GIOVANNI MIRABASSIの「MY REVOLUTION」
蜷川の「近松心中物語/それは恋」をまた見る。しかし、なんつう凄さなのか。鳥肌が立つ。
東宝は、どうしてこういう国宝級のものをDVDにせずに放置して置けるのだろうか。

花魁登場、身請けの場に目が行っていたが、あらためて終幕の心中の場に目を奪われた。十三分間降り続く雪にではなく、躊躇の末に首締めるその瞬間の凄絶な美しさにまいった。
舞台中継記録のカメラワークに常につきまとう無残なカット割りがここでも目につくが、そういう瑣末なことをすべて放棄させるだけの弩迫力が胸に迫る。

十年余りを経て、そのころに強く魅かれたほとんどの作品が色あせてしまっていることを、この一ヶ月で確認したが、蜷川の「近松」は微動だにしない。世界水準ということはこういうことなのだなとしみじみ。

とはいえこの方向に、我がすすむべき道はない。ここではおれは至福の観客にすぎない。

紀伊国屋に行き、マックの雑誌を数冊買い、近くの喫茶店に。週末の同伴で国際色豊かな店の隅に腰を落ち着け二時間過ごす。
夕べから朝にかけてフレンズの一気ONAIRを4時間かけて見ていたら朝の七時過ぎになった。それから昼過ぎまで眠る。

すこし風邪気味。

オフィスに寄る。
照明工事が終わったので、渡辺君がマックの配線チェック、デスクの移動などをしているのを横目に、ピアノソロをかける。
窓の外には低い位置に月。七日目あたりか。眺めていてもなんの感興も湧かず。
ああ、月じゃねえか。で終わり。
三週間前に満月を撮って狂喜したことが嘘のようだ。

数日前に見直した「光の日本」の巻頭に引用していた福島さんの歌。

  《万物は冬になだれていくがいい追憶にのみいまはいるのだ》

が唐突に浮かぶ。あのあとでおれは立原道造の「おぼえていたら帰りたい」を呼応するように山下亜美の声で置いた。

そして五分間の月の出だけでプロローグとした。どうしてあんな芸当ができたのか、見当もつかない。同じ条件を提示されても、いまのおれならいくつものシーンにしてしまうだろう。まずまちがいない。周囲の沈黙に耐えるだけのこらえ性がなくなっているのだ。顔色を見て、ラクなほうに流れ、お疲れさん!とするだろう。
それで周囲はホッとし、満足を得る。おれにはギャラが振り込まれ、砂を噛んだような味気なさに数日間ひたり、そしてきれいにそのことを忘れ去る。その連続だった。
だからどうということもないのだが。

仕事という名のレベルメーターのようなものがおれの体のどこかにぶら下がっているとしたら、その針はあるいはデジタル数字はまちがいなくエンプティ。限りなくゼロに近いはず。

こういう意識でおのれを振り返ったことがない。ここからどうなっていくのか、不安もなく、希望もなく、ひたすら考えるのが面倒だ。
何もかも放り出したい、と思ったが、考えてみれば二ヶ月もすべてを放り出したまま。いまさら放るべきものもない。

秋風と鈴虫。
ここから暮れていくしかないのだろうか。
今夜は、ため息すら出ない。

さっきからリピートしているのは《AVANTI!》GIOVANNI MIRABASSIのPIANO SOLOの15番目の曲。
そのタイトルは「MY REVOLUTION」

混迷の21世紀夏を記憶にとどめるための一枚。そして一曲。


体調なのか、気分なのか、
今夜はすべてが気だるく、何もかもどうでもいい思いが深い。
飯でも食いに行くか。