鹿間塚
京都の東山にある「清水寺」と言えば京都でも有数の有名な観光名所であり、修学旅行生や外国からの団体観光客も多くて、早朝から観光客で賑わっている。

その清水寺の境内の「随求堂」の前に「鐘楼」があるが、その脇に一つの宝篋印塔があるが、この宝篋印塔の周囲を「鹿間塚」(しかまづか)と言って実は清水寺の創建にも関わりのある重要な史跡なのである。

清水寺は、奈良時代の末の宝亀9年(778年)に南大和の子島寺の僧である「延鎮」が、夢に出た観音様のお告げによって山城国(今の京都)の東山の山中に金色水の源を訪ね歩き、やがて音羽山の滝で修行していた白衣を着た老仙人の行叡居士(実は観音様の化身)に出会い、その遺命に従って千手観音の木像を彫って滝の上あった居士の草庵に祀ったのが始まりとされている。

その後に、この鹿間塚の伝説の元になる「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)に関わってくる事になる。

「坂上田村麻呂」は平安初期の武将で「坂上刈田麻呂」の子であった。

その出身は渡来人と言われていて、漢の高祖の血を引くとの伝説もある。

田村麻呂の容姿は「赤面黄鬚」(せきめんおうしゅ)と言われ、赤ら顔に黄色のひげだったそうである。

また、腕力は人に優れて、怒って睨めば猛獣も倒れるが、ニコリと微笑めば赤ちゃんもなつくと称されていた。

桓武天皇は田村麻呂の武将としての才能を認めたのか、折から進行中だった北辺の蝦夷地での戦の指揮官に起用した。

そして田村麻呂は初代の征夷大将軍「大伴弟麻呂」のもとで副将軍として、自ら10万の兵をひきいて延暦13年(794年)に胆沢の会戦に大勝する。

また、延暦20年(801年)には自らが征夷大将軍として再び胆沢に出兵し、勝利をおさめると胆沢城を造り、ここに鎮守府を移して北方の基地とした。

蝦夷地を護っていた「阿弖流為」(アテルイ)との戦いはこの時期であり、田村麻呂と阿弖流為は戦ううちにそれぞれの人物を評価するようになり、やがて阿弖流為は民の犠牲や疲弊を惜しみ、降伏して田村麻呂の軍門に下る事になる。

田村麻呂は、阿弖流為の人物を惜しみ朝廷に助命を願い出たそうだが、かなわずに阿弖流為は河内の国で処刑されたと言う。

こうして、蝦夷地は田村麻呂のもとで最終的に安定することになり、田村麻呂は「北天の化現」(北方守護神の生まれかわり)と仰がれたそうだ。


さて、その後も田村麻呂は活躍するのだが、彼の妻が懐妊していることが判った。

田村麻呂は大変に喜んで、無事にりっぱな子供を授かるように願うようになる。

そういう時に人づてに、無事にりっぱな子供を出産するにはお腹に子をみごもった鹿の生き肝を食べさせれば良いと教えられた。

田村麻呂は、そう聞いてさっそく弓矢を持つと音羽山の中を探し回っているのだった。

しかし田村麻呂が山奥まで歩き回って、鹿は何頭か見かけたものの子を孕んだ鹿と言うとなかなか見つからない。

やがて探し疲れて陽も傾きかけた時に、ふと物音のする方に目を向けるとお腹の大きな鹿がいたのだった。

田村麻呂は、気配を消して静かに弓を取り矢をつがえると狙いを定めて矢を放った。

矢は風を切って鹿に向かって飛んで行く。

矢は見事に鹿を射ぬき、崩れるように鹿は倒れていった。

田村麻呂は、鹿を逃がしてはいけないと傍に駆け付けると、鹿はもはや虫の息で潤んだ目で田村麻呂の方を見ていた。

田村麻呂は哀れを感じたが、これも我が子の為と思いを決めて、鹿にとどめを指したのだった。

こうして、田村麻呂は仕留めた鹿を担いで、急いで山を下って行った。

やがて、音羽の滝の辺りまで下ってきた時に、1人の僧が現れて田村麻呂を呼び止めた。

僧は田村麻呂に向い

「お腹に赤子を身篭った鹿を狩るとは非業な事だ」

そう非難した。

田村麻呂は、これは妻の安産を願ってと申し開きしたが、逆に僧に戒められた。

「殺生によって安産を願うとはあまりにも身勝手な、そなたが子の安産を願うなら、その鹿も子の無事を願っていただろうに・・・」

田村麻呂は、僧に非を諭され、自分の罪と行いを悔いるのだった。

そして、山中の小高い丘に仕留めた鹿を葬って塚を築いて弔ったと言う。

その時に、鹿を埋めた塚が「鹿間塚」だとされ、そして出会った僧が先に述べた「延鎮上人」だったのだ。


また別の説では、僧の延鎮上人に田村麻呂が帰依し、この音羽山に寺を建てようとしたが山中の事で適当な平地がない。

困っている時に一匹の神鹿が現れて、一夜にして山の中に平地を創ってしまった。

その神鹿を祀ったのが「鹿間塚」だと言う話になっている。

いずれの伝説にしても、田村麻呂は延鎮上人に深く帰依し、清水の観音様を篤く信仰して、自宅の建物を本堂として寄進したのが清水寺の創建となる事になったようだ。

現在の清水寺の清水の舞台への料金所の近くにある「開山堂」は「田村堂」とも呼ばれ、清水寺の創建に深く寄与した田村麻呂と、その妻を祀っているお堂である。

ほとんど気づく人の居ない「鹿間塚」であるが、清水寺の創建の物語を秘めた重要な史跡でもあるのだ。