2018 04/13 04:23
Category : 日記
「安倍晴明」と言えば「陰陽師」の代名詞のように知られていて、人気があり有名である。
実在の人物で平安時代に活躍したとされているが各地に数々の伝説や史跡が残されており、虚実あわせて多くの伝承が伝わっているようだ。
京都市上京区堀川今出川から堀川通りを下がった辺りに「晴明神社」と言う安倍晴明を祀った神社があり、晴明の邸宅跡と言われているが実際の晴明の邸宅はもう少し東に行った「京都ブライトンホテル」の付近だそうである。
「晴明神社」は、安倍晴明の死後に一条天皇が晴明の邸宅跡に晴明の御霊を祀って創建したのが始まりだそうだが西陣に近いこともあり応仁の乱後は戦乱の影響で室町末期に現在地に移されたようだ。
その後は社殿は荒廃し晴明に関わる宝物や古文書も喪失したと言われており、明治に至っても荒廃が続いたが昭和になってから社殿が造営整備されて現在に至るが、近年になってからの安倍晴明人気で盛況となり女性を中心とした多くの参拝者が訪れている。
また境内には霊水が涌くと言われる「晴明井」があり難病に御利益があるとされている。
さて、安倍晴明と言えば「陰陽師」(おんみょうし)として知られ、陰陽師=晴明との印象が深い。
「陰陽道」は、自然界・人間界のあらゆる現象や出来事を陰と陽の二つの気の動きや、木・火・土・金・水の5つの要素の五行の変化で説明した古代中国で成立した自然哲学である「陰陽五行説」に起源を持つもので、この陰陽五行説の論理を用いて未来や自然の吉凶を占うのが「陰陽師」と言えるだろう。
簡単に言うと、陰陽師は占いを行うのが本職で、怪異や病気などの原因を占い、それに対する祓えや呪術を行い、災いを避ける祭祀を行ったり天文を占う専門家と言えると思う。
実際に、平安期には災いを避けるための「方違え」(かたたがえ)で方位を占ったり、病気の原因とされる病魔や悪霊を退けたりすることが多かったようだ。
当時においては精霊や御霊や鬼あるいは神など姿が見えないものの存在も信じられており、それらが世の中の出来事に影響を与えると信じられていた。
長雨や旱魃などの自然災害、あるいは疫病の流行や戦乱なども祟りや怒りや呪いのような物だとされ、占いによりそれらの原因や前兆を判断し、それらの原因を祭りや祓いによって取り除いたり、物忌みを指導したりするのが陰陽師の仕事だと言えるだろう。
大宝元年(701年)には文武天皇のもとに「大宝律令」の制定の中で中務省の中に「陰陽寮」が設けられ、官庁として陰陽道を体系化し陰陽師を国家の官僚として組織された。
こうして陰陽師は官僚として国家的な占いや祓えを行うのが本来であったが、その後は朝廷や貴族の個人的な物にまで幅が広くなり、また在野の陰陽道を極める者も現れて、民間の依頼を受ける陰陽師も生まれていったようだ。
ちなみに安倍晴明は天文博士が正式な役職となる。
さて、安倍晴明であるが、実在の人物とされながら多くの虚実に包まれた伝説が残されており、その多くは後世の創作であろうが、そういう多くの物語によって現在でも人気を博している。
没年が寛弘2年(1005)に85歳で亡くなったとされているので、そこから逆算して延喜21年(911年)に誕生したと言われている。
安倍晴明の誕生について、有名なのが「葛葉伝説」(くずのはでんせつ)である。
大阪の阿倍野区阿倍野元町には安倍晴明の誕生伝承の伝わる「安倍晴明神社」があり、境内には「安倍晴明誕生地」の石碑や「産湯井」の史跡、それに晴明の父である「安倍保名」(あべのやすな)を祀る「泰名稲荷神社」などがある。
村上天皇の御世の事だそうだ。
阿倍野の里に「阿倍仲麻呂」の血を引く「安倍保名」と言う若者がいた。
安倍家には仲麻呂が残したという天文道に関する秘伝の巻物とかも伝わっていたと言うが、陰陽家としては傾いていたようだ。
しかし、安倍保名は自分で陰陽道を極めて家を盛り返そうと思っていた。
そういう願望を持つ保名は、泉州の信田の森にある明神様に月参りをかかさずにいたのだった。
ある日も保名が信田の森の明神様にお参りに行くと、犬の吠え声と人の叫び声が聞こえてきたかと思うと二匹の狐が逃げ去って行き、さらに一匹の白い子狐が走り寄って来た。
