2018年05月の記事


七段花~幻の紫陽花
京都の霊源院に甘茶の庭を見に行きました。

霊源院の庭には甘茶が植えられていて甘茶の庭として知られています。

その甘茶の庭でも特に私がお気に入りなのが「七段花」(しちだんか)と言う紫陽花の一種です。

七段花は、シーボルトの紫陽花とか、幻の紫陽花とも呼ばれています。

江戸時代の末期に、シーボルトは長崎のオランダ商館付きの医師として着任し、日本に近代医学を伝えましたが、一方では熱心な植物好きでした。

彼はアジサイには特に深い関心を寄せていたそうで、植物に関する著書の「日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)」で、日本のアジサイとして紹介していたのが、このシチダンカ(七段花)だったのです。

しかし、明治時代に入ってもこのアジサイの所在は全くわからず、この花を見たという情報や標本も存在しないことから、長い間「幻の紫陽花」と呼ばれていました。

昭和34年になり、神戸市立六甲山小学校の職員が、六甲山ケーブルの沿線で偶然に発見して、採取して話題となったのです。

なんと、シーボルトがこの花を発見してから実に130年という長い歳月も発見されずに「幻の花」とされていたのでした。

この花は、その後、神戸森林植物園で挿木によって増やされると、現在では各地の庭園などに植えられて広まっています。

七段花の花は盛りを過ぎつつありましたが、小さく美しい花を見ることが出来て満足でした。
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坂上田村麻呂
山科にある坂上田村麻呂の墓所にお参りして来ました。

坂上田村麻呂と言えば平安時代の武官であり、桓武天皇に重用されて征夷大将軍として蝦夷地征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍しました。

蝦夷征討のおりの、阿弖流為(アテルイ)や母礼(モレ)を降伏させ、お互いに認め合った友情が伝説として語られています。

仏教にも信仰が厚く、清水寺の創建にも関わって伝説化しており、清水寺には田村堂と呼ばれるお堂もあります。

弘仁2年(811年)5月23日に54歳で亡くなったとされ、山科の地で葬儀が行われ、嵯峨天皇の勅により甲冑や弓矢を持った姿で棺に納められて、平安京を護るように立ったままで葬られたとの伝承があります。

将軍塚にも田村麻呂の像を埋めた塚だと言う説もありますね。

征夷大将軍としての勇名が武神として多くの伝説や物語を生んでいますね。

墓所には、今でも花が供えてあったのが今でも親しまれているのかと感慨深かったです。
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鬼の災難
作:しらゆき

これは狂言の「節分」を原案にして書き起こした物です。


むかし、あるところに仲の良い夫婦がおりました。

ところが、旦那さんは、出雲のお社にお参りに行く事になり、奥さんは一人で留守を守ることになりました。

今日は節分の日です、奥さんは節分の豆を用意して神棚にお供えし、夜になって豆まきをするのを待っておりました。

そんな所へ現れたのが蓬莱の島からやってきた鬼一匹。

鬼は、お腹が空いたので何処かに食べ物がないかとうろつくうちに一軒の家の灯りが目につきました、その家こそ奥さんが留守を守る家だったのです。

鬼は、家の前まで来ると節穴から中を覗きました、すると、中には美しい女が一人でいます。

「これは良いわい」

鬼はそう思うと、家の戸をドンドンと叩いて

「こんばんわ、開けてください」

と家の中に呼びかけました。

奥さんは、突然の事で驚きましたが、なんだろうと思いましたが一人なので無用心です。

「今は主は留守にしています、御用は何でしょう?」

と、戸を開けずに問い掛けました。

鬼は、

「近所の者でござる、ここを開けてくだされ」

そう言って、ドンドンと戸を叩き続けました。

奥さんは、近所の人が何の用だろうと思い、戸を少し開けて見回して見ましたが誰の姿もありません、これは近所の若い者がイタズラでもしてるのかと思い、戸を閉めてしまいました。

鬼は、人に姿を見られないように「隠れ蓑」を着けたままだったので、姿が消えていたのです。

鬼は気が付いて「隠れ蓑」を脱ぐと、もう一度戸を叩いて呼びかけました。

奥さんは、また誰かのイタズラかと思い、

「先ほど様子を見ましたが誰もいませんでした、おおかた何方かがイタズラされてるのでしょう、お帰りください」

そう言って戸を固く閉じたのでした。

鬼は何とか開けさせようと思い

「いやいや隣の者でござる、イタズラではございません、用事がございますので戸を開けてくだされい」

奥さんは、隣の方なら開けない訳にもいかないと思い戸を開けますと、そこには恐ろしい鬼が立っています。

「きゃ~鬼が出た、恐ろしや恐ろしや」

そう叫ぶと奥に逃げ込んでしまいました。

鬼は、うろたえて

「いやいや恐ろしい事はござらん、御安心くだされい」

そう言いましたが、奥さんは

「鬼が恐ろしくない訳はございません、恐ろしや、恐やの恐やの」

そう言って身構えています。

「鬼にもいろいろとござって、私は恐くない鬼ですから大丈夫でござる」

鬼は、そう言うと奥さんに近づいて行きました。

奥さんは、鬼が側に来たので恐ろしく思いましたが、もともと気が強くて肝の座った人でしたから、側にあった箒を持つと

「ええ側に来ないでください、出て行ってください」

そう言うと箒で鬼を追い払おうとしました。

実はこの鬼、女好きな所があるのですが、少し気が弱い所がありまして、奥さんに箒で追い立てられて困ってしまいました。

「なんとなんと、出て行けと言われるなら出ても行きまするが、腹が減ってどうにもなりませぬ、せめて何か食べ物をいただいたら出て行きまする」

そう言って座り込んでしまいました。

奥さんは、早く追い払おうと思い、仕方なくお粥を用意して持って来ました。

「さぁ、これを食べたらさっさと出て行ってくださいませ」

そう言うと鬼にお粥の器を差し出しますと、鬼は受け取ってガツガツと食べ始めました。

「これは暖かくてうまいわい」

そう言いながら、ふと奥さんの姿を見ると美しくて色気のある艶かしさです。

鬼は、すすっと奥さんの側に寄ると手を握ろうとしました。

奥さんは、驚いて両手の爪で鬼の顔中を掻き毟ると

「あれ~、この鬼め何をする、出て行け、出て行け」

そう言って、また箒で鬼を追い始めました。

鬼は、出口まで追い立てられると

「いやいや、待ってくれ、そなたはこの家に一人かえ?」

そう聞きました。

奥さんが

「余計なことです、それを聞いてなんとする」

そう言いますと、鬼はいやらしく笑うと

「ふふふ、一人なら寂しかろうほどに、わしが慰めてやろう」

そう言って奥さんに近づいて腰に抱きつきました。

奥さんは、鬼の顔を思い切り張り倒すと、鬼を引き離し、箒を持つとボコボコと鬼を叩き廻しました。

「あ痛ぁ、あ痛ぁ、ちょっと待ってくだされ、止めてくだされ」

そう言うと鬼は、また出口まで逃げると叩かれた痛さで半べそになっています。

「そなたの姿があまりに美しいから、つい手がでただけじゃ、許してくだされぃ」

鬼は、そう言い訳すると涙を浮かべています。

奥さんは、それを見て考えました。

「あれあれ、鬼が涙を浮かべている、この鬼は案外と気が弱いのかも知れない、鬼の目にも涙と言う言葉もあるし、どうやら私に懸想しているようだ、昔から鬼はいろいろと宝物を持っていると聞く、それならうまく鬼を騙して宝物を取り上げてやろう」

そう思うと、少ししなを作って鬼に語りかけました。

「まぁ鬼さんたら、そんなに私を思ってくださるの?」

鬼は、風向きが変わったのに驚きながらも言いました。

「わしは、人間の女でこんなに美しい女は初めてじゃ、なんとか思いを適えてくれぃ」

奥さんは、それを聞くと流し目で秋波を送ると

「昔から鬼は宝物を持つと聞きます、そんなに私を思うなら私にそれをくださいませ、気持ちを見せてくださいな」

そう鬼に向かって言いました。

鬼は、それを聞くと喜んで

「おお、いかにも鬼は宝物を持っている、打出の小槌と隠れ蓑、雲に乗れる笠の三宝じゃ、これをそなたに渡すから思いを適えてくだされぃ」

奥さんは、鬼から宝物を受け取ると、それを奥に押し隠しました。

鬼は、うれしそうに笑うと、奥さんの側にすっと近づき

「えへへへ、これで、そなたはわしの思いのままじゃ、それ、もっとこちらへ寄りなされ」

そう言って笑顔を浮かべています。

「まぁまぁ、焦らずに用意をしますので少しお待ちを」

そう言うと、奥さんは神棚に行くと、供えてあった節分の豆を手に取りました。

鬼が、物問いたげな顔でいますと、奥さんは

「今夜は節分の夜、もう豆まきの時刻です」

そう言うと、豆を掴み

「福は内ぃ~、福は内ぃ~」

と、豆を家に蒔きました。

さぁ、鬼は驚きました、なにしろ節分の豆は鬼には大の苦手です。

「おお、なんじゃこりゃ」

そう言って鬼が豆から逃げようとすると、今度は奥さんは豆を鬼に向かって投げつけ

「鬼は外~、鬼は外~」

そう叫んで鬼を追いまわします。

鬼は逃げ回りますが、豆は体に当たって痛くてたまりません。

「鬼は外~、鬼は外~、鬼は出て行け~」

奥さんは、鬼に目掛けてバシバシ豆を投げつけます。

「うわぁ~、これはかなわん」

そう言うと鬼はとうとう逃げ出してしまいました。

奥さんは、逃げ出した鬼に目掛けて豆をさらに投げつけると、家の戸をきちりと締め切り戸締りをしました。

こうして、奥さんは鬼を追い払った上に、鬼の宝物まで手にいれて、しかも一人で鬼から操を守って追い払った賢い婦人として褒め称えられ、やがて戻ってきた旦那さんと裕福に幸せに暮らしました。

それに引き換え、鬼の方は宝物を取られた上にさんざん豆をぶつけられて痛い思いをした上に鬼の仲間内からも馬鹿にされて、人間の所は二度と懲り懲りと思うのでした。

おしまい・・・
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蝸牛
そろそろ梅雨も近くて紫陽花の咲く時期になりました。

この時期にされる狂言で「蝸牛」と言うのがあります。

蝸牛は、カタツムリつまりデンデン虫のことですね。

昨日に護摩焚きで修験道の方を見て山伏問答を聞いていたら狂言の蝸牛を思い出してしまいました。

おそらく山伏問答を参考にされた狂言かも知れないですね。


「蝸牛(かぎゅう)」

山伏

太郎冠者

主人


山伏は、朝早くから歩いているので、少し疲れたので竹薮で昼寝をする。

一方、主人から「カタツムリ」を探してくるように言い付かった太郎冠者だが、かたつむりがどのような物か判らない。

主人にカタツムリがどう言うものか訪ねると、主人はカタツムリは「竹やぶにいる」「頭が黒い」「背中に貝殻をつけている」「ときどき角を出す」の手がかりを教える。

太郎冠者は言われるままにカタツムリを探しに竹藪に出かけたのだが、そこには山伏が居眠りしていた。

山伏をカタツムリかと思った太郎冠者だが、山伏に訪ねてみると、山伏は太郎冠者をからかおうと自分がカタツムリだと嘘をつく。

カタツムリの条件にも頭が黒いと言うのには頭に着けている黒い兜巾(ときん)を見せ、背中に貝殻を着けているには法螺貝を見せ、角を出すには角を出すふりを見せて、山伏は何とかこじつけて太郎冠者を騙す。

山伏をカタツムリだと信じた太郎冠者に、主人の所まで来て欲しいと頼まれた山伏は、囃し物をするなら行っても良いと言う。

そこで、太郎冠者と山伏は

「雨も風も吹かぬに、出な釜打ち割ろう」「でんでんむしむし、でんでんむしむし」と囃して踊る。

そこへ、太郎冠者を心配して主人が現れて、太郎冠者が山伏に騙されているのを知り、太郎冠者を叱りつける。

太郎冠者は、騙されたのかと思い、山伏に文句を言いに行くと、山伏の囃しと踊りにつられてしまい、また一緒に囃して踊ってしまう。

そこで、主人が二人に叱りに行くと、主人も同じようにいつしか囃しと踊りに浮かれてしまい、三人が一緒に囃して踊ってしまう。


この狂言はカタツムリを知らない太郎冠者が山伏をカタツムリと思い込んでしまう面白さと、最後には主人さえも囃しと踊りに浮かれて一緒に踊り出してしまう可笑しさにあります。

掛け合いも動きも、いつみても面白い狂言ですよ。
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写経会
京都の狸谷不動尊さんの写経会に参加して来ました。

写経も割りとやり易かったですし、いろいろ貴重なお話を楽しくうかがえたり、また美味しいお菓子もいただきました。

とても素敵な時間を過ごせて良かったです。

また、機会があれば参加したいです。
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アンネのバラの教会
久しぶりに、兵庫県の甲陽園にある「聖イエス会アンネのバラの教会」まで行ってきました。

以前に「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクにちなんだ「アンネのバラ」と言うバラがあるのを知り、その名の教会があると知って訪れてからは、前は毎年バラの咲く時期に訪れるようにしてましたが、しばらく行ってなくて久しぶりになりました。

アンネのバラは、アンネを偲んでベルギーで作出された四季咲きの香り高いバラです。

「アンネの形見のバラ」(Souvenir d'Anne Frank 1960  Delforge)と呼ばれ、アンネの父親のオットー・フランク氏の庭でも大切に育てられていたそうです。

