2007 12/13 01:49
Category : トーヨーアサヒ
トーヨーアサヒは私が一番好きな馬、又は尊敬する馬、競馬の面白さを教えてくれた馬です
よそのHPに、載ってたので(まずいが!)
あえて紹介します!
「刻む」
トーヨーアサヒ(1973・12・23=第7回ステーヤーズS)
第12回ジャパンカップは、外国馬が圧倒的有利という下馬評を覆して、日本代表のトウカイテイオーが父シンボリルドルフの志を継いで、見事、父子二代制覇を果たした。
馬連ではかなりの穴馬券と思われたが、トウカイテイオーの単複を買った人が多かったのか、払戻所の前には長い行列ができていた。
私は二階のテラスに出て、人が掃けるのを待つことにした。
眼下のパドックでは、最終レースに「手を出そう」という連中が周回を重ねる馬たちを熱心に見ている。その周りでは、後ろにあるオッズ板を見ながら馬券の買い方を検討している者たちが群がっている。こうして一段高い所から見渡してみると、若者と女性の姿が目立ち、ここ数年の間に競馬ファンの層が大きく変わってきているのが読み取れる。
パドックの「勝負師たち」を脇に見ながら、家路を急ぐ人たちが通り過ぎていく。その表情は明るい。とくに若者たちの顔はまるでコンサート帰りのそれである。
かつての競馬場には、勝者と敗者の二種類の人間しか存在しなかった。ところが、最近では、この分類では通用しない要素も出てきた。昨今の競馬場の雰囲気からすれば、楽しめた者と楽しめなかった者に分類したほうが自然なのかもしれない。
私はパドックの左端に視線を移した。いつも私が馬を見る時に立つ場所である。もう、かれこれ三十年近くも同じ場所から馬を見ているが、なぜか不思議に気持ちが落ち着くのである。同じような「くせ」を持つ人は私だけではないようで、レースの度に足を運んでいると、周りの何人かが同じ顔ぶれになることも多い。
私が目をやった一角に懐かしい顔を見つけた。その男を見るのは十八年ぶりだろうか、だいぶ額が広くなってはいたが、間違いなく私の知っている男である。
その男と初めてあったのは、昭和48年のハイセイコーブームに沸く春のクラシック・シーズンだった。
私はいつもの場所に立って、朝の陽の光を浴びながら、ゆっくりと周回を重ねる未勝利馬たちを見ていた。オープン馬と比べると、いかにも線が細い。このクラスを抜け出せない成績も頷ける。その中でも「やや太めかな」と見えるものの、馬体のよさが目立つのは初出走の2頭だった。この2頭は成績不振の経験馬よりも、こちらの方がまだ可能性があるということで人気になっていたが、いってみれば「危険な本命馬」だった。
「8番の馬がいいよなあ」
と隣の男が言った。それは独り言のようにもとれたし、私に話しかけたようにもとれた。「うまく逃げれば面白いかもな」
と私が応じた。
その馬は、これまで3回走って、いずれも大敗していた。もちろん、人気はまるでなかった。それでも「買える」根拠はあった。どのレースでも4コーナーまで逃げていること。1着との差が縮まってきていること。ダートから芝に変わったこと。この三点である。
「ようしあの馬から総流ししてやる」
男は「お前もどうだ……」というように大声を上げ、窓口に向かった。
レースは人気馬2頭が消え、2着に8番の馬が逃げ粘って、大波乱となった。
男は「やったぜ」という言葉を笑顔で表しながら、パドックに現れたが、私の方は、ささやかに⑧の複勝を取っただけだった。
