明智光秀首塚
京都の地下鉄東西線の東山駅の近く、東山区の三条通りから白川に沿った道の東側を南に下って行くと「ペンション東山祇園」がある。

そのペンションの前の道を東に入ると「明智光秀首塚」と言われる小さなお堂がある。

明智光秀と言うと織田信長の家臣でありながら、中国攻めの秀吉の応援を命ぜられ、京都の老いの坂を越えた辺りで「敵は本能寺にあり」の言葉と共に、手薄になった信長の泊まる本能寺を攻めて信長を自刃に追い込んだ事で有名である。

なぜ、光秀が信長を討ったのか、さまざまな説があり判らない部分が多い。

信長の荒々しい部分が、光秀の繊細な部分が合わなかったのではとも言われている。

信長が丹波征討の折に降伏した敵の大将を殺したために、人質にされていた光秀の母親が殺されたのも恨みの根にあったのではとも言われている。

光秀は信長を本能寺で自刃に追い込んだ物の、中国攻めを片付けて急遽舞い戻った秀吉との山崎の合戦で破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中の、山科の小栗栖付近で土民に襲われて殺されたと言われている。

そして、秀吉は三井寺で光秀の首実験を行い、翌日この首を京の粟田口にさらしたそうだ。

そのために、この光秀の首は粟田口黒谷通の東に埋められていたそうだが、後に、この地に住む能狂言の笛ふきをつとめる明田利右衛門と言う明智の縁者と思われる人物が、栗田口黒谷の五人組連中から首の骨をもらい受けて自宅の地に移し菩提を弔ったのが首塚になったと言われている。

ちなみに、滋賀県の坂本にある西教寺には光秀や一族のお墓が祀られている。

さて、この首塚は頭痛などの首から上の病気にご利益があると言われ、頭が良くなるとも言われてお参りする人も多いと聞く。