支流合流の微高地 埋蔵文化財包含地・暁善寺遺跡 尾幌川流域221031
支流合流の微高地 埋蔵文化財包含地・暁善寺遺跡 尾幌川流域221031

 1968年9月の第一土曜日。釧路市立郷土博物館の澤四郎次長が前触れもなく拙宅に顔を出された。
 「遺物を見せてください」。1955年頃から、ハナマメ、ソラマメ、ダイコン、ニンジンなど栽培のため春耕する土の中から出土した遺物があった。
 1933年3月の火災で焼失堂宇を、釧路~根室間の鉄道駅に近く、伏流水があって井戸掘削も可能。そうした立地条件をもとに移設した寺院境内地の一角に包含地は位置する。

 澤次長は一点、一点を確認しながら「フムフム」。
 「これ、町教委に引き継ぐわ、良いかい」。「ここは暁善寺というお寺だったかい?」。
 結果が「縄文(中期)」「縄文(晩期)」「続縄文(前半期)」「続縄文(後半期)」「擦文」の、「遺物包含地」ということになった。

 「暁善寺遺跡」。「尾幌川にそそぐ小河川 左岸の微高地」。「登録番号 M03-008」「厚岸町尾幌455・459・462」が所在地ということになった。
 所在地は当時「八号線二七番地」であったが、その後の字名・地番改正で分筆された。
 現地は33年以来の年々の耕作で攪乱してしまっていた。鍬で掘りすすんだ土おこしを「ケンサキスコップ」で深く掘るようにもなり、攪乱はいっそうすすんだことになるのだが。

 「尾幌川にそそぐ小河川 左岸の微高地」とは、遺物包含地の立地をよくぞ言い当てている。
 北海道二級河川の尾幌川本流にそそぐルークシュポール川、ポンルークシュポール川、オタクッパウシ川が合流している。
 包含地の西には本流にそそぐ自然小流が一筋、南には泥炭低地の表層水をあつめる小流跡が「池」を残していた。

 遺物が出土した地点は、国土地理院地図で10.1~10.5メートルの地点にあたる。
 ところが「池」というべきか川跡の地点は9.3メートルで、そこには「明確な高低差」があった。
 2021年時点ではさすがに両地点の傾斜は緩やかとなり、筆者が児童期に感じた落差は緩和され、ゆるやかな状態にはなってる。水平源したかのようでもある。

 1967年。1952年かに文化財保護法が施行されて四半世紀。
 自治体の教育委員会も義務教育学校の校舎建設がひとまず完了。社会教育も公民館活動から埋蔵文化財の確認調査期に入る。
 そのハシリ。そう言えるのかも知れない、1967年。折から「新釧路市史編さん事業」に着手した釧路市が、   「道東海岸村総合調査」と銘打って実施した調査。
その一環で、たまたま博物館学芸職員の目にとまった遺物包含地の一。そういう時代のめぐりあわせ。そういことになる。