そして、1972年のクリスマスに、フランク氏より友情のしるしとしてアンネの形見のバラが聖イエス会に贈られて来たのだそうです。

アンネの日記のアンネ・フランクは、日記の中に、「私は世界と人類のために働きます」と、書き残していました。

このアンネのバラの教会は、彼女の平和と人類愛の理想が、多くの若い人たちに、受けつがれていくようにとの願いをこめてアンネ生誕50周年の1979年に計画され、1980年4月に建てられたものです。

このように、アンネの父オットー・フランク氏との交流が、この教会設立のきっかけとなったようです。


阪急電車の甲陽園駅から山手の方に住宅地を上がっていった所に、アンネのバラの教会はあります。

小さな教会ですが、教会の庭にはアンネ・フランクの像がアンネのバラに囲まれて佇んでいます。

教会の庭に植えられたアンネのバラはきれいに咲き誇って、バラの園のようです。

アンネのバラは咲き続けていく間に色を変えていくのが特徴で、神秘的なその色合いはアンネのように優しさを感じさせるバラで大好きなバラの一つです。

美しいバラを見ていると心が癒されてきますね。
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森は火事で大騒ぎ
作・しらゆき


ここは、ある森のはずれのお花畑です。

今日も元気なかたつむりクンは、トロトロとのんびりお散歩していましたた。

「う~ん、今日も雨は降らないのかな」

しばらくお天気が続いたものですから、森の中が乾燥していまして、葉の雫を飲んだり、木の葉を食べてるかたつむりクンも、ちょっと疲れ気味です。

それでも、かたつむりクンは気を取り直して、のんびりトロトロお散歩していると、少し前の方に、チロチロと何か灯りが見えています。

「おやおや、あれはなんだろう?」

かたつむりクンは、近くによって灯りを見てみたら、とっても驚きました。

なんと!、枯れ木がチロチロと燃えて火がついてるではありませんか。

「これは大変だ!!」

このまま燃え続けると火事になって森の木も草もお花畑も、みんなみんな燃えてしまいます。

「このままだと大変な事になる、何とかしないと」

困ったかたつむりクンは、いっしょうけんめい考えました。

「そうだ、この森には大きな池がある、その池まで行って水を汲んできて、その水でこの火を消そう」

これは森の一大事とばかり、かたつむりクンは、水を汲もうと池を目指して歩き出しました。

しかし、かたつむりクンは歩みが遅いので、いっしょうけんめい急いでみても、なかなか前には進みません。

それでも何とかがんばろうと、かたつむりクンは、草から葉っぱへやっとこしょ、どっこいしょと急いで歩いています。

「早くしないと大火事になる」

かたつむりクンはがんばって急ぎましたが、なかなか池にはつけません。

その時、茂みの中から、ぴょんぴょんとカエルくんが、かたつむりの前に飛び出しました。

「おいおい、かたつむりクン、そんなに急いでどうしたの?」

カエルくんは、かたつむりクンに聞きました。

かたつむりクンは言いました。

「これは、カエルくんこんにちは、実は森のお花畑で枯れ木が燃えてるんだ、早く消さないとと火事になってみんな燃えてしまう、だからこれから池まで行って、水を汲んで消そうと思うんだよ」

カエルくんも驚きました。

「なるほど、それは大事だね、早く消さないと火事になるね」

カエルくんも考えました、かたつむりクンの歩みでは遅くて手遅れになってしまう。

そうだ!ボクの方が速いから代わりにボクが行けばいいんだ。

「ねぇねぇ、かたつむりクン、このままでは手遅れになってしまう、だからボクが代わりに池まで行って水を汲んできたらどうかな?」

「そうか、それは良い考えだ、カエルくんの方がずっと速いからね、ボクも続けてがんばるから、キミは先に行ってくれるかい?」

「うん、引き受けた、それではこれから池まで急いで駈けてくからね」

そういうと、カエルくんはピョンピョン跳ねて池に向かって行きました。

ピョンピョン、ピョンピョン、カエルくんは、いっしょうけんめいがんばって、跳ねて行きましたが、それでもまだまだ池にはつきそうにありません。

カエルくんは、がんばって跳ねつづける内に疲れて来てしまいました。

「はぁはぁ、ぜいぜい、息が切れてきた、困ったなぁ、疲れて跳ねられなくなってきたよ~」

カエルくんは息が切れてしまって、動けなくなってしまいました。

「どうしよう、早く行かないと森が燃えてしまうよ!」

カエルくんが困っていると、のっそりと大きな物が近づいてきました。

のっそり、のっそり。

それは、森の池に住む大きな亀さんでした。

亀さんは、カエルくんに近づくと声をかけました。

「やぁ~、カエルくん~、疲れてるみたいだけどどうしたの~?」

「わぁ亀さん、こんにちは、あのね、森のお花畑が火事なんですよ、それで、池まで水を汲みにいって、何とか火事を消したいのです」

カエルくんは、これまでのいきさつを亀さんに話しました。

「そうか~、それはご苦労さんだね~、そうだ~、それなら私も協力しよう~、池まで一緒に水を汲みに行くよ~」

「ありがとう、ボクは少し疲れてきたので助かるよ」

「がんばって跳ねてきたんだね~、それなら私の背中に乗るといいよ~、池まで運んであげるよ~」

「ほんと、ありがとう」

亀さんは、カエルくんを背中の甲羅に乗せると、のっそり、のっそり歩き始めました。

のっそり、のっそり、亀さんはカエルくんを甲羅に乗せて、池を目指して歩いています、でも、歩みが遅いのでなかなか池には着きません。

それでも、池は亀さんがいつも泳ぎに行っている所です、少しずつですが、亀さんは池に近づいて歩いています。

のっそり、のっそり、えんやこら、えんやこら。

亀さんがしばらく歩いて行きますとようやく池が見えて来ました。

「カエルくん~、ほら池が見えてきたよ~」

「うわぁ、ほんとうだ、ようやく池に着いたよ、亀さんありがとう」

カエルくんは、ピョンと亀さんの甲羅から飛び降りると、亀さんと並んで池に近づいて行きました。

目の前には、この日照りでも、きれいな水をいっぱいにたたえた大きな池があります。

でも、この水をどうして運べばいいのでしょう?

亀さんはカエルくんに聞きました。

「カエルくん~、どうして運ぼうか~」

カエルくんにも、どうしていいかわかりません。

「う~ん、少しなら運べるけど、火事を消すのならたくさんの水がいるからなぁ」

カエルくんは、そこらに何か水を入れる物がないか、辺りをキョロキョロと探して見ましたが何も見つかりません。

はてさて、どうしよう?

カエルくんと亀さんは、二人でいろいろと考えて見ましたが、なかなか良い知恵が浮かびません。

こうしている間にも、火が大きくなって森が燃えてしまうかと、それも心配です。

そうだ!

カエルくんは、ふと、あることを思いつきました。

「ねぇ、亀さん、はやく水を運んで火事を消さないと森が燃えてしまうよ、少しでもいいから水を運びたいの、それで、ボクが身体中いっぱいに水を飲み込むから、亀さんはボクの身体ごとお花畑に運んでください」

「うん、わかったよ~、でもカエルくん大丈夫かい~?」

「大丈夫だよ、ボクの身体はふくらむからね」

そう言うとカエルくんは、池に入ってゴクゴクゴクゴクと思い切り水を飲み込みはじめました。

カエルくんの身体は、水を飲むたびに風船のようにふくらんで、真ん丸になってしまいました。

「うぅ、く、くるしいぃ」

カエルくんは、身体中いっぱいに水を飲んで苦しそうです。

亀さんは、カエルくんの身体を甲羅に乗せると、のっそり、のっそり、歩き始めました。

しかし、もともと亀さんの歩みはゆっくりしてる上に、水をいっぱい飲んだカエルくんを甲羅に乗せてるので、なかなか早くは歩けません。

それでも、亀さんは一生懸命に歩き続けました。

カエルくんも、いっぱいのお水を飲んで苦しいですが、何とか火事を消さないとと我慢しています。

その時、カエルくんは、どこかで呼ぶ声を聞いたような気がしました。

おや、何だろう?

カエルくんは、辺りを見回して見ましたが、何も変わったことはありません。

空耳かなぁ?

そう思った時に、もう一度、上の方から声が聞こえた気がします。

カエルくんが、空を見上げると遠くから鳥サンがこちらに向かって飛んできます。

「なんだろう、鳥サンがこちらに飛んでくる」

カエルくんが、目を凝らして良く見ると、鳥サンは足に何かつかんでいるようです。

すると、そこから何かが叫んでいます。

「お~い、カエルくん」

カエルくんが名前を呼ばれて、もう一度よく見て見ると、なんと、鳥サンが足につかんでいるのは、かたつむりクンではないですか!

「あ!かたつむりクンだ、亀さん、かたつむりクンだよ」

亀さんも立ち止まって空を見上げると、鳥サンは、もうそこまで近づいており、足にはかたつむりクンがつかまれて手を振っています。

やがて、鳥サンは亀さんの隣に降りると、かたつむりクンを離しました。

かたつむりクンは、カエルくんの側までくると言いました。

「やぁ、カエルくん、水は持ってこれたかい?」

カエルくんは、水をいっぱい飲んでいるので、あまりうまくは話せません、そこで亀さんが代わりにこれまでの事を説明しました。

かたつむりクンは、それを聞くと言いました。

「そうかぁ、カエルくんも、亀さんも、がんばったね、実は、ボクも途中で鳥サンに出会ったので、訳を話して協力してもらうことになったんだ。

かたつむりクンが、そう言って鳥サンを紹介すると、鳥サンはペコリと頭を下げて挨拶して言いました。

「こんにちは、これまでの事はかたつむりクンに聞いてやってきました、みなさんご苦労さまです、森が火事になったら大変ですものね、私も協力させていただきます」

みんなであいさつをすませると、どうして水を運ぶか話し合いました、とにかく一刻も早く火を消さなければなりません。

そこで、亀さんの背中の甲羅にカエルくんとかたつむりクンが乗って、鳥サンが亀さんをつかんで、みんなをお花畑まで運ぶことになりました。

亀さんの甲羅にカエルくんとかたつむりクンが乗り込むと、鳥サンは亀さんの身体をつかんで空に舞い上がりました。

鳥サンは、つばさを大きく羽ばたかせて、お花畑を目指してグングン飛んで行きます。

まもなく、鳥サンはお花畑につくと、下に降り立ちました。

亀さんの甲羅から、かたつむりクンは降りると、火事の場所にみんなを案内しました。

そこでは、チロチロと小さかった火が、今ではボウボウと大きく燃え上がって火事になっています。

早く消さないと森中が燃えてしまいそうです。

よっこいしょ

カエルくんは、苦しそうに身を起こすと燃え盛る火に向かって水を吐き出しました。

シュワー、シュワー

カエルくんから放された水は勢いよく火に向かうと、次々と火を消して行きます。

カエルくんは、どんどん火を消していきましたが、それでも、まだ火の勢いは強くてなかなか全部を消す事はできません。

そして、とうとうカエルくんの水が尽きてしまいましたが、まだ火が残っている所もあります。

「どうしよう、まだ火が残っているよ」

かたつむりクンが、そうつぶやくと、亀さんもうなづきました。

「うん~、まだ水が足りないね~」

「困った、これでは、また火が大きくなって火事になってしまう」

鳥サンも、どうしていいかわかりません。

「せっかく、がんばったのにな」

カエルくんも肩を落として残念そうにうつむいてしまいました。

そうこうしている内に、かたつむりクンは、思い直したように言いました。

「このまま落ち込んでいても火はまた大きくなってしまう、元気だして火が消えるまでがんばろうよ、ここであきらめたら、これまでの事も無駄になってしまう、もう一度、水を汲みに行こうよ」

カエルくんも顔を上げました。

「そうだね、うん、がんばろうよ、火が消えるまで何度でも水を汲みに行こう!」

「うん、みんなで力を合わせれば何とかできるよ」

亀さんも元気を出してそう言いました。

鳥サンも、みんなに言いました。

「そうだよ、それに今度は私が池とお花畑を飛んで水を運ぶから、ずっと早く運べるはずだよ」

みんなも、そうだと思い、力を合わせて水を運ぶことになりました。

そして、亀さんの甲羅にカエルくんとかたつむりクンが乗り込むと、鳥サンは亀さんをつかむと翼をはためかせて空に舞い上がり、池を目指して飛んで行きました。

今度は、鳥サンに運んでもらうので、すぐに池まで飛んで来ました。

鳥サンが池の側に亀さんを置くと、カエルくんは甲羅から飛び降りて、池に入ると水を身体いっぱいに飲み込み始めました。

かたつむりクンも、亀さんの甲羅から降りると、背中の貝殻の中に水を入れて行くことにしました。

やがて、カエルくんとかたつむりクンが水を汲み終わると、再び亀さんの甲羅に乗って、鳥サンにお花畑まで運んでもらいました。

そして、お花畑に着くと、火事の燃えてる所に向かって水をかけて、火を消していきます。

水が無くなると、また、亀さんの甲羅に乗り込んで、鳥サンに池まで運んで貰い、水を汲むとお花畑に戻り、また火に水をかけて消していきます。

そういう事が3度も行った時に、とうとう火はみんな消えて火事は無事に消化されました。

かたつむりクンが言いました。

「わぁい火事が消えたよ」

カエルくんもうれしそうです。

「本当だ、良かったね」

亀さんも喜んでいます。

「やったぁ~、森が燃えずにすんだね~」

鳥サンもうなづいています。

「うん、みんなががんばったからね」

みんなは、疲れてますが火事が消えて森が無事だったので喜んでいます。

「かたつむりクンが火を見つけてくれたからだよ、それに鳥サンも呼んできてくれたからね」

「カエルくんも、いっぱい水を飲んで火を消してくれたからね」

「亀さんがカエルくんを甲羅にのせて池まで運んでくれたのも助かったよね」

「でも、鳥サンが来てくれなかったら、間に合わなかったよ」

こうして、みんなのおかげで火事は消えました。

でも、かたつむりクン、カエルくん、亀さん、鳥サンの活躍やがんばりは、森の誰も知らないかもしれません。

だけど・・・

みんなのあきらめないがんばりがあったからこそ、無事に森を火事から護る事ができたのです。

かたつむりクン

カエルくん

亀さん

鳥サン

力を合わせて森を護ってくれてありがとうね。

ひとりひとりは、歩みも遅いし力が弱いかも知れなくて、良い知恵も出ないかも知れないけど、みんなで力を合わせて協力したから、がんばれたし、森を護ることができたのだよ。

みんなが努力したから結果がでて良かったけど、なにも努力しないで見逃してたら森は大変なことになってたよ。

これからも、仲良く力を合わせてがんばってね!


