2007 12/13 01:51
Category : 名馬リキエイカンの大往生
北海道新聞(人に詩あり)より、全文。
浦河町の鮫川 清一さん(47)
7月2日、日高管内浦河町の鮫川牧場で、
1頭の名馬が息を引き取った。
35歳と2ヶ月27日。
あの5冠馬シンザンの最長寿記録まで14日に
迫っていた。
同牧場社長の鮫川清一さん(47)は
「リキ』のことを、我が子のように語るのだった。
「リキ、リキと呼ぶと、寄ってくるんだ。
背中に痒い所が有ると口をとんがらせてね。
そりゃ賢い馬だったよ」
1970年4月29日、8万の観客を集めた
阪神競馬場での第61回天皇賞。
リキエイカンが末脚鋭く逃げ切った。
当時の新聞は『3分25秒6』のレコード勝ちだったことや、『鮫川牧場産」であることを短い記事で伝えてる。
鮫川さんは祖父から『この血統だけは絶やすな』といわれてた。 リキの祖先をたどれば、日本サラブレット界の始祖に行き着く。
近親からも活躍馬が出ていた。そして、牧場の期待どうりにリキは天皇賞を制した。
通算成績は47戦13勝だった。
だが、リキエイカンは、その後、数奇な道を歩む。種馬となったが優れた産駆には恵まれなかった。当時、国内産の種馬が冷遇されていた事も災いした。 忘れもしない80年秋、鮫川さんは、ある噂を耳にした。 『リキがと畜場に連れて行かれる』。 たとえ天皇賞馬とはいえ、経済的価値がなくなれば処分される例は当時は、大部分だった。
リキが居る日高管内の牧場に走った。
1頭の汚れた馬がいた。『血統書で馬の特徴を調べなければ分からないくらい変わり果てていた」。鮫川さんは十数万円を払い、リキをつれて帰った。丁寧に丁寧に、汚れを落としてやった。涙が自然とあふれてきた。
『情けなくて情けなくて・・・。あの時の事を思い出すと今でも涙がでそうになるんだ」
牧場が生産馬を引退後に引き取る事は馬産地では常識外のことだ。 馬を養う経費はそう安いものではない。えさ代などで最低でも年間百万円はかかる。種馬は稼がなくなったら、淘汰もやむなし。鮫川さんは馬産地のその常識には従わなかった。
胆振管内の高校を卒業して、父の後を継いだ。
馬がというより、動物が好きだった。道端に捨て犬が居ると放ってはいられない。今牧場に十一頭の繁殖牝馬のほか六匹の犬が居る。
あの日から20年余り、1日の始まりと終わりはリキのために有った。前日の夜、どんなに酔っても、朝の5時にはリキの馬房に行った。仕事が終わった後にも必ず馬房に行った。
「リキ』と声をかけて、世話をする。
『馬は、見てあげないと、なにを求めているか分からないから』
リキは歯が弱いから水に浸下柔らかいえさを毎日用意した。寝藁も、体に負担かけないよう、ふかふかの物を準備した。専用の小さい放牧地も作った。
『この馬が出てくれたから牧場の今があるんです。最大の功労者はリキなんだ。これは金の問題じゃないんだ」
リキは5年程前から目が見えなくなった。足も不自由になった。それでも、必死で生きようとしていた。鮫川さんにはそれが分かる。
容体が急変したのは7月2日早朝、鮫川さんはリキのそばに居た。『寝たら起き上がれないのが分かっていたんだろうね。死ぬ前は横たわる事もしなかった。かわいそうで見ていられなかった。自分の子供のような者だから」
リキが死んだ。ぽっかりと心の穴があいたような気持ちだ。牧場のそばを秋には鮭が遡上する元浦川が流れる。夏の太陽が降り注ぐと牧草の緑は一段とまぶしくなり、河音が優しく響く。
去年の夏と同じ牧場の風景。が、リキのことが時々、頭をよぎる。
『シンザンの記録を抜けなかったのは残念だったけど、リキは機械じゃないから・・・。
