2018 05/10 04:18
Category : 日記
大田神社は、京都の上賀茂の地にあり、上賀茂神社の摂社の一つで、上賀茂神社の前を流れる明神川と言う小さな川沿いに東に歩き、大田神社前の交差点を北にあがった所にある古社である。
この上賀茂神社から東に向かう辺りは家の前に明神川が流れる独特の雰囲気の町並みであるが、この家らを「社家」(しゃけ)と言い、この辺りの街並みは社家の町並みといわれて伝統的建造物保存地区に指定されている。
この社家と言うのは上賀茂神社の神官の住居だそうで、はるか平安京の建造以前からあると言われる古社である上賀茂神社の賀茂一族の子孫が社家と呼ばれるようになったとも言われている。
また、この辺りは京都名物のお漬物「すぐき漬け」の産地であり、このすぐき菜は上賀茂の一帯でしかつくられないのである。
江戸時代のはじめに、徳川幕府の誕生とともに政治や経済の中心は江戸に移って、京都の朝廷とかは逼迫してしまう。
そこで京都の上賀茂の社家ですぐき菜を栽培してすぐき漬けを作って販売し朝廷の経済的援助としたそうだ。
これが成功して、すぐき漬けは朝廷の貴重な収入源となり、すぐき漬けは京都の名産品として知られるようになり、江戸時代の後期にはすぐき漬けの独占と保護のために、京都の所司代が「すぐき」の他村への持ち出しを禁止する事になり、それから、すぐき菜の栽培とすぐき漬けは上賀茂一帯だけに受け継がれてきたそうである。
この、「すぐき」は酸茎と書くように蕪を小さくしたような形で、独特の酸味があり、塩だけで漬けられた「すぐき漬け」は京都でも人気のお漬物であるが、私にはどうも酸味が強すぎてようで好みの別れるところだろう。
話が逸れたが、あの北大路魯山人は、この社家の生まれだそうである。
さて大田神社であるが、この神社は「かきつばた」の花でも有名である。
神社の東側に広がる池「大田ノ沢」には5月に入ると紫色のかきつばたが咲き輝くようになる。
この「大田ノ沢」は、平安時代からかきつばたの群生地として有名で、藤原俊成が「神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは色にみゆらむ」と詠んだ歌でも知られている。
また、大田ノ沢には石碑が立てられており「天然記念物 大田ノ沢かきつばた群生」の文字が彫られている。
この大田ノ沢は、先に述べたようにかきつばたの群生地なのだが、かきつばたが群生しているのは日本でもここだけだそうで、国の天然記念物に指定されているのだ。
なお、大田ノ沢から東の方に、有名な「深泥ヶ池」があり、古代にはこの大田ノ沢と深泥ヶ池が続いていたと言われている。
深泥ヶ池は、氷河期の植物さえ残ると言われており「ジュンサイ」「タヌキモ」「コウホネ」等の珍しい水生植物の群生を残し、やはり国の天然記念物に指定されているのだが、かっては同じ植物を実らせた大田ノ沢には紫のかきつばただけが残ったのも、なにか面白いような気がする。
よく言われる言葉に「いずれがアヤメかカキツバタ」と言うのがあって、ほんとうにアヤメとカキツバタは似ている。
花の付け根の辺りが違うそうなのだが、聞いた話によると水辺を好むのがカキツバタで、陸地を好むのがアヤメだそうだ。
さて、この「大田」の地名は昔には「太田」と書いていたそうで、この辺りは田園地帯であったのであろう、田を太く、大きくと言う願いを感じるのは私の考えすぎだろうか?
大田神社は小さな神社だが歴史を感じさせる威厳のような凛とした空気を感じる古社である。
神社の祭神は、あの天照大神(あまてらすおおみかみ)が「天岩戸」に隠れた時に踊って誘い出したとして知られる「天鈿女命」(あめのうずめのみこと)で、夫でもある「猿田彦命」(さるたひこのみこと)も祀られている。
なんでも、その天鈿女命の踊りと言われる物が「チャンポン神楽」として、今も氏子の年配の女性によって伝えられているそうで、毎月10日に行われているそうだ、ちなみに「チャン」が太鼓の音で「ポン」は鼓の音でそれに合わせて右に左に回りながら踊るそうだ。
この大田神社には「蛇の枕」と言われる石にまつわる伝説がある。
その蛇の枕と言われる石は、大田神社の朱色の鳥居の下辺りにある小さな石橋の下の東側の小川のなかに埋まるようにあり、写真では水が無いが小川の泥に埋まって顔を出すように出ている石が蛇の枕である。
また雨乞いに関する石なので、干ばつにみまわれた上賀茂の一帯に雨を降らせたことから、雨石とも呼ばれるそうである。
干ばつなどで雨乞いが必要な時に、この蛇の枕の石を使うのだが、泥に埋まった蛇の枕を掘り出し、鍬などの鉄器で石をカンカンと叩くのだそうだ。
すると枕を叩かれて粗略に扱われた蛇が怒って、人間どもを懲らしめるため雨を降らせるのだそうである。
さらに雨乞いであるが、その後、年寄りは貴船神社へ、若い者は市原にある神社へと向かうのであるが、道中で日照りで少なくなった川の水をくんで、周りに人間にひっかけるのである。
つまり、ここでも貴重な水を粗末にすることで神様が怒り雨を降らせる、という理屈である。
雨乞いを神に願うのではなく、蛇を怒らせて「罰」として雨を降らせるようにするのが面白いところだ。
しかし、最近ではもう何十年も、この雨乞いは行われていないそうで、この蛇の枕の話を知る人もすくないようである。
上賀茂神社は『延喜式』に祈雨神祭を預かる社という記述があり、山城国の全体に雨をもたらす役割がある。