このことがきっかけで私と男の付き合いが始まったが、二人が会うのは毎週日曜日の東京競馬場だけだった。私は彼の名前も職業も私生活のことも何ひとつ知らなかった。もちろん彼の方も私のことを何も知らないに違いなかった。彼が私を「あんた」と呼んだので、私も彼を「あんた」と呼んでいた。ただ知ってることといえば、二人とも無類の逃げ馬好きということだけだった。それにしても、よく飽きもせずに競馬場に通ったものだ。
昭和48年4月1日。第23回ダイヤモンドS3200㍍が中山競馬場で行われ、小島太騎乗のトーヨーアサヒがあっさりと逃げ切り勝ちを演じた。連勝は同枠に人気のクリイワイがいたため、⑦ー⑧は340円しか付かなかったが、単勝は800円という好配当だった。「いやあ、トーヨーアサヒの楽勝だったな」
と私が言うと、彼は意外にも
「俺、あの馬、嫌いなんだ。ムカムカするんだ」
と吐き捨てるように言った。
「だって逃げ馬、好きなんだろ」
「でもアイツは別だよ。嫌いだよ。見てて楽しくないもんな」
確かに彼の言うように、トーヨーアサヒは430㌔そこそこの小柄な馬で、正確なラップを刻みながら黙々と走るところから「走る精密機械」と呼ばれていたが、その走りっぷりは非常に地味で、見ていて「もどかしくなる」ような逃げだった。
「あんなに自分を抑えて走って楽しいかよ。逃げ馬ってえのは、大空を飛ぶように、もっと自由に自分をさらけ出して、走るもんじゃないの」
私は「なるほど」と思いながら、彼の「逃げ馬論」を聞いていたが、彼が、なぜこれほどまでに、トーヨーアサヒの「走り方」にこだわるのか理解できなかった。
その後、トーヨーアサヒは京王杯SH1800㍍で逃げられず5着、アルゼンチン共和国杯2400㍍ではクリイワイの3着と逃げ粘り、次の安田記念1600㍍はまた逃げられず15着と惨敗した。しかし7月の日経賞2500㍍ではまた見事に逃げ切ってしまった。こうして実績を重ねていくうちに、それまで単なる中距離馬と見られていたトーヨーアサヒは、むしろ長距離の逃げ馬として評価されるようになった。
秋になって、京王杯AHこそ中山競馬場に出かけたが、また東京競馬場通いが始まった。 私と男の「競馬場の付き合い」は、相変わらず続いていたが、私生活を語ることはなかった。ただ一度、あれほど競馬に入れ込んでいた彼がちょくちょく休むようになった10月ごろに、「このごろ出席率悪いよ」と声を掛けると、珍しく実家の話をしたことがあった。「いやね実は親父が入院してね。このところ、毎週、田舎に帰って『リンゴ園のオヤジ』よ。うちの親父も、よくまあ、あんなめんどくせえことを、ものを言わねえヤツを相手に何十年もコツコツとやってきたもんだ。十年一日のごとく一生を送るなんて、俺にはとてもできねえなあって思ったよ」
12月になると、開催が中山ということもあってか、彼は全く姿を見せなくなった。
同じ年の12月23日。中山競馬場で第7回ステイヤーズS距離3600㍍が行われた。一週間前に有馬記念が行われたため、出走メンバーは小粒で、トーヨーアサヒには「勝ってくださいよ」といわんばかりのレースだった。トーヨーアサヒは断然の1番人気だった。 ゲートが開くと、インコースの①番枠のタカジョーがスタート良く飛び出したが、増沢末夫騎乗のトーヨーアサヒが「俺が逃げる」という構えを見せると、タカジョーは2番手に控えた。その後にカシハタ、ヌアージターフと続く。トーヨーアサヒを先頭にゆっくりとゆっくりと、まるで「お散歩のような」レースが続く。競り掛ける馬はいない。緊迫感もスピード感もない。とりあえず決められた距離を走って、まあ、最後の方だけ真剣に競走しましょう、といったところだ。ちなみに最初の1000㍍のラップが63秒3、次の1000㍍が64秒8、その次の1000㍍が64秒4である。レースは勝負どころの最後の3ハロン、つまり600㍍にどれだけスタミナを温存できるかにかかっていた。
