時速1万キロで遠ざかる風景
話していて、むじなの森にもジ・アースにもすっかり興味が消えていることに気づかされた。

あれほど狂ったように求めたあの森の記憶が、昨夜はどこか古いアルバムを見せられているような思いが強かった。

夕方になると吹く涼しい風、朝の澄んだ空気、青い空と白い雲、夕日、月、カナカナ、カエル、夜の灯、深い闇…

六月の終りから二ヶ月あまりにかけて胸をはずませ恋い焦がれるように慕いつづけたむじなの森のあれもこれも、すべてが超スピードで遠ざかっていくロケットのようだ。

九月にはいって、親しい人たちがつぎつぎとジ・アースを観に行くと知らせてはくるが、こころはずむことがない。

どうしたらこんなに遠ざかれるのかと、胸の底まで探ってみるが、熱さのかけらすらみあたらず。
しょせんは仕事のひとつに過ぎなかったということなのか。いままでのようにMAVが終わった途端に狂おしいような高ぶりがすーっと溶けてしまい、一切忘れてしまうというサイクルが、すこしばかり長かったということだけなのか。

須賀川と書いても、何の感情も湧かず。
むじなの森と打ってみても、またしかり。


さっきまで明るかった東京の空は、いきなり黒い雲に覆われて、いまにも土砂降りになりそうな気配が満ちてきた。


まさか、こんな興ざめな終り方をするわけじゃねえだろうな。
いくらなんでもすこしは余韻を残して幕を閉じられると期待していたのに、このままでは新聞でフィナーレを知るほかにない。

福島、いつのまにか奥州である。
みちのおく、である。
せつなくないこともないが、
咳払いひとつでかき消えるような思いとなった。
意外ではあるが、これが秋。
水の惑星ジ・アースはどこまでも夏の祝祭だ。
滝も霧も雪も、夏の暑さと熱さがあってこその添え物。
涼しすぎる秋風には、どこまでも間抜けな代物にすぎない。

今日は、そんな想いが深い。
これは、不憫であると書くべきなのか。