2007 12/13 01:39
Category : 日記
01.夜明けの牧場に通い詰める
騎手、調教師と馬一筋六十三年。調教師時代、はっきり物を言うんで「境のラッパ」と言われた。競馬場のエレベーターで「こんな腐れ馬、よく勝った」って言ったら、馬主さんが後ろにいたこともあった。
でも、強気だから吹くんじゃなく、ちゃんと馬の状態見て正直に言っただけ。太いか細いか、調子はどうか、朝昼晩見てわからなけりゃプロじゃない。だからきゅう務員に馬の目方は量らせなかった。きゅう舎は肉屋じゃないんだから。
自分だけで勝ったんじゃない。馬主、調教師、きゅう務員、騎手、みんなのおかげ。昨年引退したが、朝は暗いうちに起きちゃう。今も日高に行くし、スポーツ新聞に書いたりと、馬とは切っても切れないよ。
生まれは羊蹄山と岩内の間にある小沢村。両親は今の広島県大竹市から北海道に来た。国鉄勤めの父は頑固だが世話好き、仲人をよく頼まれた。母は機転が利く明せきな人だった。兄弟は男五人と女三人、僕は三男。みんなが頭良く、僕だけ天下一品の悪がきで、運動神経だけはよかった。隣がニセコでスキーもうまく、野球の騎手チームではキャッチャーで、東京競馬場のある府中の東芝と試合をしたほどさ。
家は国鉄宿舎で、線路を渡って二十分の所に牧場があった。朝三時、乳を搾り終わると牛を山に放し、夕方に小屋に戻すんだ。朝四時ごろ行くと、牛を追う馬に乗せてくれてさ。農耕馬でない格好いい馬で「境のあんちゃん、馬乗りうまいね」と言われてたんだ。
当時十二歳ぐらい。毎日のように、学校行く前に乗るんだ。たまに、八キロぐらい離れた所に、てい鉄打つため乗って行ったりとか。動物好きで、何にしても馬が好きだった。かわいがればなつくしな。ただただ馬に乗りたかったんだ。
近くの倶知安競馬に行くと、馬も騎手の服もきれいで「あんなふうに乗ってみたいなあ」と思っていたんだ。小沢で貨車がよく入れ替えして一時間ぐらい止まってたんで、貨車に積まれた馬に青草持ってってね。きゅう務員らしき人が「あんちゃん。そんなに好きなら、背ちっこいから馬乗りになりなよ」って。
兄弟は堅い所に勤め、僕も国鉄に入り車掌の仕事をしたかった。でも身長が足りなくてね。今は身長一五三センチだが、当時一四五センチぐらい。それで子供心に騎手になろうと思ったんだ。
02.世話の後はいつも腹ペコ
小沢の尋常高等小学校を出て、ひと夏、母の妹がいた北見に行った。馬が二頭ぐらいいて「乗れる」と思ってね。ジャガイモとかハッカを作る農家さ。クワで掘った作物を後ろから拾って馬車にのっけて、でんぷん工場に持って行くんだ。きつい仕事だったよ。
次に小樽の鎌倉病院に行った。院長は馬の血液の研究かなんかで博士になった人。道庁にいた叔父さんの知人で、朝里の牧場に馬を置いていた。「馬乗りになるなら、ここで勉強しなさい」と言ってくれ、二カ月ほどいたんだ。その後、院長が馬を預けていた縁で、札幌の清水茂次きゅう舎を紹介してくれ、一九三五年(昭和十年)に騎手見習いになった。 清水先生のきゅう舎は札幌競馬場前にあり、六、七十頭飼ってた。兄弟子は七人。師匠の靴磨き、先輩の服の洗濯と寝る暇ない。師匠の靴はピカピカに磨き、少しでも墨が付いてると、たたかれた。下っぱなんで、一番早く朝三時に起きて、十数頭乗り込む。全部終わってからやっと自分の担当馬を手入れするんだ。馬を洗うのも今なら温水シャワーだけど、当時は水で洗い、乾くまで体を一生懸命ワラでこするんだ。大変だった。あんなに働くと腹減ってな。パン屋がパンやトウキビを売りにくるんだ。でも師匠からは毎月一円とか五十銭しかもらえない。買えないから、ちょっと失敬したこともあったさ。
師匠のお母さんが、かまにこびりついたお焦げで作った握り飯をよく差し入れてくれた。今なら入れ歯で食えないけど、うまかったなあ。仕事は厳しかったが、札幌の街は馬でどこでも行けた。北一条通りの女子高を通る時、女の子を見るのが楽しみだったよ。
見習い騎手になった直後の三五年、ダービーでガヴアナーという馬が勝った。きゅう舎でラジオを聞いてたが、静内の生産馬が三着に入り大騒ぎ。当時は千葉の下総御料牧場、岩手の小岩井農場の馬が強く、ガヴアナーも小岩井。道産馬は歯が立たなかった。
馬乗りになるのに、親は反対だった。特に父は村でも一番というほどの厳格な人でね。猛烈に怒った。昔は騎手なんて極道者と思われていたから。「一人前になるまで帰ってくるな」と言われたな。三五年十一月、えさのエン麦をつぶす作業をしていて、ローラーで右手の中指と人さし指の先をつぶしたんだ。それで久しぶりに帰ったんだけど「だから早くやめろ」って。騎手になれないかなと思ったけど、幸いけがは大したことなかった。
九十三歳まで生きた父は、まじめできちょうめんだった。なのに僕みたいなのが育って。人間でさえそうなんだから馬の将来だってなかなかわからんよな。
僕と中央競馬のスタートは重なってるんだ。当時は札幌をはじめ全国十一の競馬倶楽部が独自に騎手免許を出していた。三六年から倶楽部が統合され、今の日本中央競馬会(JRA)の前身「日本競馬会」が誕生。僕もこの時、免許取って正騎手になり、全国で乗れるようになったのさ。
03.給料をもらえず貧乏続く
初レースは一九三七年(昭和十二年)七月の札幌。キヨタマという馬だった。一年先輩の兄弟子と一緒に出走した。師匠がレース前「どうせ勝てる馬じゃないから、二人のうち先にスタートした方に一円やる」って言うんだ。
今のゲートと違い、昔は綱が上がるんだ。一斉に出られるわけじゃなく、あんちゃんなら技術もなく、なかなか出してくれない。八頭立てだったかな。六着ぐらいだったけど、先輩より僕がスタート良く、清水茂次先生から一円もらった。今の千円ぐらいかな。
初勝利は三八年四月、小倉でホンラクという馬だった。札幌の琴似の馬主の馬でね。最初からハナ(先頭)を切りっ放しで行った。自分が担当、世話してた馬だったし、うれしかったなあ。こそっと馬主さんから二円もらったが、先生に見つかり取り返された。騎手として一回乗ると当時十円ぐらいの手当だが、騎手の分は先生の所で止まっちゃう。昔はそんなもんだった。今なら賞金の五%は翌週火曜日には騎手の口座へ振り込まれるけど。 貧乏だったから、実家から、家で飼ってた綿羊で編んだ靴下を送ってくれた。それでも兄弟子のお下がりの靴下もらって。湯飲み茶わんを入れ、かかとの穴を繕ったもんさ。乗馬ズボンもダブダブのお下がり。兄弟子のズボンをいいなあと言ったら「売ってやる」と。でも金がない。初めて質屋に行った。
父親から「なきゃ困るだろう」と、岩内で買ってもらった腕時計があった。これを持って質屋に行くと、十円だったか貸してくれた。後で借りたお金を返しに行ったが、利子分も払うんだもんな、それが払えず流しちゃった。
師匠からきちんと給料をもらったのは弟子入り十年目の四四年。初代東京馬主協会長、栗林友二さんのクリヤマトに乗り、東京競馬場でのさつき賞を勝ったんだ。戦時中で馬券発売はなかったが、十頭立てでハナ切りっ放し。初めてクラシックレースで勝った。その時、先生から四百円ぐらいもらったんだ。
半分を結納金に使った。家内は京都で行きつけの玉突き屋の娘。でも結婚後すぐ徴兵された。旭川の騎兵第七連隊通信中隊。ガダルカナル要員だったが、入隊前日に部隊が玉砕。兄弟子もそれで死んだ。三カ月教育で帰された直後、再び召集、もうだめだと観念した。覚悟の再召集だったが、入隊四カ月で戦争が終わってしまった。負けるはずだよ、馬乗りやってたのが無線係やれだもんな。でも要領よくて、部隊長付きとなり馬を世話したんだ。「けるから」ってだれも見る者いなくてさ。終戦三日前に長男が生まれた。出征中なので「征勝」と名付けた。
清水先生は騎手としてもペース判断が素晴らしく、時計で計ると言った時間でぴったり戻って来る。例えば「千六百メートルをハロン十五秒で」と言えば、一ハロン(二百メートル)十五秒のペースで、計百二十秒かかるんだが、僕も新弟子時代は上手に乗れず、二秒違えばステッキでよくたたかれた。
04.登録間違えた先生に激怒
清水茂次先生の騎乗はいつも時間が正確だった。それがしゃくで、先生の時計を計り「二つ(二秒)遅れました」とうそついた。そうしたら「おかしいなあ。どこで遅れたかなあ」と首をひねり、新聞記者に確かめに行った。戻ると「間違ってるのはおまえだ。時計も満足に取れないのか」って。結局また、たたかれた。
ペース判断こそ騎手の条件で、時計の分からん乗り役はだめ。僕も弟子にうるさく言った。車だって今五〇キロか六〇キロなのか分からなけりゃな。僕が今まで一番感心した騎手は福永洋一君だ。千メートルでもペースが速いと思えば後方に控え、三千メートルでも遅いとみれば果敢にハナに立つ。武豊君も状況の読み取りが速い。
清水先生の思い出だが、馬を見る目は日本一だった。安い馬を見つけ成績を残した。一九七一年の天皇賞、有馬記念を勝ったトウメイなんか代表的な例。買った時は百六十八万円の安馬さ。大した先生だったが、恨んだこともあったよ。
僕が新馬時代から乗っていたニパトアという牝馬がいた。四二年(昭和十七年)、函館で六頭立ての大きなレースで、五頭が同じきゅう舎でね。先生は「おまえ、挟まって出られないだろう」と、ここはこう乗れ、あそこはああ乗れと教わって。三コーナーまで必ず後方に付けろ、そして外からかわして行けと。審判室の真ん前の外枠いっぱいに出して見事に勝った。その後、東京競馬場でも勝った。連勝の結果、東京で秋の天皇賞に出ることになったんだ。
