2018 05/12 04:52
Category : 日記
京都市の左京区の一乗寺の地、北白川通りから曼殊院道を東に歩いた一乗寺下がり松町の東南の外れに一本の松の木が祀られている。
一乗寺下がり松と言われる松の木で、現在の松の木は何代目かの木なのだろうが、この場所があの「宮本武蔵」と「吉岡道場一門」との決闘で有名な「一乗寺下がり松」だと言われている。
そこからさらに東に行った場所には「八大神社」と言う神社があり、ここは吉川英治の作品では宮本武蔵が吉岡一門との決戦の前に祈願したことになっており、境内には宮本武蔵の像とともに、決戦当時の物と言われる下がり松の古木が保存され祀られている。
宮本武蔵といえばほとんどの人が知っている武芸者で剣聖とも言われているが、その実像は虚実や伝承が入り混じってはっきりしない。
武蔵自らの書である「五輪書」では「国々を遍歴して諸流の兵法者に行きあい、六十余たび勝負をしたが、一度もその利をうしなったことがなかった」と書いている。
宮本武蔵の生年や生涯については諸説があり不明な点も多いが、剣だけでなく書や絵画についても優れた才能を残している。
宮本武蔵は天正12年(1584年)に美作国吉野郡讃甘村に生まれたと言われている。
父は「新免無二斎」と言う武芸者で、母は率子と言い近くの村から嫁いできて武蔵を生んだが彼が3歳の頃に家を出て再婚したと言う。
後に、無二斎は於政と言う女性と再婚したと言う。
この無二斎は、十手の名手だったとも言われおり、十手で相手の太刀を受けて、片方の腕に持った刀で相手を切るのが得意だったそうで、これが後の武蔵の二刀流の元になったのかもしれない。
また、無二斎は吉岡憲法と言う吉岡道場の当主と試合を行なった事もあり、三本勝負で一本目は吉岡憲法が取り、残りの二本は無二斎が勝ったと言われている、この憲法と言う名前は吉岡道場当主の世襲であり、後にこの子か孫に当たる吉岡憲法と武蔵も立ち会う事になるのだから不思議な因縁である。
さて、この無二斎も武蔵が7歳の頃に亡くなって武蔵は孤児になってしまう。
宮本武蔵は生涯で多くの武芸者と立ち合ったと言われているが、そのほとんどが無名に近い武芸者で一番有名だったのが吉岡道場である。
当時には、柳生但馬守や柳生十兵衛などの柳生一門や小野次郎右衛門や小笠原源心斎などの高名な剣術家がいたにもかかわらず、武蔵は立ち合うことも無かったために武蔵の強さに疑問の説もあるほどであり、武蔵の謎の部分でもある。
その武蔵が立ち合った中で一番高名だったのが京都の吉岡道場であり、吉岡道場は、京八流の兵法を伝承する名家で足利家に仕えて、足利将軍家の兵法所となっているほどの名門でもあったのだ。
宮本武蔵は、関が原の合戦にも西軍の宇喜多秀家の軍勢に足軽として参加したようだが、西軍の敗北により名をあげることもできずに放浪の旅に出たと思われる。
宮本武蔵の剣と言えば「二天一流」と呼ばれた二刀流が知られている。
これは先に述べたように父の無二斎の十手が影響を与えたのかも知れないが、基本は左手で持った刀で相手を受けて、右手の太刀で相手を斬るものだと言うが、刀の重さは相当な物でありこれを片手で扱うと言うのはかなりの腕の力・膂力と鍛錬が必要であったろう。
両手で刀を扱ったほうが容易であり力も入るのだが動きに制限ができてしまい、その分、片手だと刀を扱う自由度がまし、変幻自在の動きが行なえるのかも知れない。
さて、武蔵と吉岡一門との対決である。
どういう理由で戦う事になったのか詳しくは判らないが、武蔵が名を上げるために挑戦したのではないかと言われている。
先に書いたように吉岡道場の当主は憲法を名乗る事になっており、武蔵と戦ったのは武蔵の父の無二斎と試合した吉岡憲法(直賢)の子か孫に当たる吉岡憲法(直綱)であったと言う。
武蔵の側から書いた記録と吉岡側から書いた物では、人物や名前が違っていたりするのだが、これは双方の事情や齟齬もあり仕方ないのかも知れない。
