2018 04/29 04:29
Category : 日記
京都市の左京区、岡崎公園の京都会館や勧業館に近く、疎水の流れる仁王門通を東大路通から西に入った所に「寂光寺」(じゃっこうじ)と言うお寺がある。
寂光寺は、妙泉山と号する顕本法華宗の本山である。
寺伝によれば、天正6年(1578年)に「日淵上人」(にちえんしょうにん)により創建され、はじめ久遠院と号して上京区の出水通室町付近にあったが、後に中京区の寺町二条に移転されたが火災で焼失し、宝永5年(1708年)に現在の場所に再建されたと言う。
囲碁の世界で「本因坊」(ほんいんぼう)と言う名跡があるが、その本因坊の名は、この寂光寺に所縁の名前である。
寂光寺の二世である「算砂」(さんさ)は永禄2年(1559年)に京都の舞楽宗家の加納与助の子として生まれ、幼名は與三郎と言った。
やがて、兄(一説には叔父)の日淵上人に弟子入りして出家して「日海」と名づけられ、寺内塔頭の「本因坊」に住んだ事から、「本因坊算砂」(ほにんぼうさんさ)と号すようになった。
算砂は、仏教を修めるとともに囲碁にも興味を持ち、当時の囲碁の強豪であった「千也」(せんや)に師事して囲碁を習うようになった。
やがて囲碁の腕を上げた算砂は、あの「織田信長」に気に入られて囲碁を教えるようになる。
そして、算砂が20歳の若さで織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚されたと言い、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとなったと言う。
また天正10年(1582年)の「本能寺の変」の前夜には信長の御前で鹿塩利玄(鹿塩と利玄は別人など諸説あり)と対局をした所、滅多に出来ない三コウが出来、その直後に信長が「明智光秀」に殺されるという本能寺の変が起こってしまい、これ以降に「三コウは不吉」とされるようになったとされているが、ただしこれは歴史的信憑性に欠けており、後世の創作であるという説が有力となっている。
その本能寺の変では、本因坊算砂の指示により「原志摩守宗安」が、織田信長の首を、共に自刃した父である原胤重と兄の原孫八郎清安の首と一緒に、炎上する本能寺より持ちだして、駿河の「西山本門寺」に納めて信長の首塚を築き、魔除けに柊を植えたと言う話もあると言う。
やがて、天下人となった「豊臣秀吉」にも仕えると、天正16年(1588年)には太閤である豊臣秀吉の御前で、算砂の他に利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられるようになった。
なお、この時の書状に「碁之法度可申付候」とあるのを碁所の開始とする説もあると言う。
その後、関ヶ原の合戦を経て勝者である「徳川家康」が征夷大将軍となる。
そして慶長8年(1603年)に「徳川家康」が江戸に幕府を開くと、算砂は家康に招かれて江戸に赴いた。
慶長13年(1608年)には「大橋宗桂」と将棋対局を行い、これが将棋最古の棋譜と言われており、また算砂は日本初の囲碁出版である詰碁や手筋などを収録した「本因坊碁経」を刊行している。
なお、算砂は日淵上人が開いた寺「寂光寺」を譲られ、慶長16年(1611年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。
慶長17年(1612年)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸録が与えられ、算砂は、利玄、宗桂とともに50石10人扶持とされた。
ちなみに、算砂以前の囲碁は、互先であってもあらかじめ双方が碁盤上にいくつかの石を置いた上で打ち進めるやり方が主流であったが、これを算砂の時代から現在のまっさらな状態から打つやり方が定着したと言う。
また、算砂は政治力にも優れて、家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係(のちの碁所に近い)に任ぜられて、これが後の家元制度の基礎となった。
家康は非常に碁が好きで良く算砂と打っていたが、ここから算砂は家康の秘密の目付であったのではないかとの説もあるそうだ。
算砂は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時の権力者に寵愛され続けたのは囲碁の実力もさることながら、やはり時勢を詠む力と政治力のような物を持っていたように思われる。
さらに、算砂の後ろ盾には寺社(日蓮宗)がいたとも言われ、権力者らに寵愛されたのもこれらの事が裏にあったためとも考えられると言う。
そして、元和9年(1623年)5月16日、本因坊算砂こと日海は、後継の「算悦」の後見を弟子の「中村道碩」に託すと静かに息を引き取った。
辞世の句は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」だと言う。
算砂の実力と功績により、本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなっていく。
そして、本因坊の地位と名称は二世の「算悦」(さんえつ)、三世の「道悦」(どうえつ)を経て、四世の「道策」(どうさく)の時に本因坊は京都の寂光寺から江戸に移っていった。
寂光寺の境内の墓地には、初代本因坊の算砂をはじめ算悦・道悦の墓があり、算砂の墓石の五輪塔が安置されて、その周囲を歴代本因坊の石塔が並んでいる。
