楊興新の《黄砂》を聴きながら
書くつもりが、冬のような寒さにほんろうされたか、単なるさぼりのせいか、寝てしまった。8時頃にいちど目覚めたが布団をかぶり直して二度寝。さらに6時間眠ってやっと起きた。日が暮れてオフィスに。資料を広げ、さてはじめようとしたが、音楽を聴きたくなり、一年ほど前にテレビ朝日映像の甲田さんに教えてもらった楊興新のCD《黄砂》をかけた。買ってから放り出したままで封も切ってなかったが、一曲目の《草原情歌》からわしづかみにされた。
胡弓は、しかしいい。《彝郷月夜》《七夕伝説》《黄砂》と聴き継ぐ。ときどき開けた窓から風のざわめきが聴こえてて、楊興新の胡弓の音色に重なっていく。
タバコに火をつけ、目を閉じる。
東京のはずれの変哲もない街の一角が、一瞬、とこまでも続く大草原のように変容する。たとえば地平線の彼方に巨大な火の玉のような太陽が沈んでいく。その手前を猛烈な勢いで砂煙が横に移動している。砂塵を突き破るように一頭の奔馬のシルエットが疾走していく。そのシルエットにはさらに人影が。地の果ての愛するものの待つパオに向かう男である。髪をなびかせ、馬に鞭をくれながら、ひたすら駆けていくのだ。愛するものの待つ地平線の彼方に向かって、思いきり体を前傾させ、少しでも早くたどりつきたいと願うように、疾駆していく。

《家》とは、きっとそういうものだ。

帰り着く、たどりつく、とは、そういうことなのだ。

これから書き始めるシャーウッドの根っこに、そんな思いを据えてみる。

これなら、キーを打てそうだ。