狐狩りに追われてきたのだろう、子狐はもう疲れ果てて動けないのか保名の足元にうずくまってしまった。
保名も子狐が狩られるのは可哀相に思い、隠して匿ってやった。
すると数匹の犬を連れた武士達が狐を追ってやってきた。
武士達は安倍保名に狐を出すように迫ったが、保名はここは明神の境内で殺生禁断の場所だとして狐を庇ってやったのだった。
武士達は、悪虐な行いで付近の領民から嫌われている「石川悪衛門」を筆頭とした連中で、狐を守ろうとする保名との間で争いとなってしまう。
しかし、なにぶんにも多勢に無勢で保名はやがて捕らえられてしまう。
保名が斬られようとした時に、どこからか1人の老僧があらわれて武士達に明神の境内で殺生を止めるように諭し、保名を助けるように話した。
この老僧が石川悪衛門の知り合いの僧だったので、武士達もしぶしぶ保名を開放し、あきらめて帰って行ったのだった。
安倍保名が老僧に礼を言おうとすると、老僧は狐に姿を変えて保名に先ほどの礼を陳べて走り去っていった。
「狐の身でありながら先ほどの恩を忘れずに助けに来てくれたのか」
そう思って保名は感謝の気持を感じるていた。
安倍保名は、先ほどの争いでいくつか傷を受けていたのと咽喉も渇いていたので、谷川で水でも飲んで一息つこうと思った。
すると、谷川では1人の若い娘が桶で水を汲もうとしていた。
保名が見とれるくらいの美しい娘である。
娘は水を汲もうとして屈んだ拍子に、身体のバランスを崩して川に落ちそうになってしまった。
保名は思わず飛び出すと娘の身体を抱きとめて川に落ちるのを助けたのだった。
娘は保名に礼を陳べると保名の身体が傷ついているのに気が付き、近くに家があるのでどうか傷を治療をしていってほしいと頼み込んだのである。
保名も娘に心惹かれるものがあったので、言葉に甘えて娘の家に連れられていると手当てを受け、心のこもったもてなしを受けたのだった。
娘は「葛葉姫」と言う娘で世を忍んで1人で暮らしていると言う。
美しいだけでなく親切で気立てのいい娘だったので保名も好意をいだき、いつしか二人は愛し合い夫婦の契りを交わして一緒に暮らすようになったと言う。
二人の間には1人の男の子が生まれ、「安倍童子」と呼ばれて親子仲良く暮らしていった。
いつしか月日は流れて7年の歳月が過ぎて、安倍童子は利発な少年に育っていた。
季節は秋となり、保名は畑仕事に出かけており、葛葉姫は家で機織をしていたが、庭に咲いた菊の花から佳い香りが漂い、その香りに葛葉姫も手を留めてうっとりとしていた。
「あれ、恐ろしや」
不意に息子の安倍童子の悲鳴が聞こえて葛葉姫が我に帰ると自分の姿が白狐に変わっていた。
葛葉姫は菊の香りに酔いしれて狐の姿を我が子の前にさらしてしまった事を恥じ、座敷の襖に「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる、信田の森のうらみ葛の葉」と歌を残して何処かに姿を隠してしまった。
やがて保名が家に戻ると息子が泣いており妻は姿を消している。
息子に事情を聞くと妻は狐に姿を変えたと言い、襖には歌が残されていた。
安倍保名は童子を連れて歌にあった信田の森に出かけて行った、そこは妻と出合った場所でもあった。
すると妻の葛葉姫が姿を現し、夫と息子に語り出した。
「私はこの森に棲む白狐でございました、今から7年も前の事でございます、狐の両親と供に狐狩りで追われた折に、あなたに匿ってもらった子狐が私でございました、命を助けていただいた御恩を返したいと人の身に姿を変えてお側に仕えておりました。あなたと契りを交わし子供までもうけて幸せに暮らしておりましたが、ふと気を許してしまい我が子に白狐の本性を見られてしまいました、このような姿をさらしてしまったからにはもうお側に仕えることはかないません、どうか童子の事はよろしくお願いいたします」
そう言うと童子に「知恵の珠」を授けた後に白狐の姿に戻ると森の中に消えていった。
この安倍保名と白狐との子供である安倍童子が後の「安倍晴明」と成長するのである。
他にも異なる伝承もあるようだが、これが安倍晴明の誕生にまつわる葛葉伝説の大筋である、もちろん安倍晴明の神秘性を高めるために後世に創られた伝承であり、晴明の父の名が保名と言うのも創作と言われ、実際の晴明の父は大善太夫「安倍益材」との説がある。
