染殿院
京都の大繁華街である新京極通りだが、その南の始発点とも言うべき四条新京極の西側の角、今は甘栗等を商う「林万昌堂」の店の奥に入る感じの場所(新京極通りからも横道が通じている)に「染殿地蔵」と呼ばれる小さなお堂がある。

ここも小さなお堂だが古くから安産のお参りで知られたお堂である。

時は平安時代の初期の頃で文徳天皇の御世である。

「文徳天皇」の皇后である「藤原明子」(ふじわらあきらけいこ)は「藤原良房」の娘で、父の良房の屋敷の辺りに宮中で用いる衣装を染めた「染井」と言う井戸があったことから良房の邸宅は「染殿」と呼ばれたために、明子は「染殿后」と言われていたそうである。

その藤原明子こと染殿后は、文徳天皇の皇后になり、美しい女性であったために帝の寵愛を一身に受けていたが、後継ぎの皇子を授からないのが悩みであった。

もしも明子に皇子が出来れば父の良房だけでなく、藤原一門にとっても磐石の権力を得ることになるのだから大きな問題である。

そんな時に、四条にある地蔵菩薩が子宝にたいへんに御利益があると聞きつけた明子は、さっそく地蔵堂に参拝しては17日の願掛けをしたと言う。

やがて満願の日、明子には懐妊を意識できる兆しがあって、それからお腹が大きくなっていき、やがて玉のような男の子・皇子を生んだのである。

この時に生まれた皇子が、次の天皇である「清和天皇」になり、藤原一門も大きな力を持つことになるのである。

やがて、明子が染殿后と呼ばれていたことから、この地蔵菩薩も呼ばれるようになり、ますます子宝を求める人で賑わったそうである。

この地蔵堂は、もとは近くにあった釈迦院と言うお寺の物だったが、たびたびの兵火で焼かれて再建を重ねたが、明治維新前の大火事で焼失した再に仮堂を建てたのが、そのまま今に残ったそうである。

お地蔵様は空海の作とも言われており、裸形の立像だそうだが半世紀に一度しか開帳しない秘仏だと言われている。


さて、この後日談と言う訳でもないのだが、この染殿后には大変恐ろしいと言うか忌まわしい伝説が伝えられている。

いろいろな書物にも書かれているようだが、今回は「今昔物語・巻第二十・第七」の話等から簡単にまとめて語っていきたいと思う。

先に書いたように染殿后は文徳天皇の皇后となり、後に清和天皇となる皇子も生んだが、非常に美しい女性であった。

天安2年(858年)8月に文徳天皇が突然に発病し4日目には32歳の若さで突然に崩御されると、まだ9歳だった皇子が即位して清和天皇となるのである。

しかし、政治は祖父となる藤原良房が実権を握り、幼い天皇は母の染殿后と15歳の元服まで一緒に暮らしていたようだ。

そんな生活の中で染殿后が「物の気」に取り憑かれて悩まされ、さまざまな祈祷や僧侶による修法を行ったが効果は現れなかった。

そんな折に、大和は金剛山に優れた法力を持つ僧がおり、鉢を飛ばして食べ物を集めたり、瓶を飛ばして水を汲んでこさせるなど、不思議な力を持った聖人だと言う。

それで、辞退する僧を勅命で呼び出し、加持の祈祷を行わせて染殿后の物の気を祓わせたのである。

すると染殿后から物の気が抜け出して、側の侍女に憑依して泣いたり喚いたり走り回ったりと大騒ぎをしたあげくに、懐から狐が飛び出して動けなくなったので、后には狐が憑いていて聖人によって無事に祓われたと言う事で収まりを見たのである。

