誤差感度
長岡が加わったF900を使ったドラマのオンエアを観た。同時間帯のドラマ、BS、スカパーなどをザッピングしながら比較。キレの良さ、ディティルの描写力の高さを確認。とりわけ自然絡み、オープンはよかった。ただ白い部分の扱いが難しいなと感じた。さらにデジタルHDは一昔前のアナログHDと比べてライトを拾いすぎる傾向が強いようだ。積水ハウスの撮影でも痛感したが、ディティル描写が密な分だけ、ライトはもっと控えたほうがよいのではないか。
いろいろ参考になった。

それにしても、必要だと思ったときになぜこうもスレ違うのだろう。どこかで本質的にズレていることに蓋をしてしまっているということか。温もりの誤差に、とまどいがふえるばかりだ。このあたりあるいは決定的なことになるのかもしれない。

横江の感想によると、北方は少年ジャンプの原作程度の作家だと。それに異論はないのだが、水滸伝の鬼気迫る取り組みぶりは、読まずに過去の記憶だけで論じると火傷すると思う。小説家が化けることがあることを、まさか北方あたりで知ることになるとはおれも思わなかったが。どこにあんなパトスが秘められていたのか、信じがたいほどだ。
大場さんからは、宮部の後半を読むに耐えずに放棄したと感想。彼はたしか宮部ファンだったからその気分はよくわかった。おれは宮部は嫌いである。どこかで女であることに寄りかかったぬるさがうっとうしかった。でも誘拐犯で見せた執拗なまでの物語ることへの意志は、そうしたくびきを越えている。それが驚きだった。

どうもあちこちで、誤差感度が大きくなっているようだ。そのことがとてもおもしろい。

携帯を持っていないことに気づいた。オフィスに置き忘れたようだ。忘れてきたことも、そのこと自体を忘れていたことも、なんだか不思議な気がする。つるべ落としの秋の夕暮れ、ということか。

寝不足か。気に病むことに飽きたのか。
もうなりゆきまかせでいい。
明日は明日の風が吹く、と言うじゃねえか。

書けようと書けまいと、どっちでもいい。
さすがに、あっちもこっちもうっとうしさが募ってきた。