ところが、いつのまにか弟弟子が騎手登録されていた。「どうしたんだ。負けたわけでも、下手な乗り方したわけでもないのに」と聞いた。そしたら「間違えて登録した」って言うんだ。結果は快勝。頭にきた。飲める方じゃないんだけど、一気にウイスキーをコップ半分飲んで、先生の家に押しかけた。出刃包丁持って。でも家に行くと「いない」と。留守だった。帰り道は酔いが回って歩けなくなって、この話は終わりさ。
さて、戦後、除隊になり、今の中央競馬会の日高支所(静内)に行き、馬の育成を手伝った。四六年五月、競馬会の配属で札幌の川崎敬次郎きゅう舎に移った。札幌では次に稗田虎伊、星川泉士きゅう舎と移り、この後は京都から阪神、再び京都に戻って中山と合計九つのきゅう舎を回った。「給料増やすからうちに来い」って言われたり、関西から関東の中山に出てきた時も「乗り役いないから困ってるんだ」って誘われたんだ。おだてられたのかな。
思い出の騎乗は五〇年の桜花賞。道庁で課長を務めていた叔父が、道内で事業やっていた斉藤健二郎さんという馬主さんと知り合いだった。その斉藤さんが「おいっ子に一匹買ってやる」と言ってくれた。当時は札幌の星川きゅう舎にいたんだが、持ち乗りになった牝馬がトサミツルだ。持ち乗りとは、馬の世話や調教もやり本番のレースも騎乗すること。でもレース前、ちょっと困った状態になった。
05.牝馬でダービー3着に
桜花賞は京都や中山でやってたが、一九五〇年から阪神競馬場に移った。僕自身も阪神に初めて出場した年だった。トサミツルは一カ月前から阪神に入った。ところが、けいこを強めにしたら、レースが近いと感じ、途端にかいばを食わなくなったんだ。
もともと食いは細かったけど往生した。ひと晩中、えんばくを手に持って食べさすんだ。うまやで一緒に寝て。でも本番では見事に勝った。苦労したから、余計うれしかったよ。あのころ桜花賞で勝つと五十万円。当時は賞金の歩合を取って乗ってたが、乗り役ときゅう務員分で計一割で五万円。騎乗手当など加えると七万円になった。
ぼくは飲まんけど、のんべを連れて宝塚に行った。乗馬ズボンはいてたんだが店に断られた。けったくそ悪くて。金いっぱい持ってるのに。そうしたら、中から店のおやじが飛んで来て「境さんじゃないですか」。そうだと答えると「いやー失礼しました。入ってください」と言うのさ。競馬やる人間だったのかな。仲間三人と入ったら、すてきなのが出て来たな。豪遊だ。毎晩芸者二、三人あげて。
クインナルビーも忘れられない馬だ。オグリキャップの五代上の母で、最近のファンも聞いたことがあるかもしれない。四白(足元が白)でくり毛のきれいな牝馬だった。本来の乗り役がいたが、所属していた京都の石門虎吉きゅう舎から「境君、この馬走るから京都に来たら乗ってくれないか」って誘われてさ。それで札幌から移った。
五〇年代初め、強い牝馬がほかに三頭いた。女優高峰三枝子さんが馬主のスウヰイスー。松山吉三郎きゅう舎のオークス馬だ。短距離が速かったわな。シンザンで有名な武田文吾きゅう舎はレダ。中距離に強いタカハタは“大尾形”の尾形藤吉きゅう舎所属だった。
五二年、桜花賞はスウヰイスーに破れ三着だった。一カ月半後、男馬に交じりダービーに挑んだ。一週間前、馬が熱発して一日けいこを休んだ。どうせ勝てないんだからと調教師から「危なくないように乗ってきな」って言われたんだ。
府中の東京競馬場、芝二千四百メートル。出走は三十一頭。タカハタが一番人気。後の菊花賞馬になったセントオーが二番人気。ところが、人気馬はもまれて、抜け出せなくなった。中はゴチャゴチャ。昔のダービーは、今と違い頭数も多く、一コーナー回るまで生きた心地がしなかった。僕の目の前で四、五頭ひっくり返ったこともあった。今なら内に入ったらすぐ罰金。ビデオで全部撮られるしね。あのころは挟むとか、外に張り出すのは、普通のことだった。
こちらは危なくないように外らちいっぱいに回った。結果は三着だったが、男馬に引けを取らなかった。僕はダービーに何度か乗ったが、これが最高位。完調だったら楽勝だったかもしれないし、今でも、もう少しうまく乗ってれば勝てたかも、って反省してるんだ。
06.終盤で差し勝ち大騒ぎに
一九五二年のダービーで三着だったクインナルビーは、翌年秋の天皇賞に挑んだ。今度は万全だった。府中(東京競馬場)の三千二百メートルを3分23秒0で駆け抜けた。レコードだった。男馬を相手にしなかった。記録は十年ぐらい消えなかったんじゃないか。長い距離は強かった。今度は芸者街の神楽坂で騒いだ。かみさんにおこられたけどな。
この馬の父は三九年(昭和十四年)のダービー馬クモハタ。五三年に伝染性貧血で薬殺されたが、その年に子供が天皇賞を勝つとは因縁だな。
約三十年の騎手生活で落馬は何度かしたが、鎖骨を折ったぐらいで、大きなけがはあまりなかった。
でも札幌の障害で落馬した際、大差で離していたので再び飛び乗ると、ちょうど後ろから来た馬に跳ねられた。痛くもかゆくもなく、次のレースに出ようとしたが、だめと言うんだ。汗だと思って頭に触ったら血。ようけ出たなあ。十針縫った。
騎手として通算勝利は五百三十四勝。最初の清水茂次師匠はよその人を頼まず、全弟子を平均に乗せた。多く乗れて感謝しているが、当時の五百勝は今の千勝以上だろう。レースが毎週あるわけではないし、札幌終わると京都へ行く程度。値打ちあった。
五百勝目を函館で挙げた六四年、アジアの騎手交流戦に中央競馬会からフィリピンへ派遣された。今の副理事長北原義孝さんが通訳で行ってくれた。向こうの競馬はずいぶん遅れていたが、おもしろかった。
本来、乗り役は抽選で決めるんだが、知らずに行くと「口をチャックしろ」って。「うちの馬主はフィリピンで一番偉い人だ」と説明するんだ。この馬主さんが日本で中山競馬を見たとかで、調教師に電話で「うちの馬にサカイを乗せろ」ときたらしい。大きい馬で引っ掛かり大変だった。「そんなの乗れるか」と言うぐらいあぶみも長かった。「スタートしたら行け」と言われてたが、外枠から馬が寄ってきたので後方から行った。
手綱を引き待機していたが、しまい(終盤)をスーッと行って、差し勝った。「(先行逃げ切り型の)フィリピンで、あんな勝ち方初めて見た」と場内大騒ぎ。調教師からすき焼きごちそうになったよ。
騎手のハンデは、日本では速いのが重いが、おかしなことに馬体が大きいのが重い。タオルに水掛けて負担重量を六十二キロなら六十二キロになるように重くするんだ。タオルを鞍(くら)の下に入れると、とんでもなく高くなる。「これじゃ乗れない」って言うと「タオルを降ろして乗れ」。騎乗後の計測では、てんびんばかりみたいのに「どんと乗り、揺れていったん戻って真ん中に来たら降りろ」って。
騎手の取り分は一着十万円、二着五万円、三着三万円。日本から僕を入れ騎手三人が出場、みんなで分けようと約束してた。僕が一、二着で計十五万円。結局五万円ずつ分けたが、現地では使い切れない。地元騎手の家でごちそうになったり、いい思い出だらけ。暑いのには往生したけど。
07.馬場穴だらけ よく転倒
節目の五百勝は函館でクインフォーラという馬で挙げ、当時史上十三人目(現在五十三人)ということで、中央競馬会から表彰された。自分でもよくやったと思う。別に乗り方がうまかったというわけでなく、いい馬に乗せてくれたから、これだけ勝ったんだよ。今体重は七〇キロ超し、医者には減らせって言われてるけど、当時は四八キロから五〇キロ。減量しなくても体重は維持できた。出遅れもなかったな。意外ときちょうめんだったんだろうな。
四十歳半ばで、ちょっと年も感じていた。それに今のゲートの機械ができて、だれが乗っても、ちゃんと全員一緒に出られるようになった。昔の綱のバリアなら、ベテラン連中が若いあんちゃんを出させてくれなかったもんだ。でも若い人も乗れるようになると、次第にぼくらの乗る馬が少なくなってきて。じゃあ辞めようかというわけさ。少しは寂しかったけど、すぐ調教師の免許が下りたからね。地味に調教助手なんてやってられんが。おれの性格からして。
今は調教師試験は大変でしょ。何十人受けるのか知らないけど。最近は調教助手が受けるの多くなったが、なぜ免許下りるかと言うと、大学出が多いから。学科が主になったからね。
僕が受けた時のこと。ある人が「やあ、勝ちゃん。おれ、あんまり勉強してないんだ。勝ちゃんのできたところ、見せてくれればいいなあ」って。仕方ないから「横に座れよ。おれのできたところ書けばいいじゃないか」って答えた。「じゃあ、頼むよ」と言われ、試験を受けに馬事公苑に行ったんだ。ところが、席はあいうえお順。その人間はかなり後ろの席で、ぼくとは離ればなれ。答案用紙に「来年また来ます」って書いたそうだよ。笑い話みたいなもんだなあ。
僕はちゃんと受かった。一九六六年三月、免許が下りて、いよいよ調教師の開業だ。場所は千葉県の白井町。今は競馬学校があるけど、当時はすごい田舎でね。競馬場のある中山にいたかったけど、競馬会から二十馬房割り当てられて行ったんだ。電話もきゅう舎に無かった。回線が無く、付けられないということだった。電話局も無かったから役場に予約入れてね。でもつながるまで一時間かかるんだ。中山から車で四十分だから、直接行った方が早かった。
うちのきゅう舎は競馬会の事務所から一番近かった。でも「境さん、電話だよ」って警備員役の農家のおじさんが言いに来てくれるんだが、走ったって三、四分かかる。馬主さんの奥さんから「何やってんのよ」ってよく怒られていた。
白井は当時十三人ぐらいしか調教師はおらず、調和取れていた。例えば、ある調教師が左回りで追いたいと言えば、じゃあ左回りとなる。わりと妥協性、融通性があったな。それで、結構走ってくれたしな。でも馬場は悪く、ぼこぼこ、穴だらけ。乗ってた馬がひっくり返り、着ていたシャツが真っ赤になった。
08.初出走 無事に走ってほっとした