娘を心配していた藤原良房も喜んで、聖人にしばらく逗留して様子を見てくれるように頼んだのであった。

こうして、しばらく逗留することになった聖人であったが、ある夜、后が単衣だけを着て眠っているのを風が几帳を吹き返した隙間からちらりと見えてしまったのだあった。

その后の美しくも艶かしい姿に聖人も心を奪われてしまい、胸を焼くような愛欲の情に捕らわれて、我慢できずに御簾の中に入り込んで寝ている后に抱きついてしまったのである。

染殿后も驚いて抵抗したが女の力では敵わずに聖人の思いのままにされてしまう。

しかし、側にいた女官達も大騒ぎしたので人が集まり、后の治療のために宮中で待機していた侍医の「当麻鴨継」(たいまのかもつぐ)も駆けつけてようやく聖人を取り押さえ、染殿后の息子である清和天皇に次第を報告することになる。

母が乱暴されたのである、天皇は烈火のごとく怒り、聖人を獄に繋がせた。

ところが聖人は獄に繋がれると

「私はすぐにも死んで鬼に化身し、この世に后がおられるうちに、望むままに后を抱いてやる」

そう泣きながら誓ったのだった。

この話が良房の耳に入ると、なにしろ法力の強い聖人の事であるから恐ろしくなり、天皇の怒りをなだめて、聖人を釈放して山に帰す事にしたのである。

山に戻った聖人は后を我が物と出来るように仏に祈ったが、もちろん叶う訳もなく、それならば獄舎で誓ったように鬼になろうと断食をして飢え死にして鬼と化身してしまった。

その姿は、裸身で頭髪もなく、肌は漆を塗ったように黒く、目は恐ろしく飛び出して、口は耳まで大きく裂けて鋭い歯が並び、牙が上下に生えており、腰には赤いふんどしをして槌を差していると言う恐ろしい物であった。

そして鬼となった聖人は宮中へと現れると、その恐ろしい姿で后の側にやってきたのである。

多くの側近や女官は恐ろしさに逃げたり震えたりしたが、染殿后は鬼の魔力に正気を奪われたのか心を狂わされてしまい、鬼を愛しい人のように仲睦まじくしているのである。

やがて日が暮れると鬼は去っていき、后は何事も無かったようにしている。

この事を聞いた天皇は驚き嘆いたがどうすることもできず、鬼は毎日やってきては后と睦まじく過ごすのだった。

そうこうするうちに、鬼がある人に取り憑いて

「前にわしのじゃまをした当麻鴨継に必ず恨みをはらしてやる」

そう言ったという話が伝わった。

それを聞いた鴨継は恐怖に怯えて死んでしまい、一族の子孫も狂い死んでいったと言う。

天皇と良房は相談して尊い僧を集めて祈祷させた。

すると、効果があったのかようやく鬼が来ないようになり、后の様子も平穏に戻ったようだった。

ようやく安心した天皇は久しぶりに母に会おうと思い、お供を連れて染殿后のもとに向い、母に会うとこれまでの出来事に対する思いを涙ながらに語りかけ、后も感じ入っている様子だった。

しかし、その時に再び鬼が現れて御簾の中に入ってきては、天皇や良房ほか大勢の人の前で鬼と后が仲睦まじくしたあげくに、皆の前で人目もはばからずに同衾したのである。

その浅ましい姿に天皇もなすすべもなく嘆きながら帰って行ったそうである。

今昔物語では、ここでこのような法師を簡単に近づけないように諭して締めくくっているので、その後がどうなったのか不明である。

それにしても出てくる人物は実在の天皇や皇后であり、しかも皇后に関しておぞましくさえある物語がよく伝えられたものである。

物の気うんぬんの話は心の病のような物だったのかも知れないし、鬼の話も実際にあった話とは思いにくい。

清和天皇は学問を好み、鷹狩りなど好まなかったと言われ、なかなか良い人物だったのかも知れなくて元慶4年(880年)に31歳で崩御されたと言う。

染殿后は、その後も生きていて昌泰3年(900年)に73歳で亡くなったそうであるから当時としては長生きだったと言えるのではないだろうか。