この吉岡憲法(直綱)もなかなかの剣の達人で武蔵と立ち会った頃は30歳前後だったか思われる。
当時は徳川幕府の成立したばかりの頃で、京都には京都所司代として「板倉勝重」が厳しく市政を取り締まっていた頃で、兵法の名門である吉岡家といえども私闘は許されなかった。
そこで吉岡憲法は試合のことを所司代に届け出た結果、所司代の板倉勝重自らが検分する事になり、所司代屋敷で立ち合いが行なわれたと言う。
結果、板倉勝重の判定は相打ちの引き分けである、所司代としては後に禍根を残さないようにとの配慮も働いて双方痛み分けとしたのかも知れない。
ところが吉岡側としては引き分けたとあっては面目が無い。
次は、「吉岡清十郎」と言う者が武蔵と京都の葬送地の一つである「蓮台野」で立ち合い、武蔵の一撃によって清十郎は倒れて絶息したと言う。
この清十郎には「吉岡伝七郎」と弟がおり、兄の清十郎にも優る腕前であった。
伝七郎は、清十郎の復讐を決意して武蔵に決闘をいどみ、「三十三間堂」において立ち合ったことになっている。
武蔵は試合の当日にわざと刻限に遅れて復讐に意気込む伝七郎をイライラさせて精神的な優位に立ったそうである。
ようやく現れた武蔵に対して激怒して挑んでいった伝七郎は、武蔵によって倒されてしまう。
そして、こういう経緯を経て宮本武蔵と吉岡道場との「一乗寺下がり松」の決闘へと進んで行くのである。
吉岡一門は、清十郎の息子である又七郎を総大将に立てて、武蔵に決闘を申し込んだ。
「吉岡又七郎」は、まだ幼い少年であったと言われている。
決闘の場所は京都のでも北東の郊外に当たる一乗寺の下がり松とされた、当時は京都の街からも離れた草深い田舎だったようである。
吉岡側は総大将にかついだ吉岡又七郎が幼く剣術もおぼつかない事も有り、多くの門弟を集めてなんとしても武蔵を打ち倒す決意であったと言われている。
そして果し合いの当日。
武蔵は前回の戦いとは打って変わって、刻限よりもかなり早くの暗いうちに下がり松につくと、根元に座って静かに刻限を待っていた。
やがて、ようやく夜が明けようかと言う頃合になって、吉岡一門は数十人で決闘の場所である下がり松に近づいてきた。
吉岡側には、武蔵は今回も遅れて来るだろうと言う予測があり、武蔵はしばらく来ないだろうという油断があった。
まさか松の根元に武蔵がいるとは思っていないのである。
そして、人の配置を始めてようやく白み始めてきた頃になって、下がり松の根元に誰やら人がいるのに気がついたのである。
「何者だ?」
そういう問いかけに対して武蔵は
「武蔵だ!」
と答えると見定めていた又七郎に狙いを定めて一刀のもとに打ち倒すと、唖然としている吉岡側の門弟を打ち払いながら逃げていったのである。
後には、少年の吉岡又七郎の痛いが残り、一乗寺下がり松の決闘は終えたのである。
ただ、この経緯や人名も諸説あったり、双方の記録で違っていたりするし、現在に定説とされている部分も作家や講談によって脚色されたり創られたりしている部分が多いと言われている。
以上が、宮本武蔵と吉岡道場との一乗寺下がり松までの大まかな対決を陳べたものである。
しかし、この一乗寺下がり松の決闘について、その場所に異説があることが判った。
対決の行なわれた一乗寺下がり松の地が別の場所だと言う説があるのである。
京都市の上京区、一条堀川の場所には安倍晴明の伝説とかで有名な「一条戻り橋」があるが、その一条戻り橋から一条通を東に少し行った所に南北の小道を挟んで二つの駐車場が並んでいる所がある。
西側の駐車場の一角には、以前に紹介した「小町草紙洗ノ井」の小さな石碑が残されている。
その「小町草紙洗ノ井」の道を隔てた東側の駐車場の一角は、何かを隠すようにトタン板で囲われているのだ。
そしてトタン板で囲われた中には、小さな石碑が建てられている。
トタン板で隠されて見え難いのだが、その石碑には「諸侯屋敷・一条下がり松遺蹟」の文字が刻まれている、このトタン板はこの石碑が盗まれたり悪戯されたりしないために囲われているのだそうだ。