おしまい・・・
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鹿間塚
京都の東山にある「清水寺」と言えば京都でも有数の有名な観光名所であり、修学旅行生や外国からの団体観光客も多くて、早朝から観光客で賑わっている。

その清水寺の境内の「随求堂」の前に「鐘楼」があるが、その脇に一つの宝篋印塔があるが、この宝篋印塔の周囲を「鹿間塚」(しかまづか)と言って実は清水寺の創建にも関わりのある重要な史跡なのである。

清水寺は、奈良時代の末の宝亀9年(778年)に南大和の子島寺の僧である「延鎮」が、夢に出た観音様のお告げによって山城国(今の京都)の東山の山中に金色水の源を訪ね歩き、やがて音羽山の滝で修行していた白衣を着た老仙人の行叡居士(実は観音様の化身)に出会い、その遺命に従って千手観音の木像を彫って滝の上あった居士の草庵に祀ったのが始まりとされている。

その後に、この鹿間塚の伝説の元になる「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)に関わってくる事になる。

「坂上田村麻呂」は平安初期の武将で「坂上刈田麻呂」の子であった。

その出身は渡来人と言われていて、漢の高祖の血を引くとの伝説もある。

田村麻呂の容姿は「赤面黄鬚」(せきめんおうしゅ)と言われ、赤ら顔に黄色のひげだったそうである。

また、腕力は人に優れて、怒って睨めば猛獣も倒れるが、ニコリと微笑めば赤ちゃんもなつくと称されていた。

桓武天皇は田村麻呂の武将としての才能を認めたのか、折から進行中だった北辺の蝦夷地での戦の指揮官に起用した。

そして田村麻呂は初代の征夷大将軍「大伴弟麻呂」のもとで副将軍として、自ら10万の兵をひきいて延暦13年(794年)に胆沢の会戦に大勝する。

また、延暦20年(801年)には自らが征夷大将軍として再び胆沢に出兵し、勝利をおさめると胆沢城を造り、ここに鎮守府を移して北方の基地とした。

蝦夷地を護っていた「阿弖流為」(アテルイ)との戦いはこの時期であり、田村麻呂と阿弖流為は戦ううちにそれぞれの人物を評価するようになり、やがて阿弖流為は民の犠牲や疲弊を惜しみ、降伏して田村麻呂の軍門に下る事になる。

田村麻呂は、阿弖流為の人物を惜しみ朝廷に助命を願い出たそうだが、かなわずに阿弖流為は河内の国で処刑されたと言う。

こうして、蝦夷地は田村麻呂のもとで最終的に安定することになり、田村麻呂は「北天の化現」(北方守護神の生まれかわり)と仰がれたそうだ。


さて、その後も田村麻呂は活躍するのだが、彼の妻が懐妊していることが判った。

田村麻呂は大変に喜んで、無事にりっぱな子供を授かるように願うようになる。

そういう時に人づてに、無事にりっぱな子供を出産するにはお腹に子をみごもった鹿の生き肝を食べさせれば良いと教えられた。

田村麻呂は、そう聞いてさっそく弓矢を持つと音羽山の中を探し回っているのだった。

しかし田村麻呂が山奥まで歩き回って、鹿は何頭か見かけたものの子を孕んだ鹿と言うとなかなか見つからない。

やがて探し疲れて陽も傾きかけた時に、ふと物音のする方に目を向けるとお腹の大きな鹿がいたのだった。

田村麻呂は、気配を消して静かに弓を取り矢をつがえると狙いを定めて矢を放った。

矢は風を切って鹿に向かって飛んで行く。

矢は見事に鹿を射ぬき、崩れるように鹿は倒れていった。

田村麻呂は、鹿を逃がしてはいけないと傍に駆け付けると、鹿はもはや虫の息で潤んだ目で田村麻呂の方を見ていた。

田村麻呂は哀れを感じたが、これも我が子の為と思いを決めて、鹿にとどめを指したのだった。

こうして、田村麻呂は仕留めた鹿を担いで、急いで山を下って行った。

やがて、音羽の滝の辺りまで下ってきた時に、1人の僧が現れて田村麻呂を呼び止めた。

僧は田村麻呂に向い

「お腹に赤子を身篭った鹿を狩るとは非業な事だ」

そう非難した。

田村麻呂は、これは妻の安産を願ってと申し開きしたが、逆に僧に戒められた。

「殺生によって安産を願うとはあまりにも身勝手な、そなたが子の安産を願うなら、その鹿も子の無事を願っていただろうに・・・」

田村麻呂は、僧に非を諭され、自分の罪と行いを悔いるのだった。

そして、山中の小高い丘に仕留めた鹿を葬って塚を築いて弔ったと言う。

その時に、鹿を埋めた塚が「鹿間塚」だとされ、そして出会った僧が先に述べた「延鎮上人」だったのだ。


また別の説では、僧の延鎮上人に田村麻呂が帰依し、この音羽山に寺を建てようとしたが山中の事で適当な平地がない。

困っている時に一匹の神鹿が現れて、一夜にして山の中に平地を創ってしまった。

その神鹿を祀ったのが「鹿間塚」だと言う話になっている。

いずれの伝説にしても、田村麻呂は延鎮上人に深く帰依し、清水の観音様を篤く信仰して、自宅の建物を本堂として寄進したのが清水寺の創建となる事になったようだ。

現在の清水寺の清水の舞台への料金所の近くにある「開山堂」は「田村堂」とも呼ばれ、清水寺の創建に深く寄与した田村麻呂と、その妻を祀っているお堂である。

ほとんど気づく人の居ない「鹿間塚」であるが、清水寺の創建の物語を秘めた重要な史跡でもあるのだ。
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リュウとチャー
作・しらゆき


ある町の公園に犬のリュウが住んでいました。

リュウは子犬の時に人間に捨てられてから一匹で公園で暮らしていました。

この町では、いろいろな所でエサを貰えますから、食べ物に困る事はありませんでした。

ある朝、リュウがエサを探して公園を歩いていると見慣れないダンボールの箱が置いてあるのを見つけました。

なんだろう?

リュウは好奇心いっぱいに近づいていきますと、箱の中から「ミャーミャー」と言う泣き声が聞こえてきます。

リュウは近くに寄って箱の中を覗くとネコの赤ちゃんが一匹で泣いていました。

おそらく夜のうちに人間に捨てられたのでしょう、寒さに震えてかなり弱っているようです。

このままじゃ死んじゃうよ

リュウは自分もダンボールの箱の中に入って、自分の身体で子猫を包むようにして暖めてあげました。

リュウが暖めてもなかなか子猫の震えは止まりません。

がんばれ!

リュウは優しく子猫のに語りかけ、暖め続けました。

しばらくすると子猫は身体が温まってきたのか、気持ち良さそうに眠ってしまいました。

どうやら、もう大丈夫みたいだな、さて何か食べ物を探さないと!


それから、リュウは子猫にチャーと言う名前をつけて世話をしました。

町を歩いてミルクを貰って来て飲ませたり、母猫のように身体を舐めたり、夜は一緒に寝て温めてあげました。

やがて子猫のチャーは元気になり、リュウを親のようになついて二匹は仲良く暮らすようになりました。


そんな毎日が続いた、冬のある日・・・

リュウがエサを探しに出かけて公園の棲家に戻ってみると、チャーが居なくなっていました。

どうしたのだろう?

まだチャーは小さいので一人では遠くまで歩けないはずです。

リュウは公園の隅から隅まで探しましたがチャーは見つかりません。

どこに行ったのかなぁ、心配だよぅ

リュウは、それから町中をチャーを捜して周りました。


幾日かが過ぎて、リュウは町を歩いてはチャーを探していました。

でも、なかなかチャーは見つかりません。

寒さで震えてないかなぁ

リュウはまだ小さなチャーが心配でたまりませんでした。

リュウが町を歩いていると、ある一軒の家の前を前を通りかかりました。

家の庭では小さな男の子がお母さんと遊んでいました。

リュウがそこを通り過ぎようとしたその時、「ミャー」と言う聞き覚えのある声が聞こえたような気がしました。

リュウはもしやと思い、家の庭を良く見ると男の子が子猫を抱っこしていました。

庭には柵がしてあり中には入れませんが、リュウが柵に顔を押し付けるようにして匂いを嗅ぐと、懐かしいチャーの匂いがしました。

男の子が抱いているのは居なくなったチャーに間違いありません。

良かった、やっとチャーが見つかった!

リュウはうれしそうに尻尾を振って「わんわん」とチャーに声をかけました。

チャーは、リュウに気が付いて「ミャウミャウ」と鳴きましたが、男の子に抱きかかえられてるので動くことができません。

実は、あの日公園を通りかかった男の子とお母さんが、公園で鳴いているチャーを見つけたのです。

男の子は、遊び相手が欲しかったのでお母さんに子猫を連れて帰るようにおねだりしました。

お母さんは、どこの物か判らない捨て猫よりも、お店でもっときれいな子猫を買ってあげると言いましたが、男の子が子猫を放さないので仕方なく家に連れて帰ったのでした。

それからチャーは、男の子に別の名前を付けられて、遊び相手として、この家で暮らしていたのでした。

チャーは、リュウの所に帰りたかったのですが、まだ小さくてよく歩けませんし、家の周りには柵でかこってあるので、この家から出る事は出来ませんでした。

リュウは、何とか庭に入ろうとしましたが、どこからも入る隙間はありません。

そうこうする内に、寒くなったのか、お母さんは男の子とチャーを連れて家の中に入ってしまいました。

リュウは、取り合えずこの家の場所を覚えておいて、ねぐらの公園に帰る事にしました。


それから、リュウは毎日のようにチャーの様子を見に行きました。

チャーは、男の子に可愛がられて幸せそうに見えました。

野良猫で暮らすよりもチャーには幸せかも知れないな

リュウは寂しいけれどそう思う事にしました。

そんな日が続くうちにチャーの元気が無くなってきているように思えてきました。

男の子はチャーを相手に元気に遊びまわるので、子猫には辛いのかも知れません。

リョウは心配でしたが家の中には入れませんし、近づく事もできないのです。

チャーは病気にでもなったのかグッタリしてる時が多く、男の子は元気のない子猫が面白くないのか、あまり遊ばなくなっていきました。

リュウはチャーの事が心配で仕方ありません。

ある日、リュウが様子を見に出かけるとチャーの姿が見えなくなっていて、男の子は別のネコを抱いていました。

チャーはどうしたのだろ、家の中で寝てるのかな

リュウは何か嫌な予感がして不安になりました。

リュウは家の周囲をチャーの匂いを嗅いで周りました、するとどうでしょう、チャーの匂いは庭の門から外の道路に続いているのでした。

チャーは家の外にいるんだ!

リュウは一生懸命にチャーの匂いを嗅いで、チャーがどこに居るのか探して歩きました。

冬の寒い日でやがて小雨が降ってきました。

いけない!早くしないと匂いが雨で消えてしまう

リュウは、いつしか駆け出してチャーの匂いを追っていきました。


小雨がリュウの身体を濡らし、寒さがリュウの身を包みますが、リュウは必死でチャーの匂いの後を追いました。

やがて、町の保健所の前に出ると、チャーの匂いの強い木箱をみつけました。

おそるおそる木箱の中を覗いてみると、そこには毛布に包まれてグッタリしているチャーがいました。

チャーは、病気で弱っている所を木箱の中に置き去りにされ、しかも雨で濡れて寒いのか泣き声も上げずに弱っています。

男の子の家では、子猫が病気になって遊べなくなってので男の子がつまらなくなり、お母さんに頼んで代わりのネコを買って貰ったのでした。

お母さんも捨て猫のチャーをあまりよく思ってませんでしたので、毛並みの良いネコを新しく買って、病気で死にそうなチャーは木箱に入れて保健所の前に捨てたのでした。

かわいそうに・・・

リュウは動かないチャーを口にくわえて公園まで連れて帰ることにしました。

重くて大変でしたがリュウは雨に濡れながらも、がんばって何とかチャーを公園のねぐらまで連れて帰る事ができました。

弱って動けないチャーをリュウは自分の身体で包んで暖めました。

そう、初めてチャーと会った時のように・・・


リュウは我慢強くチャーの身体を優しく温め続けました。

がんばれよ!死ぬなよ!

