蜷川の「近松心中物語」をまた見た。
眠れぬままに蜷川の「近松」を見る。
花道の太夫の道中の見せかたはやはり抜群に引き込まれる。スポットライトの教科書のような美しさだ。観客がほんとうにこの芝居の世界へと没入させられるのは、実はあの太夫のシーンではないのか。ここからは夢の世界だ、そういう大見得をきっている、そんな思いをもった。二十年近く、引き込みの妙は辻村ジュサブローの人形遣いが郭の騒ぎへと乗り変わる瞬間だと記憶していたが、今夜違うことに気づかされた。
さらに三幕の公金流用して梅川の身請け、あそこがもしかしたらこの芝居の芯ではなかったのか。あの短い芝居に全精魂が込められていたのではなかったのか。太地と平幹の役者魂のすべてはあそこで燃焼しているのではないのか。
とすれば最も印象深い13分間の吹雪の心中は、じつは余韻。余情では。蜷川らしい仕掛けの派手さに長いことだまされてきたのではないのか。
それにしても秋元松代作詞の「それは恋」、深い世界だ。あらためて聴いていると背骨をわしづかみされたような気にさせられる。
しかし、この情熱はどこから来ているのか。なんど見てもみごとさに震えるばかりである。
これで十日間で三度見たことになる。あの年の夏でさえ一週間で二回。まだおれは三十歳になったばかりだった。
まったく同じ感情の起伏を持つということが信じられない。蜷川は不世出の天才である。