2012年07月の記事


白湯山展望台 阿寒
 阿寒川に流入する白水川。源流部をたどって見る機会は少ないが。
 火山カルデラ湖のたたずまいとは別に、湖に流入する河川、湖から流出する河川に、あらたな注目があつまっている。
 阿寒湖から流出する阿寒川。そこに流入する支流のひとつ「白水(しろみず)川」。その源流部にあたると記憶、湧水があった。
 清流をつくり、大河の一翼を豊富にする。


   

  「森と湖と火山」の国立公園を代表する阿寒湖。一望する「白湯山(はくとうざん)展望台」。
 目の前に「雄阿寒岳」、眼下に阿寒湖。そして温泉ホテル街。
 温泉街を流れて阿寒湖に注ぐ「白湯川」は、この展望台のすそ野から、そそぐことになるらしい。
 白樺、取り付け木道。樹海の緑。雄阿寒岳にみえるスロープは崩落の跡。


  

 6月9日。好天に恵まれた。白糠から網走にむけてぬける、江戸時代の道=網走山道。古道発見のツアーは、ここで、一番の盛り上がり。
 6月、風が心地よかった。12月、そうはゆくまえ。北方型ファッションが必要である。
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清流 シュワンペツ川
 西別川の源流部にちかいところで合流する支流のひとつにシュワンペツ川がある。
 そこに、戦後もうけられた水力発電用のダムがあると聞いていた。住民の方が自力で記録した地図上では明確ながら、たどりつくのは難しかったが、今回、訪問。


      

 小さな支流ながら、せきとめた人工湖に相当する堰き止め部分は、それなりの水をたくわえていた。近づいてみると、水のかもしだす景観には、人々をして癒すものがある。

      

 夏。ほとばしる水流には涼気がただよい、小型ダムながら覇気にみちたものがあって、元気をもらった。
 農村電化。中心集落、すなわち役場所在地から離れること20キロ。独自の電源確保なくしてランプ生活の時に自然改変。

 そうではあるが、ここにダムをしつらえ≪小回り電源≫の確保。
 住民の悲願中の悲願であったに違いない。ささやかに確保した電源。聞くことのできたラジオで聞いた番組は≪NHKのど自慢≫だったか、≪街頭録音≫であったか。それより先に、≪牛のためのなにか?≫であったかも知れないのだ。
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池内了著『禁断の科学』
 NHK、ETV「この人この世界」の2005年12月は、池内了著『禁断の科学』。科学の倫理、技術社会のモラルを整理する。

 科学の倫理と言えば、かつてはキリスト教の権威に抗するかどうかの時代があった。近代においてはなにより、軍事か平和かの論点が不可欠であった。
 そこのところを「接近する軍事と科学」で明確にするが、近年の科学はロケット、原子力、情報化(ウィルス開発など)、遺伝子組み換えなど、「神の代役をする科学者」(最終回)とする、指摘される。

 広島・長崎の原爆。科学者は原爆のデモンストレーションをどこかで行い「日本人やジャーナリストに見せる」案を提案する。この件で意見がわかれたが、「科学者が道義的に振る舞ったことを示すためのアリバイつくり」(48p)と、見る。

 宇宙開発。人類が手軽に旅行すること。「限られたエリートが危険を承知の上で冒険する価値はあると思う」とする一方で、誰もが体験できるようにするために多額の経費(20億とも110億円とも)をかけて、「誰でもが体験できるわけでは(する必要も)ないのである」(78p)と、述べる。

 アインシュタインは水爆実験の現実化を前に、「人類の破滅を避ける目標はほかのいろいろな目標に優先すべき」と訴えていると見解を明らかにする。

 むすびに遺伝子組み換えを、「人体に悪影響を与えないか」「生態系の破壊に導かないか」などなど、「時間の審判というハードルを遵守する慎重さが求められる」とする。

 報道に、書いてよいことと、書かない方がよいことがあるように思える。同じことは、科学にも。要は真理と倫理の間に、人間たる科学者の人類への貢献は≪何か≫の、「時間の審判」は常に意識されねばなるまい。
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藤原正彦著『日本人の誇り』
 藤原正彦著『日本人の誇り』。著者の著作や発言は、ビジネスマンのなかで注目されている。
 他方で、勤務先だった女子大学での初年時学生を対象にしたゼミ「名著講義」は、参加者も多く、その内容は「実況」という形で雑誌『文藝春秋』に連載された。