馬もろともひっくり返り、シャツも何も血で真っ赤。でも自分自身は痛くなく、けがはなかった。へんだなあ、と馬を見たら、馬の耳が半分なくなってたんだ。起き上がる時に、自分の耳を踏んだようだった。
白井の馬場は穴ぼこだけでなく、おまけに小さかった。七ハロン(一ハロン=二百メートル)の追い切りをやろうと思えば、カーブの所からスタートしなければならない。それで、僕はレース前の追い切りを五ハロンしかやらなかった。三千メートル使おうが三千二百メートルの競馬だろうが、直前追いは五ハロンしかやらなかった。
ふだんハードな調教をしてたし、直前は心臓を固めるだけでいいんだから。最近は五ハロン追いが増えたようだけど、良いか悪いは別として、これがおれのやり方だった。良かったんだろう。結構勝ったしね。
長い距離の追い切りはやろうにもやれなかった白井だが、高松三太君のアローエクスプレスなんて種馬になるほどの馬も出たし、まあやり方は良かったんじゃないかな。その高松君もすでに亡い。調教師の同期生でもあり、騎手時代から最も仲良かった。ベテラン調教師にも意見をきちんと言う、筋を通す男だった。
さて、うちのきゅう舎は二十馬房あたっても、当時七頭しかいなかった。久恒久夫君(現調教師)が乗り役で、きゅう務員はたった一人。きゅう務員に、へき地手当として三千円出していたんだが、ほとんど来なかった。東京競馬場に行くには三人がかり。残りの馬の世話はできないわけで、カイバをつける人を別に頼まなくてはならなかった。あのころは苦しかった。
調教師として初めて出走させたのはオーダイヒメという馬。開業した一九六六年の四月、中山の千六百メートル。十六頭立ての十五着。アラブの馬で、あまり覚えてないけど、当時は無事走ってほっとしたんだろうかなあ。
初勝利は札幌だった。三カ月後の七月、コクセンという馬。うれしいなんてもんじゃない。騎手でも調教師でも、初勝ちは格別さ。これがおれのきゅう舎の勝つ始まりだ。
コクセンは続いて札幌で連勝したが、後に障害に下ろした際、東京競馬場でコースを間違えて大けが。それで地方競馬の大井(東京)に行ったんだが、残念なことだった。
馬の世界からそれるけど、調教師になった年の九月、すぐ下の弟が死んでしまった。桧山管内北桧山町の丹羽というところの郵便局長やってたんだが、弟一家四人が殺されたんだ。おれは新潟競馬にいて、電報受けて駆け付けた。火葬場で警察官が「犯人すぐ捕まりますよ」って言うんだ。「どうして」って聞くと「犯人のボタンが落ちていた」と言ってた。実際、間もなく犯人は捕まった。
弟は評判の良い局長だった。農家から慕われていたみたいだったなあ。そんな事件もあり、両親は小沢(後志管内共和町)に居られないって、札幌に出て兄貴の家に同居したんだ。それにしても何とも痛ましい事件だった。
09.全会長だったから勝てた
調教師はいいスポンサーがつくかどうか。つまり馬主次第だ。僕は五年前亡くなった全演植会長には本当に世話になった。
全氏は韓国(慶尚南道)生まれで、東京の府中を中心に焼き肉店やパチンコ店、スーパーなど事業展開するさくらグループの会長。僕に馬を買ってくれるカズさんという馬主の友人だった。調教師を開業したてのころ、中山競馬が終わると道路が込むので、時間つぶしにごはん食べたりマージャンしに白井に遊びに来るようになったんだ。
二十代で馬主になったそうだが、あまり勝てなかったらしい。ある時、カズさんが日高管内静内町の谷岡牧場から馬を六百万円で買ったんだが、その後、会長に売った。ダイイチテンホーという馬で、八つか九つ勝った。特別レースも五つぐらい取ったかな。これが僕と、馬主さくらコマース、谷岡牧場という関係の始まりだった。
全会長は馬に理解があり、血統にも明るかった。会長がいなかったら、僕はこんなに勝てなかった。ようけ走らせても、種馬が一頭も出ないきゅう舎だって結構ある。うちからは十頭以上出たからな。
よく二人で日高で馬見て回った。有名なノーザンテーストの子がこんなに走る前、飛行機の中で「社台(ファーム)には、ぼつぼつ(買いに)入らなければならないですね。もう社台の時代だ」と。それで社台から買うようになった。先が読める人だった。
生産者にも世話になった。谷岡牧場は、僕が食べてもおいしそうだった。良い草は故障が少ない。それに、この牧場は良心的だった。先代の谷岡幸一さんは、例えば僕が「いい馬だから取ろう」って言うと、「いや、先生。ちょっと腰が甘いので少し様子見て、それから持っていってもいいよ」って具合だ。
トウショウボーイの素晴らしい子がいた。ただ脚がそって、ちょっと危なかった。僕は会長に「買わない方がいい」と言った。後で会長から電話で「先生、買ったよ」って。「谷岡牧場の馬だから全部取るんだ」と言うんだ。三千万円で、二回競馬してだめだったが、生産者と馬主の深い信頼関係を見る思いだった。
ところで、「サクラ」の冠がつく馬はたいてい、ピンクの勝負服の小島太(現調教師、網走管内小清水町出身)が乗ってた。うちのきゅう舎所属と思っている人も多いが、僕の娘と結婚しただけで所属でも何でもない。
開業三年目ごろからうちの馬に乗り始めた。会長は小島を「フトシ、フトシ」とサクラの馬に乗せたがった。なぜか知らんが、本当にかわいがってた。きゅう舎にサクラの馬が増えるにつれ、最近引退した東信二君ら、うちの弟子は乗る機会が減ってしまった。東君は有馬記念も勝つほど、決してへたな騎手じゃないんだが。申し訳なかった。
太一辺倒の会長も一度怒ったことがあった。サクラスターオーが一九八七年の弥生賞に挑む直前「太に乗らせるな」って言い出した。
10.前日に記念撮影を約束
サクラスターオーは全演植会長の要請で、うちから平井雄二きゅう舎に移っていた。一九八七年の弥生賞直前、会長から平井君に「太を乗せるな」と電話があった。平井君から相談を受け、僕は「じゃあ、うちの東を乗せとけ」と答えたんだ。代わった東信二騎手は見事に弥生賞を制覇。さつき賞も勝った。ダービーは故障で出なかったが、菊花賞も勝ち二冠だ。同じサクラでも、よそのきゅう舎の馬で勝つとは皮肉だが、なぜあの時、会長は小島の騎乗を嫌ったのかなあ。
調教師になって一番気に入り、ほれ込んだのはスリージャイアンツだ。七九年秋、初めて天皇賞を取った。あんなに自信を持って使った馬はなかったよ。
静内の北西牧場産。歌手の北島三郎さんを育てた新栄プロダクション会長の西川幸男さんと北島さんが設けた牧場だ。馬を見に行くと実にいいんだが、値段は三千万円で即金という。即答できなかった。僕が帰った後、大ベテランの調教師が来て、すぐ交渉したそうだ。しかし西川会長は「境先生が欲しいと言ってるんです。返事が来ないことには売れない」と答えたそうだ。僕は調教師十年目。大先生を差し置いて、売らないでくれた。
この馬は西川会長自身やキョウエイやインターの冠の馬主松岡正雄会長ら三人が共同で買ってくれた。それでスリーだ。七九年、ダイヤモンドステークスで重賞を勝ち、毎日王冠、目黒記念は三着。そして十一月の天皇賞・秋(東京競馬場、三千二百メートル)。うちにブルーマックスという長距離に強いのがいて、調教で併せ馬やるとジャイアンツはいつも五馬身遅れる。でも天皇賞前は逆だった。
勝てると思った。前日、会長の長男山田太郎(本名・西川賢)さんに電話した。「明日は絶対ネクタイ着けて来てよ。勝って記念の写真撮るから」と。太郎さんは「新聞少年」をヒットさせた元歌手。今はプロダクションの社長だが、元芸能人とは思えない腰の低い人だ。「冗談でしょう」と本気にしなかったが「必ず勝つ」と返事した。
メジロファントムに追い込まれ、写真判定にもつれたがハナ差で勝った。冷や汗もんだったが、ネクタイは無駄じゃなかった。
キョウエイグリーンも思い出に残る牝馬だ。馬主は松岡会長で、息子征勝や弟子の媒酌人など公私にわたり世話になっている。開業八年目の七三年、スプリンターズステークス(中山競馬場、千二百メートル)で初めて重賞を取ったんだ。
ハナ(先頭)に出る馬が多そうな短距離。こちらは逃げ馬で「勝てるわけないから、(手綱を)引っ張って抑えて行け」と東に言った。指示通り中団辺りにぽつんと位置し、最後の直線で矢のように一気に脚を使い、差し切った。
実は松岡会長がハワイに行っていなかった。いてもやらせてくれたけど、逃げ馬として人気なのに好位から差す作戦は、ファンの目がうるさい。前年(三着)に続く一番人気だったし。この時はうまくいった。
11.苦節53年夢実現にただ涙
競馬で最高の夢はダービー制覇だ。騎手では三着が最高だったが、調教師として一九八八年、ついに念願を果たしたんだ。
サクラチヨノオーは八七年、函館で新馬戦を勝ち、朝日杯三歳ステークスを制して、翌年ダービーにつながる弥生賞も取った。しかし、ダービーは入着ぐらいはあると思ったが、あまり自信なかった。何か足りない気がしていた。運動中、立ち上がってしまい、一人乗って、もう一人が引っ張らなきゃならないほど気性が悪かったんだ。
五月二十九日、府中の二千四百メートル。東京競馬場は満員だった。二十四頭立ての三番人気。最後の直線、正面スタンドの僕が見ている前では、メジロアルダンに半馬身かわされていた。それに、後ろからコクサイトリプルが追って来た。差す馬でなかったから「二着になれ、二着でいい」って応援したんだ。あとで調教師仲間に笑われた。「そんなばかな応援ない」って。
決勝点入ったら、騎手の小島太がステッキ振り回した。何やってんだと思ったら、周りから「勝ってる。勝ってる」って言われた。メジロの馬を差し返したんだ。写真判定だったけど、電光掲示板に着順がポッて出たでしょ。その瞬間、思わず泣けて、泣けて。終わって立とうとしたら、腰が抜けて立てないの。やっと馬場に下りて行ったら、すでに関係者は勢ぞろいして待ってた。