2周目の3コーナーに差し掛かると、後方にいた郷原洋行騎手騎乗のリュウトップが、さあ、そろそろ始めようか、というようにまくって出た。すると、これを合図に各馬が動き出した。3000㍍を走った後で、どこにこんなにスタミナを残していたかと思えるほどの軽い動きで、ここにきてやっとレースが始まったという感があった。トーヨーアサヒは、いままで温存していたスタミナを一挙に吐き出すようにフィニッシュを決めようとエンジンを全開にした。追い上げるべき2番手のタカジョーの脚の方が遅れがちだ。後方のヌアージターフやリュウトップも追い込んで来たが、トーヨーアサヒに49秒8ー36秒9というマイルレース並みの脚で上られては、手の打ちようはない。
レースはなんら山場を迎えることなく終わった。誰かが「これじゃまるで戦前のマラソンじゃないか」と言ったが、まさにその通りだった。
しかし、トーヨーアサヒの逃げには華麗さはなかったが、なんと言われようと、「勝つ」ことを宿命づけられた「男のしたたかさ」があった。
トーヨーアサヒの単勝は290円、連勝⑤ー⑧740円。1番人気と2番人気の組み合わせとししたら信じられないほどの「おいしい」馬券だった。
私が当たり馬券を手に、ふと、前方の払戻所を見ると、並んだ列の中にあのトーヨーアサヒ嫌いの男がいるのが目に入った。
一瞬「どうして」という思いが私の頭の中を駆け巡った。彼がトーヨーアサヒを嫌う理由に私自身も共感するところがあったから、この光景は驚きと同時に寂しさをもたらした。私は彼のあの頑固さが好きだったのに……なにか裏切られた感じがした。一方、見てはならないものを見てしまったようで、とても声をかける気などなく、私はその場から離れた。 あの日以来、彼を競馬場で見かけることはなかった。
「覚えてる」
私は彼の正面に回って声をかけた。
「おお」
彼は言葉にならない声を上げた。そして私の手を強く握り締めた。肉厚の掌が熱かった。「まだ、やってたんだ」
「いや、もう競馬はやっていない。田舎に引っ込んでしまったからね。今日はたまたま知り合いに不幸があって、東京に来たものだから、懐かしく寄ってみたんだが、まさかあんたに会えるとはね。相変わらず逃げ馬を追いかけているの」
「まあ、そんなところだよ。逃げ馬って言えば、昔、トーヨーアサヒが勝った暮れのステイヤーズSの日、俺、あんたを見たんだよ。払戻所の前でね」
男の顔に狼狽の色が走った。
「ああ、あの日、ステイヤーズSの日……恥ずかしいところ見られたな」
「実を言うと、俺、あの時、あんたを見て腹を立てていたんだよ。あれだけトーヨーアサヒが嫌いだなんて言っておきながら、こっそり馬券は買ってるじゃないかってね。とにかく、あんたのトーヨーアサヒ嫌いは普通じゃなかったからな」
「俺がトーヨーアサヒを嫌いだったのは、あの走り方がうちの親父の生き方そっくりだったからだよ。俺は、そんな親父が嫌で嫌でたまらなく家を飛び出したんだよ」
「そうか、やっぱりな。なんとなくそんな感じはしてたんだ。でも、そんなあんたが、どうしてトーヨーアサヒを買う気になったんだ」
「あの年の秋口に入院した親父が暮れに死んでね。その親父が死に際に、俺にこう言ったんだよ『お前は自由でいいなあ』って……その時、親父も俺と同じ思いだったんだなあって気が付いたんだ。その俺もいまじゃ『リンゴ園のオヤジ』よ」
「それで、あの日……」
パドックの脇で話し込んでいるうちに、ベルが鳴り、ファンファーレが聞こえた。
「いいのか」
「ああ」
私たちは連れだって出口に向かった。今日は、彼の名前を聞こう、と思った
よそのHPに、載ってたので(まずいが!)