「諸侯屋敷」と言うのは、豊臣秀吉が太閤となり大内裏跡の内野の場所に聚楽第を築いたのだが、豊臣家所縁の家臣たちは、その周囲に邸宅を構えたのが諸侯屋敷だそうであり、現在でもこの周囲には黒田如水に因む如水町、加藤清正に因む主計町、黒田長政に因む甲斐守町などの地名を残しているのだ。
そして、この近く(西洞院付近との説もある)には吉岡道場があったようである。
吉岡道場は当主の名前からか「けんぽうの家」と呼ばれて親しまれていたと言う。
また吉岡家では兵法以外でも染物でも有名であったそうだ。
明人の利三官と言う人物から教わった黒染色を工夫して染物屋を兼業しており、色がしぶくて染が落ちないので「吉岡染め」と呼ばれて人気だったようである。
この付近も西陣の地でもあり、水質の良い水に恵まれていたので平安の頃より染色業の家も多かったのである。
そうした吉岡道場の近く、あるいは裏庭に松の木があり下がり松と呼ばれていたと伝わっていると言う。
一条通りは、昔は西や北への歩き旅する時の基点でもあり、その下り松は目印であったが、やがて歩く旅が少なくなるにつれ一条通りもさびれ下がり松も無くなったのかも知れない。
聞く所によると、明治の半ばくらいまで実際に下り松があったようだが、その後に松の木がなくなり、その跡に石碑が建てられたのだそうである。
つまり、「一乗寺下がり松」の話は、「一条下がり松」が誤って伝えられたのだと言う伝承なのである。
確かに、洛北の遠い人家も少ない一乗寺には繋がりも無さそうだし、直ぐ近くで周囲も熟知している一条の方が場所としては説得力があるように思える。
以前に吉岡清十郎と武蔵との立ち合いが行なわれた蓮台野も比較的近くである。
反面、武蔵の養子であった「宮本伊織」の残した文には「洛外の下り松のあたりに会す」ともある。
ただ、ここは史実を検証するのが目的でなく、伝説や史跡を紹介するのが目的であるから、どちらが真実であるかとか野暮を言うつもりはない。
一乗寺下がり松と一条下がり松、東西に離れた地に二つの下がり松の伝承が残されているのも面白いものである。
一乗寺下がり松と言われる松の木で、現在の松の木は何代目かの木なのだろうが、この場所があの「宮本武蔵」と「吉岡道場一門」との決闘で有名な「一乗寺下がり松」だと言われている。
そこからさらに東に行った場所には「八大神社」と言う神社があり、ここは吉川英治の作品では宮本武蔵が吉岡一門との決戦の前に祈願したことになっており、境内には宮本武蔵の像とともに、決戦当時の物と言われる下がり松の古木が保存され祀られている。
宮本武蔵といえばほとんどの人が知っている武芸者で剣聖とも言われているが、その実像は虚実や伝承が入り混じってはっきりしない。
武蔵自らの書である「五輪書」では「国々を遍歴して諸流の兵法者に行きあい、六十余たび勝負をしたが、一度もその利をうしなったことがなかった」と書いている。
宮本武蔵の生年や生涯については諸説があり不明な点も多いが、剣だけでなく書や絵画についても優れた才能を残している。
宮本武蔵は天正12年(1584年)に美作国吉野郡讃甘村に生まれたと言われている。
父は「新免無二斎」と言う武芸者で、母は率子と言い近くの村から嫁いできて武蔵を生んだが彼が3歳の頃に家を出て再婚したと言う。
後に、無二斎は於政と言う女性と再婚したと言う。
この無二斎は、十手の名手だったとも言われおり、十手で相手の太刀を受けて、片方の腕に持った刀で相手を切るのが得意だったそうで、これが後の武蔵の二刀流の元になったのかもしれない。
また、無二斎は吉岡憲法と言う吉岡道場の当主と試合を行なった事もあり、三本勝負で一本目は吉岡憲法が取り、残りの二本は無二斎が勝ったと言われている、この憲法と言う名前は吉岡道場当主の世襲であり、後にこの子か孫に当たる吉岡憲法と武蔵も立ち会う事になるのだから不思議な因縁である。
さて、この無二斎も武蔵が7歳の頃に亡くなって武蔵は孤児になってしまう。