心の中で何度も叫んでチャーを励ましました。

そして、何時間も経った時、チャーが少し動いて「ミャウ」と小さく鳴きました。

でも、それはチャーの最後の命の灯火のようで、それからはチャーの身体はまったく動かなくなり、身体は石のように冷たくなり、やがてチャーの魂は空に還って行きました。

チャーは、もうこの世からいなくなりました。

ウワォ~~ン

リュウは悲しくて寂しくて、いつまでも遠吠えを上げてチャーを呼びつづけました。

チャーは、もう帰って来る事はありませんが、きっと空の上で楽しく幸せに暮らしていくだろう

リュウは、そう思うことにしてチャーの幸せを祈りながら、チャーの冷たくなった身体を公園の土の下に埋めてやりました。

リュウは友達がいなくなって寂しい思いをしています。

それでも、元気に公園をねぐらにして、今日も町を散歩している事でしょう。

いつか、リュウに寿命が来て空に還った時には、またチャーと仲良く遊ぶのでしょうね。


終わり・・・
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神幸祭
京都の、元祇園梛神社の神幸祭を少しですが見に行きました。

時間があまり無かったので、行列前の神様をお神輿にお移り願う神事や、少年隊士の行列とか見れました。

きらびやかでいて、神聖さを感じる神事を見れて良かったです。
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深泥池
京都の地下鉄烏丸線の「北山」駅から、下鴨静原大原線を北に向かって上がって行くと東の方に「深泥池」(みどろがいけ)がある。

この深泥池は、古代からの自然を残す国の天然記念物に指定されている貴重な池なのだ。

山の側に静かにある池なのだが、池の面積は約9万㎡、周囲は約1.5kmの自然池で水深は1mと浅いが泥土の湿地である浮島をはじめ、氷河期からの泥や植物や生物の堆積して稀少な動植物の姿を残す池なのだ。

貴重な自然の宝庫で、動植物の持ち帰りも、持ち込みも固く禁止されている。

池には、多くの水草が浮かんでおり、水鳥やアメンボが気持ち良さそうに水面を泳いでいる。

この深泥池と前回に紹介した「大田神社」は歩いていけるほどの比較的近い距離にあり、この深泥池と大田神社の沢とは地下でつながっているとの説もあるようだ。

さて、この深泥池は実は京都でも有数の怪談スポットとして有名なのである。

いつの頃から幽霊の出ると言う話が伝わッたのか判らないが、私の子供の頃にはすでに幽霊が出ると言う話しで怖がられていた。

池の近くにあった病院の患者が入水自殺したとか、死体置き場があったとか、いろいろと噂があり、夜中に池の側を車で通ると女性が立っていて、車に乗せるといつの間にか消えてしまったと言う系列のお話が多い。

特に昭和44年の10月に起きたお話では、あるタクシーが深夜に祇園からお客さんを大学の付属病院の近くまで運んで、その日の日誌をつけていると中年の女性が窓を叩いて、深泥ヶ池の近くの家まで乗せて欲しいと言う。

運転手は、もう終わって車庫に帰ろうと思ってたので迷惑に思ったが、女性は病院の患者なのかやつれた感じでかわいそうに思ったので乗せていく事にした。

女性は病院によくある消毒液の臭いが強くて、運転手がルームミラーで時々見ると、こちらを見返したりしたそうだ。

やがて、深泥ヶ池に着いて、どの辺りか聞こうと運転手が振り返ると女性は消えていたそうだ。

運転手は、確実に女性を乗せているので、見ると窓が開いているので、どこかで女性が飛び降りたのかと心配し警察に連絡した。

警察では連絡を受け、パトカーが4台も来て、来た道や周辺を捜索したが、女性は見つからなかったそうだ。

結局、窓から飛び降りるのも無理があるし、運転手の勘違いで初めから女性を乗せていなかったのではないかと言う事になったそうだが、後に運転手の同僚の知り合いが、あの日に運転手が車に女性を乗せるのを偶然見ていたと言っていたそうだ。

やはり霊だったのだろうか、病院で亡くなった女性が家に帰りたかったのかも知れないなぁなどと思ってしまう。

これ以外にも、タクシーや車で霊を乗せたり見かけたりと言うお話が多いのが深泥ヶ池の特長だが、確かに夜中に池の近くを通るのは不気味なものがあるのだろう。

深泥池は、奈良時代の僧・行基がこの地で修行した所、弥勒菩薩が池から現れたと言う話もあるようだが、和泉式部が「名を聞けば、影だに見えじみどろ池に、棲む水鳥のあるぞ怪しき」と歌を詠んだとも言われていて、平安時代から恐ろしい場所だったのかも知れない。

また大蛇が棲んでいたと言う伝説もあるようで、大徳寺の徹翁和尚の説教を聴きに深泥池の大蛇が美女に化けて現れたと言い、そのせいか大蛇が説教を聴いた場所では梅雨時になると水が湧き出て「梅雨水」と呼ばれたそうである。

さらに、有名な伝説である「小栗判官」と関わる話もあり、この大蛇が、鞍馬詣でに笛を吹きながら向かう小栗判官に一目惚れし美女に化けて妻に納まることに事になった。

しかし、大蛇がいなくなったせいか大雨が降って小栗判官は都を追われる事になったそうである。


この深泥池には、別に「節分」と「豆まき」に関する伝説も伝えられている。

もともとの節分とは、「節分かれ」(せちわかれ)といって季節が変わる節目のことで、立春の前日をさすと言う。

本来の節分は、冬から春への変わり目になり、季節が変わる大切な節目としていたが、今では外から邪気や悪魔が入ってくるのを防ぐようになり、庭からくる鬼に大豆を投げつけて追い払うように変わっていった。

その節分と豆まきの由来にまつわるのが深泥池の「豆塚」伝説なのである。

むかし、この「深泥池」(みどろがいけ)には「豆塚」という塚があったとされ、平安京の北には鬼たちが夜になると出没し悪さをして人々を困らせていたと言う。

この鬼たちは洛北の貴船の谷に住み、地下道を通って深泥池の畔の穴から地上に出て騒いでいたそうだ。

そこで困った人々は、鬼を退治するために鬼が嫌っている豆を投げ入れたところ、鬼は静かになり出てこなくなり、それ以来、鬼の出入りする穴に節分の豆を捨てるようになったとされ、これが節分に豆をまいて、鬼を追い払うことの始まりだと伝えられている。

何でも、この鬼の穴の跡に豆塚があったとされていて、それが近くの「貴船神社」ではないかと言う説があるそうだ。

その貴船神社は、鞍馬の奥にある有名な貴船神社とは別で、鞍馬の貴船神社が市中から遠く不便なので、この地に勧進して建てられたのが深泥池の貴船神社だと言われている。

今では、その痕跡すらないが豆塚は「魔滅塚」にも通じると言われて、京都の人が節分で使った豆を紙に包んで、この塚に捨てに来てたと言う話もあるようである。

ところで、豆を投げられ追い払われた鬼たちは、奈良の吉野の金峯山寺に暖かく迎えられていたそうで、そこで鬼火の祭典で今までの悪行を改心すると、「良い鬼」になっていったと言う。

その事から、この金峯山寺では「福は内、鬼も内」と、ほかとは違ったかけ声で豆まきが行われるとされている。

深泥池は自然の宝庫の静かな池なのだが、いろいろな伝説のせいもあって何となく怖い場所に感じてしまう。

また、画家の池大雅は深泥池付近の生まれだそうで、農家だったそうである。

貴船神社には近年になり池大雅生誕地の石碑が建てられている。
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小町寺
京都の叡山電鉄は出町柳から八瀬や鞍馬方面に続いているが、その鞍馬の少し手前にある「市原」駅で降り通りを南に下って行くと石段の上に「補陀洛寺」(ふだらくじ)と言うお寺がある。

通称を「小町寺」と言い、「小野小町」に所縁のお寺である。

この辺りは市原野と呼ばれた地で、小野氏の所領であった小野郷であったとも言われている。

小野小町は多くの伝説が伝えられて各地に史跡や伝説が残されているが、絶世の美人と言われた身も晩年は不幸だったと言われる事が多い。

この地に伝わる伝説によれば、小野小町は晩年には遠く陸奥までさすらう漂泊の生活であったそうで、年老いて、かつて父が住んでいたこの市原野の生家にたどり着いたと言う。

そして力が尽きたように倒れると「吾死なば焼くな埋むな野に晒せ 痩せたる犬の腹肥やせ」との凄惨な歌を残して亡くなったと言われている。

小町の遺骸は言葉どおりに野に晒され、弔う人もなく風雨に朽ちてその髑髏からは一本の芒(すすき)が生えて風に震えていたといたそうである。

そのススキは髑髏の穴となった眼窩から出ていたので「穴目のススキ」と呼ばれたのであろうか、ある僧がこの辺りを通ったときに「あなめ・・・あなめ・・・」と言う悲しい声が聞こえ、調べてみると髑髏の目からススキが生えていたとも言われている。

この境内には、その髑髏が晒されていたと伝える場所に「穴目のススキ」の史跡があり、その横には「あなめの碑」と言う石碑が建てられている。

これは陸奥の国で野に晒された小町の髑髏が和歌の上句を「秋風の ふくにつけても あなめあなめ」と唱えるのを在原業平が聞き、哀れに思った業平が「そのとはいはじ すすきおひけり」と下句を詠んだとされる「あなめ伝説」にちなんだ石碑であるそうだ。

また、その近くには「小町姿見の井戸」の遺蹟もあり、老醜となった晩年の小町が己の姿を映して嘆いたと言う。

本堂には阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の三尊が祀られているが、その側に晩年の小町の老衰した姿を刻んだと言われる「小町老衰像」の木像も祀られており、老いて痩せ衰えた老婆となり杖を手にした小町の姿を伝えている。

かつての絶世の美女であった小野小町もやがて老醜となると言う事で諸行無常と言う所であろうか。

さて、小野小町と言えば前回の「百夜通い」で書いた深草少将との伝説が有名で、小野小町に恋した深草少将が小町に思いを告げると、百夜続けて通えば思いを叶えると言われ、毎夜通い続けるが残り一夜となった九十九夜に通う途中の雪の中に倒れて亡くなってしまうと伝えるお話である。

この小野小町と深草少将の悲恋の物語の後日談とも言うべき話が二つ伝わっている。

一つは「卒塔婆小町」と言われる名で知られるお話しである。

1人の高野山の僧が京へ登る途中に鳥羽の辺りで一休みしていた。

すると、杖にすがった1人の乞食老婆がよろよろとやってくると、側にあった朽ち果てた卒塔婆に腰を下ろした。

卒塔婆は仏の供養や追悼のために建てられた物である、僧は老婆を諭したが老婆は動こうとしない。

それどころか、老婆は僧の説く説教に対して仏法の奥儀で切り替えしてくるのである。

ついには「極楽の内ならばこそ悪しからめ そとは何かは苦しかるべき」(極楽の内ならば仏に無礼があってはいけないだろうが、この極楽の外では卒塔婆に腰をかかけてもかまわないだろう)と茶化した歌を詠むしまつだ。

僧は老婆の教養や智識に感心し、その名を問うと老婆は自分は小野小町のなれの果てだと答えたと言う。

老婆となった小町はいつしか物思いに浸り、若かりし頃の自分や恋の思い出や楽しかった事を思い出し、それに引き換えた今の自分の老いさらばえた姿が惨めに思えてきた。

すると突然に小町は狂ったようにもがき苦しみ、男のような声で喚き始めた。

「ああぁぁ小町が恋しい・・・九十九夜も通いつめてあと一夜で思いがかなったのに・・・」

小町には深草少将の霊が憑依していたのである。

しばらくして、我に返り落ち着いた小町は真の悟りの道に入りたいの願ったそうである。


もう一つの伝説は謡曲の「通小町」になっている話で先の話と似ている部分もあるが、この市原野辺りが舞台となっている。

ある僧が京の北にある八瀬の里で夏を過ごしていた。

そこへ、どこからともなく1人の女がやってきては木の実や薪を届けて来るようになった。

始めは感謝していた僧も、毎日のように女が届けに来るので不思議に思うようになり、女に何方なのかと尋ねてみた。

すると女は

「名乗るのもお恥ずかしいです、私は小町とは言いますまい・・・ススキの生えた市原野辺りの姥でございます」

そう言うなり、ふっと姿を消してしまった。

僧はますます不思議に思って考えていると、ある人から聞いた話を思い出した。

その人が市原野を通ったおりに、ススキが一本が生えている陰から「秋風の ふくにつけても あなめあなめ 小町とはいはじ ススキ生ひたり」(秋風が吹くにつけても、ああ苦しい。小町とは言うまい、ただススキが生えているだけ)と言う歌が聞こえたと言うのだ。

これはたしか「小野小町」の歌だったはず、さては先ほどの女は小野小町の幽霊かも知れない。

そう思った僧は、話に聞いた市原野に行って小町の遺蹟を訪ねて弔おうと考えて庵を出て市原野に向かっていった。

僧は市原野につくと小町の亡くなった地を訪ね、座具を広げて香を焚きお経を唱えて小野小町の霊を供養した。

すると、あの女が現れて

「どうも、わざわざお越しいただいて私を弔っていただきありがとうございます、これも何かの縁でございます、私に戒を授けていただけないでしょうか?」

そう言って僧に受戒を願ったのである。

その時、突然に男の霊が姿を現し

「いかん、この女にかまうでない。もしも小町が成仏してしまうと私はたった一人で苦るしまねばならなくなる、よけいな事をせずに立ち去れ」

そう言うと女を捕まえて邪魔しようとする。

女は何とか僧の供養を受けようと側に寄ろうとし、男は女の袂を掴んで引きとめようとしているのだった。

僧は、もしやこの男が「深草少将」ではないかと悟り、男の霊に話し掛けて百夜通いの話を聞かせてもらえないかと頼んだ。

すると深草少将の霊は静かになり語り出した。

「私は小町に恋し、百夜通えば思いを叶えると言う言葉を信じて、小町の元へ毎夜毎夜通いました。車や輿では人目に立つと言われ、蓑笠に杖をついて歩いて通い続けたのも小町への一途な思いからです。鬼が出そうな恐ろしい闇の中を、雨の降る夜も雪の降る寒さの中もひたすら耐えて通い続けたのです。そうしていつしか九十九夜にもなり、あと一日となった時にとうとう病に力尽き息絶えてしまったのです」