その後の安倍晴明は、陰陽家である「賀茂忠行」(かものただゆき)に師事し陰陽道を習得したと言われている(一説には忠行の子息の保憲に師事したとも言われている)。
安倍晴明について記録や伝承に残されているのは、ほとんどが天徳4年(960年)の40歳を過ぎてからの出来事で、その前の少年期や青年期と言った若い頃の出来事が語られていない。
若い頃の逸話として伝えられているのは、晴明が賀茂忠行に師事し陰陽道の修行を積んでいた頃の話しである。
ある夜、晴明が忠行の伴をして牛車の後を歩いていると、恐ろしい形相の鬼どもが遠くからやってくるのが見えた。
俗に「百鬼夜行」と言われる鬼が集団で夜中に往来する行為である。
晴明は急いで牛車の中の忠行に伝え、忠行も牛車から出て前方を見ると確かに鬼どもが近づいてくるではないか。
このままでは危険だ。
そう思った忠行は隠形の術を使って皆の姿を隠し百鬼夜行から逃れたのである。
まだ若い晴明が鬼どもを見る事ができたのは、晴明の陰陽道に関する資質の高さを示す物である。
忠行は晴明の才能に感心すると伴に天賦の資質を愛し、陰陽道の総ての秘術を晴明に伝えたと言われている。
ちなみに、忠行の息子である「賀茂保憲」(かものやすのり)も晴明に劣らぬくらいの才能の持ち主で、陰陽道の天才であったそうである。
安倍晴明についての記録は、この後は先に書いたように天徳4年(960年)の40歳の折に「天文得業生」の身分での内裏の火災で焼失した霊剣の図を上申したと記録になる。
40歳で天文得業生という学生のような身分であるから、現実には若い頃は時運に恵まれなかったのかも知れないが、晴明の活躍を綴る記録はこれ以降のものとなるのである。
さて安倍晴明の記録とは別に、逸話や伝承が多く後世に物語として創作された物も数多く残されている。
そんな中で晴明の代表的な術として知られているのが「式神」を使う術である。
式神(職神とも書く)と言うのは詳しくは不明であるが、紙などを材料として人や鳥・虫・小動物などを象り、それに呪文を唱えたり息を吹き付けたりして霊を篭めて実体化させた物と言え呪詛のために使ったり使役したりして使われていたようだ。
また、生き物の他に精霊や魔物のような物も式神として召使のように使役したりもされたようで、術者の力量によって使える物や服従度も違ったと考えられ、高度の術者ほど高位の式神を仕えさせられたと言う。
晴明の邸宅では人も居ないのに蔀(しとみ、上げ戸のようなもの)が上下したり、門の錠がかってにかかったりしたと言うので邸宅の中でも式神を使役していたと思われる。
この式神を晴明の妻が恐れて何とかしてほしいと晴明に不満を陳べたために、晴明は仕方なく近くの一条戻り橋の下に式神を待機させ、必要のある時に呼び出したとの話も伝わっている。
晴明が式神を使って蛙を殺した話がある。
嵯峨野の広沢池に近い僧正の寛朝の所に招かれた晴明は、その場にいた公達や僧達から「式神を使うとその場で人も殺せるのか」と質問を受けた。
晴明は
「人を殺すにはかなりの呪力が必要で簡単にはいきません、小さな虫などなら簡単に殺すこともできますが無益な殺生になりますのでいたしません」
そう説明した。
その時に庭にいた蛙が池の方に向かっているのを1人の僧が見つけ、その蛙を式神を使って殺すようにせがんだのだった。
他の人達も同調して晴明にせがむので、晴明も仕方なくなってやることになった。
晴明は草の葉を摘んで手にとると呪文を唱えて蛙に向かって投げつけた。
すると草の葉は蛙の上に張り付くと、蛙を押し潰して殺してしまったのである。
安倍晴明の式神の威力を目の前にして、晴明の呪力に、その場にいた者達は顔色を変えて恐れおののいたと言う。
そんな安倍晴明のライバル的な位置で語られるのが「蘆屋道満」(あしやどうまん)である。
蘆屋道満は道満法師とも呼ばれて法力を持った法師陰陽師であり、陰陽寮に所属する公的な陰陽師ではなく、民間の陰陽師で播磨国(兵庫)を拠点としていたとされている。
蘆屋道満は、晴明と術比べで負けた方が勝った方の弟子となると賭けを行って、晴明に敗れて弟子となったとのお話も創られている。