宮本武蔵は生涯で多くの武芸者と立ち合ったと言われているが、そのほとんどが無名に近い武芸者で一番有名だったのが吉岡道場である。
当時には、柳生但馬守や柳生十兵衛などの柳生一門や小野次郎右衛門や小笠原源心斎などの高名な剣術家がいたにもかかわらず、武蔵は立ち合うことも無かったために武蔵の強さに疑問の説もあるほどであり、武蔵の謎の部分でもある。
その武蔵が立ち合った中で一番高名だったのが京都の吉岡道場であり、吉岡道場は、京八流の兵法を伝承する名家で足利家に仕えて、足利将軍家の兵法所となっているほどの名門でもあったのだ。
宮本武蔵は、関が原の合戦にも西軍の宇喜多秀家の軍勢に足軽として参加したようだが、西軍の敗北により名をあげることもできずに放浪の旅に出たと思われる。
宮本武蔵の剣と言えば「二天一流」と呼ばれた二刀流が知られている。
これは先に述べたように父の無二斎の十手が影響を与えたのかも知れないが、基本は左手で持った刀で相手を受けて、右手の太刀で相手を斬るものだと言うが、刀の重さは相当な物でありこれを片手で扱うと言うのはかなりの腕の力・膂力と鍛錬が必要であったろう。
両手で刀を扱ったほうが容易であり力も入るのだが動きに制限ができてしまい、その分、片手だと刀を扱う自由度がまし、変幻自在の動きが行なえるのかも知れない。
さて、武蔵と吉岡一門との対決である。
どういう理由で戦う事になったのか詳しくは判らないが、武蔵が名を上げるために挑戦したのではないかと言われている。
先に書いたように吉岡道場の当主は憲法を名乗る事になっており、武蔵と戦ったのは武蔵の父の無二斎と試合した吉岡憲法(直賢)の子か孫に当たる吉岡憲法(直綱)であったと言う。
武蔵の側から書いた記録と吉岡側から書いた物では、人物や名前が違っていたりするのだが、これは双方の事情や齟齬もあり仕方ないのかも知れない。
この吉岡憲法(直綱)もなかなかの剣の達人で武蔵と立ち会った頃は30歳前後だったか思われる。
当時は徳川幕府の成立したばかりの頃で、京都には京都所司代として「板倉勝重」が厳しく市政を取り締まっていた頃で、兵法の名門である吉岡家といえども私闘は許されなかった。
そこで吉岡憲法は試合のことを所司代に届け出た結果、所司代の板倉勝重自らが検分する事になり、所司代屋敷で立ち合いが行なわれたと言う。
結果、板倉勝重の判定は相打ちの引き分けである、所司代としては後に禍根を残さないようにとの配慮も働いて双方痛み分けとしたのかも知れない。
ところが吉岡側としては引き分けたとあっては面目が無い。
次は、「吉岡清十郎」と言う者が武蔵と京都の葬送地の一つである「蓮台野」で立ち合い、武蔵の一撃によって清十郎は倒れて絶息したと言う。
この清十郎には「吉岡伝七郎」と弟がおり、兄の清十郎にも優る腕前であった。
伝七郎は、清十郎の復讐を決意して武蔵に決闘をいどみ、「三十三間堂」において立ち合ったことになっている。
武蔵は試合の当日にわざと刻限に遅れて復讐に意気込む伝七郎をイライラさせて精神的な優位に立ったそうである。
ようやく現れた武蔵に対して激怒して挑んでいった伝七郎は、武蔵によって倒されてしまう。
そして、こういう経緯を経て宮本武蔵と吉岡道場との「一乗寺下がり松」の決闘へと進んで行くのである。
吉岡一門は、清十郎の息子である又七郎を総大将に立てて、武蔵に決闘を申し込んだ。
「吉岡又七郎」は、まだ幼い少年であったと言われている。
決闘の場所は京都のでも北東の郊外に当たる一乗寺の下がり松とされた、当時は京都の街からも離れた草深い田舎だったようである。
吉岡側は総大将にかついだ吉岡又七郎が幼く剣術もおぼつかない事も有り、多くの門弟を集めてなんとしても武蔵を打ち倒す決意であったと言われている。
そして果し合いの当日。
武蔵は前回の戦いとは打って変わって、刻限よりもかなり早くの暗いうちに下がり松につくと、根元に座って静かに刻限を待っていた。
やがて、ようやく夜が明けようかと言う頃合になって、吉岡一門は数十人で決闘の場所である下がり松に近づいてきた。