 目次を記載してみると、「政治もモラルもなぜ崩壊したか」、「すばらしき日本文明」。「祖国への誇り」、「対中戦争の真実」、「「昭和史」ではわからない」、「日米戦争の語られざる本質」、「大敗北と大殊勲と」、「日本をとり戻すために」。

 「政治もモラルもなぜ崩壊したか」で指摘の、「低下する政治家の質」、「腰の定まらぬ外交」、「頻発する無軌道な殺人事件」、「勉強しない子供たち」、「もはや対症療法では効果はない」と、並べられている。(文春新書 2012年)。
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小野善康著『成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか』
小野善康著『成熟社会の経済学――長期不況をどう克服するか』。「成熟社会」ということが、言われている。著者は1980年代から90年代を境に発展途上社会から成熟社会に「大きな変貌」(はじめに i)を遂げたとし、成熟社会を「いますぐ欲しいような物はほとんどすべてそろっています」と整理し、「(需要不足が原因)不況を長期的な現象として捉える必要がある」する。

 各章で「発展途上社会から成熟社会」、「財政破綻の常識を覆す」、「金融政策の意義と限界」、「成熟社会の危機にどう対応するか」、「国際化する経済」の順で、解決を生産の効率・安価・輸出増ではなく、需要を変えることに求めている。

 国際競争力を高め、国外市場を確保し、外国資産(外貨)を保有する努力は円高を結果し、自分で自分の首を絞めるとも述べる。
 環境とエネルギー分野で新規の投資と雇用の確保が可能で(195p)、国民は金を貯めるまえに「国内の消費者に夢や楽しみを与え快適な生活をもたらす商品やサービスを開発して、内需を刺激するしかありません」(193p)とする。

 若者の就職困難、中年の離職を「自己責任」とするのではないとする点は理解する。
 日本人の貯蓄志向をかえ、内需拡大をすすめているが、高齢者の老後生活不安は小さくない、はず。
 「現役時代に働いて退職したすべての人に、一定水準の老後生活を保障すること」は、重要な指摘。

 しかし、そこに至る図式と展望を、もう少し踏み込んでほしい。
 確かに≪高齢者のこれから≫は新規雇用可能な領域ではあるが、高齢者に対するサービスも、従事するサービス提供者への処遇も、いささか≪低レベルではないか≫と、思う点が多いからである。(岩波新書 2012年)
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滝口 阿寒湖
 画像掲示板に、北海道旅行をされたお方が、釧路を紹介してくださった。訪問されたのは、平成19年10月の紅葉の時期。そこで、2012年6月10日の同じ場面。紹介させていただくことに。

       

 画像掲示欄を拝見。タンチョウ自然公園、阿寒湖など巡遊されたご様子。
 この6月10日、湖畔にでかけてきました。現在の滝見橋からの風景、滝の落ち口と落ちた水のはしりをを、紹介させてください

 おいでになったのは紅葉の時期。こちらが出かけたのは、新緑が深緑にかわるころ。前日は晴れのち曇り。訪問日は雨の午前でした。しばらく、お楽しみください。


       


 追加して写真を貼らせていただきます。 こちらまでは脚も伸びなかったのでは、と。 余分なこと、いたしました。ご機嫌よろしく。
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神野直彦著『地域再生の経済学』
 神野直彦著『地域再生の経済学』。副題に「豊かさを問い直す」とある。

 序章の「人間生活を問いなおす」で、「地域社会再生のシナリオ」は二つに分岐しているとして、「市場主義」によるシナリオと「市場主義にもとづかないヨーロッパ型の地域再生の道」(4p)と書く。
 工業社会から情報社会へと転換するエポックに発生する地域社会の変貌で、」工業都市は衰退し、地方都市は荒廃する」とする(5p)。
 「環境と文化による地方都市再生」(6p)のうえに、「人間の生活の場を創造する」(16p)と展望を示す。

