乳母ヶ淵の人魂
京都府の亀岡市、その亀岡市を流れる保津川は、船で川下りを楽しむ保津川下りで有名である。

その保津川に架かる保津大橋の下流に、かつて「乳母ヶ淵」と呼ばれる場所があったと言う。

なぜ乳母ヶ淵と呼ばれたか、それには悲しい伝説があった。


亀岡市が、まだ亀山と呼ばれたむかし、青山と言う殿様がいた。

亀山藩でも格式の高い家柄で富にも恵まれて、何の不自由もない生活に思えていた。

しかし、実は殿様には子宝に恵まれなくて、後継ぎがいない事で悩んでいたのである。

このままでは、お家断絶にもなりかねない重大事でもあった。

そういう中で、青山家にもようやく男子が誕生したのである。

殿様の喜びは大変なもので、親類縁者を招いての祝賀の宴が何日も続き、城下の民にも祝いの品が配られたほどであった。

殿様は、大切な我が子のために教養も人徳もある優れた乳母を探し出して世話をまかせた。

乳母はつきっきりで男の子の身の回りの世話をやき、男の子は恵まれた環境ですくすくと育って行ったのだった。

やがて、四年が過ぎて男の子は四歳になった夏の事である。

その年の夏は、特に暑さが厳しい日々が続いていたと言う。

男の子も元気に育ち、やんちゃ盛りの子供になっていた。

その日も広い庭で毬を追って遊んでいたが、突然に川で水遊びをしたいとゴネはじめた。

厳しい暑さの事もあり、乳母も少しは涼しさも良いかと男の子を連れて、屋敷の近くの保津川へでかける事にした。

男の子と乳母は河原で仲良く遊んでいたが、なにしろやんちゃ盛りの男の子の事ですこしもじっとしていない。

河原の小石を拾ったり、川の魚を追ったりして、乳母が危ないと注意してもなかなか聞かないのだった。

魚を夢中で追っている男の子を止めようとして、乳母が駆け寄ろうとした時に石につまづいて足を取られてしまった。

その時に、男の子は深みにはまってしまい、川の流れに流されてしまった。

男の子は必死にもがいたりしたが、川の流れは速くて押し流されていく。

乳母も大声で助けを呼びながら男の子を追ったが流れが速くて、みるみる男の子は流れにのみ込まれて姿が見えなくなっていく。

とうとう男の子を見失った乳母の頭には、男の子の誕生を大喜びしていた殿様の顔が浮かんで来た。

乳母として男の子の世話をしてきた思いと、殿様に対する申し訳なさでいっぱいになり、とても屋敷に帰るわけに行かない。

「お殿様申し訳もございません、とても許していただける事ではありませんが、死んでお詫び申し上げます」

そう書置きを残すと、乳母は男の子を追うように保津川の流れに身を投じたのであった。

それ以来、夏の暑い日には乳母が身を投げた付近で青い人魂が飛び回り、保津大橋の付近をさまよい続けるようになったと言う。

乳母の人魂が自分の過失を責めるあまりに成仏できずに、男の子を探し回るように人魂となって飛び回っていると人の噂になって行った。

そうして乳母が身を投げた付近をいつしか「乳母ヶ淵」と呼ばれるようになったが、それも昔の話で、今では地元の古老が知るのみで、ほとんどの人はその呼び名さえ知らなくなったそうだ。