静内の谷岡牧場には大阪のだれだかから「絶対に勝つ」と手紙来てたんだって。谷岡牧場からも夫婦で見に来てたな。それにしても、よく勝った。気性の激しさが、最後に差し返す力になったのかな。
競馬に携わる者の第一の目標がダービー。同じ年に生まれた九千数百頭から十八頭が選ばれ、そしてその頂点の一頭。見習い騎手でこの世界に入ってから五十三年目だった。喜びは寝てからもじわじわ込み上げてきたよ。重賞はフロックでは勝てない。特にダービーは。馬主、調教師、きゅう務員、騎手-全員の気が合わないと。調教師は「速い時計で追い切りしたい」、きゅう務員は「速いのはだめ」、乗り役は「もう少しやらなきゃ」と意見が違っては勝てない。この時はちゃんと一致してたんだな。
僕のやり方が満点とは言い切れない。会社で言えば社長が偉くたって、仕事はもうかるもんでない。競馬も会社も同じだよ。それにこの時は、あまりほめないんだが、乗り役の小島太がうまかった。
ダービー制覇から半年後、チヨノオーの弟サクラホクトオーが朝日杯三歳ステークスを勝った。強い勝ち方は兄貴より上で、これで翌年のダービーも勝てると思った。しかし、四歳になって弥生賞、さつき賞と雨にたたられた。道悪がうまくなく、大敗続きでリズムを崩してしまったんだ。
ダービーは良馬場だったが九着。秋にセントライト記念を勝ち、菊花賞に臨んだ。ところが、四コーナーで膨らんだ瞬間、姿が競馬場のテレビから消えちゃったんだ。
12.俗説覆す天皇賞レコード
サクラホクトオーはテレビにも映らないほど、外らちいっぱいに走った。勝ったバンブービギンから〇・四秒遅れの五着。うまく乗ってたら楽勝だったかも。騎乗の小島太が下手くそだった。インディアンは手綱一本で真っすぐ走るのに、何で二本持ってるのに外に飛んで行くんだ。
小島がうまく乗ったのは、サクラユタカオーの天皇賞・秋だ。ユタカオーが生まれた時、静内の藤原牧場から電話が入った。「テスコボーイの子が生まれましたが、残念ながら栗毛(くりげ)です」と言うんだ。テスコの栗毛の子は走らないといわれていた。テスコは軽種馬協会の種馬で、セリに出すことになってたので、俗説と気にせず三千五百万円で競り落とした。
新馬戦をレコード勝ち。以降三連勝したが、脚元は不安だった。雨降りがへたで不良馬場の共同通信杯を勝ったが骨折。五歳秋、毎日王冠をレコードで制し、天皇賞・秋へ。しかし、大外枠の十六枠だった。大外なら勝てないと書いた新聞もあった。でもレコードで勝った。中距離の瞬発力はすごく、気分よく走らせた小島も素晴らしかった。
ユタカオーは種馬としても優秀だ。サクラバクシンオーも子供の一頭。短距離では負ける気がしなかった。千二百メートルは八戦七勝でスプリンターズステークスを連勝。一九九四年の1分7秒1は昨年までレコードだ。
バクシンオーは社台の生産馬。母のサクラハゴロモはノーザンテーストの子で、故吉田善哉さんに買いたいと申し込んだ。でも「社台の基礎牝馬として残したい。残念だが売るわけにいかない」と断られた。そこで「じゃあ、境君。貸すよ」と言われ、借りたんだ。三年で三千万円。だけど故障もあり、予定より早く二年で返した。代わりに初子をちょうだいって。父親にはユタカオーを交配した。それがバクシンだ。ただでもらい、それが五億円以上稼ぎ、四億五千万円で売れたんだ。バクシンの子がこの夏、札幌でデビュー勝ち。出世しそうだ。
サクラチトセオーも忘れられない。トニービン産駒(さんく)にしては、柔らかくケツの格好がよかった。まだ日本レコード持ってるのかな。九四年京王杯で千六百メートル1分32秒1。小島が騎乗停止で的場が乗った時だ。出遅れて、一番ケツで行き、最後差して勝った。この時からケツから行くようになったんだ。九五年の安田記念は最も悔しいレースだった。この時も、後方一気。外国馬と一緒に決勝点を越え、写真判定だった。届かなかった。能力がそれまでと言えばそうだが、とても悔しかった。
チトセオーは同年秋の天皇賞を制し、三冠馬ナリタブライアンにも勝った。当時のブライアンは体が少し崩れていた。社台の吉田照哉さんと一緒に見比べ「今日はうちの馬の方がよく見える」と話してたんだ。四歳の時、二着を何馬身も引き離し、こんな強い馬はないと思ってたが、天皇賞は十二着。本調子でなかった。ブライアンは九月に急死。何とも残念だなあ。
13.念願だった有馬記念快勝
最後の大物はサクラローレル。定年を控えた一昨年の有馬記念だ。その年は春先から「今年は重賞を十勝する」と宣言していた。十勝なら当時は記録だった。
ローレルが生まれた時、ちょうど谷岡牧場にいたんだ。皮膚の薄い子は走ると言われるんだが、これまで見たことないほど薄くきれいな子だった。絶対走ると思った。だが故障もあり、デビューは四歳の一月。その後も脚が不安で、やっと秋から五歳正月の金杯まで三連勝したが、目黒記念は小島太がへたでクビ差二着。そして両脚骨折で一年以上休んだ。
その間、きゅう務員が一人定年になったのを機に、他のきゅう舎で調教助手をしていた孫の小島良太を呼び寄せた。持ち乗りきゅう務員としてローレルを担当させ、調教は良太以外乗せなかった。それが功を奏したのか、六歳で復帰戦の中山記念に勝った。当時「調教だけで仕上げ切った」とトウカイテイオーの有馬記念と並び称されたよ。
天皇賞・春もナリタブライアンを退けて勝った。九月のオールカマーも順当に勝ち、次は秋の天皇賞だった。しかし、十六番という大外の枠を引いてしまった。そこで乗り役の横山典弘騎手に「二千メートルの外枠だから、ある程度行っておけよ」って言ったんだ。それなのにケツから行って、あわくって中に入り、出れなくなって脚を余しての三着。記者の前で怒った。「こんなリーディングジョッキーいるか」。あんまり他のきゅう舎の乗り役は怒らないが、あの時は違った。
十一月のジャパンカップは馬主に使わないよう頼み、十二月の有馬記念一本に絞った。ローレルは目いっぱい走る馬で、疲労回復は遅い。それでジャパンを使わなかったんだ。みんな目指すのは四歳ならダービーだが、五歳以上の古馬なら有馬だ。僕自身、有馬だけは騎手としても調教師としても勝ってなかった。
有馬記念の前、記者六、七十人を相手に「日本に負ける馬はいない。絶対有馬は勝つ」と言った。翌日のスポーツ新聞に「境ラッパ、鳴り響く」と見出しが躍った。だけど自信があった。正直に言っただけだ。
乗り役はノリ(横山典)。なぜ代えなかったのか聞かれるが、あれだけの騎手だ、二度も失敗しないよ。次も乗ってもらうためにもあんなに怒ったんだ。今回はただ「向正面から三コーナーまでに、外に出れよ」って注意しただけだ。
師走の二十二日、中山競馬場。十四頭立ての一番人気。ローレルはマーベラスサンデーに二馬身半の差をつけて勝った。ノリは名実共に一流騎手になった。僕も本当にうれしかった。
翌年三月、僕は定年を迎え、調教師になった小島太に七頭託した。ローレルは四月の天皇賞・春を惜敗し、九月にフランス遠征でフォア賞に出た。レース十日前に良太から国際電話があった。てい鉄が合わないということだった。脚に負担がかからない打ち方を指示したが、向こうの鉄屋さんは、日本のきゅう務員の言うことを聞かなかった。
14.付き合いはまだまだ続く
「故障の原因は八割がてい鉄」と僕は言うんだが、サクラローレルはそのまま走り、一発で参った。屈腱(けん)炎だ。途中で武豊君が気付き、最後は流した。一番人気だったが最下位八着だった。今夏は岡部幸雄、武君と仏のGIを連勝した。ローレルは僕自身が連れてってみてもおもしろかったと思ってたが…。
一九九六年にスポーツ功労で文部大臣表彰された。某有名解説者のおかげだ。九五年、サクラキャンドルがクイーンステークスを勝ったが、その人が「メンバーに恵まれた」と、くさした。頭にきてキャンドルを一カ月後のエリザベス女王杯に出して勝った。その二週間前、兄チトセオーも天皇賞制覇。ひと月で兄妹がGI三勝し、それで功労賞だ。
「馬にほれるな」。故清水茂次先生に教えられた言葉だ。馬を見ては天下一の先生は「ほれずに、何回も見て買え」と言っていた。この言葉を胸に何度も北海道へ足を運んだ。ある時、社台で故吉田善哉さんが「これ走るよ」って勧めてくれた。ノーザンテーストの子だが、顔が嫌でトモ(後脚)の格好も好きでなかった。さくらの全演植会長は買おうと言ったが反対した。この馬がダイナガリバー。他きゅう舎に入り、八六年のダービーも有馬記念も勝たれた。馬を見るのは本当に難しい。
僕は外国産馬は一匹も入れたことない。八、九割は日高産。日高びいきだもの。今、かなりマル外にやられてるが、内国産馬もユタカオーをはじめ、最近ローレルやマヤノトップガンなどGI馬が種牡馬に下りて来た。楽しみだ。
調教師三十一年で通算六百五十六勝。重賞五十三勝。馬の状態を読むのは当然の仕事で、調教師ならみな同じ。ただ、僕は馬主にも、生産者にも恵まれた。きゅう務員や乗り役も一生懸命だった。あるきゅう務員は馬をシャワーに入れ、乾かして脚をマッサージし、納得いくまで世話してた。何にしても一生懸命やらなきゃだめということだ。
それにうちのばあさん(喜久枝夫人)も。京都で知り合い、ライバルは一人いたが、師匠が「遊んでばかりいないで早く嫁もらえ」って。戦時中、府中の大国魂神社で国民服着て式挙げた。家内の手料理を喜んでくれたのも全会長との付き合いの始まり。こんな嫁さんもらわなければ、今ごろ刑務所でも行ってさ。
僕は大胆な方でもなく、失敗は多かったが悔いない。ただ好きなことやってきた。くよくよしてもしょうがないがな。馬はかわいい。言葉が分かるなんて言わないけど、大事に世話すると、ちゃんとこたえてくれる。人と馬に恵まれたな。体も丈夫だし、馬との付き合いはまだまだ続くよ。
それはそうと、あんた馬券買うのかい。引退して一度買ったが、孫の小遣いにもならん。家族に迷惑掛けない程度にやることだ。