話を聞いた僧は深草少将の無念さを哀れに思い、小野小町の霊とともに深草少将の霊にも手厚い供養を施したのだった。

そのおかげで、小野小町も深草少将と供に成仏することができたそうである。

小野小町と深草少将の二人は現世で叶えられなかった思いを、成仏してようやくかなえる事ができたのだろうか。

この小町寺には墓地の入り口に深草少将の供養塔が建てられていて、その石段の奥には小野小町の供養塔が建てられている。

どうせなら、二つの供養塔を並べて建てれば良いのにと思うのだが、離れた位置に二人の供養塔が建てられている事を考えると、深草少将と小野小町の関係を思い、深草少将への哀れみを深くするのは私だけだろうか。
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五月会
京都の妙法院さんの五月会での特別拝観へ行ってきました。

妙法院さんは、皇族や貴族の子女が入られる門跡寺院で、あの三十三間堂も関係寺院に持つ名門門跡寺院で、後白河法皇や豊臣秀吉とも所縁のお寺です。

通常は非公開のお寺ですが、時々に非公開文化財の特別公開などで拝観する事ができます。

毎年、5月14日は五月会と言う法要が行われて、普段は非公開の場所も特別公開をされています。

私も何度か特別公開で訪れていますが、五月会での拝観は始めてで、いままで見れなかった所がたくさん見れて感激でした。

襖絵や寺宝も凄い物が多く見応えのあるものばかりでした。

不動明王も迫力あって良かったですよ。

また、普段は閉まっている本堂の普賢菩薩さまも特別に御開帳されてて、特製の散華に願いを書いて本堂の中へ入って奉納するのに長い行列が出来ていました。

私も散華に願いを書いて20分程度並びました。

本堂の前まで来ると数人が横に並んで、僧侶の方から塗香をいただいて身を清め、さらに頭にお清めを受けて、ようやくお堂の中に入れると、御本尊の普賢菩薩さまにお香をくべてお参りして散華を奉納します。


年に一度の機会とあってたくさんの方が訪れてられましたが、撮影禁止の場所で何度も撮影しようとして注意されてる人には帰れって思ってしまいますね。

たくさん見れて、お参りも出来て、満足できた拝観でした。
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式包丁
今年も、京都の得浄明院の白天龍王祭に行ってきました。

得浄明院の白天龍王祭と言えば、式包丁の儀式があるので知られています。

本来は、式包丁は外の白天龍王の前で行われるのですが、昨年に続いて今年も雨降りなので、本堂で行われました。

式包丁と言うのは、大きな包丁と真魚箸だけで調理する儀式で、手を触れてはいけないことになっています。

苞勝一條流の方々による奉納儀式で、得浄明院で行われるので殺生を戒める仏教にしたがい魚などの食材は使わずに、筍や豆腐などの食材を穢れの元となる手では触れずに、包丁と真魚箸だけで調理して、盆の上に文字の形に盛り付けます。

今年は、初めに筍を皮を切る所から調理されて、盆に盛り付けられました。

続いて、大きな豆腐を切り分けて、お盆の上に戊戌の文字に盛り付けられました。

雅楽の音楽が流れる中で、優雅で厳かな作法で行われて、格調高くて見ごたえありますね。

調理されてお盆に並べられた食材は、白天龍王の祠に奉納されて終わります。

あいにくの雨でしたが、今年も参加できて良かったです。
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一乗寺下がり松
京都市の左京区の一乗寺の地、北白川通りから曼殊院道を東に歩いた一乗寺下がり松町の東南の外れに一本の松の木が祀られている。

一乗寺下がり松と言われる松の木で、現在の松の木は何代目かの木なのだろうが、この場所があの「宮本武蔵」と「吉岡道場一門」との決闘で有名な「一乗寺下がり松」だと言われている。

そこからさらに東に行った場所には「八大神社」と言う神社があり、ここは吉川英治の作品では宮本武蔵が吉岡一門との決戦の前に祈願したことになっており、境内には宮本武蔵の像とともに、決戦当時の物と言われる下がり松の古木が保存され祀られている。

宮本武蔵といえばほとんどの人が知っている武芸者で剣聖とも言われているが、その実像は虚実や伝承が入り混じってはっきりしない。

武蔵自らの書である「五輪書」では「国々を遍歴して諸流の兵法者に行きあい、六十余たび勝負をしたが、一度もその利をうしなったことがなかった」と書いている。

宮本武蔵の生年や生涯については諸説があり不明な点も多いが、剣だけでなく書や絵画についても優れた才能を残している。

宮本武蔵は天正12年(1584年)に美作国吉野郡讃甘村に生まれたと言われている。

父は「新免無二斎」と言う武芸者で、母は率子と言い近くの村から嫁いできて武蔵を生んだが彼が3歳の頃に家を出て再婚したと言う。

後に、無二斎は於政と言う女性と再婚したと言う。

この無二斎は、十手の名手だったとも言われおり、十手で相手の太刀を受けて、片方の腕に持った刀で相手を切るのが得意だったそうで、これが後の武蔵の二刀流の元になったのかもしれない。

また、無二斎は吉岡憲法と言う吉岡道場の当主と試合を行なった事もあり、三本勝負で一本目は吉岡憲法が取り、残りの二本は無二斎が勝ったと言われている、この憲法と言う名前は吉岡道場当主の世襲であり、後にこの子か孫に当たる吉岡憲法と武蔵も立ち会う事になるのだから不思議な因縁である。

さて、この無二斎も武蔵が7歳の頃に亡くなって武蔵は孤児になってしまう。

宮本武蔵は生涯で多くの武芸者と立ち合ったと言われているが、そのほとんどが無名に近い武芸者で一番有名だったのが吉岡道場である。

当時には、柳生但馬守や柳生十兵衛などの柳生一門や小野次郎右衛門や小笠原源心斎などの高名な剣術家がいたにもかかわらず、武蔵は立ち合うことも無かったために武蔵の強さに疑問の説もあるほどであり、武蔵の謎の部分でもある。

その武蔵が立ち合った中で一番高名だったのが京都の吉岡道場であり、吉岡道場は、京八流の兵法を伝承する名家で足利家に仕えて、足利将軍家の兵法所となっているほどの名門でもあったのだ。

宮本武蔵は、関が原の合戦にも西軍の宇喜多秀家の軍勢に足軽として参加したようだが、西軍の敗北により名をあげることもできずに放浪の旅に出たと思われる。

宮本武蔵の剣と言えば「二天一流」と呼ばれた二刀流が知られている。

これは先に述べたように父の無二斎の十手が影響を与えたのかも知れないが、基本は左手で持った刀で相手を受けて、右手の太刀で相手を斬るものだと言うが、刀の重さは相当な物でありこれを片手で扱うと言うのはかなりの腕の力・膂力と鍛錬が必要であったろう。

両手で刀を扱ったほうが容易であり力も入るのだが動きに制限ができてしまい、その分、片手だと刀を扱う自由度がまし、変幻自在の動きが行なえるのかも知れない。

さて、武蔵と吉岡一門との対決である。

どういう理由で戦う事になったのか詳しくは判らないが、武蔵が名を上げるために挑戦したのではないかと言われている。

先に書いたように吉岡道場の当主は憲法を名乗る事になっており、武蔵と戦ったのは武蔵の父の無二斎と試合した吉岡憲法(直賢)の子か孫に当たる吉岡憲法(直綱)であったと言う。

武蔵の側から書いた記録と吉岡側から書いた物では、人物や名前が違っていたりするのだが、これは双方の事情や齟齬もあり仕方ないのかも知れない。

この吉岡憲法(直綱)もなかなかの剣の達人で武蔵と立ち会った頃は30歳前後だったか思われる。

当時は徳川幕府の成立したばかりの頃で、京都には京都所司代として「板倉勝重」が厳しく市政を取り締まっていた頃で、兵法の名門である吉岡家といえども私闘は許されなかった。

そこで吉岡憲法は試合のことを所司代に届け出た結果、所司代の板倉勝重自らが検分する事になり、所司代屋敷で立ち合いが行なわれたと言う。

結果、板倉勝重の判定は相打ちの引き分けである、所司代としては後に禍根を残さないようにとの配慮も働いて双方痛み分けとしたのかも知れない。

ところが吉岡側としては引き分けたとあっては面目が無い。

次は、「吉岡清十郎」と言う者が武蔵と京都の葬送地の一つである「蓮台野」で立ち合い、武蔵の一撃によって清十郎は倒れて絶息したと言う。

この清十郎には「吉岡伝七郎」と弟がおり、兄の清十郎にも優る腕前であった。

伝七郎は、清十郎の復讐を決意して武蔵に決闘をいどみ、「三十三間堂」において立ち合ったことになっている。

武蔵は試合の当日にわざと刻限に遅れて復讐に意気込む伝七郎をイライラさせて精神的な優位に立ったそうである。

ようやく現れた武蔵に対して激怒して挑んでいった伝七郎は、武蔵によって倒されてしまう。

そして、こういう経緯を経て宮本武蔵と吉岡道場との「一乗寺下がり松」の決闘へと進んで行くのである。

吉岡一門は、清十郎の息子である又七郎を総大将に立てて、武蔵に決闘を申し込んだ。

「吉岡又七郎」は、まだ幼い少年であったと言われている。

決闘の場所は京都のでも北東の郊外に当たる一乗寺の下がり松とされた、当時は京都の街からも離れた草深い田舎だったようである。

吉岡側は総大将にかついだ吉岡又七郎が幼く剣術もおぼつかない事も有り、多くの門弟を集めてなんとしても武蔵を打ち倒す決意であったと言われている。

そして果し合いの当日。

武蔵は前回の戦いとは打って変わって、刻限よりもかなり早くの暗いうちに下がり松につくと、根元に座って静かに刻限を待っていた。

やがて、ようやく夜が明けようかと言う頃合になって、吉岡一門は数十人で決闘の場所である下がり松に近づいてきた。

吉岡側には、武蔵は今回も遅れて来るだろうと言う予測があり、武蔵はしばらく来ないだろうという油断があった。

まさか松の根元に武蔵がいるとは思っていないのである。

そして、人の配置を始めてようやく白み始めてきた頃になって、下がり松の根元に誰やら人がいるのに気がついたのである。

「何者だ?」

そういう問いかけに対して武蔵は

「武蔵だ!」

と答えると見定めていた又七郎に狙いを定めて一刀のもとに打ち倒すと、唖然としている吉岡側の門弟を打ち払いながら逃げていったのである。

後には、少年の吉岡又七郎の痛いが残り、一乗寺下がり松の決闘は終えたのである。

ただ、この経緯や人名も諸説あったり、双方の記録で違っていたりするし、現在に定説とされている部分も作家や講談によって脚色されたり創られたりしている部分が多いと言われている。

以上が、宮本武蔵と吉岡道場との一乗寺下がり松までの大まかな対決を陳べたものである。

しかし、この一乗寺下がり松の決闘について、その場所に異説があることが判った。

対決の行なわれた一乗寺下がり松の地が別の場所だと言う説があるのである。

京都市の上京区、一条堀川の場所には安倍晴明の伝説とかで有名な「一条戻り橋」があるが、その一条戻り橋から一条通を東に少し行った所に南北の小道を挟んで二つの駐車場が並んでいる所がある。

西側の駐車場の一角には、以前に紹介した「小町草紙洗ノ井」の小さな石碑が残されている。

その「小町草紙洗ノ井」の道を隔てた東側の駐車場の一角は、何かを隠すようにトタン板で囲われているのだ。

そしてトタン板で囲われた中には、小さな石碑が建てられている。

トタン板で隠されて見え難いのだが、その石碑には「諸侯屋敷・一条下がり松遺蹟」の文字が刻まれている、このトタン板はこの石碑が盗まれたり悪戯されたりしないために囲われているのだそうだ。

「諸侯屋敷」と言うのは、豊臣秀吉が太閤となり大内裏跡の内野の場所に聚楽第を築いたのだが、豊臣家所縁の家臣たちは、その周囲に邸宅を構えたのが諸侯屋敷だそうであり、現在でもこの周囲には黒田如水に因む如水町、加藤清正に因む主計町、黒田長政に因む甲斐守町などの地名を残しているのだ。

そして、この近く(西洞院付近との説もある)には吉岡道場があったようである。

吉岡道場は当主の名前からか「けんぽうの家」と呼ばれて親しまれていたと言う。

また吉岡家では兵法以外でも染物でも有名であったそうだ。

明人の利三官と言う人物から教わった黒染色を工夫して染物屋を兼業しており、色がしぶくて染が落ちないので「吉岡染め」と呼ばれて人気だったようである。

この付近も西陣の地でもあり、水質の良い水に恵まれていたので平安の頃より染色業の家も多かったのである。

そうした吉岡道場の近く、あるいは裏庭に松の木があり下がり松と呼ばれていたと伝わっていると言う。

一条通りは、昔は西や北への歩き旅する時の基点でもあり、その下り松は目印であったが、やがて歩く旅が少なくなるにつれ一条通りもさびれ下がり松も無くなったのかも知れない。

聞く所によると、明治の半ばくらいまで実際に下り松があったようだが、その後に松の木がなくなり、その跡に石碑が建てられたのだそうである。

つまり、「一乗寺下がり松」の話は、「一条下がり松」が誤って伝えられたのだと言う伝承なのである。

確かに、洛北の遠い人家も少ない一乗寺には繋がりも無さそうだし、直ぐ近くで周囲も熟知している一条の方が場所としては説得力があるように思える。

以前に吉岡清十郎と武蔵との立ち合いが行なわれた蓮台野も比較的近くである。

反面、武蔵の養子であった「宮本伊織」の残した文には「洛外の下り松のあたりに会す」ともある。

ただ、ここは史実を検証するのが目的でなく、伝説や史跡を紹介するのが目的であるから、どちらが真実であるかとか野暮を言うつもりはない。

一乗寺下がり松と一条下がり松、東西に離れた地に二つの下がり松の伝承が残されているのも面白いものである。
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大田神社
大田神社は、京都の上賀茂の地にあり、上賀茂神社の摂社の一つで、上賀茂神社の前を流れる明神川と言う小さな川沿いに東に歩き、大田神社前の交差点を北にあがった所にある古社である。

