後はゆっくりと再び3角まで流す。そしてまたラスト2Fに来たらゴーサインを出す追い切り。直線2本追われる、いわゆるインターバル調教をすることにより、心肺機能を高める。この馬には、通常の追い切りのような、半マイルの時計などはない。この調整法は今も続けられている。オースミダイナーの息の長い競走生活、そしてJRAのオープン馬にも引けを取らない競走能力を維持できている秘密の一端はこの調教法にある。
 もう一つ、オースミダイナーの競走能力の高さを支えている秘密がある。「繋の柔らかさ」がそれだ。通常、競走馬は年を取るにつれて繋が硬くなっていく。が、オースミダイナーの繋は柔らかさを保ち続けている。昨年の北海道スプリントカップ出走時には、 前脚の着地部分に擦り傷が出来てしまったほどだという。また、左の腰が少し甘く、右前脚により力がかかるようで、替えたばかりの右前の蹄鉄の鉄唇(てつしん)が擦り減り、完全になくなることもある。 「とにかく柔らかくて前が沈むようになる。前のクモズレっていうのも変なんですけど(笑)。オースミが今でも健在なのは、そんな所にも理由があると思うんです」(若松師)。芝馬だけではない、ダートの世界でも繋の柔らかさは求められるのである。


         ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 9月19日の瑞穂賞で「同一重賞5連覇」の偉業に挑む現役最高齢馬・オースミダイナー。13歳の今まで、一線級の競走能力を維持することができた背景には、自らの運動能力・身体機能のレベルの高さもさることながら、それらを衰えさせなかった厩舎関係者の 人知れない努力の数々がある。人間にすれば50歳を超える中年に相当するオースミダイナーが、今でも若駒たちを圧倒する能力を発揮できる秘密などを、エピソードを交えながら紹介していきたいと考えています。ぜひ、お楽しみに。
 なお、本連載はJRDB・古谷剛彦(ふるや・たけひこ)および北海道競馬運営改善対策室・神谷健介(かみや・けんすけ)が担当します。
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子どもの空間:/10止 昼間、働きたい 待っていてくれた「母の味」
北国の空港から車で約1時間。町は中心部もひっそりしている。郊外の家に母親(51)と3姉妹は暮らす。廊下には三女(18)が椅子を振りかぶって開けた穴が、4年前のまま残っている。

 兆しは小学6年の5月ごろ。三女は保健室で養護教諭に切り出した。「先生は相談の係なんでしょ。話しておいた方がいいと思って」。喫煙していることを告げた。校舎裏のスキー山の上で、これ見よがしにたばこを吸ったこともあった。

 「誰かに怒られてみたかった」と三女は当時の胸の内を明かす。

 中卒の父親は関東の工事現場で出稼ぎをしていた。仕送りは月十数万円。帰省は年4回。「まるで他人って感じ」。すぐに妻や娘たちに暴力を振るう。母親は介護ヘルパーとして働いた。子どもたちは犬を飼って、母の帰りを待つようになった。晩秋、帰省していた父親は粗相をした犬を保健所に連れていった。慌てて姉妹は犬を引き取りに行き、震えながらバス停で夜を明かした。

 荒れていく三女が母は気がかりだったが、仕事で疲れ、しかる気になれなかった。そんな母を、三女は「私のことをあきらめている」と思った。

 三女の中学進学を機に、母は夜勤もある正職員になった。父親はその年の盆の帰省を最後に消息を絶った。母の月収約13万円の大半が、築20年の戸建てのローンに消えた。非番の日にもヘルパーのアルバイトをして生計を支えた。「親が働く姿を見せないと子どもはだめになる」と思った。お年寄りの笑顔も好きだった。しかし、今になってみると「職場に逃げ場を求めたのかも」と思う。

 三女は、中学1年の1学期末から学校に行かなくなった。自室で遊び仲間とゲームに興じた。母や姉の視線を避け、自分の部屋に南京錠をかけた。家族が寝静まった夜や不在の日中、三女は台所で冷蔵庫や鍋の中をのぞいた。ゴボウを三枚肉で巻いた煮物、豆腐のみそ汁……。母の味だった。ひき肉と野菜とシラタキを甘辛く炒めて卵でふんわり包んだ特製オムレツは、フライパンに丸ごと一つあった。「きっと食べたいだろう」と母が三女のためにいつも作り置いたものだった。