騎手、調教師と馬一筋六十三年。調教師時代、はっきり物を言うんで「境のラッパ」と言われた。競馬場のエレベーターで「こんな腐れ馬、よく勝った」って言ったら、馬主さんが後ろにいたこともあった。
でも、強気だから吹くんじゃなく、ちゃんと馬の状態見て正直に言っただけ。太いか細いか、調子はどうか、朝昼晩見てわからなけりゃプロじゃない。だからきゅう務員に馬の目方は量らせなかった。きゅう舎は肉屋じゃないんだから。
自分だけで勝ったんじゃない。馬主、調教師、きゅう務員、騎手、みんなのおかげ。昨年引退したが、朝は暗いうちに起きちゃう。今も日高に行くし、スポーツ新聞に書いたりと、馬とは切っても切れないよ。
生まれは羊蹄山と岩内の間にある小沢村。両親は今の広島県大竹市から北海道に来た。国鉄勤めの父は頑固だが世話好き、仲人をよく頼まれた。母は機転が利く明せきな人だった。兄弟は男五人と女三人、僕は三男。みんなが頭良く、僕だけ天下一品の悪がきで、運動神経だけはよかった。隣がニセコでスキーもうまく、野球の騎手チームではキャッチャーで、東京競馬場のある府中の東芝と試合をしたほどさ。
家は国鉄宿舎で、線路を渡って二十分の所に牧場があった。朝三時、乳を搾り終わると牛を山に放し、夕方に小屋に戻すんだ。朝四時ごろ行くと、牛を追う馬に乗せてくれてさ。農耕馬でない格好いい馬で「境のあんちゃん、馬乗りうまいね」と言われてたんだ。
当時十二歳ぐらい。毎日のように、学校行く前に乗るんだ。たまに、八キロぐらい離れた所に、てい鉄打つため乗って行ったりとか。動物好きで、何にしても馬が好きだった。かわいがればなつくしな。ただただ馬に乗りたかったんだ。
近くの倶知安競馬に行くと、馬も騎手の服もきれいで「あんなふうに乗ってみたいなあ」と思っていたんだ。小沢で貨車がよく入れ替えして一時間ぐらい止まってたんで、貨車に積まれた馬に青草持ってってね。きゅう務員らしき人が「あんちゃん。そんなに好きなら、背ちっこいから馬乗りになりなよ」って。
兄弟は堅い所に勤め、僕も国鉄に入り車掌の仕事をしたかった。でも身長が足りなくてね。今は身長一五三センチだが、当時一四五センチぐらい。それで子供心に騎手になろうと思ったんだ。
02.世話の後はいつも腹ペコ
小沢の尋常高等小学校を出て、ひと夏、母の妹がいた北見に行った。馬が二頭ぐらいいて「乗れる」と思ってね。ジャガイモとかハッカを作る農家さ。クワで掘った作物を後ろから拾って馬車にのっけて、でんぷん工場に持って行くんだ。きつい仕事だったよ。
次に小樽の鎌倉病院に行った。院長は馬の血液の研究かなんかで博士になった人。道庁にいた叔父さんの知人で、朝里の牧場に馬を置いていた。「馬乗りになるなら、ここで勉強しなさい」と言ってくれ、二カ月ほどいたんだ。その後、院長が馬を預けていた縁で、札幌の清水茂次きゅう舎を紹介してくれ、一九三五年(昭和十年)に騎手見習いになった。 清水先生のきゅう舎は札幌競馬場前にあり、六、七十頭飼ってた。兄弟子は七人。師匠の靴磨き、先輩の服の洗濯と寝る暇ない。師匠の靴はピカピカに磨き、少しでも墨が付いてると、たたかれた。下っぱなんで、一番早く朝三時に起きて、十数頭乗り込む。全部終わってからやっと自分の担当馬を手入れするんだ。馬を洗うのも今なら温水シャワーだけど、当時は水で洗い、乾くまで体を一生懸命ワラでこするんだ。大変だった。あんなに働くと腹減ってな。パン屋がパンやトウキビを売りにくるんだ。でも師匠からは毎月一円とか五十銭しかもらえない。買えないから、ちょっと失敬したこともあったさ。
師匠のお母さんが、かまにこびりついたお焦げで作った握り飯をよく差し入れてくれた。今なら入れ歯で食えないけど、うまかったなあ。仕事は厳しかったが、札幌の街は馬でどこでも行けた。北一条通りの女子高を通る時、女の子を見るのが楽しみだったよ。
見習い騎手になった直後の三五年、ダービーでガヴアナーという馬が勝った。きゅう舎でラジオを聞いてたが、静内の生産馬が三着に入り大騒ぎ。当時は千葉の下総御料牧場、岩手の小岩井農場の馬が強く、ガヴアナーも小岩井。道産馬は歯が立たなかった。
馬乗りになるのに、親は反対だった。特に父は村でも一番というほどの厳格な人でね。猛烈に怒った。昔は騎手なんて極道者と思われていたから。「一人前になるまで帰ってくるな」と言われたな。三五年十一月、えさのエン麦をつぶす作業をしていて、ローラーで右手の中指と人さし指の先をつぶしたんだ。それで久しぶりに帰ったんだけど「だから早くやめろ」って。騎手になれないかなと思ったけど、幸いけがは大したことなかった。
九十三歳まで生きた父は、まじめできちょうめんだった。なのに僕みたいなのが育って。人間でさえそうなんだから馬の将来だってなかなかわからんよな。
僕と中央競馬のスタートは重なってるんだ。当時は札幌をはじめ全国十一の競馬倶楽部が独自に騎手免許を出していた。三六年から倶楽部が統合され、今の日本中央競馬会(JRA)の前身「日本競馬会」が誕生。僕もこの時、免許取って正騎手になり、全国で乗れるようになったのさ。
03.給料をもらえず貧乏続く
初レースは一九三七年(昭和十二年)七月の札幌。キヨタマという馬だった。一年先輩の兄弟子と一緒に出走した。師匠がレース前「どうせ勝てる馬じゃないから、二人のうち先にスタートした方に一円やる」って言うんだ。
今のゲートと違い、昔は綱が上がるんだ。一斉に出られるわけじゃなく、あんちゃんなら技術もなく、なかなか出してくれない。八頭立てだったかな。六着ぐらいだったけど、先輩より僕がスタート良く、清水茂次先生から一円もらった。今の千円ぐらいかな。
初勝利は三八年四月、小倉でホンラクという馬だった。札幌の琴似の馬主の馬でね。最初からハナ(先頭)を切りっ放しで行った。自分が担当、世話してた馬だったし、うれしかったなあ。こそっと馬主さんから二円もらったが、先生に見つかり取り返された。騎手として一回乗ると当時十円ぐらいの手当だが、騎手の分は先生の所で止まっちゃう。昔はそんなもんだった。今なら賞金の五%は翌週火曜日には騎手の口座へ振り込まれるけど。 貧乏だったから、実家から、家で飼ってた綿羊で編んだ靴下を送ってくれた。それでも兄弟子のお下がりの靴下もらって。湯飲み茶わんを入れ、かかとの穴を繕ったもんさ。乗馬ズボンもダブダブのお下がり。兄弟子のズボンをいいなあと言ったら「売ってやる」と。でも金がない。初めて質屋に行った。
父親から「なきゃ困るだろう」と、岩内で買ってもらった腕時計があった。これを持って質屋に行くと、十円だったか貸してくれた。後で借りたお金を返しに行ったが、利子分も払うんだもんな、それが払えず流しちゃった。
師匠からきちんと給料をもらったのは弟子入り十年目の四四年。初代東京馬主協会長、栗林友二さんのクリヤマトに乗り、東京競馬場でのさつき賞を勝ったんだ。戦時中で馬券発売はなかったが、十頭立てでハナ切りっ放し。初めてクラシックレースで勝った。その時、先生から四百円ぐらいもらったんだ。
半分を結納金に使った。家内は京都で行きつけの玉突き屋の娘。でも結婚後すぐ徴兵された。旭川の騎兵第七連隊通信中隊。ガダルカナル要員だったが、入隊前日に部隊が玉砕。兄弟子もそれで死んだ。三カ月教育で帰された直後、再び召集、もうだめだと観念した。覚悟の再召集だったが、入隊四カ月で戦争が終わってしまった。負けるはずだよ、馬乗りやってたのが無線係やれだもんな。でも要領よくて、部隊長付きとなり馬を世話したんだ。「けるから」ってだれも見る者いなくてさ。終戦三日前に長男が生まれた。出征中なので「征勝」と名付けた。
清水先生は騎手としてもペース判断が素晴らしく、時計で計ると言った時間でぴったり戻って来る。例えば「千六百メートルをハロン十五秒で」と言えば、一ハロン(二百メートル)十五秒のペースで、計百二十秒かかるんだが、僕も新弟子時代は上手に乗れず、二秒違えばステッキでよくたたかれた。
04.登録間違えた先生に激怒
清水茂次先生の騎乗はいつも時間が正確だった。それがしゃくで、先生の時計を計り「二つ(二秒)遅れました」とうそついた。そうしたら「おかしいなあ。どこで遅れたかなあ」と首をひねり、新聞記者に確かめに行った。戻ると「間違ってるのはおまえだ。時計も満足に取れないのか」って。結局また、たたかれた。
ペース判断こそ騎手の条件で、時計の分からん乗り役はだめ。僕も弟子にうるさく言った。車だって今五〇キロか六〇キロなのか分からなけりゃな。僕が今まで一番感心した騎手は福永洋一君だ。千メートルでもペースが速いと思えば後方に控え、三千メートルでも遅いとみれば果敢にハナに立つ。武豊君も状況の読み取りが速い。
清水先生の思い出だが、馬を見る目は日本一だった。安い馬を見つけ成績を残した。一九七一年の天皇賞、有馬記念を勝ったトウメイなんか代表的な例。買った時は百六十八万円の安馬さ。大した先生だったが、恨んだこともあったよ。
僕が新馬時代から乗っていたニパトアという牝馬がいた。四二年(昭和十七年)、函館で六頭立ての大きなレースで、五頭が同じきゅう舎でね。先生は「おまえ、挟まって出られないだろう」と、ここはこう乗れ、あそこはああ乗れと教わって。三コーナーまで必ず後方に付けろ、そして外からかわして行けと。審判室の真ん前の外枠いっぱいに出して見事に勝った。その後、東京競馬場でも勝った。連勝の結果、東京で秋の天皇賞に出ることになったんだ。
ところが、いつのまにか弟弟子が騎手登録されていた。「どうしたんだ。負けたわけでも、下手な乗り方したわけでもないのに」と聞いた。そしたら「間違えて登録した」って言うんだ。結果は快勝。頭にきた。飲める方じゃないんだけど、一気にウイスキーをコップ半分飲んで、先生の家に押しかけた。出刃包丁持って。でも家に行くと「いない」と。留守だった。帰り道は酔いが回って歩けなくなって、この話は終わりさ。