この上賀茂神社から東に向かう辺りは家の前に明神川が流れる独特の雰囲気の町並みであるが、この家らを「社家」(しゃけ)と言い、この辺りの街並みは社家の町並みといわれて伝統的建造物保存地区に指定されている。

この社家と言うのは上賀茂神社の神官の住居だそうで、はるか平安京の建造以前からあると言われる古社である上賀茂神社の賀茂一族の子孫が社家と呼ばれるようになったとも言われている。

また、この辺りは京都名物のお漬物「すぐき漬け」の産地であり、このすぐき菜は上賀茂の一帯でしかつくられないのである。

江戸時代のはじめに、徳川幕府の誕生とともに政治や経済の中心は江戸に移って、京都の朝廷とかは逼迫してしまう。

そこで京都の上賀茂の社家ですぐき菜を栽培してすぐき漬けを作って販売し朝廷の経済的援助としたそうだ。

これが成功して、すぐき漬けは朝廷の貴重な収入源となり、すぐき漬けは京都の名産品として知られるようになり、江戸時代の後期にはすぐき漬けの独占と保護のために、京都の所司代が「すぐき」の他村への持ち出しを禁止する事になり、それから、すぐき菜の栽培とすぐき漬けは上賀茂一帯だけに受け継がれてきたそうである。

この、「すぐき」は酸茎と書くように蕪を小さくしたような形で、独特の酸味があり、塩だけで漬けられた「すぐき漬け」は京都でも人気のお漬物であるが、私にはどうも酸味が強すぎてようで好みの別れるところだろう。

話が逸れたが、あの北大路魯山人は、この社家の生まれだそうである。


さて大田神社であるが、この神社は「かきつばた」の花でも有名である。

神社の東側に広がる池「大田ノ沢」には5月に入ると紫色のかきつばたが咲き輝くようになる。

この「大田ノ沢」は、平安時代からかきつばたの群生地として有名で、藤原俊成が「神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは色にみゆらむ」と詠んだ歌でも知られている。

また、大田ノ沢には石碑が立てられており「天然記念物 大田ノ沢かきつばた群生」の文字が彫られている。

この大田ノ沢は、先に述べたようにかきつばたの群生地なのだが、かきつばたが群生しているのは日本でもここだけだそうで、国の天然記念物に指定されているのだ。

なお、大田ノ沢から東の方に、有名な「深泥ヶ池」があり、古代にはこの大田ノ沢と深泥ヶ池が続いていたと言われている。

深泥ヶ池は、氷河期の植物さえ残ると言われており「ジュンサイ」「タヌキモ」「コウホネ」等の珍しい水生植物の群生を残し、やはり国の天然記念物に指定されているのだが、かっては同じ植物を実らせた大田ノ沢には紫のかきつばただけが残ったのも、なにか面白いような気がする。

よく言われる言葉に「いずれがアヤメかカキツバタ」と言うのがあって、ほんとうにアヤメとカキツバタは似ている。

花の付け根の辺りが違うそうなのだが、聞いた話によると水辺を好むのがカキツバタで、陸地を好むのがアヤメだそうだ。

さて、この「大田」の地名は昔には「太田」と書いていたそうで、この辺りは田園地帯であったのであろう、田を太く、大きくと言う願いを感じるのは私の考えすぎだろうか?

大田神社は小さな神社だが歴史を感じさせる威厳のような凛とした空気を感じる古社である。

神社の祭神は、あの天照大神(あまてらすおおみかみ)が「天岩戸」に隠れた時に踊って誘い出したとして知られる「天鈿女命」(あめのうずめのみこと)で、夫でもある「猿田彦命」(さるたひこのみこと)も祀られている。

なんでも、その天鈿女命の踊りと言われる物が「チャンポン神楽」として、今も氏子の年配の女性によって伝えられているそうで、毎月10日に行われているそうだ、ちなみに「チャン」が太鼓の音で「ポン」は鼓の音でそれに合わせて右に左に回りながら踊るそうだ。

この大田神社には「蛇の枕」と言われる石にまつわる伝説がある。

その蛇の枕と言われる石は、大田神社の朱色の鳥居の下辺りにある小さな石橋の下の東側の小川のなかに埋まるようにあり、写真では水が無いが小川の泥に埋まって顔を出すように出ている石が蛇の枕である。

また雨乞いに関する石なので、干ばつにみまわれた上賀茂の一帯に雨を降らせたことから、雨石とも呼ばれるそうである。

干ばつなどで雨乞いが必要な時に、この蛇の枕の石を使うのだが、泥に埋まった蛇の枕を掘り出し、鍬などの鉄器で石をカンカンと叩くのだそうだ。

すると枕を叩かれて粗略に扱われた蛇が怒って、人間どもを懲らしめるため雨を降らせるのだそうである。

さらに雨乞いであるが、その後、年寄りは貴船神社へ、若い者は市原にある神社へと向かうのであるが、道中で日照りで少なくなった川の水をくんで、周りに人間にひっかけるのである。

つまり、ここでも貴重な水を粗末にすることで神様が怒り雨を降らせる、という理屈である。

雨乞いを神に願うのではなく、蛇を怒らせて「罰」として雨を降らせるようにするのが面白いところだ。

しかし、最近ではもう何十年も、この雨乞いは行われていないそうで、この蛇の枕の話を知る人もすくないようである。

上賀茂神社は『延喜式』に祈雨神祭を預かる社という記述があり、山城国の全体に雨をもたらす役割がある。

しかし、上賀茂の農民はお参りできない存在だったため、身近な大田神社に祈雨をしたのではという説ももあるようだ。
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清滝トンネル
京都の嵯峨野と言えば多くの観光客が訪れる観光地であるが、その嵯峨野の奥の嵯峨野鳥居本を通る国道137号線で愛宕念仏寺を過ぎた付近に、清滝トンネルと呼ばれるトンネルがある。

この清滝トンネルは、かつては愛宕神社参詣のため戦前に敷設された愛宕鉄道の鉄道専用トンネルで、昭和4年(1929年)に開通したと言う。

しかし、鉄道は昭和19年(1944年)に廃線となり、その後は路線跡は府道として利用され今日に至ると言う。

この清滝トンネルが、京都でも有名な心霊ポイントだと言われ、都市伝説のようにいろいろな怪談が語られているそうだ。

近くに京都の葬送地であった化野があり愛宕念仏寺や化野念仏寺などのお寺や墓地も多いからか、幽霊の目撃談と言われる者も様々あると言う。

それらは、トンネル工事中に事故死した作業員であったり、あるいは昔の格好をした老婆や子どもの姿が目撃されたという噂もあるようだ。

また、トンネル内を通過している車のフロントガラスに女性の幽霊が落ちてくると言う話もあり、さらにそれを見た者は発狂するとも言われているそうである。

それらの中で、特に有名なのがトンネルの信号にまつわる怪談である。

この清滝トンネルは幅が狭くなっているため、信号によって嵯峨野側と清滝側との交互通行となっている。

それで、トンネルを通行しようとしてやってきて、それで信号が青だったとしても、そのまま進んではならないと言う。

何でも青は車を招きいれようとして青になっているそうで、そのまま通らずに、一度停止して信号が赤になるのを待ち、再び青になってから進まなくてはいけないのだそうだ。

清滝トンネルは、先ほど書いたように幅が狭く交互通行であるのに加えて、トンネルの長さも500メートルと長いので、通っていると向こう側から車が来るのではないかと言う真理的な怖さも影響しているようにも思う。

また、信号が青の時間は短いために、うまく青の信号に当たる確立が低いことも伝説が生まれた素地のような気がする。

他にも、このトンネルは行きと帰りでは長さが違うと言うのもあるそうだが、これなどもトンネルと言う場所柄から、心理的な怖さから来た物のような気がする。

なお、このトンネルを通らずに、その上を行く山越えの清滝道を行くと峠の頂上付近に真下を向いたミラーが付けられていて、そのミラーには子供の幽霊が映るとか、あるいは自分の姿が映らなかった人は死ぬといった噂もあると言う。

真下を向いたミラーと言うのは不気味な感じもあるが、これは実は、道が急な上がり坂と下り坂になっているために、下から上がってきた車が歩行者などがいないか確認するためにミラーが下を向いているのだそうだ。

なお清滝トンネルは始めに書いたように京都でも有名な心霊スポットだそうであるために、深夜に肝試しの訪れる人も多いようで近隣の人には迷惑になっていると言う。

ちなみに、この清滝トンネルは昼間は市バスも通るトンネルでもあり、私が取材に訪れた時も、中に入るのが嫌なので入り口から様子を窺っていると、向こうから何か物音と供に何か大きなものが来るといぶかしんでいると市バスがやって来て驚いたものだった。

京都では、他にも五条トンネルが心霊スポットだとも言われている。

京都以外でも、トンネルが心霊スポットとして都市伝説が生まれているのは各地に見られる現象である。

その真偽はともかく、トンネルは昼間でも暗いし通るのに怖い部分も判るので、トンネルが心霊スポットとして伝説を生むのも仕方ないような気がする。

ただ、だからと言って興味本位や遊びでそういう場所に集まったり見に行くのは、付近の人には迷惑でしかなく、また危険な行為だと認識して止めておいて欲しいと思う。
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レンガの一撃
☆これは、「Yes,I Can」と言う本にある、アメリカの「Hit By A Brick」と言う、作者不明の詩を訳された物です。


10年ほど前のこと、若くして成功したジョシュという男がシカゴの道路を車で走っていた。

二ヶ月ほど前に購入した真新しい12気筒のジャガーXKEはややスピードが出すぎていた。


彼は路上駐車の間から飛び出す子供を注意しながら、何かしら気配を感じたので車の速度を落とした。

車が通り過ぎようとした瞬間、子供ではなくレンガのような物が飛んできた。

ガツーン・・・!!

ジャガーのピカピカの黒いドアに当たった。

キキーッ・・・!!

急ブレーキのあと、直ちにギアをバックに入れ、狂ったようにレンガが飛んできた地点に戻った。


ジョシュは車から飛び降りるなり子供をつかみ、駐車している他の車に押し付けて叫んだ。

「これはどういうことなんだ!、おまえは誰だ?、とんでもないことをしたんだぞ!」

怒りで血がのぼった彼はさらに続けた。

「あれは俺の新品のジャガーだ!、レンガを投げたおまえは大金を払うんだぞ、一体なぜあんなものを投げたんだ?」


「どうか・・・、お願いです、許してください、こうする以外どうしようもなかったんです」

と、子供は訴えるように言った。

「誰も止まってくれないから投げたんです」

駐車中の車の向こうを指差しながら、大粒の涙が少年のあごからしたたり落ちた。

「あれ、ぼくの兄さんです」と彼は言った。

「歩道を乗り越えたら車椅子から落ちて・・・ぼくでは持ち上げられないんだ」

少年はすすり泣きながら頼んだ。

「どうか車椅子に乗せるのを手伝ってください、怪我をしているし、ぼくにはとても重くて・・・」


言葉も出ないほど心を動かされた若い経営者は、胸がいっぱいになるのを懸命にこらえようとした。

彼は若者を抱きかかえるようにして車椅子に戻し、ハンカチを取り出し、すり傷や切り傷をぬぐった。

そして何もかも大丈夫かどうかを確かめた。


やがて、兄をのせた車椅子を押しながら、家に帰っていく弟の姿を見送った。

ジョシュが車のジャガーまで戻る足取りは、どれほど重く長く感じたことだろう。

彼はドアの傷を修理せずそのまま残すことにした。

彼の注意を引くために、誰かがレンガを投げなければならないほど自分の人生を急いではいけないという戒めにしたかったから、彼にとっては、柔らかいレンガだったのかも知れない。


ところで、あなたはレンガで打たれた経験は・・・?
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エンザサンザ
京都の近鉄の竹田駅の近くにはエンザサンザと言われる風習があります、エンザサンザは延座参座の字を当てるそうです。

駅の線路沿いの用水路のような場所に竹を立てて注連縄を張ったのが、南西の鬼門を護ると言われている裏延座参座です。

そこから少し離れて小学校の正門前の二本の楠に注連縄を張ったのが、北東の鬼門を護ると言われている表延座参座だそうです。

これは「道切り」とも言われる風習で道からやってくる悪霊や疫病などの災いから村を護るための結界のような意味があるそうです。

また、注連縄の中央には絵馬のような木札が下げられていて、なにやら文字と五芒星も描かれており、また絵馬を守護するかのように十三神将の名前の付いた木札も付けられています。

何でも、過去にはこの付近に48個ものエンザサンザが祀られていたという話もあり、どうしてそんなに多くの道切りが必要だったのか考えたときに鳥羽上皇の名前が出てきました。

表延座参座が作られている小学校前ですが、この小学校が出来る前は鳥羽上皇が勧進したと言われる「山王権現大宮社」と言う神社があったそうです。

また。この付近には「鳥羽」の地名も残っていますし、鳥羽離宮も近くです。

注連縄や絵馬は安楽寿院と言うお寺で作られるのだそうですが、その安楽寿院の周囲には「鳥羽天皇安楽寿院陵」をはじめ「近衛天皇安楽寿院陵」や「白河天皇成菩提院陵」などの陵墓がある土地でもあるのです。

こうなると、鳥羽上皇や近衛天皇に所縁のある御霊と言えば、あの「崇徳上皇」を思い浮かべてしまう私です。
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菖蒲の節句
5月5日は男の子の節供、端午の節供として知られている。

もともとは、「馬(午)の月」である五月が邪気を祓う月と考えられてきた中国の風習が日本に伝えられ、最初は田植えの時期と重ねられた農耕儀式であったらしいが、やがて転じて男児の成長を祝う節供として発展して来たと言う。

