2007 12/13 01:42
Category : 天皇賞馬テンメイ、その母天皇賞馬トウメイの軌跡 Ⅰ
トウメイが、天皇賞、有馬記念を勝ちながら
最強と呼ばれない不運の馬で有った
その子、テンメイはどんな馬で有ったのか
テンメイを語る時、彼の戦跡より、
鮮烈に、中央競馬史上に残る
出来事がある
テンメイの成績は 36戦6勝(中央)26戦7勝(公営)
天皇賞、京都大賞典、菊花賞2着
まず不運なのは、
その時代、最強と呼ばれてた
マルゼンスキーが、8戦 全勝で引退してしまったことだ
その後に残された馬は、相当の戦跡を残さない限り
名馬と呼ばれない事だ
テンメイが勝った天皇賞で、マルゼンスキーが走っていて
マルゼンスキーが、勝ったのならしょうが無いが
テンメイは、戦う前に負けていた事になる
それと、晩生の血と、天皇賞に勝った馬は
天皇賞に出れない、不運が有った
4歳夏を越してからは徐々に力をつけていったテンメイは
クラシック最終便である菊花賞へと駒を進めた
テンメイは直線で一旦は抜け出すもゴール前でプレストウコウに差され、
惜しくも2着に終わった。
ちなみにこのレースでは、杉本清アナがテンメイが先頭にたったところで発した
「トウメイが待っている。」の実況が有名である。
その後、決して順調とは言えない競走生活を送ったテンメイが
次に大レースに姿を見せたのは5歳秋、
昭和53(1978)年11月26日府中3200mを舞台に行われた天皇賞・秋であった。
一番人気はリュウキコウ。テンメイは4番人気であった。
レースは有名な「カンパイ事件」で幕を開ける。
第78回天皇賞がスタートした
予想通り、ダンケンジがハナを切り、順調にレースが始まったかに見えたが
5番ゲートの、パワーシンボリがゲートの噛み付いた為
そこだけ開かなかったのだ
慌てて、スターターが赤旗を振り、3、4コーナーの係員が白旗を振った
それに気づいた騎手は、必死に馬を止めようとしたが
一旦、その気に成った馬達は、中々止まらず、先頭の馬は
一周目の4コーナーまで達して、やっと止まった
これが、スタートのやり直し「カンパイ」である
江戸時代末期から、明治の初期に掛けて
日本の競馬が、開始された時、外人スターターが「カンバック」と
言った所、日本人には「カンパイ」と聞こえた事により、競馬用語になった
このアクシデントは気性的におっとり型であったテンメイにはプラスに働いたかも知れない。
レースはカカり気味に先行した菊花賞馬プレストウコウをゴール前でテンメイが捕らえ快勝、
菊花賞の雪辱を果たすとともに史上初の天皇賞母子制覇を達成した。
天皇賞の母子制覇は現在に至るもトウメイ・テンメイ母子が唯一無二の例である。
母トウメイが天皇賞を勝った時と、馬主(近藤克夫)、調教師(坂田正行)、騎手(清水英次)、
厩務員が全て同一であったばかりか、
12頭立ての12番枠で2着馬との着差半馬身というところまで
一緒ということでも話題を集めた。
だが、このカンパイは、テンメイにとって不運だったかもしれない
母、トウメイと同じ様に、カンパイが無ければ、プレストウコウが勝ってたんで
無いかと思われたからだ。
この時代、天皇賞は勝ち抜け戦であり、一度勝ってしまったテンメイは出走できない。
適したレースに恵まれぬまま彼の競走生活は低迷を続け、遂に引退することになった。
ところが、テンメイの引退後の処遇を巡り大きな問題が発生する。
体が小さい事などの理由で、中央競馬会の種牡馬試験の受からなかったテンメイは
ルイスディール産駒でヘヴィーステイヤーであるためテンメイを種牡馬として
引き取る先がなかなか見つからなかったのだ。
紆余曲折を経て、オーナーの近藤は「青森で種牡馬にする」と発表、