あえて紹介します!
「刻む」
トーヨーアサヒ(1973・12・23=第7回ステーヤーズS)
第12回ジャパンカップは、外国馬が圧倒的有利という下馬評を覆して、日本代表のトウカイテイオーが父シンボリルドルフの志を継いで、見事、父子二代制覇を果たした。
馬連ではかなりの穴馬券と思われたが、トウカイテイオーの単複を買った人が多かったのか、払戻所の前には長い行列ができていた。
私は二階のテラスに出て、人が掃けるのを待つことにした。
眼下のパドックでは、最終レースに「手を出そう」という連中が周回を重ねる馬たちを熱心に見ている。その周りでは、後ろにあるオッズ板を見ながら馬券の買い方を検討している者たちが群がっている。こうして一段高い所から見渡してみると、若者と女性の姿が目立ち、ここ数年の間に競馬ファンの層が大きく変わってきているのが読み取れる。
パドックの「勝負師たち」を脇に見ながら、家路を急ぐ人たちが通り過ぎていく。その表情は明るい。とくに若者たちの顔はまるでコンサート帰りのそれである。
かつての競馬場には、勝者と敗者の二種類の人間しか存在しなかった。ところが、最近では、この分類では通用しない要素も出てきた。昨今の競馬場の雰囲気からすれば、楽しめた者と楽しめなかった者に分類したほうが自然なのかもしれない。
私はパドックの左端に視線を移した。いつも私が馬を見る時に立つ場所である。もう、かれこれ三十年近くも同じ場所から馬を見ているが、なぜか不思議に気持ちが落ち着くのである。同じような「くせ」を持つ人は私だけではないようで、レースの度に足を運んでいると、周りの何人かが同じ顔ぶれになることも多い。
私が目をやった一角に懐かしい顔を見つけた。その男を見るのは十八年ぶりだろうか、だいぶ額が広くなってはいたが、間違いなく私の知っている男である。
その男と初めてあったのは、昭和48年のハイセイコーブームに沸く春のクラシック・シーズンだった。
私はいつもの場所に立って、朝の陽の光を浴びながら、ゆっくりと周回を重ねる未勝利馬たちを見ていた。オープン馬と比べると、いかにも線が細い。このクラスを抜け出せない成績も頷ける。その中でも「やや太めかな」と見えるものの、馬体のよさが目立つのは初出走の2頭だった。この2頭は成績不振の経験馬よりも、こちらの方がまだ可能性があるということで人気になっていたが、いってみれば「危険な本命馬」だった。
「8番の馬がいいよなあ」
と隣の男が言った。それは独り言のようにもとれたし、私に話しかけたようにもとれた。「うまく逃げれば面白いかもな」
と私が応じた。
その馬は、これまで3回走って、いずれも大敗していた。もちろん、人気はまるでなかった。それでも「買える」根拠はあった。どのレースでも4コーナーまで逃げていること。1着との差が縮まってきていること。ダートから芝に変わったこと。この三点である。
「ようしあの馬から総流ししてやる」
男は「お前もどうだ……」というように大声を上げ、窓口に向かった。
レースは人気馬2頭が消え、2着に8番の馬が逃げ粘って、大波乱となった。
男は「やったぜ」という言葉を笑顔で表しながら、パドックに現れたが、私の方は、ささやかに⑧の複勝を取っただけだった。
このことがきっかけで私と男の付き合いが始まったが、二人が会うのは毎週日曜日の東京競馬場だけだった。私は彼の名前も職業も私生活のことも何ひとつ知らなかった。もちろん彼の方も私のことを何も知らないに違いなかった。彼が私を「あんた」と呼んだので、私も彼を「あんた」と呼んでいた。ただ知ってることといえば、二人とも無類の逃げ馬好きということだけだった。それにしても、よく飽きもせずに競馬場に通ったものだ。