 中学を卒業すると家出もしたが、交際相手の暴力に耐えかねて、昨春家に戻ってきた。その夜も、変わらないみそ汁の味が、遠回りした三女を待っていた。

 昨秋、初めて家族旅行をした。母子4人で北海道・函館の露天風呂につかった。「私も結婚後も働く。子どもを喜ばせてあげたい」と三女は言う。だが昨年、県内のハローワークに寄せられた求人で、「中卒可」はゼロだった。

 今の仕事はホステス。携帯電話代ほしさで16歳から始めた。週3回勤務で、母親とほぼ同額の月収がある。でも愛想笑いは苦手。「昼間の仕事に就きたい。母さんを見ていると仕事が楽しそうだから」。照れ笑いに、ラメ入りの付けまつ毛が揺れた。【望月麻紀】=おわり

 ◇中卒、毎年10万人

 高校進学率は98%に上るが、高校中退者も合わせ毎年新たに10万人の中卒の若者が誕生している。「金の卵」と呼ばれ、積極採用された時代もあったが、今や採用条件のほとんどが高卒以上。しかも労働市場の地域格差は激しく、求人の少ない地方都市では違法ながら深夜の飲食店で働く18歳未満は珍しくない。

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毎日新聞 2007年1月11日 東京朝刊
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子どもの空間:/9 苦悩、誰が知る 同級生に殺人依頼の16歳
窓のない面会室で、少年(16)は感情をまったく表さなかった。

 北海道の旭川少年鑑別所。昨年11月、面会に訪ねた中学時代の担任は戸惑った。「本当に来てくれたんだね」。演技なのか、別の世界にいるのか、判断がつきかねるような冷ややかな口調だった。

 「事件について誰かに話せば、心の整理がつくだろ」。担任の問いかけに、つぶやいた。「おれの4年間の苦しみは、誰にも分からねえ」

 その3カ月前、中学時代の男子同級生(16)を30万円の報酬を払う約束で稚内市の自宅へ呼び、自分の母親(当時46歳)を包丁で殺害させた。母親に離婚の理由を尋ねた時、「お前に関係ない」と言われたのが動機だと供述した。

 面会室で一つだけ、両親との幸せな思い出を口にした。「むかし、横浜の中華街で食べた小籠包(しょうろんぽう)の味が忘れられない」

 横殴りの雪が顔に突き刺さる。4年前、母と少年は神奈川県横須賀市から母の実家のある最北端の町へ移った。離婚が理由だったが、小学校の担任には「親の介護のため」と母親は説明した。

 中学時代の友人の一人は普段の姿と凶行が今も結びつかない。教室では目立たず、よく読書にふけっていた。別々の高校に進んだが、学校帰りのバスで顔を合わせ、笑顔で話しかけられた。「勉強、難しいよね」。事件を起こす2日前だ。

 だが、殺害を依頼した同級生には別の顔を見せていた。「おれは殺人組織の一員で、母親はあかの他人。殺してほしい」。断れない心理状況へ巧みに追い込んでいった。

 中学校には少年の美術作品が今も保管されている。「大人は子供 子供は大人」という題のコラージュ。広告から写真を切り抜いて作ったもので、スーツ姿の男性の体に男児の顔が載っている。

 「自分を捨てた父が憎く、それをかばう母も憎かった」と少年は供述する。父は再婚し、子をもうけている。事件の半年前、少年は父に電話をかけ、受話器の向こうに新しい家族がいることを感じ取っていた。

 卒業文集に中学校の思い出は一行もなく、父のことだけを書いた。「親父(おやじ)と同じ海上自衛隊に入りたい」。事件直後、少年は担当弁護士にこう言っている。「今の家庭を大事にしてほしい。自分のような境遇の子を作らないでほしい」

 快晴の空と海の深い青が境目で溶け合う。穏やかな浦賀水道を望む横須賀の高台に、少年が両親と暮らした家があった。事件後は不在がちだが、父が新しい家族と住んでいる。

 「きちんとあいさつのできる子でね。年下のうちの娘とよく遊んでくれたよ」。近くの住民は少年を覚えている。休日にはよく、家族3人で楽しそうに出かけていた。

 高校を卒業し、ここで再び家族一緒に暮らす日が来るのを信じていたに違いない。「6年後に戻ってくるから」。引っ越す直前、少年は小学校の担任に笑顔を見せていた。【井上英介】=つづく