安倍晴明と蘆屋道満との話ではこういう伝説も残されている。
左大臣の藤原道長が、自ら建立した法成寺に行こうとして愛犬を連れて外出し、寺門の所まで来ると急に連れていた愛犬が前を塞ぐように激しく吠えまわった。
道長が入ろうとしても直衣を咥えて門内に入らせないようにする。
普段は大人しい愛犬がこれほど邪魔するのは何か意味があるに違いない。
道長は不審に思って、急遽、馴染みの陰陽師であった安倍晴明を呼びつけたのだった。
晴明が急いで駈けつけると道長はこれまでの様子を説明し、なぜ愛犬がそういう行為にでたのか尋ねてみた。
晴明は話を聞いてから占いを行い、こう言った。
「これな何者かがあなたを呪詛する目的で厭物(いみもの)を埋めておいたのです、おそらく、あなたがここを通るのを知っていたのでしょう。犬には不思議な力がありますので危険を察知してあなたに知らせようとしたのでしょう」
道長が、その厭物がどこに埋められているのか聞くと、晴明は再び占ってある場所を示した。
その場所を掘らしてみると、土器を二つ重ね合わせて黄色い紙縒りで十文字に縛り付けた物が見つかり、中には何も入ってないが、土器の底に朱砂を用いて呪文が書かれていた。
晴明はそれを調べているうちに険しい顔となり
「これは本格的な呪詛の秘術で知る者はほとんどございません。私以外でこれほどの秘術を行えるのは道満法師(蘆屋道満)くらいのものでしょう。これから居場所を突き止めてみましょう」
そう言うと懐から紙を取り出して鳥の形に折り、呪文を唱えて空に飛ばすと紙で折られた鳥は本物の白鷺となって南をさして飛び去っていった。
晴明は部下の者に白鷺を追って降りた場所を知らせるように命じた。
部下の者が追っていくと六条坊門、万里小路の民家の中に白鷺が飛び込んだので、急いで晴明に知らせたのだった。
そこは、やはり蘆屋道満の家であった。
道満を捕らえさせて呪詛の件を詰問すると、道満は観念して堀川左大臣・藤原顕光からの依頼であったことを白状した。
顕光と道長は縁戚関係にあるものの確執のあるライバル関係にあり、道長を怨んでいて顕光の邸宅が法成寺に近かったために道長が法成寺に来るのを知っていたのだと言う。
こうして道長を狙った呪詛は阻止され、蘆屋道満は本国である播磨に送られたそうだ。
この伝説は事実としては矛盾もあるので、創られた伝説だと思われるが、呪術の様子や式神の術もよく現している物語だと思う。
他にも晴明にまつわる伝説は数多いが、それらは、また機会があれば書きたいと思う。
やがて、安倍晴明は数々の活躍を行った上で、寛弘2年(1005年)に85歳で没したとされている。
また晴明は土御門家の祖になったとも言われている。
安倍晴明の人気は後年になり高まって、物語や伝説が創られたり語られたりしていったのだろう。
また安倍晴明塚と呼ばれる史跡は全国に多く伝えられているが、京都にも幾つか建てられていたそうだ。
まず、東山区大和大路松原の現在の宮川町歌舞練場の付近にあったようだ。
この辺りは当時の五条橋、現在の松原橋を渡った鴨川の付近なのだが、当時の京都にとって大雨などによる河川の氾濫は深刻な課題だった。
その鴨川の氾濫を鎮めるために安倍晴明は「法城寺」と言う寺を建てたそうだ。
「法は水が去る、城は土が成る」の意味を持ち「法城寺」の名がついたそうだが、晴明の死後はその遺体がこのお寺に葬られたと言う。
ところが、後にこのお寺が廃寺となり、お寺が無くなって晴明の墓だけが残されて晴明塚と言われていたそうだ。
また、貞享3年(1686)に刊行の「雍州府志」には晴明塚の由緒を、鴨川の氾濫を鎮めるために陰陽師の安倍晴明が五条橋の東北に寺を建立し、晴明が死ぬとその寺の境内に埋葬され、のち塔婆が立てられ、その後、この地に法城寺という名の寺を建立したと記してある。
法城寺は、何度も鴨川の氾濫に見舞われたために、慶長12年(1607)に三条橋の東に移転して「心光寺」と言う浄土宗のお寺に改めたそうで、この時に晴明塚も移転したそうだが現在は晴明塚は残っていないそうだ。
他にも、元禄2年(1689年)に刊行の「京羽二重織留」や正徳元年(1711年)に刊行の「山州名跡志」にも鴨川東側の宮川町付近に晴明塚があったがいつの間にか無くなったと言う内容の記述がある。
