田島と田村。地雷はあるかな。
競泳で自己の記録を秒単位で塗り替えるだけで、スゴイのに田島は3秒以上更新した。それでもブレストについてしきりに悔やんでみせた。さらに競り負けたその相手を讚え、自らの記録は国内でしばらく破られることはないだろうと宣し、もうひとたび、口惜しい!と言ってのけた。
みごとなビジュアルぶりである。こういうときの日本人はぶすっとするか泣くかが定番なのに、質問するバカアナウンサーに比べてとても怜悧かつ熱狂的だった。いいなあ田島。はじめて見たけど、じつにいい。
コンピュータグラフィックスの世界や映画の世界に、この田島のような若い連中が出始めているが、サッカーの中田などと同様、楽しませてくれる。
にしてもどこのアナか知らんが、日本のスポーツジャーナリズムはほんとうに最低だな。
水泳の殿堂、オーストラリアで本気で金間違いなしと思っていたのだろうか。
なぜ自己記録を3秒もオーバーしたことに胸打たれないのか。とても不思議なニュアンスの伝わる実況であり、インタビューだった。スポーツぐらいは国粋じゃなくて国際主義でいってもらいたい。
表彰式でずっこけた田島は、どこまでもビジュアル的で、外さない。涼しい素材だな、マジで思った。

ひきつづきあの田村の準決勝までを見た。
しかしこいつはほんとうに醜いな。女子柔道は判定基準に美醜を設けるべきである。
無自覚で傲慢で、そばにいたら殴りたくなるような無残な顏と体型の田村に、赤い半天をきた大応援団が気の狂ったような応援を続けているのがなお不気味だった。昨日のレインボーカラーのコスチュームといい、今夜の中華街のシュウマイ売りのような格好といい、日本はカジュアルということを本気で考えてみる時期に来てると思う。
田村を見るたびに、前によく原宿で見かけた女装おやじを思い出す。リボンのこだわりと表情がそっくりだ。
こんなのが応援し、こんなのがメダルをとるのかと思うと、田島の時間も半ば醒める。

ビジュアルは世界言語である。
残された世界言語はビジュアルしかない、そうも言える。

オリンピックというのは
そのことを認識しあうまことに格好なステージだと思う。