 ◇離婚説明せぬ傾向

 厚生労働省の統計では、人口1000人当たりの離婚件数は90年以降伸び続けたが02年減少に転じ、06年2.04件。日本では離婚の際、引き取った親が子に事情を説明しない傾向が強いと指摘される。欧米では、こうした親の姿勢は、子どもに対する情緒面での虐待だとして「片親引き離し症候群」という言葉もある。

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毎日新聞 2007年1月10日 東京朝刊
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子どもの空間:/8 やめたいねん たばこ吸っても意味ないし
たばこ吸っても意味がない。息が切れる。でもやめられへん。

 オレは中学2年生。まじめやないけど、ワルでもない。吸い始めてもう4年半。

 名前はショウノ。14歳。晴れた6月の放課後、校舎の裏であいつと一服した。「おまえら何してんだ!」。もみ消したけど、遅かった。

 一緒に見つかった「あいつ」は親友のイッペイ。奈良県の同じ中学の2年生、同じ団地に住んでいる。

 たばこがばれた昨年夏、先生に禁煙外来の受診を勧められた。禁煙はしてみたけれど、つい「一服しよう」と誘ってしまう。イッペイは断ってくることもある。やっぱり吸わん方がいいのかな。

 最初は小学4年の時、上級生に誘われて。1本吸いきるころには、もううまかった。それから1日2箱。家のたばこをかき集め、吸い殻は兄貴(21)の灰皿に捨てた。

 オレが禁煙してるのに、オヤジ(43)もオカン(40)も、目の前でスパスパ。工場で働くイッペイの両親も、どうやら同じらしい。

 学校はつまらん。あいつとはクラスが違う。教室に話が合うやつはいない。

 2年生になって、数学も国語も授業が分からん。居眠りすると先生が「起きとけ!」と怒鳴るから、時々教室を抜け出して、廊下でチャイムを待っている。

 けんか好きのイッペイは、先生にも手をあげようとする。「暴力だけは、やめとけ」。あいつにそんなこと言えるのは、オレしかいない。

 小学3年か4年の夏だった。自転車で飛ばしていて、あいつの自転車とぶつかった。「大丈夫か?」。転んだオレに声をかけ、あいつは心配してくれた。あの日は雨が降っていた。

 そのころオレには友達がいなかった。体が小さくて、年上の子に石を投げられた。あいつといるようになって、それがなくなった。イッペイは中国生まれの日本育ち。空手が得意でけんかは誰にも負けない。

 放課後はさっさと家に帰り、晩飯を食べ、あいつの家に遊びにいく。テレビゲームはオレのほうがうまい。

 「おまえ、おっきくなったら、何すんの?」

 「結婚はしとこかな」

 いつも一緒だから、携帯もメールも必要ない。他のやつらが使っていても、うらやましくも何ともない。

 最近は塾に行くやつもいて、クラスはちょっとぴりぴりしてる。オレは受験はしたくない。トラック運転手のオヤジは「高校行かないなら働け」と言う。「ラーメン屋なら、やる」と答えておいた。オヤジは熱出しても仕事に行く。そんなこと、オレにできるんかな。

 また吸いたくなってきた。胸をたたいて自分に怒鳴る。「黙れ、このボケ!」。麻薬と同じようなもんなのかな。

 今年こそ、やめてやる。あいつは言う。「はよやめてくれ。おまえがやめたら、オレもやめる」。そうだ。どっちか早死にしたら、オレたち一緒にいられへん。【遠藤拓】=つづく

 ◇中1女子で経験1割

 厚生労働省の04年度統計で、中高生の喫煙経験率は高3男子が最も高く42.0%、最も低い中1女子でも10.4%。子どもは大人よりニコチン依存になりやすいが、学校や家庭が喫煙の事実を隠したがるため、禁煙外来を訪れる子は多くない。未成年者喫煙禁止法は子の喫煙を見逃した親に科料を科している。

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毎日新聞 2007年1月9日 東京朝刊
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子どもの空間:/7 違ってていい 「うつ病」の妹、葛藤した姉
「起きて! 学校行かないの?」。動き出す気配のない妹(14)のベッドに声をかける。「いやだ、行かない」

 迎えに来た友達に、母(45)は「今日は調子が悪くて」といつものように謝る。その子たちの後ろから登校するのが気まずくて、追い越さないように雪の住宅街をゆっくり歩いた。

 私だって毎日耐えてるんだ。普通の人になってよ!