文久2年(1862年)に刊行の「花洛名勝図会」には、宮川町の晴明塚が「晴明社」と呼ばれてお堂を構えて「晴(清)円寺」とされ阿弥陀仏を安置したとあるのだが、寛文年間に宮川町に新道を造成する折に取り壊され、その跡地に「晴明大明神」の祠を建てられて晴明社として再生したようだが、この祠も明治の廃仏毀釈によって取り壊され、本尊として祀られていた阿弥陀像と安倍晴明像は河原町六角松ヶ枝町の「長仙院」に移されたと言う。
もう一つ、やはり鴨川の近くに安倍晴明塚があったと言われている。
これは、現在の御所の東側、蘆山寺の南側付近の北之辺町にかつては「遣迎院」と言う寺院があり、その裏側に安倍晴明塚があったとの伝説があるが、この付近には市井の陰陽師の居住地があったとの話もある。
なお、遺迎院は天正年間に上京区の寺町広小路に移った後に昭和29年に鷹ヶ峯に移転され、元の地には祀堂が残されたが明治の廃仏毀釈の煽りで取り壊されたそうで、大正3年に南遺迎院として復されたそうだ。
また、現在の東山区の東福寺駅の付近で、かつては鳥辺山・今熊野・泉涌寺の辺りから小川が合流して伏見街道に至って鴨川に注ぐ「今熊野川」(一之橋川)が流れており、その「一之橋」と言う橋(本町十丁目と本町十一丁目に架かっていたと思われる)の西南に安倍晴明の別荘があったとの伝承もあると言う。
さて、現存する安倍晴明の史跡としては京都の観光地として知られる嵯峨野の地に「安倍晴明の墓」と言われる史跡が残されている。
嵐山の桂川に架かる「渡月橋」の北詰を東側に歩くと瀬戸川と言う小さな川があり「芹川橋」と言う橋が掛かっている。
その瀬戸川に沿って北に歩いて行くと「長慶天皇・嵯峨東陵」があるが、その手前(南側)の道を東に進むと「安倍晴明の墓」がある。
墓所の入り口には「陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所」と書かれて石碑が建てられている。
もともとは同じ嵯峨野にある「天竜寺」の塔頭である「寿寧院」の境内に置かれていたそうであるが、長く荒廃状態にあったために先に書いた「晴明神社」が墓所を買い取って昭和47年に新しく建て替えたそうである。
また、墓所の隣りには「角倉稲荷神社」が祀られており、ここでも安倍晴明と稲荷との関わりを感じてしまう。
安倍晴明の塚や墓所、それに住居と言われる伝説や伝承のある場所は川や橋に近いところが多いように思われる。
これは川の氾濫に対する治水を陰陽師が担う事が多かったからと供に、橋があちらとこちらを繋ぐ境界であり、異郷からの出入り口に当たる所から陰陽師などによる護りや監視が重要な意味を持っていたからではないだろうか。
また、各地に安倍晴明に所縁とされる史跡が多いのは、有名な陰陽師となった安倍晴明の名前を利用し、安倍晴明を祖と仰ぐ弟子を名乗る市井の陰陽師などが活躍していた事と関わりがあるのかもしれない。
今でも安倍晴明は陰陽師の代名詞的に人気が高くて有名で、小説や漫画などにも多く取り上げられ、映画なども作られている。
その影響か、かつては荒廃していたという安倍晴明の墓所にも多くの人が参拝しているようで、献花が絶えることはないようだ。
安倍晴明の伝説の締めくくりにもう一つの史跡がある。
安倍晴明の人気を示す石仏が西京区の洛西ニュータウンに近い洛西東緑地にある「竹林公園」に置かれている。
この竹林公園の一角に多くの石仏が置かれているのだが、これらの石仏は京都市内の地下鉄工事のための発掘調査で発見されたものだそうだ。
発掘調査されのは、織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城(今の二条城より東、二条新第とも言う)の跡であった。
信長は二条新第の石垣に多くの石仏を使い、都の人々に恐れられたとも伝えられているが、実際に発掘されたその石垣にも多くの石仏が使われていた事になる。
その中の一つに、「清明 ☆」という銘文が彫られている石仏があり「晴明石仏」と呼ばれているそうだ。
石仏群の中でガラスで囲われた石仏(かつて彩色されていたと言う)の隣りに置かれた石仏がその石仏である。
