2018 04/28 03:55
Category : 日記
京都の嵯峨野、さらに奥の清滝から愛宕山方面に山を登ったところに「月輪寺」と言う山寺がある。
戦前には愛宕山にはケーブルカーが架かっていたそうだが戦中に撤去され、今は愛宕山方面へは歩いて山を登るしかなく、清滝川の登り口から片道で1時間半ちかく険しい登山道を登ったところに「月輪寺」が建てられている。
この月輪寺は鎌倉山と号して真宗の発祥の地でもある。
「泰澄大師」が大宝4年(704年)に開山し、天応元年(781年)に「光仁天皇」の勅を奉じた「慶俊」が中興した国家鎮護の霊場だと言う。
このときに、地中から出た宝鏡の銘に「人天満月輪」とあったために、「月輪寺」と呼ぶようになったと言う。
その後に、「空也上人」がこの地で修行して念仏を悟り、初めて開いた発祥の地だそうだ。
また「法然上人」も、この地で念仏を専修し、「九条兼実」も深く帰依して、出家して「円澄」と号し、この地で隠棲するようになった。
この月輪寺の境内に「志ぐれ桜」(時雨桜)と呼ばれる桜の木がある。
親鸞上人のお手植えの桜の木だそうであるが、これが「しぐれ桜」と呼ばれるようになったのには伝説が伝えられている。
鎌倉時代の初期のこと。
念仏の流行に恐れを感じた朝廷は念仏の禁止を命じて弾圧に乗り出したが、京都の鹿ケ谷にあった法然上人の念仏道場で、法然上人の高弟である「住蓮房」と「安楽房」と言う二人の青年僧の下へ、宮中の女官である松虫と鈴虫と言う二人の女性が後鳥羽上皇の熊野参りの留守を狙って駆け込むと言う「松虫・鈴虫事件」が起こり、二人の青年僧は打ち首になり、法然は四国へ、親鸞は越後へ流される事になった。
そこで、当時この地に隠棲していた九条兼実こと「円澄」を訪ねて、法然上人と親鸞上人がこの月輪寺を訪れるとこの地で沙汰の下る日を待っていたのである。
ちなみに、法然・親鸞・円澄を三祖師と言うそうで、その三人がこの地で集まる事になったので「三祖師相談の地」でもあると言う。
その当時に親鸞上人が、もうこの地に訪れる事はないかも知れないと、思い出に自ら一本の桜の木を植えたのである。
やがて、法然上人や親鸞上人はそれぞれの地にが配流されて行く。
そして、月日が流れ桜の木も育った頃に、桜の木も育って花を咲かせるようになった。
すると、春になって花が咲く頃になると、その花や葉などが濡れて雫をたらすようになったのであった。
村人達は、
「桜の木が泣いている、これは上人様達を偲んで桜も涙を流しているにちがいない」
そう話し合っては、法然上人や親鸞上人を偲んで懐かしく思うようになったと言う。
それからも、桜の木は毎年春になると花を咲かせ、同じように濡れて花や葉に雫をたらすようになり、人々はこの桜の木を「しぐれ桜」と呼ぶようになったのである。
この「しぐれ桜」の話は、やがて全国にも広がって信心深い人は花見をかねて参拝するようになったそうだ。
私が訪れたときはあいにくと桜の開花はまだであったが、現在の桜の木は三代目だそうで今でも見事に花を咲かせるそうである。
また、しぐれ桜の由来となった花を濡らすのも、毎年四月中旬から五月中旬くらいまで、桜の木を濡らすと言う。
実は、このしぐれ桜であるが、この月輪寺から東に2キロほどの位置にある「空也の滝」と言う滝が原因だそうである。
毎年、春になると風向きが変わって滝の水しぶきが泡のようになって月輪寺方面に吹き付けるという。
その、水しぶきが桜の木をしっぽりと濡らして、しぐれ桜となるのだそうだ。
空也の滝は月輪寺へ登る途中にある駐車場から、川沿いに道を歩いたところにある高さ25メートルほどの滝で、昔に空也上人が修行した滝だと言われているが、滝には役の行者の像も祀られていて修験道との関わりもあると思われる。
さて、この月輪寺は「明智光秀」とも所縁のお寺だと言う。
本能寺の変の前のこと。
明智光秀が、「織田信長」から命じられて中国攻めの援軍にと軍勢を進めており、月輪寺の近くの愛宕山に軍勢を留めて、自分は月輪寺に参拝したそうだ。
心の中で、すでに信長への反旗を決めていたのか、光秀はここで御神籤を引いて、その吉兆を占ったのだと言う。
一説によると「凶」が出たので、「吉」が出るまで何度も引きなおしたとも言われている。
そして信長を討つ事を決め、軍勢を京の本能寺へ兵を進め、織田信長を討つ事になったのだそうだ。
つまり、この月輪寺での御神籤が光秀に本能寺の変を決意させたのかも知れない。
境内には明智光秀手植えの本石楠花の木もあったが、訪問した時は花の時期でないのか花は咲いていなかった。
他にも、境内には「龍奇水」と言う湧き水があり、何でも空也上人が竜神から授かった霊水だそうで実際に飲むこともできるようだ。
月輪寺は、山の上のお寺で雨風によって本堂の屋根の傷みとかが激しいようで、建て替えのための寄付を募っておられるところである。
今は、尼である庵主様が風雨や動物の害から守っておられるようである。