 北海道。1年前の冬、高校受験を控えた少女(16)はいら立っていた。登校を嫌がるようになった妹は昨年5月、うつ病と診断された。

 妹は男の子とばかり遊んでいたから、群れるのが好きじゃない。教室でもよく一人で絵を描いていた。それでも一目置かれていたのは、2学年上の自分が優等生だったこともあるかもしれない。

 学校に行かなくなったきっかけは、クラスでのいじめだ。中1の2学期。ある女子が中心になり、全員が一人の女子を標的にした。妹にとっては首謀者も被害者も友達。被害者と一緒にいると、妹まで無視された。「何で私がかばわなきゃいけないんだ。そう思う自分が最悪」。そのうち「消えてなくなりたい」と言い出した。

 学級委員を3年間続けた自分には、理解できない。「2人のどっちか、切り捨てればいいのに」「そういうことじゃないんだよ」

 母と入った風呂で諭された。「妹の方が優しいよ」。じゃあ、私は冷酷な人間なの? 泣きじゃくった。

 ずっとトップの成績で、クラスを仕切ってきた。やればできるのが楽しかったし、受験に必要な内申点を稼ぐためにも、先生や周囲の目を気にしてきた。なのに、「問題児の家族」と見られているように感じ、葛藤(かっとう)した。

 「学級委員になって、いじめをなくす活動をしてみたら?」と提案したこともある。妹は頑張った。でも他の子は議論する気がなくて、重圧を感じさせてしまった。

 妹は妹。違う感じ方もある。そう思えるようになったのは高校に入ってからだ。自由な人も、自分より優秀な人も大勢いる。「優等生」から解放された気がする。

 高校の友達と家族の話になった時、言ってみた。「うちの妹、病気で学校に行ってないんだ」「へー、大変だねー」。なあんだ、こんなもんか。

 両親は理解者でなきゃいけないし、ただでさえ甘い。自分くらいはいつも通りの姉でいよう。ケンカも手加減は少しだけ。病気だからって、風呂のお湯がたまったら、蛇口くらい閉めるべきでしょ。

 今年の冬は雪が少ない。セントラルヒーティングの利いた夕食後の居間で、2人で笑い転げる。妹はまだうまく眠れない夜もある。でも、このところ犬の散歩も続けている。

 この前、一緒に風呂に入った。湯船で「習い事に戻ろうかな」と言ってきた。びっくりしたけど、あおってヘソを曲げてもいけないから、素っ気なく返しておいた。【中本泰代】=つづく

 ◇子どももうつになる

 北海道大学の伝田健三助教授(児童精神医学)らが04年、小中学生約3300人を対象に調査し、全体の13%(小学生で7.8%、中学生で22.8%)に抑うつ傾向がみられたと発表した。ストレス社会で子どものうつ病が増えているとの見方がある一方、大人と同じ診断基準を疑問視する声もある。

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子どもの空間:/6 寂しさを隠し 「マンキツ」拠点に出会い系
ついたてで仕切られた個室は44。薄暗く乾いた地下のスペースに空調の音だけが響く。

 受付で指定された「3番」の扉を開け、彼女はソファに腰をおろす間もなく携帯電話の充電を始めた。「電池すぐ切れますから」。飲み放題のメロンソーダとマンガ本12冊を2畳ほどの部屋に持ち込む。大みそかの前日、今日が「仕事納め」。

 JR目黒駅前のマンキツ(まんが喫茶)は1時間400円。「サポ」(援助交際)で稼ぐ彼女には格好の密室だ。渋谷や新宿は警察の目が厳しくなったから、最近はサラリーマンが多い山手線内の別の駅を拠点にする。

 携帯の出会い系サイトにプロフィルを登録する。<誰かお年玉くれる人いないかなぁ〓。東京/かおり/18歳/B型/体形ちょいぽちゃ>

 名前のほかにもう一つ、「うそ」を書いた。

 3秒後、最初の返信。それから10秒おきに携帯が震える。欲望の襲来。<お年玉いくらほしいんだぁい?>。24歳173センチ66キロ、23歳ユウヤ……。顔や胸の写真を添付する男もいる。最近は中年より20代が多い。「本当の彼女と付き合うのは気を使って面倒らしいですよ」

 <メールありがとう〓条件ゎ、ホ別3(ホテル代別で3万円)でゴム(有)ノーマルH1回かな♪>。同じ文面を次々返信する。<会ってまじ好きになったらどうしよう>。メールだと大胆な言葉も書けるらしい。「ほとんど妄想族ですね」。妻子持ちはお年玉で出費がかさむ時期だから、独身に狙いを絞る。