端午の節供には菖蒲が活けられる事が多いが、軒先に菖蒲や蓬を挿したり菖蒲湯に入る習慣もある。

これは季節の花を愛でる意味よりも、悪いものを取り除く縁起物として菖蒲を見立てていると言い、菖蒲の葉のように香りの強い植物には、古くから魔除けの力があると考えられていたからだそうだ。

本来、端午とは初めに書いたように月の初めの午の日を指す言葉だと言う。

古来中国では北斗七星が真北を指し示す11月を「子の月」と定めたところから、5月は「牛の月」と言い、邪気を祓う月と考えられて来た。

この風習が日本に伝わったのだが、日本ではこの時期が旧暦では田植えを始める大切な時期でもあり、農耕儀礼として行われるようになったのだった。

つまり、米を収穫するのも神様の恵みであり、その神迎えをして秋の実り多い収穫を祈ったのが端午の節供だったそうだ。

端午の節供では、早乙女(さおとめ)と言う田植えをする女性は神迎えをするために穢れから遠ざけるために「女の家」と言うところに斎篭りしたと言う。

斎篭りをして神を迎え、その時期から田植えを始めるのであるが、その斎篭りの折に魔除けの力があると言われる菖蒲の葉を女の家の周りにつけて、早乙女達を守ったのである。

そうした女性を守るための節供であった端午の節供であったのであるが、女性が篭るために残された男性だけでお祝いすることもあり、徐々に中世の頃から男の子の祭へと変わって行ったようだ。

また、菖蒲の意味合いも、その葉を魔除けとしてつける事で女性をまもっていたものが、いつしか「菖蒲が尚武(武を尊ぶ)に通じる」ことから男性の武を競うものとして男性の節供に欠かせない縁起物へと変化して行ったとも言われている。

京都の伏見区にある「藤森神社」は菖蒲の節供の発祥地と言われている。

毎年5月5日に行われる藤森祭は菖蒲の節句発祥の祭と言われ、各家々に飾られる武者人形には藤森の神が宿るとされている。

また菖蒲は尚武に通じ、尚武は勝負に通じるので、勝運を呼ぶ神として信仰を集めていると言う。
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明智藪
京都の伏見区にある醍醐の地、そこを通る地下鉄東西線の「石田」駅から北西に歩いて新小石橋を渡り、小栗栖北団地の北西にある「本経寺」の東側(伏見区小栗栖小阪町)に、ひっそりと「明智藪」の石碑が立てられている。

この辺りは、昔は栗栖郷と呼ばれていて草地に馬が群れていたそうで、山の中腹には藪が広がっていたのだろうか、今は土砂崩れ防止の工事の為に藪は刈り取られ、本経寺の管理地として僅かな藪の痕跡と石碑が立つだけである。

明智藪は明智光秀の終焉の地と言われている場所である。

天正10年(1582年)、秀吉の中国攻めへの応援を申し付けられ、戦地に向かうはずだった明智光秀は丹波から引き返して本能寺に駐留していた信長を討った、俗に言う本能寺の変である。

そうして光秀が天下を握ったかに思われたが、中国遠征から急遽引き返した秀吉と天王山で戦ったが敗れてしまう。

三日天下と言われるように、つかの間の夢で敗軍の将となった光秀は数人の近臣に守られ、居城のある滋賀の坂本へ落ちて再起を図ろうとしていた。

満身創痍の光秀一行は、淀川右岸を通り、伏見大亀谷を径て小栗栖の深い竹薮を通っていた。

光秀の心中はどうだっただろうか。

本能寺で信長を討ったものの信じていた人に背かれ、秀吉に敗れて多くの家臣を亡くし僅かな手勢で落ち延びていく。

無事に坂本に帰りつけた所で敗軍の将となった身では討手を差し向けられるだろう。

様々な思いが光秀の胸をよぎっていたのかも知れない・・・・

光秀の心のように、折からの冷たい雨が降り続き、風が藪を揺らしている。

ガサッと竹薮が大きく揺れたその刹那、光秀の全身に焼けるような痛みが走りぬけた。

付近の百姓である長兵部衛の竹槍が、光秀を貫いたのだ。

周りは、落ち武者狩りの農民に囲まれていた、光秀一行は目撃され待ち伏せされていたのだろう。

手負いの光秀らは疲れも大きく、多勢に無勢の中で敵うべくもなく討たれて行った。

やがて光秀の遺骸は京都の秀吉の下に運ばれて検分され、首と胴は粟田口にさらされたと言う。
 
光秀は享年55歳だったと言われている。

その後、あの竹藪を通ると、軍勢のおたけびが聞こえると言う噂が農民の間に伝わって行った。

さらに殺された光秀の怨みなのか、竹を切る農民がケガをしたり、震えが止まらなかったりと怪異が続いたようだ。

そうした事が続き、竹薮は光秀の祟りとして怖れられ、人々も避けて通るようになったと言う。

こうして、この竹薮は明智藪として恐れられたが、明治維新まではこの竹薮から緑にまじって赤い枝をつけた竹が無数にはえたそうだ。

また、以前はこの竹薮の一面に、ちょっとした空地があり近在の人たちは、「ワタ出」と呼んだと言う。

それは、光秀が竹槍で突かれた時に、最後の力を振りしぼって竹槍を抜いた弾みに、光秀の腹部から鮮血と内臓が飛び散ったそうで、そうした光秀の怨念が周辺の竹を腐らせたとされていたようだ。

そう言った明智藪についての伝説であるが、光秀の死については諸説があり不明な部分も多いと言う。

身代わり説や改名説や逃亡説などもあり、生き延びて「天海僧正」になったと言う説は有名である。

また死亡説でもいろいろな話が伝えられており、 光秀の墓と言われる物や塚と言われるものも各地に残されているようだ。

以前に「明智光秀の首塚」について紹介したように、光秀の首が晒されたと言われている粟田口に近い三条から白川沿いに下った梅宮町に首が供養されて祀られており、首塚大明神として信仰されている。

さらに、明智藪から小栗栖街道沿いに北に上がった山科区勧修寺御所内町には光秀の胴を供養したと言われる「明智光秀の塚」の石碑が立てられている。

これは小栗栖で刺された光秀の胴体が埋められた所とされているようだ。

光秀は、その出生や出自も諸説があり、その最後にも伝説の多い人物である。

光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかも謎に包まれているが、私は割と好きな武将の一人でもある。
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血天井
京都のお寺の中には「血天井」と言う不気味な呼ばれ方をする史跡を持つお寺がいくつかある。

京都市東山区の「養源院」(ようげんいん)

京都市北区鷹ヶ峰の「源光庵」(げんこうあん)

京都市北区西賀茂の「正伝寺」(しょうでんじ)

京都市左京区の「宝泉院」(ほうせんいん)

宇治市宇治山田の「興聖寺」(こうしょうじ)

などのお寺には血天井があることで知られている。

この血天井と言うのは関ヶ原の合戦の前哨戦とも言うべき、伏見城の戦いで犠牲となった徳川家康の家臣である「鳥居元忠」らにまつわる史跡なのである。


鳥居元忠は「鳥居伊賀守忠吉」の三男として生まれ、幼名は鶴之助と名付けられ、後に彦右衛門と称した。

そして天文20年(1551年)の元忠が13歳の時に10歳の家康(当時は松平竹千代)の近侍として仕えてからは数々の合戦で戦功を挙げ、三方ヶ原の戦いでは負傷して片足が不自由になったと言う。

同年に父である鳥居忠吉の死去により家督を相続すると、典型的な三河武士として徳川家中で重きをなしていく。

天正10年(1582年)の「本能寺の変」のおりには、甲斐古府中(甲府)で北条氏勝らを破った功により家康から甲州郡内の地を与えられ、天正18年(1590年)には豊臣秀吉の小田原征伐で徳川家康に従って出陣すると武蔵岩槻城を落とすなど活躍して秀吉からも感状を受けたのであった。

やがて徳川家康の関東入国の際には下総矢作四万石の主とまでなっていた。

月日が過ぎ、天下人であった「豊臣秀吉」が亡くなると、秀吉の子の「豊臣秀頼」を頭にして豊臣家による安泰を図る石田三成らと、徳川家による天下制覇を心に思い勢力を伸ばしていく徳川家康らとの対立が表立ってきた。

また、豊臣恩顧の武士でありながらも石田三成への恨みや怒りをもつ加藤清正や福島正則らが、北の政所・ねねの進めもあって徳川方についていたことも情勢を複雑にしていた。

面白いのが、石田三成も、徳川家康も、どちらも戦で雌雄を決したいと思いながらも、切っ掛けとなる大儀を模索していたのである。

そこで石田三成は、自分と志を同じくする上杉家と図って策を練る。

上杉家が徳川と敵対し、これを討伐に徳川が出発した所を大阪から豊臣勢が追撃して、東からの上杉勢と西からの豊臣勢で徳川勢を挟み撃ちにする計画を立てたのである。

しかし、徳川にすれば、この策略は見破っていたのである。

徳川勢が上杉討伐に出発すれば石田三成らが兵をあげて追撃してくるのは目に見えていた。

しかし、これを見破っていることを知られてはいけないので、気づかれないように、伏見城の守護に置かれている徳川勢の勢力は残しておく必要があったのである。

ただ、この残していく勢力は石田勢が兵をあげたときには総攻撃を受けて負けるのは必至であった。

その伏見城を守護していたのが、鳥居元忠らであった。

やがて徳川家康は上杉征伐へと腰を上げる。

6月16日、大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居として残し、前田玄以や増田長盛らの見送りを受けて大坂を出陣すると伏見へ向かった。

同夜に一行が伏見城に到着すると、鳥居元忠は自ら杖を突きながら不自由な足を引きずって城中を歩き回り、御供の者にも牡丹餅と煎茶を振る舞ったと言う。

翌17日、家康は伏見城の守備を本丸は鳥居元忠、松の丸は内藤家長、三の丸は松平近正・松平家忠へそれぞれ命じ、鉄炮二百挺を預けたのである。

その際、家康は

「四人とも、今回の会津征伐への出陣に加わらずに、こうして留守居を務めることを残念に思ってくれるなよ。大勢いる家中の者どもの中から、特にその方らをここに残すことは、よくよく考えてのことである。しかし、人数が少なくて皆には苦労を掛けることになる」

と言ったところ、元忠は密かに家康の意を汲んでおりこう返答した。

「私はそうは思いません。会津征伐は徳川家にとっても重要な戦であり、家人一騎一人たりとも多く連れて行かれるべきです。京・大坂が今のように平穏なら、この城の守りは私と近正でも充分です。殿が出立の後、もし敵の大軍がこの城を囲むようなことになれば、近くに後詰めを頼む味方もおらず、とても防戦などは出来ないでしょう。つまり、貴重な人数を裂いて少しでも城の守りに残すというのは、無益と存じます」

この夜、元忠と家康は昔話に花を咲かせた。

鳥居元忠が家康に仕えた頃は、家康がまだ少年で今川の人質として肩身の狭い思いをして苦労していた頃の話だったのである。

主従水入らずで語り合い、あっという間に時間は過ぎていった、これが別れの杯でもあったのだろう。

やがて元忠は「もう寝られませ」と言って退出しようとしたが、足が不自由なため思うように歩けず、家康は小姓らに「手を引いてやれ」と命じた。

元忠と家康は人質となっていた子供の頃から、主従とはいえ共に苦労を同じくしていた兄弟のような間柄である。

小姓らに支えられて退出する元忠の後ろ姿を見て、家康が思わず泣いたと言う。

翌6月18日の朝となり、徳川家康は鳥居元忠ら伏見城守護の四将に見送られ、井伊直政・榊原康政・本多忠勝父子ら錚々たる軍容をもって伏見を出陣した。

やがて徳川勢が出陣したことを確認した石田三成ら西軍は家康の予想通りに挙兵し、元忠らが守る伏見城に向かって行ったのである。

西軍では出陣を前にして宇喜多・毛利らは伏見城攻めを協議していたが、増田長盛がこう提案した。

「伏見城は太閤様が日本中の人夫を集めて堅固に築城された城であり、兵糧武器に至るまで事欠かない名城である。またこれを守る元忠以下の四将は、内府(徳川家康)の若い頃から仕込まれた武辺者ばかり。さらに近隣に後詰めの城もなく兵卒に至るまで死にもの狂いで戦うであろうから、容易に城は抜き難いだろう。幸い私は元忠を長年に渡って知っているので、城を明け渡すようまずは申し送ってみては如何であろう」

この意見に宇喜多秀家が同調して評議は一決し、西軍方は増田家臣の山川半平を使者として伏見城へ派遣した。

しかし鳥居元忠はこの申し出を一蹴してこう言った。

「御口上は承った。しかしながら、内府は出陣の際に堅固に守れとの仰ったのである。内府の直々の命令ならばいざ知らず、各々方からの申し出により開城することは出来申さぬ。どうしてもというなら、軍勢を差し向けなされ。この白髪首を引き出物に、城をお渡しできるであろう」

こうして明け渡しの交渉は物別れに終わり、伏見城攻めは決行されることになった。

しかし徳川方にも味方はあった。

近江の代官である岩間兵庫と深尾清十郎は甲賀衆数十人を引き連れて籠城勢に加わることを願い出た、また家康の恩に報いようと、宇治の茶商である上林竹庵も共に籠城を願い出たのである。

元忠は竹庵にこう言った。

「その方は町人となった身である、討死にしなくとも恥ではあるまい。我々も窮する余り町人まで籠城させたと言われるのも残念である。早く宇治へ帰られよ」

と諭すが、竹庵は納得せずに反論した。

「私は内府に受けた恩は大で、今こそ町人にはなっているが、心まで町人ではない。今、当家の危急に臨んで去るのは人の道に外れる。願わくば、泉壌に茶を献じたい。強いて追い出されるならば、この場において腹を切る」