さて、戦後、除隊になり、今の中央競馬会の日高支所(静内)に行き、馬の育成を手伝った。四六年五月、競馬会の配属で札幌の川崎敬次郎きゅう舎に移った。札幌では次に稗田虎伊、星川泉士きゅう舎と移り、この後は京都から阪神、再び京都に戻って中山と合計九つのきゅう舎を回った。「給料増やすからうちに来い」って言われたり、関西から関東の中山に出てきた時も「乗り役いないから困ってるんだ」って誘われたんだ。おだてられたのかな。
思い出の騎乗は五〇年の桜花賞。道庁で課長を務めていた叔父が、道内で事業やっていた斉藤健二郎さんという馬主さんと知り合いだった。その斉藤さんが「おいっ子に一匹買ってやる」と言ってくれた。当時は札幌の星川きゅう舎にいたんだが、持ち乗りになった牝馬がトサミツルだ。持ち乗りとは、馬の世話や調教もやり本番のレースも騎乗すること。でもレース前、ちょっと困った状態になった。
05.牝馬でダービー3着に
桜花賞は京都や中山でやってたが、一九五〇年から阪神競馬場に移った。僕自身も阪神に初めて出場した年だった。トサミツルは一カ月前から阪神に入った。ところが、けいこを強めにしたら、レースが近いと感じ、途端にかいばを食わなくなったんだ。
もともと食いは細かったけど往生した。ひと晩中、えんばくを手に持って食べさすんだ。うまやで一緒に寝て。でも本番では見事に勝った。苦労したから、余計うれしかったよ。あのころ桜花賞で勝つと五十万円。当時は賞金の歩合を取って乗ってたが、乗り役ときゅう務員分で計一割で五万円。騎乗手当など加えると七万円になった。
ぼくは飲まんけど、のんべを連れて宝塚に行った。乗馬ズボンはいてたんだが店に断られた。けったくそ悪くて。金いっぱい持ってるのに。そうしたら、中から店のおやじが飛んで来て「境さんじゃないですか」。そうだと答えると「いやー失礼しました。入ってください」と言うのさ。競馬やる人間だったのかな。仲間三人と入ったら、すてきなのが出て来たな。豪遊だ。毎晩芸者二、三人あげて。
クインナルビーも忘れられない馬だ。オグリキャップの五代上の母で、最近のファンも聞いたことがあるかもしれない。四白(足元が白)でくり毛のきれいな牝馬だった。本来の乗り役がいたが、所属していた京都の石門虎吉きゅう舎から「境君、この馬走るから京都に来たら乗ってくれないか」って誘われてさ。それで札幌から移った。
五〇年代初め、強い牝馬がほかに三頭いた。女優高峰三枝子さんが馬主のスウヰイスー。松山吉三郎きゅう舎のオークス馬だ。短距離が速かったわな。シンザンで有名な武田文吾きゅう舎はレダ。中距離に強いタカハタは“大尾形”の尾形藤吉きゅう舎所属だった。
五二年、桜花賞はスウヰイスーに破れ三着だった。一カ月半後、男馬に交じりダービーに挑んだ。一週間前、馬が熱発して一日けいこを休んだ。どうせ勝てないんだからと調教師から「危なくないように乗ってきな」って言われたんだ。
府中の東京競馬場、芝二千四百メートル。出走は三十一頭。タカハタが一番人気。後の菊花賞馬になったセントオーが二番人気。ところが、人気馬はもまれて、抜け出せなくなった。中はゴチャゴチャ。昔のダービーは、今と違い頭数も多く、一コーナー回るまで生きた心地がしなかった。僕の目の前で四、五頭ひっくり返ったこともあった。今なら内に入ったらすぐ罰金。ビデオで全部撮られるしね。あのころは挟むとか、外に張り出すのは、普通のことだった。
こちらは危なくないように外らちいっぱいに回った。結果は三着だったが、男馬に引けを取らなかった。僕はダービーに何度か乗ったが、これが最高位。完調だったら楽勝だったかもしれないし、今でも、もう少しうまく乗ってれば勝てたかも、って反省してるんだ。
06.終盤で差し勝ち大騒ぎに
一九五二年のダービーで三着だったクインナルビーは、翌年秋の天皇賞に挑んだ。今度は万全だった。府中(東京競馬場)の三千二百メートルを3分23秒0で駆け抜けた。レコードだった。男馬を相手にしなかった。記録は十年ぐらい消えなかったんじゃないか。長い距離は強かった。今度は芸者街の神楽坂で騒いだ。かみさんにおこられたけどな。
この馬の父は三九年(昭和十四年)のダービー馬クモハタ。五三年に伝染性貧血で薬殺されたが、その年に子供が天皇賞を勝つとは因縁だな。
約三十年の騎手生活で落馬は何度かしたが、鎖骨を折ったぐらいで、大きなけがはあまりなかった。
でも札幌の障害で落馬した際、大差で離していたので再び飛び乗ると、ちょうど後ろから来た馬に跳ねられた。痛くもかゆくもなく、次のレースに出ようとしたが、だめと言うんだ。汗だと思って頭に触ったら血。ようけ出たなあ。十針縫った。
騎手として通算勝利は五百三十四勝。最初の清水茂次師匠はよその人を頼まず、全弟子を平均に乗せた。多く乗れて感謝しているが、当時の五百勝は今の千勝以上だろう。レースが毎週あるわけではないし、札幌終わると京都へ行く程度。値打ちあった。
五百勝目を函館で挙げた六四年、アジアの騎手交流戦に中央競馬会からフィリピンへ派遣された。今の副理事長北原義孝さんが通訳で行ってくれた。向こうの競馬はずいぶん遅れていたが、おもしろかった。
本来、乗り役は抽選で決めるんだが、知らずに行くと「口をチャックしろ」って。「うちの馬主はフィリピンで一番偉い人だ」と説明するんだ。この馬主さんが日本で中山競馬を見たとかで、調教師に電話で「うちの馬にサカイを乗せろ」ときたらしい。大きい馬で引っ掛かり大変だった。「そんなの乗れるか」と言うぐらいあぶみも長かった。「スタートしたら行け」と言われてたが、外枠から馬が寄ってきたので後方から行った。
手綱を引き待機していたが、しまい(終盤)をスーッと行って、差し勝った。「(先行逃げ切り型の)フィリピンで、あんな勝ち方初めて見た」と場内大騒ぎ。調教師からすき焼きごちそうになったよ。
騎手のハンデは、日本では速いのが重いが、おかしなことに馬体が大きいのが重い。タオルに水掛けて負担重量を六十二キロなら六十二キロになるように重くするんだ。タオルを鞍(くら)の下に入れると、とんでもなく高くなる。「これじゃ乗れない」って言うと「タオルを降ろして乗れ」。騎乗後の計測では、てんびんばかりみたいのに「どんと乗り、揺れていったん戻って真ん中に来たら降りろ」って。
騎手の取り分は一着十万円、二着五万円、三着三万円。日本から僕を入れ騎手三人が出場、みんなで分けようと約束してた。僕が一、二着で計十五万円。結局五万円ずつ分けたが、現地では使い切れない。地元騎手の家でごちそうになったり、いい思い出だらけ。暑いのには往生したけど。
07.馬場穴だらけ よく転倒
節目の五百勝は函館でクインフォーラという馬で挙げ、当時史上十三人目(現在五十三人)ということで、中央競馬会から表彰された。自分でもよくやったと思う。別に乗り方がうまかったというわけでなく、いい馬に乗せてくれたから、これだけ勝ったんだよ。今体重は七〇キロ超し、医者には減らせって言われてるけど、当時は四八キロから五〇キロ。減量しなくても体重は維持できた。出遅れもなかったな。意外ときちょうめんだったんだろうな。
四十歳半ばで、ちょっと年も感じていた。それに今のゲートの機械ができて、だれが乗っても、ちゃんと全員一緒に出られるようになった。昔の綱のバリアなら、ベテラン連中が若いあんちゃんを出させてくれなかったもんだ。でも若い人も乗れるようになると、次第にぼくらの乗る馬が少なくなってきて。じゃあ辞めようかというわけさ。少しは寂しかったけど、すぐ調教師の免許が下りたからね。地味に調教助手なんてやってられんが。おれの性格からして。
今は調教師試験は大変でしょ。何十人受けるのか知らないけど。最近は調教助手が受けるの多くなったが、なぜ免許下りるかと言うと、大学出が多いから。学科が主になったからね。
僕が受けた時のこと。ある人が「やあ、勝ちゃん。おれ、あんまり勉強してないんだ。勝ちゃんのできたところ、見せてくれればいいなあ」って。仕方ないから「横に座れよ。おれのできたところ書けばいいじゃないか」って答えた。「じゃあ、頼むよ」と言われ、試験を受けに馬事公苑に行ったんだ。ところが、席はあいうえお順。その人間はかなり後ろの席で、ぼくとは離ればなれ。答案用紙に「来年また来ます」って書いたそうだよ。笑い話みたいなもんだなあ。
僕はちゃんと受かった。一九六六年三月、免許が下りて、いよいよ調教師の開業だ。場所は千葉県の白井町。今は競馬学校があるけど、当時はすごい田舎でね。競馬場のある中山にいたかったけど、競馬会から二十馬房割り当てられて行ったんだ。電話もきゅう舎に無かった。回線が無く、付けられないということだった。電話局も無かったから役場に予約入れてね。でもつながるまで一時間かかるんだ。中山から車で四十分だから、直接行った方が早かった。
うちのきゅう舎は競馬会の事務所から一番近かった。でも「境さん、電話だよ」って警備員役の農家のおじさんが言いに来てくれるんだが、走ったって三、四分かかる。馬主さんの奥さんから「何やってんのよ」ってよく怒られていた。
白井は当時十三人ぐらいしか調教師はおらず、調和取れていた。例えば、ある調教師が左回りで追いたいと言えば、じゃあ左回りとなる。わりと妥協性、融通性があったな。それで、結構走ってくれたしな。でも馬場は悪く、ぼこぼこ、穴だらけ。乗ってた馬がひっくり返り、着ていたシャツが真っ赤になった。
08.初出走 無事に走ってほっとした
馬もろともひっくり返り、シャツも何も血で真っ赤。でも自分自身は痛くなく、けがはなかった。へんだなあ、と馬を見たら、馬の耳が半分なくなってたんだ。起き上がる時に、自分の耳を踏んだようだった。