リキに聞いてないけど、今ごろ天国で『幸せな一生だった』と言ってくれると思うんだ」
浦河町の鮫川 清一さん(47)
7月2日、日高管内浦河町の鮫川牧場で、
1頭の名馬が息を引き取った。
35歳と2ヶ月27日。
あの5冠馬シンザンの最長寿記録まで14日に
迫っていた。
同牧場社長の鮫川清一さん(47)は
「リキ』のことを、我が子のように語るのだった。
「リキ、リキと呼ぶと、寄ってくるんだ。
背中に痒い所が有ると口をとんがらせてね。
そりゃ賢い馬だったよ」
1970年4月29日、8万の観客を集めた
阪神競馬場での第61回天皇賞。
リキエイカンが末脚鋭く逃げ切った。
当時の新聞は『3分25秒6』のレコード勝ちだったことや、『鮫川牧場産」であることを短い記事で伝えてる。
鮫川さんは祖父から『この血統だけは絶やすな』といわれてた。 リキの祖先をたどれば、日本サラブレット界の始祖に行き着く。
近親からも活躍馬が出ていた。そして、牧場の期待どうりにリキは天皇賞を制した。
通算成績は47戦13勝だった。
だが、リキエイカンは、その後、数奇な道を歩む。種馬となったが優れた産駆には恵まれなかった。当時、国内産の種馬が冷遇されていた事も災いした。 忘れもしない80年秋、鮫川さんは、ある噂を耳にした。 『リキがと畜場に連れて行かれる』。 たとえ天皇賞馬とはいえ、経済的価値がなくなれば処分される例は当時は、大部分だった。
リキが居る日高管内の牧場に走った。
1頭の汚れた馬がいた。『血統書で馬の特徴を調べなければ分からないくらい変わり果てていた」。鮫川さんは十数万円を払い、リキをつれて帰った。丁寧に丁寧に、汚れを落としてやった。涙が自然とあふれてきた。
『情けなくて情けなくて・・・。あの時の事を思い出すと今でも涙がでそうになるんだ」
牧場が生産馬を引退後に引き取る事は馬産地では常識外のことだ。 馬を養う経費はそう安いものではない。えさ代などで最低でも年間百万円はかかる。種馬は稼がなくなったら、淘汰もやむなし。鮫川さんは馬産地のその常識には従わなかった。
胆振管内の高校を卒業して、父の後を継いだ。
馬がというより、動物が好きだった。道端に捨て犬が居ると放ってはいられない。今牧場に十一頭の繁殖牝馬のほか六匹の犬が居る。
あの日から20年余り、1日の始まりと終わりはリキのために有った。前日の夜、どんなに酔っても、朝の5時にはリキの馬房に行った。仕事が終わった後にも必ず馬房に行った。
「リキ』と声をかけて、世話をする。
『馬は、見てあげないと、なにを求めているか分からないから』
リキは歯が弱いから水に浸下柔らかいえさを毎日用意した。寝藁も、体に負担かけないよう、ふかふかの物を準備した。専用の小さい放牧地も作った。
『この馬が出てくれたから牧場の今があるんです。最大の功労者はリキなんだ。これは金の問題じゃないんだ」
リキは5年程前から目が見えなくなった。足も不自由になった。それでも、必死で生きようとしていた。鮫川さんにはそれが分かる。
容体が急変したのは7月2日早朝、鮫川さんはリキのそばに居た。『寝たら起き上がれないのが分かっていたんだろうね。死ぬ前は横たわる事もしなかった。かわいそうで見ていられなかった。自分の子供のような者だから」
リキが死んだ。ぽっかりと心の穴があいたような気持ちだ。牧場のそばを秋には鮭が遡上する元浦川が流れる。夏の太陽が降り注ぐと牧草の緑は一段とまぶしくなり、河音が優しく響く。
去年の夏と同じ牧場の風景。が、リキのことが時々、頭をよぎる。
『シンザンの記録を抜けなかったのは残念だったけど、リキは機械じゃないから・・・。
リキに聞いてないけど、今ごろ天国で『幸せな一生だった』と言ってくれると思うんだ」