 入室して3時間。171通のメールが来た。

 待ち合わせは午後2時、マクドナルドの前に決まった。

 自称26歳アパレル社員の「まさと」は品定めするように彼女を眺め、2分前に現れた。軽く会釈。「お菓子買わない?」と男に言われコンビニへ。後ろ姿は恋人同士に見えるが、手はつながない。

 彼女がサポを始めたのは半年前だ。「初体験で、誰としても変わらないと感じたから」。高校は1年の2学期でやめた。クラスに仲のいい友達もいなかった。

 横浜で家族6人で暮らす。「普通の家庭ですよ。父親は会社員、母親はパート。幸せすぎてまひしちゃった、みたいな」。それ以上深くは踏み込ませない。派遣で化粧品の箱詰めの仕事もする。時給850円。親に「まともに働いている」と思わせるためという。

 父親は今年、定年を迎える。「親不孝してきたから、家にお金入れたい。うれしくない金かもしれないけど」

 警察に発覚し、携帯の顧客データを提出させられたことがある。18歳未満とばれ、客の教師らは児童買春で捕まった。「客を狩ってやりたい。警察に突き出せば、ウチみたいな寂しい子が減るし」。報酬でコートは買えるけれど、自分の何かがすり減っていく。

 ホテルに入り浴槽に湯を満たす間、決まって交わす会話がある。

 「想像より大人っぽいね」と男が甘い言葉をかけてくる。「じゃあ、いくつに見える?」。しばらく考えている男に、子どもっぽい声でささやく。「ウチ、17歳だよ」【鈴木梢】=つづく

 ◇急増する、まんが喫茶

 日本複合カフェ協会によると、05年9月現在でまんが喫茶やインターネットカフェは全国に2737店舗。10年には4100店舗を超える見通し。24時間営業で安いことから、娯楽の場として若者に人気が高い一方、密室でのパソコン利用による名誉棄損、児童ポルノ販売など、事件の温床にもなっている。

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毎日新聞 2007年1月7日 東京朝刊
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子どもの空間:/5 母への恨み超え 「たたかれるための犬だった」
静寂に包まれた深夜の公園。小さな背を丸めて水をくむ子どもに気づいた人がいただろうか。

 恭司君(仮名)が小学5年生のころだった。ガスや電気を止められ、ろうそくの灯で暮らした。公園で1・5リットルのペットボトルに水を入れ、自宅へ運ぶ。洗濯や水風呂にも使うため、30~40往復した。鉛色の夜空に工場の煙突から煙が吐き出されていた。

 父は4歳のころいなくなった。母は生活保護費をもらうとパチンコに出かけ、しばらく帰らない。北九州市の公営アパートで、4人兄弟は借金取りにおびえていた。恭司君は上から2番目。夕食はいつもインスタントラーメン。金が尽きると、数キロ先のパチンコ店まで母を捜し歩いた。冬はジャンパーを着て布団をかぶり、押し入れで眠る。水だけで1週間過ごした夏もあった。

 小学校は余った給食を持ち帰らせた。弟の保育園に行くと園児の給食をくれた。スーパーの食料品売り場で試食をむさぼり、それでも足りなくてラーメンを万引きした。

 《深夜2時過ぎ、バス停で末の弟が母親を待っている》《三男 顔色悪く危険な状態 学校で小児科受診させる》《二男 スーパーのごみ箱あさっている》

 当時の学校関係者のメモに、兄弟のすさんだ暮らしが残されている。恭司君と兄は身長が約10センチ、体重が約6キロも平均より少なかった。

 母は大分県内の農家に生まれ、中学を出て工場に勤めた。結婚と離婚を繰り返し、22歳の時に出会ったスナック店員との間に恭司君は生まれた。三男をでき愛する一方で、恭司君には暴力をふるった。あざが絶えず、口の中を切った時は水が飲めなかった。

 小学6年の時、母のパチンコ通いがばれて生活保護が打ち切られた。月5万円の児童扶養手当だけが親子5人の生活費になった。手足を震わせ、歯をカチカチいわせて、恭司君は民家にしのびこんだ。侵入盗を繰り返し、警官に取り押さえられた時には、窃盗額は100万円を超えていた。