ようやくテンメイにも安住の地が見つかったかに思われた。
しかし運命の女神は彼に平穏な生活を許してはくれなかった。
彼はオーナーによって地方競馬へと売り飛ばされていたのである。
そして岩手へ
「天皇賞馬、岩手競馬へ」、日本競馬界に激震が走った。
青森の牧場で種牡馬となっていたはずのテンメイが
公営岩手競馬の水沢競馬場で走るという。
当時の天皇賞の価値は今日考えられているよりはるかに高い、
今でいえば「ジャパンカップ」に勝った馬が
地方競馬で走るる様なものである
多くの競馬関係者にとって晴天の霹靂ともいうべきニュースであった。
テンメイの女性ファンが中心となって
「テンメイを守る会」が結成されるなど社会的反響も大きいものがあった。
一方、受け入れる側の岩手競馬にしてみても、
あまりの騒ぎにむしろ困惑ぎみであったといってよい。
岩手の競馬ファンも大きな期待(あるいは好奇)をもって彼を迎えた。
しかし、それから約3年もの間、
周囲の人間の思惑をよそにテンメイは黙々と走り続けた。
競走成績はそれほど芳しいものではない。
芝の長距離戦を得意としたテンメイにとって、小回りでダート、
しかも最長でも2000メートルしかない番組では、
その実力を充分には発揮できるはずもなかった。
それでも彼はやはり岩手の競馬ファンにとっては「スター」であった。
岩手競馬の有馬記念とも言うべき暮れの
大レース桐花賞(ファン投票によって出走馬を選出する)において、
テンメイは3年連続でファン投票一位で選ばれたのである。
さらに数年前に企画された岩手競馬を代表する馬をファン投票で選ぶというイベントで、
彼は岩手競馬から引退して15年余りを過ぎていたのにもかかわらず
堂々の4位にランキングされた。
テンメイは岩手競馬ファンの記憶には今なお生き続けている。
引退そして・・・
岩手競馬の規則によりテンメイは9歳のシーズンをもって現役を引退した。
やはり、彼を種牡馬として迎え入れたいというオファーは無かった。
母のトウメイが、競走馬として中々競馬場にたどりつか無かったと対照的に
息子テンメイは、競馬場から出るに出れなかった
結局、「テンメイを守る会」の中川さん達が取った行動は
一日百円ずつ、貯金する事だった
一人、一月三千円、10人以上で3万円を集める事
そして、今の馬主に会いに行く事だった
馬主は「一千万で買った馬、それを回収しない事には」と言った
度々、会いに行って、四十二万円集まった頃
百万円なら譲っても良いと言った
馬主も、大の「テンメイ」フアンだった様だ
種牡馬として買ったものの、自分の馬として走らせたくなった
これが真相かもしれない
牧場に依託する形で種牡馬入りに漕ぎ着けることとなった。
しかし、種牡馬が来るとなれば、特別の放牧地を作らなければ成らない
専用馬房を作るのに、百万円、「守る会は」何とか、二百万円作った
この「テンメイを守る会」のとった行動については当時相当の物議を醸した。
引退馬の処遇にファンがどこまで介在するべき(してもよい)のか、
現在でもこの問題に明確な解答は得られてはいない。
ただし、多くのマスコミがテンメイの種牡馬入りの経緯については
冷淡な態度を取り続けたことは書いておきたい。
種牡馬入り後のテンメイに関しては、成功しなかったこともあって
速やかに忘れ去られていったようである。
私は、地方で走り続けた、テンメイの話を聞いたとき
なんて人間は、ひどい事するんだろうと思った
でも「旅路の果ての名馬たち」を読んで
少々、この考えに疑問を持ってきた
走るために、うまれて来た、サラブレッド
走ってこそサラブレッド、なのかもしれない
種馬になった馬は幸せか?