また、寺宝として算砂の画像や近衛関白家より拝領の唐桑の碁盤等を蔵しているそうだ。
今でも囲碁愛好家には聖地のような感じで訪れる人も多く、算砂上人の遺徳を忍び、囲碁の上達を願う人も多いようだ。
寂光寺は、妙泉山と号する顕本法華宗の本山である。
寺伝によれば、天正6年(1578年)に「日淵上人」(にちえんしょうにん)により創建され、はじめ久遠院と号して上京区の出水通室町付近にあったが、後に中京区の寺町二条に移転されたが火災で焼失し、宝永5年(1708年)に現在の場所に再建されたと言う。
囲碁の世界で「本因坊」(ほんいんぼう)と言う名跡があるが、その本因坊の名は、この寂光寺に所縁の名前である。
寂光寺の二世である「算砂」(さんさ)は永禄2年(1559年)に京都の舞楽宗家の加納与助の子として生まれ、幼名は與三郎と言った。
やがて、兄(一説には叔父)の日淵上人に弟子入りして出家して「日海」と名づけられ、寺内塔頭の「本因坊」に住んだ事から、「本因坊算砂」(ほにんぼうさんさ)と号すようになった。
算砂は、仏教を修めるとともに囲碁にも興味を持ち、当時の囲碁の強豪であった「千也」(せんや)に師事して囲碁を習うようになった。
やがて囲碁の腕を上げた算砂は、あの「織田信長」に気に入られて囲碁を教えるようになる。
そして、算砂が20歳の若さで織田信長に「そちはまことの名人なり」と称揚されたと言い、これが現在も各方面で常用される「名人」という言葉の起こりとなったと言う。
また天正10年(1582年)の「本能寺の変」の前夜には信長の御前で鹿塩利玄(鹿塩と利玄は別人など諸説あり)と対局をした所、滅多に出来ない三コウが出来、その直後に信長が「明智光秀」に殺されるという本能寺の変が起こってしまい、これ以降に「三コウは不吉」とされるようになったとされているが、ただしこれは歴史的信憑性に欠けており、後世の創作であるという説が有力となっている。
その本能寺の変では、本因坊算砂の指示により「原志摩守宗安」が、織田信長の首を、共に自刃した父である原胤重と兄の原孫八郎清安の首と一緒に、炎上する本能寺より持ちだして、駿河の「西山本門寺」に納めて信長の首塚を築き、魔除けに柊を植えたと言う話もあると言う。
やがて、天下人となった「豊臣秀吉」にも仕えると、天正16年(1588年)には太閤である豊臣秀吉の御前で、算砂の他に利玄など数名の碁打衆が召し出されて対局し、これに算砂が勝ち抜いて20石10人扶持を与えられるようになった。
なお、この時の書状に「碁之法度可申付候」とあるのを碁所の開始とする説もあると言う。
その後、関ヶ原の合戦を経て勝者である「徳川家康」が征夷大将軍となる。
そして慶長8年(1603年)に「徳川家康」が江戸に幕府を開くと、算砂は家康に招かれて江戸に赴いた。
慶長13年(1608年)には「大橋宗桂」と将棋対局を行い、これが将棋最古の棋譜と言われており、また算砂は日本初の囲碁出版である詰碁や手筋などを収録した「本因坊碁経」を刊行している。
なお、算砂は日淵上人が開いた寺「寂光寺」を譲られ、慶長16年(1611年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。
慶長17年(1612年)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆、将棋衆の8名に俸録が与えられ、算砂は、利玄、宗桂とともに50石10人扶持とされた。
ちなみに、算砂以前の囲碁は、互先であってもあらかじめ双方が碁盤上にいくつかの石を置いた上で打ち進めるやり方が主流であったが、これを算砂の時代から現在のまっさらな状態から打つやり方が定着したと言う。
また、算砂は政治力にも優れて、家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係(のちの碁所に近い)に任ぜられて、これが後の家元制度の基礎となった。
家康は非常に碁が好きで良く算砂と打っていたが、ここから算砂は家康の秘密の目付であったのではないかとの説もあるそうだ。
算砂は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と時の権力者に寵愛され続けたのは囲碁の実力もさることながら、やはり時勢を詠む力と政治力のような物を持っていたように思われる。
さらに、算砂の後ろ盾には寺社(日蓮宗)がいたとも言われ、権力者らに寵愛されたのもこれらの事が裏にあったためとも考えられると言う。
そして、元和9年(1623年)5月16日、本因坊算砂こと日海は、後継の「算悦」の後見を弟子の「中村道碩」に託すと静かに息を引き取った。
辞世の句は「碁なりせば 劫(コウ)なと打ちて 生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり」だと言う。
算砂の実力と功績により、本因坊の名称は碁界家元の地位を持ち、技量卓抜な者が襲名継承することとなっていく。
そして、本因坊の地位と名称は二世の「算悦」(さんえつ)、三世の「道悦」(どうえつ)を経て、四世の「道策」(どうさく)の時に本因坊は京都の寂光寺から江戸に移っていった。
寂光寺の境内の墓地には、初代本因坊の算砂をはじめ算悦・道悦の墓があり、算砂の墓石の五輪塔が安置されて、その周囲を歴代本因坊の石塔が並んでいる。
また、寺宝として算砂の画像や近衛関白家より拝領の唐桑の碁盤等を蔵しているそうだ。
今でも囲碁愛好家には聖地のような感じで訪れる人も多く、算砂上人の遺徳を忍び、囲碁の上達を願う人も多いようだ。