十九の春異聞
三月の陽気で雪崩注意だとニュース。あの津南は393cm、最高積雪記録を更新。liveではまだ降雪中。今日の古河でも、絶好のタイミングだったという話題がなんども出ていた。たしかに、あれはどうしてうまくいけたのか。いまだに頬つねる気分が消えず。

昨日、編集中にwebで見つけた「十九の春」。誰が歌っているのか不明だが、透明感のある歌声とリリカルな唄い方がなんともいい。ゆうべから30回は聴いたか。この歌い手のほかの歌を聴いてみたいが、さてどうすりゃいいのか。webをたどっている間に元歌が壮士節系のラッパ節であったことが判明。与論島に伝わり与論小唄となってさらに南島へと伝搬していったらしい。歌詞の内容を考えればどこか島唄系とは異なっているのはそのせいらしい。竹中労の著作を調べること。

以下与論町のwebページから引用
掲載日:2005年07月06日
撮影場所:百合ヶ浜
コメント
 「与論小唄」と「十九の春」について調査しています。「19の春」について多くの疑問が解明しました。明治43年、日本国が日ロ戦争を国民の目からそらすために「ラッパ節」を作詞・作曲、蓄音機がなかった時代当時の演歌師たちが、全国各地で巡業が行われ、各地に歌詞を変えた「ラッパ節」が流行する。当時大牟田の炭坑で働いていた与論の同胞の皆さんが、重労働の合間に望郷の心が「与論ラッパ節」に変わる。終戦・アメリカ信託時代を経て、与論で広く「与論ラッパ節」として、「夜遊」(男と女の恋愛)をとうして島人の心の教訓として歌い継がれる。歌詞が同じで節の違う「大島ラッパ節」は、大島に紬の見習いの為に、島を後にした織娘たちが同じく望郷心から歌われた唄である。当時のラッパ節は男女の恋心を即興で、唄を作り男女交互に唄われていた。その後歌詞は変わらず、節が演歌調になり「与論小唄」に名前が変わる。  沖縄(コザ市)にも与論小唄と同様な歌詞・節で唄われていた唄があった。終戦後沖縄には多くの米兵が駐留していて、春を売る女性たちが各地の離島から無理やり集められ、悲しい青春を余儀なくされる。そのコザ市でも、若き女性達の望郷心からラッパ節の歌詞を変えて唄われていた。昭和47年沖縄が日本復帰する。沖縄の唄者が「19の春」をレコードを発売するがヒットしなかった。与論小唄の歌詞では「もとの18しておくれ」と唄われる。沖縄の唄者は「19」の方がゴロ合わせが良いので「19の春」として発売する。その後昭和51年田畑義雄が「19の春」をカバーして全国的なヒット曲として・・・・・・・以下 明日につづく     私があなたにきた時は    丁度十八花ざかり     今更離縁というならば      もとの十八なしてくれ   もとの十八なすけれど    枯れ木に花が咲くものか     枯れ木に花が咲くなれば      もとの十八なしてやる            与論小唄より抜粋

編集 torum : 竹中労「琉歌幻視行 : 島うたの世界」(田畑書店, 1975)