種馬にしたのは、人間である
最近、ちょっと走ると、負けない内に引退させる傾向がある
放牧地でのんびり生活してる馬は、幸せなのだろうか
こればかりは、馬に聞かないと解らない
人間に当てはめたらどうだろう
定年になっても、働きたいという人も
ゆっくりしたいと言う人も居るだろう
でも、大抵の人は、生きがいを無くす人が多いのではないだろうか
人間は、人に認められてこそ、生きていて楽しい
テンメイは、走るのを嫌がることは無かったそうである
ただ、9歳になって初めて、走っててムチを入れられて
尾っぽを振って、嫌がった
調教師は、そこで引退を決意したそうである
14歳まで走った、オースミダイナ
15歳に成っても、走る気は満々だったそうだが
ダイナ自身の、脚が動かなく成って来た
そこで引退を決意
馬は、走るのが自分の仕事と考えてる
そういう風な、生き物に作り上げてきたのは人間である
テンメイは、走りたく無くなるまで、走り続け
その後、多くの人に可愛がられ
サラブレッドとして、最高の一生を終えたのではないか
そんな風に思えてきた
残念なのは、テンメイの血が、ほとんど残ってないという事
2002年現在、ツルギハンテング(母の父がテンメイ)
藤沢牧場生産が中央競馬で走ってる
テンメイは、競走馬の引退と言う事に
中央競馬会、オーナー、ファンに、重大な問題を
提起してくれたのではないだろうか
まだ、引退馬の不遇は耳にするが
テンメイが、居なかったら、闇に葬られていたかもしれな
1993年10月7日
「昭和53年の天皇賞馬(秋)テンメイ、藤沢牧場で左前肢を
骨折、安楽死の処置を取られた、20歳」
同時期、ライバル「プレストウコウ」韓国で、生涯を閉じる
1997年4月7日、母「トウメイ」
幕別牧場にて、32歳でこの世を去る
最後に、実際にテンメイの引退後を、見てきた
「みどりのじゅうたん管理人:おぎ」さんの、メールを載せます
テンメイは藤沢和雄調教師の実家でもある、
苫小牧の樽前の藤沢武雄さんのところに居ました。
馬房から自由に出入りが出来るようにしてあげたりと、
とっても可愛がってもらってました。
種付け頭数は数頭でしたが、藤沢さんの繁殖に配合したりと、
活躍馬は出ませんでしたが、
テンメイの血を引いた繁殖が藤沢さんの所に一頭いるはずです。
彼はリンゴが大好物で、食べた後ぺコちゃんのように
舌をだして美味しかったぁ~って顔をしたり。
私も良く会いに行きました。
平成5年10月7日に毎日過ごしている場所で、脚を骨折し、残念ながら永遠の眠り
についてしまいました。
彼が毎日過ごしていた放牧地の片隅に彼のお墓があります。
会の人たちが建てました。とっても立派なお墓です。
私も毎年命日の頃、彼に手を合わせに、彼の眠っている場所に行ってます。
今彼がいた放牧地にはどさんこがいます。
最強と呼ばれない不運の馬で有った
その子、テンメイはどんな馬で有ったのか
テンメイを語る時、彼の戦跡より、
鮮烈に、中央競馬史上に残る
出来事がある
テンメイの成績は 36戦6勝(中央)26戦7勝(公営)
天皇賞、京都大賞典、菊花賞2着
まず不運なのは、
その時代、最強と呼ばれてた
マルゼンスキーが、8戦 全勝で引退してしまったことだ
その後に残された馬は、相当の戦跡を残さない限り
名馬と呼ばれない事だ
テンメイが勝った天皇賞で、マルゼンスキーが走っていて
マルゼンスキーが、勝ったのならしょうが無いが
テンメイは、戦う前に負けていた事になる
それと、晩生の血と、天皇賞に勝った馬は
天皇賞に出れない、不運が有った
4歳夏を越してからは徐々に力をつけていったテンメイは
クラシック最終便である菊花賞へと駒を進めた
テンメイは直線で一旦は抜け出すもゴール前でプレストウコウに差され、
惜しくも2着に終わった。
ちなみにこのレースでは、杉本清アナがテンメイが先頭にたったところで発した
「トウメイが待っている。」の実況が有名である。
その後、決して順調とは言えない競走生活を送ったテンメイが
次に大レースに姿を見せたのは5歳秋、
昭和53(1978)年11月26日府中3200mを舞台に行われた天皇賞・秋であった。
一番人気はリュウキコウ。テンメイは4番人気であった。
レースは有名な「カンパイ事件」で幕を開ける。
第78回天皇賞がスタートした
予想通り、ダンケンジがハナを切り、順調にレースが始まったかに見えたが
5番ゲートの、パワーシンボリがゲートの噛み付いた為
そこだけ開かなかったのだ
慌てて、スターターが赤旗を振り、3、4コーナーの係員が白旗を振った
それに気づいた騎手は、必死に馬を止めようとしたが
一旦、その気に成った馬達は、中々止まらず、先頭の馬は
一周目の4コーナーまで達して、やっと止まった
これが、スタートのやり直し「カンパイ」である
江戸時代末期から、明治の初期に掛けて
日本の競馬が、開始された時、外人スターターが「カンバック」と
言った所、日本人には「カンパイ」と聞こえた事により、競馬用語になった