昭和48年4月1日。第23回ダイヤモンドS3200㍍が中山競馬場で行われ、小島太騎乗のトーヨーアサヒがあっさりと逃げ切り勝ちを演じた。連勝は同枠に人気のクリイワイがいたため、⑦ー⑧は340円しか付かなかったが、単勝は800円という好配当だった。「いやあ、トーヨーアサヒの楽勝だったな」
と私が言うと、彼は意外にも
「俺、あの馬、嫌いなんだ。ムカムカするんだ」
と吐き捨てるように言った。
「だって逃げ馬、好きなんだろ」
「でもアイツは別だよ。嫌いだよ。見てて楽しくないもんな」
確かに彼の言うように、トーヨーアサヒは430㌔そこそこの小柄な馬で、正確なラップを刻みながら黙々と走るところから「走る精密機械」と呼ばれていたが、その走りっぷりは非常に地味で、見ていて「もどかしくなる」ような逃げだった。
「あんなに自分を抑えて走って楽しいかよ。逃げ馬ってえのは、大空を飛ぶように、もっと自由に自分をさらけ出して、走るもんじゃないの」
私は「なるほど」と思いながら、彼の「逃げ馬論」を聞いていたが、彼が、なぜこれほどまでに、トーヨーアサヒの「走り方」にこだわるのか理解できなかった。
その後、トーヨーアサヒは京王杯SH1800㍍で逃げられず5着、アルゼンチン共和国杯2400㍍ではクリイワイの3着と逃げ粘り、次の安田記念1600㍍はまた逃げられず15着と惨敗した。しかし7月の日経賞2500㍍ではまた見事に逃げ切ってしまった。こうして実績を重ねていくうちに、それまで単なる中距離馬と見られていたトーヨーアサヒは、むしろ長距離の逃げ馬として評価されるようになった。
秋になって、京王杯AHこそ中山競馬場に出かけたが、また東京競馬場通いが始まった。 私と男の「競馬場の付き合い」は、相変わらず続いていたが、私生活を語ることはなかった。ただ一度、あれほど競馬に入れ込んでいた彼がちょくちょく休むようになった10月ごろに、「このごろ出席率悪いよ」と声を掛けると、珍しく実家の話をしたことがあった。「いやね実は親父が入院してね。このところ、毎週、田舎に帰って『リンゴ園のオヤジ』よ。うちの親父も、よくまあ、あんなめんどくせえことを、ものを言わねえヤツを相手に何十年もコツコツとやってきたもんだ。十年一日のごとく一生を送るなんて、俺にはとてもできねえなあって思ったよ」
12月になると、開催が中山ということもあってか、彼は全く姿を見せなくなった。
同じ年の12月23日。中山競馬場で第7回ステイヤーズS距離3600㍍が行われた。一週間前に有馬記念が行われたため、出走メンバーは小粒で、トーヨーアサヒには「勝ってくださいよ」といわんばかりのレースだった。トーヨーアサヒは断然の1番人気だった。 ゲートが開くと、インコースの①番枠のタカジョーがスタート良く飛び出したが、増沢末夫騎乗のトーヨーアサヒが「俺が逃げる」という構えを見せると、タカジョーは2番手に控えた。その後にカシハタ、ヌアージターフと続く。トーヨーアサヒを先頭にゆっくりとゆっくりと、まるで「お散歩のような」レースが続く。競り掛ける馬はいない。緊迫感もスピード感もない。とりあえず決められた距離を走って、まあ、最後の方だけ真剣に競走しましょう、といったところだ。ちなみに最初の1000㍍のラップが63秒3、次の1000㍍が64秒8、その次の1000㍍が64秒4である。レースは勝負どころの最後の3ハロン、つまり600㍍にどれだけスタミナを温存できるかにかかっていた。
