照明かえるように人生も変えたいが。
午後からオフィス。
照明の工事。モニターへの蛍光灯の映り込みがきついのですべてスポットに変えることにした。まだ残暑がきつそうではあるが、明かりの色だけは一足先に秋になる。

工事のドリル音と例のピアノソロのCDとがセッションをしているようで、なかなかのにぎわいである。

仕事の動きは、来週あたりからとなりそうだ。さて耐えられるだろうか。週末の気分としては、まったくやる気なし。みごとなまでに仕事をしたいという意志も意欲も欠落している。どうしてあれほどひとときの中断もなく走ってこれたのか、あきもせずひたむきさを維持してこれたのか、奇妙ですらある。
その昔、資生堂を担当していた杉山登志が自殺したことを唐突に思いだした。杉山さんはピークのほんの少し先で死を選んだ。評価的には絶頂にあったがクリエイターとしては先が見えていたのだと思う。あの頃はつまらねえ死に方だなと鼻で笑っていたが、いまなら笑ってばかりもいられない。
天下の杉山さんと比べる気はいささかもないのだが、限界点には来たな、そんな思いが強いのだ。

おれの限界高度がいま現在だとしたら、
おれはさらに高みを望もうとしているのか、それはがんばれば行きつける場所であるのか、行きつきたいとほんとうに望んでいるのか、そのあたりが皆目不明。

この夏は、いろいろな意味で混迷の夏となった。これが正念場なのか。
いつもとはほんの少し異なる場所と異なる方法論に出会ったことからくるひとときの迷いなのか。
その見極めが、ひと月を経てもまだつかずにいる。
フリーランスの看板をあげているかぎり、これは完全に敗者である。
自分の中で何かが切れてしまい、あるいは尽きてしまい、なすすべもなくなったことを認める気になれずに、別な思いに逃げたのではないのか、そんな思いがある。
それが「むじなの森」と称していつまでも煮えきらずに引きずり続けた「水の惑星ジ・アース」の殿戦ではなかったのか。
むりやり意味を見つけ、強引に価値をつくりだし、見せかけの戦場を心のうちに構築することで、自分の限界を認識すべき時機を後送りにしてきただけではないのか。
あれもこれも、あの森で生起したすべてのことは、ただ己の弱さに、限界に向き合うことを避けるための方便ではなかったのか。

夜ふけの公園で、浮浪の人たちと並んでベンチに座りとりとめもないおしゃべりに興じながら、なんの違和も感じないことにおどろきもせず半月が過ぎていく。

試みたい方法が見えない。チャレンジしてみたい世界も見えない。昨日の続きに今日と明日をつなげるというコンティニューになんの信頼も愛も感じられない。
子をなさなかったことに因があるのだろうか。46億年の奇蹟の果てにいまがあるとしても、おれはその継続をまったく受け入れていないことにがく然とさせられる。
こんな思いにたどり着かされるために、あの二年あまりの仕事はあったのだろうか。
それとも水の惑星の仕事とはまったく関わりなしにこの限界は訪れていてそのことに気づかなかっただけなのか。


オフィスの照明をチェンジするように
おれの人生もチェンジできたらなどとバカげた思いもよぎっていく。

これが、負けるということなのか。
萎えるということなのか。



けっこうやばいところにまできているのだな、とあらためて実感する。
もう逃げていく場所もない。