このアクシデントは気性的におっとり型であったテンメイにはプラスに働いたかも知れない。
レースはカカり気味に先行した菊花賞馬プレストウコウをゴール前でテンメイが捕らえ快勝、
菊花賞の雪辱を果たすとともに史上初の天皇賞母子制覇を達成した。
天皇賞の母子制覇は現在に至るもトウメイ・テンメイ母子が唯一無二の例である。
母トウメイが天皇賞を勝った時と、馬主(近藤克夫)、調教師(坂田正行)、騎手(清水英次)、
厩務員が全て同一であったばかりか、
12頭立ての12番枠で2着馬との着差半馬身というところまで
一緒ということでも話題を集めた。
だが、このカンパイは、テンメイにとって不運だったかもしれない
母、トウメイと同じ様に、カンパイが無ければ、プレストウコウが勝ってたんで
無いかと思われたからだ。
この時代、天皇賞は勝ち抜け戦であり、一度勝ってしまったテンメイは出走できない。
適したレースに恵まれぬまま彼の競走生活は低迷を続け、遂に引退することになった。
ところが、テンメイの引退後の処遇を巡り大きな問題が発生する。
体が小さい事などの理由で、中央競馬会の種牡馬試験の受からなかったテンメイは
ルイスディール産駒でヘヴィーステイヤーであるためテンメイを種牡馬として
引き取る先がなかなか見つからなかったのだ。
紆余曲折を経て、オーナーの近藤は「青森で種牡馬にする」と発表、
ようやくテンメイにも安住の地が見つかったかに思われた。
しかし運命の女神は彼に平穏な生活を許してはくれなかった。
彼はオーナーによって地方競馬へと売り飛ばされていたのである。
そして岩手へ
「天皇賞馬、岩手競馬へ」、日本競馬界に激震が走った。
青森の牧場で種牡馬となっていたはずのテンメイが
公営岩手競馬の水沢競馬場で走るという。
当時の天皇賞の価値は今日考えられているよりはるかに高い、
今でいえば「ジャパンカップ」に勝った馬が
地方競馬で走るる様なものである
多くの競馬関係者にとって晴天の霹靂ともいうべきニュースであった。
テンメイの女性ファンが中心となって
「テンメイを守る会」が結成されるなど社会的反響も大きいものがあった。
一方、受け入れる側の岩手競馬にしてみても、
あまりの騒ぎにむしろ困惑ぎみであったといってよい。
岩手の競馬ファンも大きな期待(あるいは好奇)をもって彼を迎えた。
しかし、それから約3年もの間、
周囲の人間の思惑をよそにテンメイは黙々と走り続けた。
競走成績はそれほど芳しいものではない。
芝の長距離戦を得意としたテンメイにとって、小回りでダート、
しかも最長でも2000メートルしかない番組では、
その実力を充分には発揮できるはずもなかった。
それでも彼はやはり岩手の競馬ファンにとっては「スター」であった。
岩手競馬の有馬記念とも言うべき暮れの
大レース桐花賞(ファン投票によって出走馬を選出する)において、
テンメイは3年連続でファン投票一位で選ばれたのである。
さらに数年前に企画された岩手競馬を代表する馬をファン投票で選ぶというイベントで、
彼は岩手競馬から引退して15年余りを過ぎていたのにもかかわらず
堂々の4位にランキングされた。
テンメイは岩手競馬ファンの記憶には今なお生き続けている。
引退そして・・・
岩手競馬の規則によりテンメイは9歳のシーズンをもって現役を引退した。
やはり、彼を種牡馬として迎え入れたいというオファーは無かった。
母のトウメイが、競走馬として中々競馬場にたどりつか無かったと対照的に
息子テンメイは、競馬場から出るに出れなかった
結局、「テンメイを守る会」の中川さん達が取った行動は
一日百円ずつ、貯金する事だった
一人、一月三千円、10人以上で3万円を集める事
そして、今の馬主に会いに行く事だった
馬主は「一千万で買った馬、それを回収しない事には」と言った
度々、会いに行って、四十二万円集まった頃
百万円なら譲っても良いと言った
馬主も、大の「テンメイ」フアンだった様だ
種牡馬として買ったものの、自分の馬として走らせたくなった
これが真相かもしれない
牧場に依託する形で種牡馬入りに漕ぎ着けることとなった。
しかし、種牡馬が来るとなれば、特別の放牧地を作らなければ成らない
専用馬房を作るのに、百万円、「守る会は」何とか、二百万円作った
この「テンメイを守る会」のとった行動については当時相当の物議を醸した。
引退馬の処遇にファンがどこまで介在するべき(してもよい)のか、
現在でもこの問題に明確な解答は得られてはいない。
ただし、多くのマスコミがテンメイの種牡馬入りの経緯については
冷淡な態度を取り続けたことは書いておきたい。
種牡馬入り後のテンメイに関しては、成功しなかったこともあって
速やかに忘れ去られていったようである。
私は、地方で走り続けた、テンメイの話を聞いたとき
なんて人間は、ひどい事するんだろうと思った
でも「旅路の果ての名馬たち」を読んで
少々、この考えに疑問を持ってきた
走るために、うまれて来た、サラブレッド
走ってこそサラブレッド、なのかもしれない
種馬になった馬は幸せか?