 「ぼくは犬ぞりの一番後ろの犬。たたかれるためだけに存在する。なんで世界はこんなふうに回るのだろうと恨みながら走る犬だったんです」

 転機は、土井高徳さん(52)との出会いだった。少年院を出て17歳になった恭司君は、北九州市で土井さんの営む里親ホームに入った。7人の子どもたちとの共同生活。「こだわりの強さを生かせ」と起床係、消灯係を任された。妻えり子さん(52)にアルファベットから教わり、昨春、定時制高校に合格した。

 奥歯をかみ砕きそうになるほど恨んだ。夢の中でしか「お母さん」と呼べなかった。その母の行方が今は分からない。

 忘れていることが恭司君にもある。借金取りに押しかけられたころ、親子が住む部屋に通った近所の女性(60)は語る。「子どもの声がするんです。閉めたドアの向こうから『帰れ』と。お母さんがいじめられると思ったんでしょうね」。必死に母を守ろうとする幼い声が今も耳に残る。【野倉恵】=つづく

 ◇背景に貧困層増加

 全国の児童相談所が05年度に対応した虐待相談は3万4400件を超えた。親から捨てられた4人兄弟の生活を描いた映画「誰も知らない」(是枝裕和監督)のようなネグレクト(養育放棄)はほかにもある。背後には貧困層の増加が指摘される。生活保護受給世帯は05年度、月平均104万世帯を超えた。

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毎日新聞 2007年1月6日 東京朝刊
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子どもの空間:/4 強い母になる 「産んであげられなかった」
毎朝5時45分、携帯のアラームが鳴る。ダウンジャケットを羽織り、東京都大田区の街を自転車で飛ばす。エプロンを着けて厨房(ちゅうぼう)に入り、総菜を作ってパックに詰める。弁当を車に積むと、オフィス街へ。1日32個を売り、翌日の仕込みまでが給料分の仕事。週末の夜は居酒屋になる店を手伝い、夕飯を食べさせてもらう。

 高校をやめ、少女(17)が店に来たのは昨年5月。少ししてママ(57)に1年前のことを打ち明けた。「産んでいればアタシが育ててあげたのに」。ママは泣いた。

 隣の分娩(ぶんべん)室からは元気な産声が聞こえていた。あおむけの胸に看護師が胎児を乗せてくれた。男の子。もう立派な赤ちゃんに見えた。自分に似た大きな目。その体はどんどん冷たくなっていく。

 都立高校に入学して2度目の春だった。同い年の彼とはその冬、友達を通じて知り合った。彼は「子どもができたら育てる」と避妊を嫌がった。病院に行った時は5カ月目。両家の話し合いは、親同士の怒鳴り合いになった。結局、彼は親の言いなり。未練はなかった。

 中絶した後、バイト中も若い妊婦や親子連れに目が行く。「私も育てられたんじゃないか」。産んであげられなかった子に自分の中で「流星」と名をつけた。

 友達に打ち明ければきっと幻滅される。抱え込むには重すぎる。半年ほどたった05年10月、携帯サイトを作り、見知らぬ誰かに体験を吐き出し続けた。

 アクセスは5000件を超えた。同じ経験をした少女たちが掲示板に次々と書き込んでくる。同い年の子から「どうしたらいい?」と相談が来た。「親に話して、育てられるなら産んだ方がいい。もう1回考えてみて」と返事を出した。2カ月後。「産むことにしました」。絵文字のない丁寧な文面だった。

 ミニスカートにブーツで出会い系サイトにのめり込んでいた同学年の子は結婚して昨年、2人目を産んだ。外見は派手なままなのに、今は子どもの昼寝中しかメールをよこさない。「抱いてみる?」と乳飲み子を差し出された。もう首が据わっているので断れず、そっと腕を伸ばした。

 流星にもきっと、弟か妹ができる日が来る。

 ずっと「母」のイメージが持てなかった。

 1枚の写真がある。遊園地で「レレレのおじさん」のぬいぐるみと並んでいる。小学2年のある日、親せきに連れ出され、その夜から祖父母の家に預けられた。母が家を出たと知らされたのは、しばらくしてからだ。

 今はそばにママがいる。暇さえあれば厨房で料理を教えてくれる。卵料理と揚げ物はもう完ぺきだ。「これはカンがいい」と目を細めるママは、離婚して29歳で店を構え、3人の子を育て上げた。いつか自分も店を持ち、強い母になりたい。