白井の馬場は穴ぼこだけでなく、おまけに小さかった。七ハロン(一ハロン=二百メートル)の追い切りをやろうと思えば、カーブの所からスタートしなければならない。それで、僕はレース前の追い切りを五ハロンしかやらなかった。三千メートル使おうが三千二百メートルの競馬だろうが、直前追いは五ハロンしかやらなかった。
ふだんハードな調教をしてたし、直前は心臓を固めるだけでいいんだから。最近は五ハロン追いが増えたようだけど、良いか悪いは別として、これがおれのやり方だった。良かったんだろう。結構勝ったしね。
長い距離の追い切りはやろうにもやれなかった白井だが、高松三太君のアローエクスプレスなんて種馬になるほどの馬も出たし、まあやり方は良かったんじゃないかな。その高松君もすでに亡い。調教師の同期生でもあり、騎手時代から最も仲良かった。ベテラン調教師にも意見をきちんと言う、筋を通す男だった。
さて、うちのきゅう舎は二十馬房あたっても、当時七頭しかいなかった。久恒久夫君(現調教師)が乗り役で、きゅう務員はたった一人。きゅう務員に、へき地手当として三千円出していたんだが、ほとんど来なかった。東京競馬場に行くには三人がかり。残りの馬の世話はできないわけで、カイバをつける人を別に頼まなくてはならなかった。あのころは苦しかった。
調教師として初めて出走させたのはオーダイヒメという馬。開業した一九六六年の四月、中山の千六百メートル。十六頭立ての十五着。アラブの馬で、あまり覚えてないけど、当時は無事走ってほっとしたんだろうかなあ。
初勝利は札幌だった。三カ月後の七月、コクセンという馬。うれしいなんてもんじゃない。騎手でも調教師でも、初勝ちは格別さ。これがおれのきゅう舎の勝つ始まりだ。
コクセンは続いて札幌で連勝したが、後に障害に下ろした際、東京競馬場でコースを間違えて大けが。それで地方競馬の大井(東京)に行ったんだが、残念なことだった。
馬の世界からそれるけど、調教師になった年の九月、すぐ下の弟が死んでしまった。桧山管内北桧山町の丹羽というところの郵便局長やってたんだが、弟一家四人が殺されたんだ。おれは新潟競馬にいて、電報受けて駆け付けた。火葬場で警察官が「犯人すぐ捕まりますよ」って言うんだ。「どうして」って聞くと「犯人のボタンが落ちていた」と言ってた。実際、間もなく犯人は捕まった。
弟は評判の良い局長だった。農家から慕われていたみたいだったなあ。そんな事件もあり、両親は小沢(後志管内共和町)に居られないって、札幌に出て兄貴の家に同居したんだ。それにしても何とも痛ましい事件だった。
09.全会長だったから勝てた
調教師はいいスポンサーがつくかどうか。つまり馬主次第だ。僕は五年前亡くなった全演植会長には本当に世話になった。
全氏は韓国(慶尚南道)生まれで、東京の府中を中心に焼き肉店やパチンコ店、スーパーなど事業展開するさくらグループの会長。僕に馬を買ってくれるカズさんという馬主の友人だった。調教師を開業したてのころ、中山競馬が終わると道路が込むので、時間つぶしにごはん食べたりマージャンしに白井に遊びに来るようになったんだ。
二十代で馬主になったそうだが、あまり勝てなかったらしい。ある時、カズさんが日高管内静内町の谷岡牧場から馬を六百万円で買ったんだが、その後、会長に売った。ダイイチテンホーという馬で、八つか九つ勝った。特別レースも五つぐらい取ったかな。これが僕と、馬主さくらコマース、谷岡牧場という関係の始まりだった。
全会長は馬に理解があり、血統にも明るかった。会長がいなかったら、僕はこんなに勝てなかった。ようけ走らせても、種馬が一頭も出ないきゅう舎だって結構ある。うちからは十頭以上出たからな。
よく二人で日高で馬見て回った。有名なノーザンテーストの子がこんなに走る前、飛行機の中で「社台(ファーム)には、ぼつぼつ(買いに)入らなければならないですね。もう社台の時代だ」と。それで社台から買うようになった。先が読める人だった。
生産者にも世話になった。谷岡牧場は、僕が食べてもおいしそうだった。良い草は故障が少ない。それに、この牧場は良心的だった。先代の谷岡幸一さんは、例えば僕が「いい馬だから取ろう」って言うと、「いや、先生。ちょっと腰が甘いので少し様子見て、それから持っていってもいいよ」って具合だ。
トウショウボーイの素晴らしい子がいた。ただ脚がそって、ちょっと危なかった。僕は会長に「買わない方がいい」と言った。後で会長から電話で「先生、買ったよ」って。「谷岡牧場の馬だから全部取るんだ」と言うんだ。三千万円で、二回競馬してだめだったが、生産者と馬主の深い信頼関係を見る思いだった。
ところで、「サクラ」の冠がつく馬はたいてい、ピンクの勝負服の小島太(現調教師、網走管内小清水町出身)が乗ってた。うちのきゅう舎所属と思っている人も多いが、僕の娘と結婚しただけで所属でも何でもない。
開業三年目ごろからうちの馬に乗り始めた。会長は小島を「フトシ、フトシ」とサクラの馬に乗せたがった。なぜか知らんが、本当にかわいがってた。きゅう舎にサクラの馬が増えるにつれ、最近引退した東信二君ら、うちの弟子は乗る機会が減ってしまった。東君は有馬記念も勝つほど、決してへたな騎手じゃないんだが。申し訳なかった。
太一辺倒の会長も一度怒ったことがあった。サクラスターオーが一九八七年の弥生賞に挑む直前「太に乗らせるな」って言い出した。
10.前日に記念撮影を約束
サクラスターオーは全演植会長の要請で、うちから平井雄二きゅう舎に移っていた。一九八七年の弥生賞直前、会長から平井君に「太を乗せるな」と電話があった。平井君から相談を受け、僕は「じゃあ、うちの東を乗せとけ」と答えたんだ。代わった東信二騎手は見事に弥生賞を制覇。さつき賞も勝った。ダービーは故障で出なかったが、菊花賞も勝ち二冠だ。同じサクラでも、よそのきゅう舎の馬で勝つとは皮肉だが、なぜあの時、会長は小島の騎乗を嫌ったのかなあ。
調教師になって一番気に入り、ほれ込んだのはスリージャイアンツだ。七九年秋、初めて天皇賞を取った。あんなに自信を持って使った馬はなかったよ。
静内の北西牧場産。歌手の北島三郎さんを育てた新栄プロダクション会長の西川幸男さんと北島さんが設けた牧場だ。馬を見に行くと実にいいんだが、値段は三千万円で即金という。即答できなかった。僕が帰った後、大ベテランの調教師が来て、すぐ交渉したそうだ。しかし西川会長は「境先生が欲しいと言ってるんです。返事が来ないことには売れない」と答えたそうだ。僕は調教師十年目。大先生を差し置いて、売らないでくれた。
この馬は西川会長自身やキョウエイやインターの冠の馬主松岡正雄会長ら三人が共同で買ってくれた。それでスリーだ。七九年、ダイヤモンドステークスで重賞を勝ち、毎日王冠、目黒記念は三着。そして十一月の天皇賞・秋(東京競馬場、三千二百メートル)。うちにブルーマックスという長距離に強いのがいて、調教で併せ馬やるとジャイアンツはいつも五馬身遅れる。でも天皇賞前は逆だった。
勝てると思った。前日、会長の長男山田太郎(本名・西川賢)さんに電話した。「明日は絶対ネクタイ着けて来てよ。勝って記念の写真撮るから」と。太郎さんは「新聞少年」をヒットさせた元歌手。今はプロダクションの社長だが、元芸能人とは思えない腰の低い人だ。「冗談でしょう」と本気にしなかったが「必ず勝つ」と返事した。
メジロファントムに追い込まれ、写真判定にもつれたがハナ差で勝った。冷や汗もんだったが、ネクタイは無駄じゃなかった。
キョウエイグリーンも思い出に残る牝馬だ。馬主は松岡会長で、息子征勝や弟子の媒酌人など公私にわたり世話になっている。開業八年目の七三年、スプリンターズステークス(中山競馬場、千二百メートル)で初めて重賞を取ったんだ。
ハナ(先頭)に出る馬が多そうな短距離。こちらは逃げ馬で「勝てるわけないから、(手綱を)引っ張って抑えて行け」と東に言った。指示通り中団辺りにぽつんと位置し、最後の直線で矢のように一気に脚を使い、差し切った。
実は松岡会長がハワイに行っていなかった。いてもやらせてくれたけど、逃げ馬として人気なのに好位から差す作戦は、ファンの目がうるさい。前年(三着)に続く一番人気だったし。この時はうまくいった。
11.苦節53年夢実現にただ涙
競馬で最高の夢はダービー制覇だ。騎手では三着が最高だったが、調教師として一九八八年、ついに念願を果たしたんだ。
サクラチヨノオーは八七年、函館で新馬戦を勝ち、朝日杯三歳ステークスを制して、翌年ダービーにつながる弥生賞も取った。しかし、ダービーは入着ぐらいはあると思ったが、あまり自信なかった。何か足りない気がしていた。運動中、立ち上がってしまい、一人乗って、もう一人が引っ張らなきゃならないほど気性が悪かったんだ。
五月二十九日、府中の二千四百メートル。東京競馬場は満員だった。二十四頭立ての三番人気。最後の直線、正面スタンドの僕が見ている前では、メジロアルダンに半馬身かわされていた。それに、後ろからコクサイトリプルが追って来た。差す馬でなかったから「二着になれ、二着でいい」って応援したんだ。あとで調教師仲間に笑われた。「そんなばかな応援ない」って。
決勝点入ったら、騎手の小島太がステッキ振り回した。何やってんだと思ったら、周りから「勝ってる。勝ってる」って言われた。メジロの馬を差し返したんだ。写真判定だったけど、電光掲示板に着順がポッて出たでしょ。その瞬間、思わず泣けて、泣けて。終わって立とうとしたら、腰が抜けて立てないの。やっと馬場に下りて行ったら、すでに関係者は勢ぞろいして待ってた。