 「工業社会の苦悩」を再生するには、「情報・知識社会への転換に、地域社会がいかに転換するかにかかっていてる」(32p)が、「工業社会の行き詰まりは、世界経済の限界を物語っている」(37p)として、「工業社会と市場経済はメダルの表と裏」ともする。「不可分」ということかも。

 著者を承知したのは財政学の読解をすすめた著書を通じてであった。その領域ではワグナー(1835-1917年 独)を紹介し、(1)市場経済の外側にある非市場経済も考察の対象、(2)コミュニティ=地域共同体を重視することを紹介(48p)、
 政府機能を「法律または権力目的分野」と「文化または福祉国家目的」分野に分類している、とする(52p)。そのうえで「文化または福祉国家目的」とする政府機能が拡大すれば、地方分権を推進せざるをえない(54p)と論を展開。

 耐久消費財の登場で「社会システムの市場化が飛躍的に推進」(59p)とは、産業機能の代替が進行し、家族の破たん、「共有しなければいけない価値や信念を培養するため実施されていた教育訓練が不可能」(となったと指摘する。

 「地域社会の崩壊と食料自給率」の項目で、「文化に誇りがあれば、食生活も地域に根付く」(83p 食生活が画一的で大量生産される食物へと激変して「食生活に文化がなくなり」とも述べる)。
 

 本書の読後に思った。
 戦後、アメリカ社会への追従を急ぎ、伝統的蓄積を変革する国是を選んだように思える。結果、自動車は購入してくれるアメリカから、我が国は食料輸入でこたえる仕組みができあがったのでは、と。(中央公論新社 2007年)。
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アカデミィア・コンソーシアムふくしま編『地域学を考える』
 アカデミィア・コンソーシアムふくしま編『地域学を考える』。アカデミィア・コンソーシアムふくしまは、文部科学省の「大学教育充実のための戦略的大学連携支援プログラム」に採択されたのを機会に、「福島県高等教育協議会を発展させるものして組織された」と、紹介がある(4p)。

 そのプログラムのひとつが、「福島学」プログラムメンバーという組織ということになるらしい。会津大学、東日本国際大学、福島大学、日本大学、福島県立医科大学に民間の奥会津書房という組織が加わっていることが、県内の高等教育機関のなかでいかなる位置を占めているかを県外住民として読みとることは難しいが、それにしても平成22年、23年と議論を積み重ね、福島県が当面する「福島の復興」、「福島の再生」に「どう関わることができるか、その可能性の大きさを知ることができた」(5p)成果は、ひたむきでさえある。

 基調講演の遠藤由美子氏は「会津学と会津学研究の活動」で、赤坂憲雄氏が提唱する「(他所者が)この地域をどう見るのかではなく、この地域に生きているあなた方が、この地域をどう見つめるか、そのことを一緒に考えませんか」と紹介する(11p)。
 虫おくりと虫供養。三島町早戸地区からの紹介。虫送りは「村のなかに外注を入れない、入ってきた害虫は村はずれまで送ってゆく」が伝統行事。しかし、それが近年、いかにかわっているか。かつては「虫を村から追い出した」が、今は「ハエやアブなどの虫(注 害虫)が納められているもの」を「焼くのです、殺すのです」。背景に、廃棄物処理法にひっかかるためとする(30p)・
 対になっている虫供養を済ませて、関係者のひとりは「これやんねーとな、落ちつかねのよ。おれたちはいつのまにかいっぺえ虫殺してきたし、これやっと、ちと落ち着くんだ」(32p)。

 地域のなかに、「自分も生きている、あんたも生きているだね、その共感の中で同じ土地を共有してきたのだということを教えてもらいました」(同)。

 補助事業で取り組まれた高等教育機関連携による取り組み。これからは自前の事業で継続したいと表明されている。(アカデミィア・コンソーシアムふくしま 2012年)。
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司馬遼太郎著『関ヶ原 中巻』(中途記載)
 司馬遼太郎著『関ヶ原 中巻』。本巻の主題は、徳川の会津、上杉討伐か。
 分水嶺に立つ西国大名。背景に秀吉没後の淀派、北政所派の区分けがある。も。