と顔色を変えて詰め寄ったため、元忠は彼らの入城を許したという。

この上林竹庵は、元は近江佐々木義賢の後裔と伝えられる丹波の武士であり、徳川家康に仕えて長久手の合戦では首二級を挙げて、家康から感状と槍を賜った事もある武将であった。

しかし、後には宇治で茶道を志し剃髪して竹庵と号したという経歴の持ち主である。

余談であるが、島津家も、実はこのときは徳川方に付くつもりで伏見城に行き、城に入れるように申し入れたのだが、鳥居元忠は家康からそういう話は聞いていないために頑なに断り、それでも島津側がしつこく申し入れるためにもしや敵方の策謀ではないかと疑って鉄砲を撃ちかけたという。

それで島津側は仕方なく西軍に付く事になったと言われている。

7月15日(『家忠日記』では18日)、西軍は宇喜多秀家を総大将として大坂を出陣、4万の大軍で城を包囲した。

これに対して伏見城守護側は2千名ほどで、守将の鳥居元忠は自らは本丸を守り、二の丸には内藤家長・内藤元忠と佐野綱正を配し、三の丸には松平家忠・松平近正を、治部丸には駒井直方、名護屋丸には岩間光春・多賀作左衛門、松の丸には深尾清十郎・木下勝俊(後に退城)、太鼓丸に上林竹庵をそれぞれ配置して、徹底抗戦の構えを取った。

19日から西軍の猛攻が始まった。

21日には城の外濠まで詰め寄られて激しい銃撃戦が展開されたが、元忠らは頑強に抗戦して10日余りも持ちこたえたのである。

しかし30日、攻囲陣の中にいて甲賀衆を抱えていた近江水口城主の長束正家は一計を案じ、鵜飼藤助なる者に命じて城内の深尾清十郎ら甲賀衆に連絡を取らせ、「火を放ち寄せ手を引き入れよ。さもなくば、国元の妻子一族を悉く磔にする」と脅迫した。

鵜飼藤助は矢文を射込み、城内の甲賀者に内応を勧めたところ、郷里に残した家族を心配する甲賀者たちはこれに応じる事になり、「今夜亥の刻に火を放って内応する」との返事を得た。

そして、これがその通り実行されたのである。

8月1日未明、伏見城の一角に火の手が上がると、城内の甲賀者はどさくさに紛れて城壁を壊して西軍を引き入れた。

内応者がいては堅固な守りも、もはやどうにもならない。

松平家忠・松平近正、上林竹庵らは次々と討たれ、本丸の鳥居元忠は奮戦して傷だらけになりながらも三度敵を追い返したが、もはや彼の周りにはわずか十余人しか残ってはいなかった。

そして、遂に元忠の最期の時が来た。

『常山紀談』巻十四の七、第三百十六話「伏見落城の事附鳥居忠政、雑賀孫市を饗れし事」には次のように描かれている。


元忠本丸に有て門を開かせ、門際より七八間しさりて、士卒三百余白刃を抜そろへ、しづまりかへって待かけたり。

寄手しばし攻入兼てためらひけるに、元忠大音あげ、「一人にても敵を討て死するぞ、士の志なれ。吾三方ヶ原にて足に手負ひ行歩心にまかさざれども、逃んとせばこそ足も頼まめ。いざ最後の軍せよ」と下知する声を聞て、一同に切って出面もふらず戦ひて、一人も残らず討死しけり。

元忠戦ひ疲れて玄関に腰をかけ、息つぐ処に雑賀孫市重次、死骸を踏越てすゝみよれば、「吾は鳥居彦右衛門よ。首取て功名にせよ」とて物具脱で腹を切たりしかば、雑賀其首を取りたり。

本丸に二つの門ありけるを、大手の外はみな堅く鎖してければ、一人も逃ちる者なく討死しけるとぞ。


こうして鳥居元忠ら伏見城を守る武士達はことごとく討ち死にしたのである。

鳥居元忠は享年62歳だったそうで、その首は大坂城京橋口に晒されたと言う。

また、関ヶ原の合戦が始まったので伏見城で亡くなった遺骸はそのままにされたために、床板に血潮が染み付いたそうである。

この時の彼らの血潮に染まった床板が、後に供養のために京都市内の養源院・宝泉院・正伝寺・源光庵などの寺に移築され、「血天井」となったのである。


徳川家康ら東軍は、石田三成ら西軍が進軍したと言う報を受けると、評定を開いて方針を審議した後に、上杉討伐を中止して西軍を討つために西に向きを変えて進軍し、関ヶ原の戦いへと向かっていくのである。

伏見城の鳥居元忠らの守将が捨石となり、西軍の攻撃を長く持ちこたえたために西軍の侵攻が遅れることにもなったので、この伏見城の攻防も関ヶ原での東軍勝利の要因であったとも言われている。

ちなみに、使われている血天井の写真は「源光庵」のものである。

京都市の東山区の七条通りには有名な三十三間堂があるが、その東側の通りを少し下がった所に「養源院」と言うお寺があり、その門前には大きく「血天井」と書かれている。

養源院は、豊臣秀吉の側室である「淀君」が父の戦国武将「浅井長政」の二十一回忌にあたり、その菩提を弔うため秀吉に願って文禄3年(1594年)に創建したのが始まりだと言う。

また、浅井長政の従弟で比叡山の僧となった者を開山とし、寺名は長政の院号である「養源院天英宗清」に因んでいるそうだ。

その後、元和5年(1619年)に火災で焼失するが、元和7年(1621年)になり淀君の妹であり、徳川秀忠に嫁いで正室となっていたお江(おごう)の願いにより秀忠が再興したのであった。

そのために、このお寺には豊臣家の遺品と徳川家の遺品が並ぶ寺院となっており、徳川家の菩提寺ともされている。

この養源院の天井は先に書いたように伏見城の遺品の床板を張った血天井であるために、拝観するとお寺の方が血の痕を指しながら解説してくださるが、鳥居元忠の血の痕もこの養源院の血天井に使われており、確認できるようだ。

また、この寺には俵屋宗達作の襖絵「松図」12面や、杉戸絵「唐獅子と白象」8面などが伝わっており、重要文化財に指定されている。

そのために養源院の、もう一つの通称名は「宗達寺」とも呼ばれているのである。
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佐々木愛次郎
新選組の隊士の中で、美男五人衆の一人とされた佐々木愛次郎と言う隊士がいました。

大阪の出身で顔も身体も色白でしたが筋肉は引き締まって、動きは素早く剣の腕も立ち、新選組隊士の中でも美男剣士と噂されてたそうです。

性格も良くて機転も利く方だったそうです、愛次郎と言う名前も良いですね。

その佐々木愛次郎が、ふとした事から八百屋の娘のあぐりと言う娘と知り合って、お互いの思い合う仲になりました。

美男美女の爽やかな恋人同士でした。

しかし、ある夜に二人が河原を散歩しているときに、酔っ払ってお供や芸者を連れた新選組の芹沢鴨と出会ってしまったのです。

芹沢は、あぐりをジロジロと眺めると話しかけて来ましたが、そこは愛次郎が間に入り、何とかあぐりを庇ったのでした。

芹沢は、愛次郎に明日の朝に話があるから部屋へ顔を出すように言いつけると去っていきました。

芹沢のお気に入りに佐伯亦三郎と言う隊士がいました。

翌朝に愛次郎が芹沢の部屋へ行くと、佐伯が待っていて、芹沢があぐりを気に入ったので妾に差し出すように親元へ話に行くと言いました。

部屋でも、芹沢からあぐりを妾にするからそのつもりでいろと言われてしまいました。

愛次郎は胸が張り裂けそうでどうしようもなく、あぐりの元へ行きたくても隊務があるので行く事も出来ずに、辛い思いで泣きたい気分でした。

佐伯は、あぐりの親元へ交渉に行きましたが、愛次郎とあぐりの事は親も認めた仲で、親も愛次郎を気に入っていたので、芹沢の申し出を断りました。

実は、佐伯もあぐりの事を何とか自分の物にしたいと横恋慕していたのでした。

そこで、一旦は引き下がると、愛次郎に

「芹沢に見込まれたからにはどうにもならない。このままあぐりを連れて駆け落ちするのが一番良い」とそそのかしました。

あぐりへの思いでいっぱいの愛次郎は佐伯の話を真に受けて感謝するのでした。


愛次郎は、あぐりの親にも事情を話し、了解を得たうえで二人で夜中に駆け落ちをしました。

しかし、これは佐伯の罠だったのです。

佐伯は数人の仲間と愛次郎が脱走するとして竹やぶで待ち伏せしていたのです。

あぐりを気遣いながら竹やぶを通る二人を、待ち伏せしていた佐伯らが襲い掛かりました。

不意を突かれた愛次郎は剣を抜く間もなく、あちこちを切り裂かれて殺されました。

佐伯は、あぐりを無理やり竹やぶの奥に連れ込むと自分の物にしてしまったのです。

あぐりは佐伯と争っている中で、愛次郎の後を追って舌を噛んで死んだそうです。

斬り殺された愛次郎と舌を噛んだあぐりの遺体は翌朝に見つかり、心中らしいと言う話が流れたそうです。

佐伯は、自分が手を付けてから芹沢の妾に差し出そうとしていたそうですが、愛次郎が脱走したので成敗したとしたそうです。


その後、愛次郎とあぐりが亡くなった竹やぶで、佐伯も切り殺されているのが見つかりました。

いろいろな噂も出ましたが、どうやら佐伯がやった真相が芹沢にばれて怒りを買って殺されたとも言われています。


佐々木愛次郎はまだ19歳で、あぐりは17歳だったそうです。

他にも佐々木愛次郎が間者だったとの説や諸説があるようですが、新選組の中で散った悲劇として多くの人の悲しみを誘う話として流されています。

この、佐々木愛次郎の墓はどこだろうと調べてみたのですが、新選組隊士の墓地にも無くて判りませんでした。

どこかで、二人で誰にもじゃまされずに眠っていてほしいですね。
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さかれんげ如来
京都の新京極といえば京都でも屈指の繁華街であるが、そのど真ん中の新京極と蛸薬師通りが交差する付近に「安養寺」と言うお寺がある。

この安養寺は、「倒蓮華寺」(さかれんげじ)とも呼ばれて「さかれんげ阿弥陀如来」のお寺として親しまれている。

むかし、奈良に一人の老婆がいた。

その老女は深く信心して浄土三部経を読んでいたが、どうしても解せない事があった。

阿弥陀如来の四十八願を説くこのお経では、第十八に「念仏往生の本願なり、十万衆生の誓いの中には男女同じく往生す」と男女が同じように往生するように書いてあるのに、第三十五には「女人往生の本願も誓い・・・」と、別に女人についても書いてあり矛盾を感じる。

しかし、この老女は自分のような者が御仏の教えに疑いを持ってはいけないと考え、奈良の春日明神に十七日間の祈願に出かけた。

そして、七日目が終わって八日目となる明け方の事である。

夢の中に高貴な老人が出てきて「女よ、我が家に帰りなさい」と告げると姿を消した。

夢から醒めた老女は不思議に思いながらも、神様のお告げと信じて家に帰ることにした。

家に着くと戸口に大きな木材が置いてある。

いぶかしく思いながらも、そのままにして家で過ごしていると夕暮れになり一人の老僧がやってきた。

「私は仏を造る願を持つ者で外の材木はそのための物である。今夜に仏を造りたいと思うので、どうか一夜の宿を貸してくだされ」

老僧はそう語ったのだった。

老女は、これもお導きと喜んで老僧を家に上げ一室を与えた。

すると老僧は「呼ぶまでは決して部屋に入らぬように」と告げると、外においてあった霊木を持って部屋に篭ってしまった。

そして、部屋からはコツコツとノミを打つ音が聞こえてきた。

やがて、夜も深まった頃に突然にノミの音が止んで静かになった。

老女は、呼ぶまでは入るなと言われたのを守って我慢していたが、どうにも我慢できなくなり、密かに隙間から部屋を覗くと、そこには老僧の姿は無く、代わりに3メートルばかりの相好円満な仏像が光明を放っていた。

「わずかに間にできたのか・・・」

老女は驚いたが、ありがたい事だと仏像の前にひざまづいて祈り始めた。

しばらくして、仏像に台座がないことに気がつき、翌日に台座を作らせて仏像を安置しようとするが、どうにもグラグラとして安定しない。

もしかすると、仏意に適わない事があるのかと心配になっていた。

すると、ある夜の夢に仏像の本尊が現れて老婆に語りかけた。

「少し前に明神一人の老僧が現れて我が形像をつくれること、これすなわち女人往生の証である。しかれば八葉の倒蓮華を造り、我を安置せよ」

普通は、仏像の台座は蓮の葉が上向きになっている。

しかし、本尊のお告げでは男の心の蓮華は上を向き、女の心の蓮華は下を向いて逆さまである。

人は、幾度か生まれ変わり生をうけても、女身は生死にさまようだけでなく、多くの人を惑わせる。

この人類を哀れんで重ねてお経の三十五に女人往生の本願を誓っている。

そうして、逆さまにした蓮華を踏まえて女人往生の証拠とすると言う事だった。

これを聞いて老女も納得し、さっそく「倒蓮華」(さかれんげ)の台座を造り、仏像を安置したのである。

こうして、蓮の葉が逆さまに下を向いている台座のさかれんげの仏像をなったと言う。


この安養寺は、真宗七高祖の一人の恵心僧都が奈良に開いたのが始まりだそうで、その後に京都の西本願寺の西に移り、さらに市場西洞院に再転し、天正年間に現在地に移った。

その後に、兵火などに遭い明治時代に新京極通りが開通した時に縮小され、今の堂宇はその時の仮堂だと言う。

倒蓮華の阿弥陀如来は普段は二階の本殿のガラスの中に置かれているので見難いが、結縁日には戸を開けられて見えると言う。

今でも多くの女人に慈悲深い阿弥陀仏として多くの信仰を集めている。
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