吉岡側には、武蔵は今回も遅れて来るだろうと言う予測があり、武蔵はしばらく来ないだろうという油断があった。
まさか松の根元に武蔵がいるとは思っていないのである。
そして、人の配置を始めてようやく白み始めてきた頃になって、下がり松の根元に誰やら人がいるのに気がついたのである。
「何者だ?」
そういう問いかけに対して武蔵は
「武蔵だ!」
と答えると見定めていた又七郎に狙いを定めて一刀のもとに打ち倒すと、唖然としている吉岡側の門弟を打ち払いながら逃げていったのである。
後には、少年の吉岡又七郎の痛いが残り、一乗寺下がり松の決闘は終えたのである。
ただ、この経緯や人名も諸説あったり、双方の記録で違っていたりするし、現在に定説とされている部分も作家や講談によって脚色されたり創られたりしている部分が多いと言われている。
以上が、宮本武蔵と吉岡道場との一乗寺下がり松までの大まかな対決を陳べたものである。
しかし、この一乗寺下がり松の決闘について、その場所に異説があることが判った。
対決の行なわれた一乗寺下がり松の地が別の場所だと言う説があるのである。
京都市の上京区、一条堀川の場所には安倍晴明の伝説とかで有名な「一条戻り橋」があるが、その一条戻り橋から一条通を東に少し行った所に南北の小道を挟んで二つの駐車場が並んでいる所がある。
西側の駐車場の一角には、以前に紹介した「小町草紙洗ノ井」の小さな石碑が残されている。
その「小町草紙洗ノ井」の道を隔てた東側の駐車場の一角は、何かを隠すようにトタン板で囲われているのだ。
そしてトタン板で囲われた中には、小さな石碑が建てられている。
トタン板で隠されて見え難いのだが、その石碑には「諸侯屋敷・一条下がり松遺蹟」の文字が刻まれている、このトタン板はこの石碑が盗まれたり悪戯されたりしないために囲われているのだそうだ。
「諸侯屋敷」と言うのは、豊臣秀吉が太閤となり大内裏跡の内野の場所に聚楽第を築いたのだが、豊臣家所縁の家臣たちは、その周囲に邸宅を構えたのが諸侯屋敷だそうであり、現在でもこの周囲には黒田如水に因む如水町、加藤清正に因む主計町、黒田長政に因む甲斐守町などの地名を残しているのだ。
そして、この近く(西洞院付近との説もある)には吉岡道場があったようである。
吉岡道場は当主の名前からか「けんぽうの家」と呼ばれて親しまれていたと言う。
また吉岡家では兵法以外でも染物でも有名であったそうだ。
明人の利三官と言う人物から教わった黒染色を工夫して染物屋を兼業しており、色がしぶくて染が落ちないので「吉岡染め」と呼ばれて人気だったようである。
この付近も西陣の地でもあり、水質の良い水に恵まれていたので平安の頃より染色業の家も多かったのである。
そうした吉岡道場の近く、あるいは裏庭に松の木があり下がり松と呼ばれていたと伝わっていると言う。
一条通りは、昔は西や北への歩き旅する時の基点でもあり、その下り松は目印であったが、やがて歩く旅が少なくなるにつれ一条通りもさびれ下がり松も無くなったのかも知れない。
聞く所によると、明治の半ばくらいまで実際に下り松があったようだが、その後に松の木がなくなり、その跡に石碑が建てられたのだそうである。
つまり、「一乗寺下がり松」の話は、「一条下がり松」が誤って伝えられたのだと言う伝承なのである。
確かに、洛北の遠い人家も少ない一乗寺には繋がりも無さそうだし、直ぐ近くで周囲も熟知している一条の方が場所としては説得力があるように思える。
以前に吉岡清十郎と武蔵との立ち合いが行なわれた蓮台野も比較的近くである。
反面、武蔵の養子であった「宮本伊織」の残した文には「洛外の下り松のあたりに会す」ともある。
ただ、ここは史実を検証するのが目的でなく、伝説や史跡を紹介するのが目的であるから、どちらが真実であるかとか野暮を言うつもりはない。
一乗寺下がり松と一条下がり松、東西に離れた地に二つの下がり松の伝承が残されているのも面白いものである。