小狐丸
京都の東山区の三条神宮道から三条通りを東に歩けば北側に小さな神社の鳥居が立っている。

「合槌稲荷」と言われるお稲荷さんで、その鳥居を潜って民家の間の細い路地を入っていった奥に小さな祠が祀られている。

むかし、平安時代の中期の後一条天皇の御世の事である。

京都の粟田口三条坊の近くに「藤四郎宗近」と言う刀匠がおり、天下に名を知られる名人であったが、三条に住んだので「三条小鍛冶宗近」呼ばれていた。

ある夜に後一条天皇は不吉な夢を見て不安になったので、橘道成を使いに立てて、三条小鍛冶宗近に天下鎮護の刀を打つように命じた。

宗近は、責任の大きさに一時は辞退も考えたが勅命とあれば引き受けるしかなく、精進潔斎をしては日頃から信心している稲荷大明神に願をかけて、見事な刀を打てるようにと祈願した。

やがて満願に近い日の事だった。

宗近の住まいを気品のある若者が訪れるとこう言った。

「私は立派な刀鍛冶になりたいと思い訪ねてまいりました、ぜひとも私を合槌に使って修行させてくださいませ」

刀を打つには合槌と言う鉄を打つ手伝いが必要であるので、宗近もこれはちょうど良いと若者の申し出を受ける事にした。

やがて、宗近と若者は白装束に烏帽子をつけると一心をこめて刀の制作に取り掛かった。

若者はうまく宗近に呼吸を合わせて向こう槌を打ち、宗近も良い合槌を得て懸命に刀を鍛え上げた。

こうして、素晴らしい出来栄えの見事な刀が打ちあがった。

宗近は、若者に

「我ながら見事な刀を打つことができた、これもお前の合槌のおかげだ、ところでこの刀の名前は何とつけようかのう」

そう言って若者を見ると、若者は

「この刀、できましたら小狐丸と名付けていただきとうございます」

そう答えると姿を狐に変えて、雲に乗って飛び去って行くのだった。

「さては、稲荷大明神が私の願いを聞いて手伝いを使わしてくださったか」

宗近はそう思うとあらためて稲荷大明神に感謝すると、言われたままに刀に「小狐丸」と名付けると天皇に献上したのだった。

この時の、宗近に力をかした神狐を祀ったのが「合槌稲荷」だとされていて、小さな社ながら火の用心の神様として付近の住民に大切にされているようだ、

さて、この宗近は実在の人物でやはり優れた刀匠だったと言われている。

宗近の作とされる太刀は三日月形の焼き刃があるので三日月宗近と呼ばれる国宝の名刀なども残されている。

また、ある時に宗近の娘が疫病にかかった折に、宗近は娘を可愛がっていたので「祇園社」(八坂神社)に娘の平癒を祈願し、治していただければ長刀を奉納すると誓った。

やがて、祈願のかいがあったのか娘は無事に回復すると、宗近はお礼にと長刀を打って奉納した。

この長刀が、祇園祭の長刀鉾に使われたとも伝えられているが、現在の長刀鉾の長刀は大栄2年(1522年)に三条鍛冶左衛門助長の鍛えた物だそうである。

現在も粟田口鍛冶町の名前が残っており、また付近には宗近が刀を鍛える時に使ったとされる井戸や住居跡などの遺蹟もあるようだ。

また、別に山科の花山神社の稲荷塚で、宗近が花山神の力を得て小狐丸を作ったとも言われており史跡も残されている。