参拝するのは険しい山道で辛い部分もあるが、昔からの由緒のあるお寺でもあり、清清しい気分で爽やかになれるお寺でもあった。
戦前には愛宕山にはケーブルカーが架かっていたそうだが戦中に撤去され、今は愛宕山方面へは歩いて山を登るしかなく、清滝川の登り口から片道で1時間半ちかく険しい登山道を登ったところに「月輪寺」が建てられている。
この月輪寺は鎌倉山と号して真宗の発祥の地でもある。
「泰澄大師」が大宝4年(704年)に開山し、天応元年(781年)に「光仁天皇」の勅を奉じた「慶俊」が中興した国家鎮護の霊場だと言う。
このときに、地中から出た宝鏡の銘に「人天満月輪」とあったために、「月輪寺」と呼ぶようになったと言う。
その後に、「空也上人」がこの地で修行して念仏を悟り、初めて開いた発祥の地だそうだ。
また「法然上人」も、この地で念仏を専修し、「九条兼実」も深く帰依して、出家して「円澄」と号し、この地で隠棲するようになった。
この月輪寺の境内に「志ぐれ桜」(時雨桜)と呼ばれる桜の木がある。
親鸞上人のお手植えの桜の木だそうであるが、これが「しぐれ桜」と呼ばれるようになったのには伝説が伝えられている。
鎌倉時代の初期のこと。
念仏の流行に恐れを感じた朝廷は念仏の禁止を命じて弾圧に乗り出したが、京都の鹿ケ谷にあった法然上人の念仏道場で、法然上人の高弟である「住蓮房」と「安楽房」と言う二人の青年僧の下へ、宮中の女官である松虫と鈴虫と言う二人の女性が後鳥羽上皇の熊野参りの留守を狙って駆け込むと言う「松虫・鈴虫事件」が起こり、二人の青年僧は打ち首になり、法然は四国へ、親鸞は越後へ流される事になった。
そこで、当時この地に隠棲していた九条兼実こと「円澄」を訪ねて、法然上人と親鸞上人がこの月輪寺を訪れるとこの地で沙汰の下る日を待っていたのである。
ちなみに、法然・親鸞・円澄を三祖師と言うそうで、その三人がこの地で集まる事になったので「三祖師相談の地」でもあると言う。
その当時に親鸞上人が、もうこの地に訪れる事はないかも知れないと、思い出に自ら一本の桜の木を植えたのである。
やがて、法然上人や親鸞上人はそれぞれの地にが配流されて行く。
そして、月日が流れ桜の木も育った頃に、桜の木も育って花を咲かせるようになった。
すると、春になって花が咲く頃になると、その花や葉などが濡れて雫をたらすようになったのであった。
村人達は、
「桜の木が泣いている、これは上人様達を偲んで桜も涙を流しているにちがいない」
そう話し合っては、法然上人や親鸞上人を偲んで懐かしく思うようになったと言う。
それからも、桜の木は毎年春になると花を咲かせ、同じように濡れて花や葉に雫をたらすようになり、人々はこの桜の木を「しぐれ桜」と呼ぶようになったのである。
この「しぐれ桜」の話は、やがて全国にも広がって信心深い人は花見をかねて参拝するようになったそうだ。
私が訪れたときはあいにくと桜の開花はまだであったが、現在の桜の木は三代目だそうで今でも見事に花を咲かせるそうである。
また、しぐれ桜の由来となった花を濡らすのも、毎年四月中旬から五月中旬くらいまで、桜の木を濡らすと言う。
実は、このしぐれ桜であるが、この月輪寺から東に2キロほどの位置にある「空也の滝」と言う滝が原因だそうである。
毎年、春になると風向きが変わって滝の水しぶきが泡のようになって月輪寺方面に吹き付けるという。
その、水しぶきが桜の木をしっぽりと濡らして、しぐれ桜となるのだそうだ。
空也の滝は月輪寺へ登る途中にある駐車場から、川沿いに道を歩いたところにある高さ25メートルほどの滝で、昔に空也上人が修行した滝だと言われているが、滝には役の行者の像も祀られていて修験道との関わりもあると思われる。
さて、この月輪寺は「明智光秀」とも所縁のお寺だと言う。
本能寺の変の前のこと。
明智光秀が、「織田信長」から命じられて中国攻めの援軍にと軍勢を進めており、月輪寺の近くの愛宕山に軍勢を留めて、自分は月輪寺に参拝したそうだ。
心の中で、すでに信長への反旗を決めていたのか、光秀はここで御神籤を引いて、その吉兆を占ったのだと言う。
一説によると「凶」が出たので、「吉」が出るまで何度も引きなおしたとも言われている。
そして信長を討つ事を決め、軍勢を京の本能寺へ兵を進め、織田信長を討つ事になったのだそうだ。
つまり、この月輪寺での御神籤が光秀に本能寺の変を決意させたのかも知れない。
境内には明智光秀手植えの本石楠花の木もあったが、訪問した時は花の時期でないのか花は咲いていなかった。
他にも、境内には「龍奇水」と言う湧き水があり、何でも空也上人が竜神から授かった霊水だそうで実際に飲むこともできるようだ。
月輪寺は、山の上のお寺で雨風によって本堂の屋根の傷みとかが激しいようで、建て替えのための寄付を募っておられるところである。
今は、尼である庵主様が風雨や動物の害から守っておられるようである。
参拝するのは険しい山道で辛い部分もあるが、昔からの由緒のあるお寺でもあり、清清しい気分で爽やかになれるお寺でもあった。