 「行って来るから」。25日は月命日。弁当を売り終え、少女は横浜の寺へ向かう。「分かった。気をつけて」。ママの声が背中に聞こえる。【中本泰代】=つづく

 ◇支援は乏しく

 ドラマ「14才の母」のヒットで少女の出産に賛否が渦巻いた。厚生労働省の05年統計で、15~19歳女性1000人当たりの出生率は5.2人と、10年前の1.3倍。14歳以下の母の子も42人いた。中絶実施率も同様に増えている。行政が10代の母の仲間作りを促す動きもあるが、当事者への支援は乏しい。

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毎日新聞 2007年1月5日 東京朝刊
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子どもの空間:/2 生きてるんだ 母を変えた少年の自殺
もみじを2枚、道で拾った。燃えるような葉を母(44)から受け取り、少女(13)は何も言わず手のひらに乗せた。

 「きれいだね。生きているからそう思えるんだよ」。母は校門で車を止め、娘を降ろした。もう授業が始まっている。

 少女は保育園の時、手の跡がつくほど先生にぶたれた。それから心を閉ざし、学校で気持ちをうまく表現できない。

 同じ中学1年のクラスに仲良しの堀本弘士君(12)がいた。自分と13日違いで生まれた同級生。「塾も行ってないのに英語を一番知っとるんじゃ。足も速いし」と少女は母に自慢した。家に遊びに来ると、母に頭を下げ敬語であいさつする。「うちのがいじめられとったら、守ってあげてね」。母は祈るように弘士君に言った。

 だが、いじめのターゲットになっていたのは弘士君の方だった。

 <いつも空から家族を見守っています>

 遺書を残したのは昨年夏。各地で相次ぐいじめ自殺の始まりだった。

 瀬戸内海に浮かぶ人口約8000人の大三島(おおみしま)(愛媛県今治市)。弘士君の死後、学校は「犯人探し」はしないと決めた。それを願い出たのは祖父でもある。「誰がいたぶっとったという話になったら、その子らもわしらも、ここでは暮らしていけん」

 8年前にしまなみ海道で本州と結ばれてから、生活は便利になったが、外の空気が入って来るわけではない。

 弘士君は毎年のお年玉をコツコツためた20万円を持っていた。自殺の数カ月前から週末になると弟とバスに乗った。行き先は広島のデパートの遊園地。弟を好きなだけ遊ばせ、貯金を使い果たし、この世を去った。

 少女の母親は18歳の時、船で島を出た。大阪の養護施設で6年間、子どもらと過ごした。親に泣きつかれて島に戻った後、文通を続けていた教え子が拒食症で亡くなった。「なんで言ってくれなかったんじゃろか」

 でもそのころはまだ、子どもが自ら命を削ることなど、遠い都会での出来事のように思えた。

 弘士君の死は、母のまなざしを変えた。娘が言葉をうまく出せないことをずっと悩んできたが、今では「何にこだわってきたのか」と思う。今日も明日も我が子を抱きしめられるというのに。

 弘士君の母が家に来ると、少女は隠れる。「私を見たら弘士君を思い出して、また悲しくなっちゃうんじゃないかと思って」。今も少女は弘士君の夢を見る。いつものように笑っている。

 「自殺のことはもう忘れたい」と島民は口々に言う。少年が最後の場所に選んだ通学路の電柱は100日の法要を終えた後、周辺住民の要望で撤去された。

 「私が島で一番好きな風景が広がる高台に連れてってあげるけん」。少女の母はそう言って私を車に乗せた。

 白い橋で結ばれた隣の島がすぐ近くに見える。眼下の畑でみかんが冬の日を浴びている。「きれいでしょ? こんなちっぽけなところに生きているんだと思うけど」【鈴木梢】=つづく

 ◇05年中に608人 35人が遺書残し

 警察庁の統計によると、05年中に自殺した少年は608人。前年より19人多い。このうち学校に関することで悩み、遺書を残したのは35人。ほとんどは遺書を残さず命を絶っている。日本いのちの電話連盟によると、同年に相談の電話をかけた未成年者は1716人にのぼる。誰にも打ち明けられずに悩みを抱え込んでいる子どもたちは多い。

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毎日新聞 2007年1月3日 東京朝刊
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1 学校いらない 先生は、母と祖母と曽祖母
おとなは誰も立ち入れない。「子どもの空間」の透明なバリア。不安、いじめ、友情、涙、希望、孤独……。やさしさを忘れないで。強い心を抱きしめて。暗い出来事ばかりじゃない。