石仏の左腕の外側の部分に、刻まれた文字は見えずらくなっているが「清」の文字はうっすらと、そして「☆」の形は割とはっきりお見る事ができる。
「清明」は「晴明」のあて字であり、☆のマークは、晴明のシンボルである五芒星である。
石仏はおそらく鎌倉時代後期の物で、文字が彫られたのは室町時代と推測されているようだ。
陰陽師の安倍晴明と石仏の組み合わせは不思議ではあるが、安倍晴明が信仰の対象になっていた事と伴に、石仏に望む祈りを晴明の名と印によって増幅し、より強い力にさせようとしたのかも知れない。
このように陰陽師・安倍晴明は多くの信仰と高い人気を持ち、それは現在でも変わらずに続いているのは、実在の人物である事と陰陽師としての神秘性と呪術の力による信仰によるのかも知れない。
実在の人物で平安時代に活躍したとされているが各地に数々の伝説や史跡が残されており、虚実あわせて多くの伝承が伝わっているようだ。
京都市上京区堀川今出川から堀川通りを下がった辺りに「晴明神社」と言う安倍晴明を祀った神社があり、晴明の邸宅跡と言われているが実際の晴明の邸宅はもう少し東に行った「京都ブライトンホテル」の付近だそうである。
「晴明神社」は、安倍晴明の死後に一条天皇が晴明の邸宅跡に晴明の御霊を祀って創建したのが始まりだそうだが西陣に近いこともあり応仁の乱後は戦乱の影響で室町末期に現在地に移されたようだ。
その後は社殿は荒廃し晴明に関わる宝物や古文書も喪失したと言われており、明治に至っても荒廃が続いたが昭和になってから社殿が造営整備されて現在に至るが、近年になってからの安倍晴明人気で盛況となり女性を中心とした多くの参拝者が訪れている。
また境内には霊水が涌くと言われる「晴明井」があり難病に御利益があるとされている。
さて、安倍晴明と言えば「陰陽師」(おんみょうし)として知られ、陰陽師=晴明との印象が深い。
「陰陽道」は、自然界・人間界のあらゆる現象や出来事を陰と陽の二つの気の動きや、木・火・土・金・水の5つの要素の五行の変化で説明した古代中国で成立した自然哲学である「陰陽五行説」に起源を持つもので、この陰陽五行説の論理を用いて未来や自然の吉凶を占うのが「陰陽師」と言えるだろう。
簡単に言うと、陰陽師は占いを行うのが本職で、怪異や病気などの原因を占い、それに対する祓えや呪術を行い、災いを避ける祭祀を行ったり天文を占う専門家と言えると思う。
実際に、平安期には災いを避けるための「方違え」(かたたがえ)で方位を占ったり、病気の原因とされる病魔や悪霊を退けたりすることが多かったようだ。
当時においては精霊や御霊や鬼あるいは神など姿が見えないものの存在も信じられており、それらが世の中の出来事に影響を与えると信じられていた。
長雨や旱魃などの自然災害、あるいは疫病の流行や戦乱なども祟りや怒りや呪いのような物だとされ、占いによりそれらの原因や前兆を判断し、それらの原因を祭りや祓いによって取り除いたり、物忌みを指導したりするのが陰陽師の仕事だと言えるだろう。
大宝元年(701年)には文武天皇のもとに「大宝律令」の制定の中で中務省の中に「陰陽寮」が設けられ、官庁として陰陽道を体系化し陰陽師を国家の官僚として組織された。
こうして陰陽師は官僚として国家的な占いや祓えを行うのが本来であったが、その後は朝廷や貴族の個人的な物にまで幅が広くなり、また在野の陰陽道を極める者も現れて、民間の依頼を受ける陰陽師も生まれていったようだ。
ちなみに安倍晴明は天文博士が正式な役職となる。
さて、安倍晴明であるが、実在の人物とされながら多くの虚実に包まれた伝説が残されており、その多くは後世の創作であろうが、そういう多くの物語によって現在でも人気を博している。
没年が寛弘2年(1005)に85歳で亡くなったとされているので、そこから逆算して延喜21年(911年)に誕生したと言われている。
安倍晴明の誕生について、有名なのが「葛葉伝説」(くずのはでんせつ)である。
大阪の阿倍野区阿倍野元町には安倍晴明の誕生伝承の伝わる「安倍晴明神社」があり、境内には「安倍晴明誕生地」の石碑や「産湯井」の史跡、それに晴明の父である「安倍保名」(あべのやすな)を祀る「泰名稲荷神社」などがある。
村上天皇の御世の事だそうだ。
阿倍野の里に「阿倍仲麻呂」の血を引く「安倍保名」と言う若者がいた。