2周目の3コーナーに差し掛かると、後方にいた郷原洋行騎手騎乗のリュウトップが、さあ、そろそろ始めようか、というようにまくって出た。すると、これを合図に各馬が動き出した。3000㍍を走った後で、どこにこんなにスタミナを残していたかと思えるほどの軽い動きで、ここにきてやっとレースが始まったという感があった。トーヨーアサヒは、いままで温存していたスタミナを一挙に吐き出すようにフィニッシュを決めようとエンジンを全開にした。追い上げるべき2番手のタカジョーの脚の方が遅れがちだ。後方のヌアージターフやリュウトップも追い込んで来たが、トーヨーアサヒに49秒8ー36秒9というマイルレース並みの脚で上られては、手の打ちようはない。
レースはなんら山場を迎えることなく終わった。誰かが「これじゃまるで戦前のマラソンじゃないか」と言ったが、まさにその通りだった。
しかし、トーヨーアサヒの逃げには華麗さはなかったが、なんと言われようと、「勝つ」ことを宿命づけられた「男のしたたかさ」があった。
トーヨーアサヒの単勝は290円、連勝⑤ー⑧740円。1番人気と2番人気の組み合わせとししたら信じられないほどの「おいしい」馬券だった。
私が当たり馬券を手に、ふと、前方の払戻所を見ると、並んだ列の中にあのトーヨーアサヒ嫌いの男がいるのが目に入った。
一瞬「どうして」という思いが私の頭の中を駆け巡った。彼がトーヨーアサヒを嫌う理由に私自身も共感するところがあったから、この光景は驚きと同時に寂しさをもたらした。私は彼のあの頑固さが好きだったのに……なにか裏切られた感じがした。一方、見てはならないものを見てしまったようで、とても声をかける気などなく、私はその場から離れた。 あの日以来、彼を競馬場で見かけることはなかった。
「覚えてる」
私は彼の正面に回って声をかけた。
「おお」
彼は言葉にならない声を上げた。そして私の手を強く握り締めた。肉厚の掌が熱かった。「まだ、やってたんだ」
「いや、もう競馬はやっていない。田舎に引っ込んでしまったからね。今日はたまたま知り合いに不幸があって、東京に来たものだから、懐かしく寄ってみたんだが、まさかあんたに会えるとはね。相変わらず逃げ馬を追いかけているの」
「まあ、そんなところだよ。逃げ馬って言えば、昔、トーヨーアサヒが勝った暮れのステイヤーズSの日、俺、あんたを見たんだよ。払戻所の前でね」
男の顔に狼狽の色が走った。
「ああ、あの日、ステイヤーズSの日……恥ずかしいところ見られたな」
「実を言うと、俺、あの時、あんたを見て腹を立てていたんだよ。あれだけトーヨーアサヒが嫌いだなんて言っておきながら、こっそり馬券は買ってるじゃないかってね。とにかく、あんたのトーヨーアサヒ嫌いは普通じゃなかったからな」
「俺がトーヨーアサヒを嫌いだったのは、あの走り方がうちの親父の生き方そっくりだったからだよ。俺は、そんな親父が嫌で嫌でたまらなく家を飛び出したんだよ」
「そうか、やっぱりな。なんとなくそんな感じはしてたんだ。でも、そんなあんたが、どうしてトーヨーアサヒを買う気になったんだ」
「あの年の秋口に入院した親父が暮れに死んでね。その親父が死に際に、俺にこう言ったんだよ『お前は自由でいいなあ』って……その時、親父も俺と同じ思いだったんだなあって気が付いたんだ。その俺もいまじゃ『リンゴ園のオヤジ』よ」
「それで、あの日……」
パドックの脇で話し込んでいるうちに、ベルが鳴り、ファンファーレが聞こえた。
「いいのか」
「ああ」
私たちは連れだって出口に向かった。今日は、彼の名前を聞こう、と思った