静内の谷岡牧場には大阪のだれだかから「絶対に勝つ」と手紙来てたんだって。谷岡牧場からも夫婦で見に来てたな。それにしても、よく勝った。気性の激しさが、最後に差し返す力になったのかな。
競馬に携わる者の第一の目標がダービー。同じ年に生まれた九千数百頭から十八頭が選ばれ、そしてその頂点の一頭。見習い騎手でこの世界に入ってから五十三年目だった。喜びは寝てからもじわじわ込み上げてきたよ。重賞はフロックでは勝てない。特にダービーは。馬主、調教師、きゅう務員、騎手-全員の気が合わないと。調教師は「速い時計で追い切りしたい」、きゅう務員は「速いのはだめ」、乗り役は「もう少しやらなきゃ」と意見が違っては勝てない。この時はちゃんと一致してたんだな。
僕のやり方が満点とは言い切れない。会社で言えば社長が偉くたって、仕事はもうかるもんでない。競馬も会社も同じだよ。それにこの時は、あまりほめないんだが、乗り役の小島太がうまかった。
ダービー制覇から半年後、チヨノオーの弟サクラホクトオーが朝日杯三歳ステークスを勝った。強い勝ち方は兄貴より上で、これで翌年のダービーも勝てると思った。しかし、四歳になって弥生賞、さつき賞と雨にたたられた。道悪がうまくなく、大敗続きでリズムを崩してしまったんだ。
ダービーは良馬場だったが九着。秋にセントライト記念を勝ち、菊花賞に臨んだ。ところが、四コーナーで膨らんだ瞬間、姿が競馬場のテレビから消えちゃったんだ。
12.俗説覆す天皇賞レコード
サクラホクトオーはテレビにも映らないほど、外らちいっぱいに走った。勝ったバンブービギンから〇・四秒遅れの五着。うまく乗ってたら楽勝だったかも。騎乗の小島太が下手くそだった。インディアンは手綱一本で真っすぐ走るのに、何で二本持ってるのに外に飛んで行くんだ。
小島がうまく乗ったのは、サクラユタカオーの天皇賞・秋だ。ユタカオーが生まれた時、静内の藤原牧場から電話が入った。「テスコボーイの子が生まれましたが、残念ながら栗毛(くりげ)です」と言うんだ。テスコの栗毛の子は走らないといわれていた。テスコは軽種馬協会の種馬で、セリに出すことになってたので、俗説と気にせず三千五百万円で競り落とした。
新馬戦をレコード勝ち。以降三連勝したが、脚元は不安だった。雨降りがへたで不良馬場の共同通信杯を勝ったが骨折。五歳秋、毎日王冠をレコードで制し、天皇賞・秋へ。しかし、大外枠の十六枠だった。大外なら勝てないと書いた新聞もあった。でもレコードで勝った。中距離の瞬発力はすごく、気分よく走らせた小島も素晴らしかった。
ユタカオーは種馬としても優秀だ。サクラバクシンオーも子供の一頭。短距離では負ける気がしなかった。千二百メートルは八戦七勝でスプリンターズステークスを連勝。一九九四年の1分7秒1は昨年までレコードだ。
バクシンオーは社台の生産馬。母のサクラハゴロモはノーザンテーストの子で、故吉田善哉さんに買いたいと申し込んだ。でも「社台の基礎牝馬として残したい。残念だが売るわけにいかない」と断られた。そこで「じゃあ、境君。貸すよ」と言われ、借りたんだ。三年で三千万円。だけど故障もあり、予定より早く二年で返した。代わりに初子をちょうだいって。父親にはユタカオーを交配した。それがバクシンだ。ただでもらい、それが五億円以上稼ぎ、四億五千万円で売れたんだ。バクシンの子がこの夏、札幌でデビュー勝ち。出世しそうだ。
サクラチトセオーも忘れられない。トニービン産駒(さんく)にしては、柔らかくケツの格好がよかった。まだ日本レコード持ってるのかな。九四年京王杯で千六百メートル1分32秒1。小島が騎乗停止で的場が乗った時だ。出遅れて、一番ケツで行き、最後差して勝った。この時からケツから行くようになったんだ。九五年の安田記念は最も悔しいレースだった。この時も、後方一気。外国馬と一緒に決勝点を越え、写真判定だった。届かなかった。能力がそれまでと言えばそうだが、とても悔しかった。
チトセオーは同年秋の天皇賞を制し、三冠馬ナリタブライアンにも勝った。当時のブライアンは体が少し崩れていた。社台の吉田照哉さんと一緒に見比べ「今日はうちの馬の方がよく見える」と話してたんだ。四歳の時、二着を何馬身も引き離し、こんな強い馬はないと思ってたが、天皇賞は十二着。本調子でなかった。ブライアンは九月に急死。何とも残念だなあ。
13.念願だった有馬記念快勝
最後の大物はサクラローレル。定年を控えた一昨年の有馬記念だ。その年は春先から「今年は重賞を十勝する」と宣言していた。十勝なら当時は記録だった。
ローレルが生まれた時、ちょうど谷岡牧場にいたんだ。皮膚の薄い子は走ると言われるんだが、これまで見たことないほど薄くきれいな子だった。絶対走ると思った。だが故障もあり、デビューは四歳の一月。その後も脚が不安で、やっと秋から五歳正月の金杯まで三連勝したが、目黒記念は小島太がへたでクビ差二着。そして両脚骨折で一年以上休んだ。
その間、きゅう務員が一人定年になったのを機に、他のきゅう舎で調教助手をしていた孫の小島良太を呼び寄せた。持ち乗りきゅう務員としてローレルを担当させ、調教は良太以外乗せなかった。それが功を奏したのか、六歳で復帰戦の中山記念に勝った。当時「調教だけで仕上げ切った」とトウカイテイオーの有馬記念と並び称されたよ。
天皇賞・春もナリタブライアンを退けて勝った。九月のオールカマーも順当に勝ち、次は秋の天皇賞だった。しかし、十六番という大外の枠を引いてしまった。そこで乗り役の横山典弘騎手に「二千メートルの外枠だから、ある程度行っておけよ」って言ったんだ。それなのにケツから行って、あわくって中に入り、出れなくなって脚を余しての三着。記者の前で怒った。「こんなリーディングジョッキーいるか」。あんまり他のきゅう舎の乗り役は怒らないが、あの時は違った。
十一月のジャパンカップは馬主に使わないよう頼み、十二月の有馬記念一本に絞った。ローレルは目いっぱい走る馬で、疲労回復は遅い。それでジャパンを使わなかったんだ。みんな目指すのは四歳ならダービーだが、五歳以上の古馬なら有馬だ。僕自身、有馬だけは騎手としても調教師としても勝ってなかった。
有馬記念の前、記者六、七十人を相手に「日本に負ける馬はいない。絶対有馬は勝つ」と言った。翌日のスポーツ新聞に「境ラッパ、鳴り響く」と見出しが躍った。だけど自信があった。正直に言っただけだ。
乗り役はノリ(横山典)。なぜ代えなかったのか聞かれるが、あれだけの騎手だ、二度も失敗しないよ。次も乗ってもらうためにもあんなに怒ったんだ。今回はただ「向正面から三コーナーまでに、外に出れよ」って注意しただけだ。
師走の二十二日、中山競馬場。十四頭立ての一番人気。ローレルはマーベラスサンデーに二馬身半の差をつけて勝った。ノリは名実共に一流騎手になった。僕も本当にうれしかった。
翌年三月、僕は定年を迎え、調教師になった小島太に七頭託した。ローレルは四月の天皇賞・春を惜敗し、九月にフランス遠征でフォア賞に出た。レース十日前に良太から国際電話があった。てい鉄が合わないということだった。脚に負担がかからない打ち方を指示したが、向こうの鉄屋さんは、日本のきゅう務員の言うことを聞かなかった。
14.付き合いはまだまだ続く
「故障の原因は八割がてい鉄」と僕は言うんだが、サクラローレルはそのまま走り、一発で参った。屈腱(けん)炎だ。途中で武豊君が気付き、最後は流した。一番人気だったが最下位八着だった。今夏は岡部幸雄、武君と仏のGIを連勝した。ローレルは僕自身が連れてってみてもおもしろかったと思ってたが…。
一九九六年にスポーツ功労で文部大臣表彰された。某有名解説者のおかげだ。九五年、サクラキャンドルがクイーンステークスを勝ったが、その人が「メンバーに恵まれた」と、くさした。頭にきてキャンドルを一カ月後のエリザベス女王杯に出して勝った。その二週間前、兄チトセオーも天皇賞制覇。ひと月で兄妹がGI三勝し、それで功労賞だ。
「馬にほれるな」。故清水茂次先生に教えられた言葉だ。馬を見ては天下一の先生は「ほれずに、何回も見て買え」と言っていた。この言葉を胸に何度も北海道へ足を運んだ。ある時、社台で故吉田善哉さんが「これ走るよ」って勧めてくれた。ノーザンテーストの子だが、顔が嫌でトモ(後脚)の格好も好きでなかった。さくらの全演植会長は買おうと言ったが反対した。この馬がダイナガリバー。他きゅう舎に入り、八六年のダービーも有馬記念も勝たれた。馬を見るのは本当に難しい。
僕は外国産馬は一匹も入れたことない。八、九割は日高産。日高びいきだもの。今、かなりマル外にやられてるが、内国産馬もユタカオーをはじめ、最近ローレルやマヤノトップガンなどGI馬が種牡馬に下りて来た。楽しみだ。
調教師三十一年で通算六百五十六勝。重賞五十三勝。馬の状態を読むのは当然の仕事で、調教師ならみな同じ。ただ、僕は馬主にも、生産者にも恵まれた。きゅう務員や乗り役も一生懸命だった。あるきゅう務員は馬をシャワーに入れ、乾かして脚をマッサージし、納得いくまで世話してた。何にしても一生懸命やらなきゃだめということだ。
それにうちのばあさん(喜久枝夫人)も。京都で知り合い、ライバルは一人いたが、師匠が「遊んでばかりいないで早く嫁もらえ」って。戦時中、府中の大国魂神社で国民服着て式挙げた。家内の手料理を喜んでくれたのも全会長との付き合いの始まり。こんな嫁さんもらわなければ、今ごろ刑務所でも行ってさ。
僕は大胆な方でもなく、失敗は多かったが悔いない。ただ好きなことやってきた。くよくよしてもしょうがないがな。馬はかわいい。言葉が分かるなんて言わないけど、大事に世話すると、ちゃんとこたえてくれる。人と馬に恵まれたな。体も丈夫だし、馬との付き合いはまだまだ続くよ。
それはそうと、あんた馬券買うのかい。引退して一度買ったが、孫の小遣いにもならん。家族に迷惑掛けない程度にやることだ。