安倍家には仲麻呂が残したという天文道に関する秘伝の巻物とかも伝わっていたと言うが、陰陽家としては傾いていたようだ。
しかし、安倍保名は自分で陰陽道を極めて家を盛り返そうと思っていた。
そういう願望を持つ保名は、泉州の信田の森にある明神様に月参りをかかさずにいたのだった。
ある日も保名が信田の森の明神様にお参りに行くと、犬の吠え声と人の叫び声が聞こえてきたかと思うと二匹の狐が逃げ去って行き、さらに一匹の白い子狐が走り寄って来た。
狐狩りに追われてきたのだろう、子狐はもう疲れ果てて動けないのか保名の足元にうずくまってしまった。
保名も子狐が狩られるのは可哀相に思い、隠して匿ってやった。
すると数匹の犬を連れた武士達が狐を追ってやってきた。
武士達は安倍保名に狐を出すように迫ったが、保名はここは明神の境内で殺生禁断の場所だとして狐を庇ってやったのだった。
武士達は、悪虐な行いで付近の領民から嫌われている「石川悪衛門」を筆頭とした連中で、狐を守ろうとする保名との間で争いとなってしまう。
しかし、なにぶんにも多勢に無勢で保名はやがて捕らえられてしまう。
保名が斬られようとした時に、どこからか1人の老僧があらわれて武士達に明神の境内で殺生を止めるように諭し、保名を助けるように話した。
この老僧が石川悪衛門の知り合いの僧だったので、武士達もしぶしぶ保名を開放し、あきらめて帰って行ったのだった。
安倍保名が老僧に礼を言おうとすると、老僧は狐に姿を変えて保名に先ほどの礼を陳べて走り去っていった。
「狐の身でありながら先ほどの恩を忘れずに助けに来てくれたのか」
そう思って保名は感謝の気持を感じるていた。
安倍保名は、先ほどの争いでいくつか傷を受けていたのと咽喉も渇いていたので、谷川で水でも飲んで一息つこうと思った。
すると、谷川では1人の若い娘が桶で水を汲もうとしていた。
保名が見とれるくらいの美しい娘である。
娘は水を汲もうとして屈んだ拍子に、身体のバランスを崩して川に落ちそうになってしまった。
保名は思わず飛び出すと娘の身体を抱きとめて川に落ちるのを助けたのだった。
娘は保名に礼を陳べると保名の身体が傷ついているのに気が付き、近くに家があるのでどうか傷を治療をしていってほしいと頼み込んだのである。
保名も娘に心惹かれるものがあったので、言葉に甘えて娘の家に連れられていると手当てを受け、心のこもったもてなしを受けたのだった。
娘は「葛葉姫」と言う娘で世を忍んで1人で暮らしていると言う。
美しいだけでなく親切で気立てのいい娘だったので保名も好意をいだき、いつしか二人は愛し合い夫婦の契りを交わして一緒に暮らすようになったと言う。
二人の間には1人の男の子が生まれ、「安倍童子」と呼ばれて親子仲良く暮らしていった。
いつしか月日は流れて7年の歳月が過ぎて、安倍童子は利発な少年に育っていた。
季節は秋となり、保名は畑仕事に出かけており、葛葉姫は家で機織をしていたが、庭に咲いた菊の花から佳い香りが漂い、その香りに葛葉姫も手を留めてうっとりとしていた。
「あれ、恐ろしや」
不意に息子の安倍童子の悲鳴が聞こえて葛葉姫が我に帰ると自分の姿が白狐に変わっていた。
葛葉姫は菊の香りに酔いしれて狐の姿を我が子の前にさらしてしまった事を恥じ、座敷の襖に「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる、信田の森のうらみ葛の葉」と歌を残して何処かに姿を隠してしまった。
やがて保名が家に戻ると息子が泣いており妻は姿を消している。
息子に事情を聞くと妻は狐に姿を変えたと言い、襖には歌が残されていた。
安倍保名は童子を連れて歌にあった信田の森に出かけて行った、そこは妻と出合った場所でもあった。
すると妻の葛葉姫が姿を現し、夫と息子に語り出した。
「私はこの森に棲む白狐でございました、今から7年も前の事でございます、狐の両親と供に狐狩りで追われた折に、あなたに匿ってもらった子狐が私でございました、命を助けていただいた御恩を返したいと人の身に姿を変えてお側に仕えておりました。あなたと契りを交わし子供までもうけて幸せに暮らしておりましたが、ふと気を許してしまい我が子に白狐の本性を見られてしまいました、このような姿をさらしてしまったからにはもうお側に仕えることはかないません、どうか童子の事はよろしくお願いいたします」