 大谷吉継、毛利元就、島津維新、細川忠興、小早川秀秋、長宗我部元親。西国の大名がいかにして戦後、徳川外様大名で残ることができたか。キーワードは「内通」と長束正家・増田長盛らの監視下を「関所通過」。

 展開は旧暦7月2日、徳川が江戸入り、会津にむけて小山に布陣。

 作業が前にすすまないときは、読む。力をとりもどすので、不思議。(新潮社 1982年)。
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馬場悠男著『「顔」ってなんだろう?』
 馬場悠男著『「顔」ってなんだろう?』。解剖学、そして人類形態学。そういう領域の啓発書ということになるのであろう。
 確かに「十人十色」といえば、多くは性格ではなく「顔つき」ということになり、美形・美顔など配偶者選びのなかで、それなりのウェーとを占めるのかも知れない。

 動物にとって顔とはなにか。生殖・排泄・運動機能はともかく、それ以外の多くの器官が「顔に集中」という(20p)。これは解剖学的所見。確かに、そうである。
 猿人(700万年前)、原人(200万年前)、旧人(50万年前)、新人(5万年前)という進化過程(29-34p)が現在の研究水準らしい。

 「縄文顔と弥生顔」(40p)というのも、よく指摘される観点。一覧表があって「口元」「まぶた」「彫り」などの比較項目がある(41p)。弥生人の祖先はまず、自分たちで人口を増やし、弥生人70-80%、縄文人20-30%くらいの段階で両者の混血を開始したと、見る(50p)。

 最後に著者は書く、「顔を鍛えること」。よく噛んでということか。「農トレならぬ顔トレ」に「未来の私たちの顔の運命がかかっている」とする(134p)。
 (NHKこの人この世界 日本放送出版協会 2009年)。
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石澤良昭著『アンコール遺跡 残された歴史のメッセージ』
石澤良昭著『アンコール遺跡 残された歴史のメッセージ』。アンコール・ワット。世界史の教科書で写真に登場し、5ヶ所の尖塔の記憶は鮮やか。

 しかし、それがカンボジアと言う国。クメール人がカンボジア人に受け継がれ、9世紀から15世紀の600年ほどの文化。
 アンコール・トムや247体かの廃仏など、東京都23区にも相当する遺跡群の集積などと書かれると、世界史教育がいかに断片的、記憶しにくいもの、知識としての定着をさまたげてきたかと、思いめぐらす。

 都城・寺院・王宮(10p)。悠久の神話と栄華の物語り(16p)。どんな小さな史実でもその意味と時代背景を考えて(29p)。
 アンコール・ワットは「寺院のある・町=寺院によってつくられた・町」(30p)。
 (設計者)「人間の錯覚や昂る心、心憎いトリックを使い、神への尊崇の気持ちを巧みに計算して崇高な神々の世界へ導く妙手を演出」(44p)・

 江戸時代、本邦から訪問した人のあったことを記載する。「おそらく右近太夫は、ここを『祇園精舎』だと思い込んでいたのではないか」(112p)。

 ともかく本書は、背景にある壮大な世界を目の前に紹介してくれている(『NHK知るを楽しむ この人この世界』 日本放送出版協会 2007年)。
 
 
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荷札
荷札。めったに使用しない。さすがに宅急便の普及で、かつては必須、いまはその存在を知る人が少なくなった。

荷札は不要ながら、その針金がほしい。メモリースティックにひもを通すには、これが一番。

たまたま保存があったので、一枚もらいうけて。無事にひもをとおすことができて。ご機嫌。
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珈路詩
 珈路詩。柳町2-1.「一粒の豆にたくす真心珈琲」とある。

 OHBA珈琲。知人から頂戴した。お店に出かけて行くこと約束したのだが。

 これから、出かける。頂戴したコーヒー豆、呑みほしたもので。
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