8.26午前6時、ついに闇しばりを解いたぞ。
プロローグの月の出を確かめたくて《光の日本》を見直す。けっきょく、最後まで見てしまった。
作り直すことは可能でも、上回ることはムリだなと痛感した。やれるとしたら、山下亜美の朗読を録りなおすていどだ。しかし、それすらも不要な気がする。
これはいったい誰に向けて見せたかった作品なのか。果たしそこなったいくつかの苦い記憶に向けたものなのか、直後にかき消えた賢明さんをあらかじめ追慕したものとしてか。
あるいは十年後の現在に向けたものなのか。
少なくともプロローグの月とエピローグの落日の計10分はパーフェクトだ。

ずっと「風のササヤンカ村」がベストだと考えてきた。見直してみて、《光》の10分こそ、つくりたかったことだったのだと、あらためて思い知らされた。

ここにあるのは、どうみても、いま現在のおれ自身。素材がベーカムかHDかの違いのほかに、何の異なりがあるのか。

これを、どう見るのだろうか。
やはり慟哭するのではないだろうか。
あの湯の花の月の光をここに据え代えたとしたら、それはどんな想いを、
そしてはじまりを告げることになるのか。
すべてが、いま現在のためにあったとすれば、混迷も放念も得心がいくのだ。
真崎の源氏の1カットもしかりである。
おれはなぜあの1コマに10年間も魅かれ続けたのか。
おなじことなのだ。

さだめられたものがあるとすれば、
この混迷こそが、我が運命。

ちと大げさな気もするとはいえ、朝まで起きていた勢いもある。ここらで見据えないことには、立ち直れそうもない。



見切った。
8月26日午前6時ジャスト。
すべてを受け入れることで、落着。
一切の迷いを捨てた。
これでおれの21世紀の幕も開けられる。



闇しばりからの脱出。
おまえは偉い! そう記しておく。


四六時中、以上の時間があるとすれば、それこそが我が《時間》。その《時間》のすべてを注ぎたい。呵々大笑の夜明けである。