2000 09/17 15:53
Category : 日記
●しかし、田島は「めっちゃ、悔しい」を連発する。「平泳ぎで、もっと粘ればよかったですね。クロチコワの33秒台は本当にすごい記録。私の記録も当分破られない日本記録だと思いますけど。でもなあ」とまた無念を口にする。「金がよかったなあ。せっかくのチャンスだったのに……。これにずっとかけてきたから、本当に悔しい」
●彼女の話を取材エリアで聞きながら、不思議な感覚にとらわれていた。メモに記された文字と、彼女がまとう空気の感覚が一致しないのだ。悔しさを、これほど明るい表情で語れるものなのか。
朝日新聞の朝刊で編集委員の西村欣也がこんなことを書いていた。
そうなのだ、と思う。
ニュースの世界では活字のもつ意味が急速に消失していることを実感させられる。
朝日には珍しい、ウエットなスポーツ記事を書く西村欣也にして、抱いた感慨はじつはさらに奥深いことを
彼自身の記事がさらけだしている。
たとえば引用の冒頭にある田島の「平泳ぎで」の部分は「ブレストで」と彼女はしやべっている。
なぜ「ブレスト」を「平泳ぎ」と書かなくてはならなかったのか。
西村自身の表現スタイルなのか、朝日新聞社の「平易さ信仰」へのおもねりなのかはわからないが、
この一語の和訳から欠落してしまう最大の背景情報があることをぼくたちは見失うことになる。
それは田島が子ども時代からの水泳選手であったという背景と、日常的にワールドクラスで己の世界を構築してきたという二つのとても重要なデータである。
ぼくの通っていた区立田園調布中学でさえそのむかしから水泳部で「平泳ぎ」は「ブレスト」だった。
加えて、田島は世界記録を連発し、競技相手は世界レベルである。意識のターゲットはとも言える。
「ブレスト」ではわかりにくい人も多いだろうと老婆心を発揮し平易にしたつもりが、
田島という19歳のすぐれて個性的な存在のイメージがどこまでも平準化されていく。
西村編集委員は、「メモに記された文字と、彼女がまとう空気の感覚が一致しないのだ」と書く。
ニュースの世界では、活字の力はすでにその程度だと思う。それが時代だ。
ただ「ブレスト(平泳ぎ)」と書くていどのマナーはわきまえるべきだなと思った。
バラエティだと画面の半分くらい使ってスーパーで強調するやり方を、多くの映像屋やテレビ畑は
否定しようとするが、センスはともかく無意識にたどり着いた現時点では最良の表現手法であり、
滅びつつあるとはいえ、活字メディアはいますこし謙虚に学ぶべきではないか。
文字と紙への印刷というメディアはデータ伝達にはすでにまったく無力になっている。最大の要因は扱えるデータ量が圧倒的に少ないこと。
文が生き残るのは、広い意味でのエンタテインメント意外には無意味である。つまりデータ化が不可能な部分だけが残る。
報道における文字伝達というのは完全に死んでるな、そう思った。
戦争をのぞけば、
オリンピックのようなイベントは、そのことを確認するのに最適なのかもしれない。
2000年というのも、またいいタイミングである。
オリンピックをきちんと見る、という1964年の東京オリンピック以来の体験をしているが、
毎日がとてもスリリングな気がする。大半は時代のせいだが。
●彼女の話を取材エリアで聞きながら、不思議な感覚にとらわれていた。メモに記された文字と、彼女がまとう空気の感覚が一致しないのだ。悔しさを、これほど明るい表情で語れるものなのか。
朝日新聞の朝刊で編集委員の西村欣也がこんなことを書いていた。
そうなのだ、と思う。
ニュースの世界では活字のもつ意味が急速に消失していることを実感させられる。
朝日には珍しい、ウエットなスポーツ記事を書く西村欣也にして、抱いた感慨はじつはさらに奥深いことを
彼自身の記事がさらけだしている。
たとえば引用の冒頭にある田島の「平泳ぎで」の部分は「ブレストで」と彼女はしやべっている。
なぜ「ブレスト」を「平泳ぎ」と書かなくてはならなかったのか。
西村自身の表現スタイルなのか、朝日新聞社の「平易さ信仰」へのおもねりなのかはわからないが、
この一語の和訳から欠落してしまう最大の背景情報があることをぼくたちは見失うことになる。
それは田島が子ども時代からの水泳選手であったという背景と、日常的にワールドクラスで己の世界を構築してきたという二つのとても重要なデータである。
ぼくの通っていた区立田園調布中学でさえそのむかしから水泳部で「平泳ぎ」は「ブレスト」だった。
加えて、田島は世界記録を連発し、競技相手は世界レベルである。意識のターゲットはとも言える。
「ブレスト」ではわかりにくい人も多いだろうと老婆心を発揮し平易にしたつもりが、
田島という19歳のすぐれて個性的な存在のイメージがどこまでも平準化されていく。
西村編集委員は、「メモに記された文字と、彼女がまとう空気の感覚が一致しないのだ」と書く。
ニュースの世界では、活字の力はすでにその程度だと思う。それが時代だ。
ただ「ブレスト(平泳ぎ)」と書くていどのマナーはわきまえるべきだなと思った。
バラエティだと画面の半分くらい使ってスーパーで強調するやり方を、多くの映像屋やテレビ畑は
否定しようとするが、センスはともかく無意識にたどり着いた現時点では最良の表現手法であり、
滅びつつあるとはいえ、活字メディアはいますこし謙虚に学ぶべきではないか。
文字と紙への印刷というメディアはデータ伝達にはすでにまったく無力になっている。最大の要因は扱えるデータ量が圧倒的に少ないこと。
文が生き残るのは、広い意味でのエンタテインメント意外には無意味である。つまりデータ化が不可能な部分だけが残る。
報道における文字伝達というのは完全に死んでるな、そう思った。
戦争をのぞけば、
オリンピックのようなイベントは、そのことを確認するのに最適なのかもしれない。
2000年というのも、またいいタイミングである。
オリンピックをきちんと見る、という1964年の東京オリンピック以来の体験をしているが、
毎日がとてもスリリングな気がする。大半は時代のせいだが。