種馬にしたのは、人間である
最近、ちょっと走ると、負けない内に引退させる傾向がある
放牧地でのんびり生活してる馬は、幸せなのだろうか
こればかりは、馬に聞かないと解らない
人間に当てはめたらどうだろう
定年になっても、働きたいという人も
ゆっくりしたいと言う人も居るだろう
でも、大抵の人は、生きがいを無くす人が多いのではないだろうか
人間は、人に認められてこそ、生きていて楽しい
テンメイは、走るのを嫌がることは無かったそうである
ただ、9歳になって初めて、走っててムチを入れられて
尾っぽを振って、嫌がった
調教師は、そこで引退を決意したそうである
14歳まで走った、オースミダイナ
15歳に成っても、走る気は満々だったそうだが
ダイナ自身の、脚が動かなく成って来た
そこで引退を決意
馬は、走るのが自分の仕事と考えてる
そういう風な、生き物に作り上げてきたのは人間である
テンメイは、走りたく無くなるまで、走り続け
その後、多くの人に可愛がられ
サラブレッドとして、最高の一生を終えたのではないか
そんな風に思えてきた
残念なのは、テンメイの血が、ほとんど残ってないという事
2002年現在、ツルギハンテング(母の父がテンメイ)
藤沢牧場生産が中央競馬で走ってる
テンメイは、競走馬の引退と言う事に
中央競馬会、オーナー、ファンに、重大な問題を
提起してくれたのではないだろうか
まだ、引退馬の不遇は耳にするが
テンメイが、居なかったら、闇に葬られていたかもしれな
1993年10月7日
「昭和53年の天皇賞馬(秋)テンメイ、藤沢牧場で左前肢を
骨折、安楽死の処置を取られた、20歳」
同時期、ライバル「プレストウコウ」韓国で、生涯を閉じる
1997年4月7日、母「トウメイ」
幕別牧場にて、32歳でこの世を去る
最後に、実際にテンメイの引退後を、見てきた
「みどりのじゅうたん管理人:おぎ」さんの、メールを載せます
テンメイは藤沢和雄調教師の実家でもある、
苫小牧の樽前の藤沢武雄さんのところに居ました。
馬房から自由に出入りが出来るようにしてあげたりと、
とっても可愛がってもらってました。
種付け頭数は数頭でしたが、藤沢さんの繁殖に配合したりと、
活躍馬は出ませんでしたが、
テンメイの血を引いた繁殖が藤沢さんの所に一頭いるはずです。
彼はリンゴが大好物で、食べた後ぺコちゃんのように
舌をだして美味しかったぁ~って顔をしたり。
私も良く会いに行きました。
平成5年10月7日に毎日過ごしている場所で、脚を骨折し、残念ながら永遠の眠り
についてしまいました。
彼が毎日過ごしていた放牧地の片隅に彼のお墓があります。
会の人たちが建てました。とっても立派なお墓です。
私も毎年命日の頃、彼に手を合わせに、彼の眠っている場所に行ってます。
今彼がいた放牧地にはどさんこがいます。