しかし、上賀茂の農民はお参りできない存在だったため、身近な大田神社に祈雨をしたのではという説ももあるようだ。
この上賀茂神社から東に向かう辺りは家の前に明神川が流れる独特の雰囲気の町並みであるが、この家らを「社家」(しゃけ)と言い、この辺りの街並みは社家の町並みといわれて伝統的建造物保存地区に指定されている。
この社家と言うのは上賀茂神社の神官の住居だそうで、はるか平安京の建造以前からあると言われる古社である上賀茂神社の賀茂一族の子孫が社家と呼ばれるようになったとも言われている。
また、この辺りは京都名物のお漬物「すぐき漬け」の産地であり、このすぐき菜は上賀茂の一帯でしかつくられないのである。
江戸時代のはじめに、徳川幕府の誕生とともに政治や経済の中心は江戸に移って、京都の朝廷とかは逼迫してしまう。
そこで京都の上賀茂の社家ですぐき菜を栽培してすぐき漬けを作って販売し朝廷の経済的援助としたそうだ。
これが成功して、すぐき漬けは朝廷の貴重な収入源となり、すぐき漬けは京都の名産品として知られるようになり、江戸時代の後期にはすぐき漬けの独占と保護のために、京都の所司代が「すぐき」の他村への持ち出しを禁止する事になり、それから、すぐき菜の栽培とすぐき漬けは上賀茂一帯だけに受け継がれてきたそうである。
この、「すぐき」は酸茎と書くように蕪を小さくしたような形で、独特の酸味があり、塩だけで漬けられた「すぐき漬け」は京都でも人気のお漬物であるが、私にはどうも酸味が強すぎてようで好みの別れるところだろう。
話が逸れたが、あの北大路魯山人は、この社家の生まれだそうである。
さて大田神社であるが、この神社は「かきつばた」の花でも有名である。
神社の東側に広がる池「大田ノ沢」には5月に入ると紫色のかきつばたが咲き輝くようになる。
この「大田ノ沢」は、平安時代からかきつばたの群生地として有名で、藤原俊成が「神山や大田の沢のかきつばた ふかきたのみは色にみゆらむ」と詠んだ歌でも知られている。
また、大田ノ沢には石碑が立てられており「天然記念物 大田ノ沢かきつばた群生」の文字が彫られている。
この大田ノ沢は、先に述べたようにかきつばたの群生地なのだが、かきつばたが群生しているのは日本でもここだけだそうで、国の天然記念物に指定されているのだ。
なお、大田ノ沢から東の方に、有名な「深泥ヶ池」があり、古代にはこの大田ノ沢と深泥ヶ池が続いていたと言われている。
深泥ヶ池は、氷河期の植物さえ残ると言われており「ジュンサイ」「タヌキモ」「コウホネ」等の珍しい水生植物の群生を残し、やはり国の天然記念物に指定されているのだが、かっては同じ植物を実らせた大田ノ沢には紫のかきつばただけが残ったのも、なにか面白いような気がする。
よく言われる言葉に「いずれがアヤメかカキツバタ」と言うのがあって、ほんとうにアヤメとカキツバタは似ている。
花の付け根の辺りが違うそうなのだが、聞いた話によると水辺を好むのがカキツバタで、陸地を好むのがアヤメだそうだ。
さて、この「大田」の地名は昔には「太田」と書いていたそうで、この辺りは田園地帯であったのであろう、田を太く、大きくと言う願いを感じるのは私の考えすぎだろうか?
大田神社は小さな神社だが歴史を感じさせる威厳のような凛とした空気を感じる古社である。
神社の祭神は、あの天照大神(あまてらすおおみかみ)が「天岩戸」に隠れた時に踊って誘い出したとして知られる「天鈿女命」(あめのうずめのみこと)で、夫でもある「猿田彦命」(さるたひこのみこと)も祀られている。
なんでも、その天鈿女命の踊りと言われる物が「チャンポン神楽」として、今も氏子の年配の女性によって伝えられているそうで、毎月10日に行われているそうだ、ちなみに「チャン」が太鼓の音で「ポン」は鼓の音でそれに合わせて右に左に回りながら踊るそうだ。
この大田神社には「蛇の枕」と言われる石にまつわる伝説がある。
その蛇の枕と言われる石は、大田神社の朱色の鳥居の下辺りにある小さな石橋の下の東側の小川のなかに埋まるようにあり、写真では水が無いが小川の泥に埋まって顔を出すように出ている石が蛇の枕である。
また雨乞いに関する石なので、干ばつにみまわれた上賀茂の一帯に雨を降らせたことから、雨石とも呼ばれるそうである。
干ばつなどで雨乞いが必要な時に、この蛇の枕の石を使うのだが、泥に埋まった蛇の枕を掘り出し、鍬などの鉄器で石をカンカンと叩くのだそうだ。
すると枕を叩かれて粗略に扱われた蛇が怒って、人間どもを懲らしめるため雨を降らせるのだそうである。
さらに雨乞いであるが、その後、年寄りは貴船神社へ、若い者は市原にある神社へと向かうのであるが、道中で日照りで少なくなった川の水をくんで、周りに人間にひっかけるのである。
つまり、ここでも貴重な水を粗末にすることで神様が怒り雨を降らせる、という理屈である。
雨乞いを神に願うのではなく、蛇を怒らせて「罰」として雨を降らせるようにするのが面白いところだ。
しかし、最近ではもう何十年も、この雨乞いは行われていないそうで、この蛇の枕の話を知る人もすくないようである。
上賀茂神社は『延喜式』に祈雨神祭を預かる社という記述があり、山城国の全体に雨をもたらす役割がある。
しかし、上賀茂の農民はお参りできない存在だったため、身近な大田神社に祈雨をしたのではという説ももあるようだ。