 小さな声に耳を澄まそう。

 庭先で遊んでいたら集金にきたおばさんに何度も聞かれた。

 「きょう学校は?」

 やっぱり午前中は外に出たくない。

 木曽川を望む岐阜県のある住宅街。木の机が一つ、椅子が二つ。「難しい。イヤ」。宮本彬(きらら)ちゃん(8)が足をバタバタさせる。「一緒に問題を読もうよ」。母の里枝さん(33)になだめられ、なんとか最後までやった。

 彬ちゃんは4世代6人家族で暮らしている。学校には行かない。里枝さんが算数や国語を教え、祖母(56)はそろばんと畑仕事が担当教科。曽祖母(77)は戦時中の体験を聞かせる。父は5年前に病死した。

 幼いころから友だちと競うのを嫌がった。就学時にフリースクールを選ぶと、小学校の校長にあきれられた。「げた箱や机がなくてもいいんですか? 公立の何が気に入らないんですか」

 フリースクール1年生の夏休みが終わると、まばたきが止まらなくなった。「行かなきゃダメ?」。友だちと張り合いたくないのに、ここでも先生は比べたがる。気の強い子につねられ、それもずっと我慢してきた。

 学校って何だろう、と里枝さんは思う。子どもが円形脱毛症になっても「絶対に行かせなきゃ」と追いつめられる母親がいる。里枝さんが中学生のころ、職員室で先生が泣いている女子の髪をつかんでビンタした。ほかの先生はだれも止めようとしない……。その情景が今も夢に現れる。

 自宅で親が教える「ホームスクール」の本を図書館で見つけたとき、「あ、これだ」と思った。「本当に行かなくていいの? 大丈夫?」。不安な顔で彬ちゃんは何度も聞いた。里枝さんもうっすらとした罪悪感があった。でも、子どもが家にいるのは自然なことだと思う。家の文化、しつけ、季節ごとの料理……4世代家族から学ぶことはいっぱいある。

 「家族から愛され、安心して家庭に逃げ込めると分かれば、子どもは外に出ていけるようになる」と祖母は見守る。

 家での勉強が軌道に乗り始めたころだった。足し算で繰り上がりが分からない。「何度言ったら分かるの!」。思わず怒鳴ると、彬ちゃんは泣きじゃくった。「分からないって、そんなにいけないこと?」

 また机に向かってくれるまで3カ月かかった。

 彬ちゃんは近くの公立小学校の2年生に籍を置いている。学校の行事には2回参加した。昨年11月、バスや電車の乗り方を学ぶ社会見学。同級生は車内を走り回り、先生は「静かにしなさい!」と大声を張り上げる。帰ってきても耳鳴りがした。

 校長は「それでも進歩。前年は一度も来てくれなかった」と喜ぶ。1年生の修了証書は校長室で渡した。「いろんな価値観はあるが、15歳まではやっぱり集団教育がいい。いつか『学校に行きたい』と言ってほしい」

 2年生になってからは週1回、里枝さんが宿題のプリントを取りに行き、彬ちゃんが家で答えを書いて先生にマルをもらっている。自宅での勉強はもうすぐ3年生の算数が全部終わる。

 晴れた冬の午後。彬ちゃんは畑で大根を手際よく抜いていく。「学校? 勉強中にチョコ食べられるから、おうちがいい」

 近所の子が下校するのが待ち遠しい。半年前から友だちが増え、外に遊びに行くようになった。日が暮れるまで鬼ごっこ。「きーちゃんは、鬼になるほうが好きなの」

 この日は仲良しの男の子が塾に行ったらしい。少し寂しそうに帰ってきた。【遠藤拓】=つづく

 ◇校長の裁量で出席扱い--全国で2000~7000世帯

 学校に行かない児童・生徒は約18万人。最近はフリースクールなどに通わず、自宅で家族と学習する「ホームスクール(ホームエデュケーション)」が広がり、支援団体によると2000~7000世帯に上るという。宗教教育やより質の高い教育が目的の家もある。籍を置く小中学校長の裁量で出席扱いにできるが、「社会性が身に着かない」との批判も根強い。改正教育基本法では「保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」と家庭の責務を盛り込んだが、安倍政権下の教育改革論議では容認への動きはない。逆に締め付けが厳しくなるのではとの懸念もある。欧米では容認する国が多く、米国では百数十万人ともいわれている。

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毎日新聞 2007年1月1日 東京朝刊
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