そう言うと童子に「知恵の珠」を授けた後に白狐の姿に戻ると森の中に消えていった。
この安倍保名と白狐との子供である安倍童子が後の「安倍晴明」と成長するのである。
他にも異なる伝承もあるようだが、これが安倍晴明の誕生にまつわる葛葉伝説の大筋である、もちろん安倍晴明の神秘性を高めるために後世に創られた伝承であり、晴明の父の名が保名と言うのも創作と言われ、実際の晴明の父は大善太夫「安倍益材」との説がある。
その後の安倍晴明は、陰陽家である「賀茂忠行」(かものただゆき)に師事し陰陽道を習得したと言われている(一説には忠行の子息の保憲に師事したとも言われている)。
安倍晴明について記録や伝承に残されているのは、ほとんどが天徳4年(960年)の40歳を過ぎてからの出来事で、その前の少年期や青年期と言った若い頃の出来事が語られていない。
若い頃の逸話として伝えられているのは、晴明が賀茂忠行に師事し陰陽道の修行を積んでいた頃の話しである。
ある夜、晴明が忠行の伴をして牛車の後を歩いていると、恐ろしい形相の鬼どもが遠くからやってくるのが見えた。
俗に「百鬼夜行」と言われる鬼が集団で夜中に往来する行為である。
晴明は急いで牛車の中の忠行に伝え、忠行も牛車から出て前方を見ると確かに鬼どもが近づいてくるではないか。
このままでは危険だ。
そう思った忠行は隠形の術を使って皆の姿を隠し百鬼夜行から逃れたのである。
まだ若い晴明が鬼どもを見る事ができたのは、晴明の陰陽道に関する資質の高さを示す物である。
忠行は晴明の才能に感心すると伴に天賦の資質を愛し、陰陽道の総ての秘術を晴明に伝えたと言われている。
ちなみに、忠行の息子である「賀茂保憲」(かものやすのり)も晴明に劣らぬくらいの才能の持ち主で、陰陽道の天才であったそうである。
安倍晴明についての記録は、この後は先に書いたように天徳4年(960年)の40歳の折に「天文得業生」の身分での内裏の火災で焼失した霊剣の図を上申したと記録になる。
40歳で天文得業生という学生のような身分であるから、現実には若い頃は時運に恵まれなかったのかも知れないが、晴明の活躍を綴る記録はこれ以降のものとなるのである。
さて安倍晴明の記録とは別に、逸話や伝承が多く後世に物語として創作された物も数多く残されている。
そんな中で晴明の代表的な術として知られているのが「式神」を使う術である。
式神(職神とも書く)と言うのは詳しくは不明であるが、紙などを材料として人や鳥・虫・小動物などを象り、それに呪文を唱えたり息を吹き付けたりして霊を篭めて実体化させた物と言え呪詛のために使ったり使役したりして使われていたようだ。
また、生き物の他に精霊や魔物のような物も式神として召使のように使役したりもされたようで、術者の力量によって使える物や服従度も違ったと考えられ、高度の術者ほど高位の式神を仕えさせられたと言う。
晴明の邸宅では人も居ないのに蔀(しとみ、上げ戸のようなもの)が上下したり、門の錠がかってにかかったりしたと言うので邸宅の中でも式神を使役していたと思われる。
この式神を晴明の妻が恐れて何とかしてほしいと晴明に不満を陳べたために、晴明は仕方なく近くの一条戻り橋の下に式神を待機させ、必要のある時に呼び出したとの話も伝わっている。
晴明が式神を使って蛙を殺した話がある。
嵯峨野の広沢池に近い僧正の寛朝の所に招かれた晴明は、その場にいた公達や僧達から「式神を使うとその場で人も殺せるのか」と質問を受けた。
晴明は
「人を殺すにはかなりの呪力が必要で簡単にはいきません、小さな虫などなら簡単に殺すこともできますが無益な殺生になりますのでいたしません」
そう説明した。
その時に庭にいた蛙が池の方に向かっているのを1人の僧が見つけ、その蛙を式神を使って殺すようにせがんだのだった。
他の人達も同調して晴明にせがむので、晴明も仕方なくなってやることになった。
晴明は草の葉を摘んで手にとると呪文を唱えて蛙に向かって投げつけた。
すると草の葉は蛙の上に張り付くと、蛙を押し潰して殺してしまったのである。
安倍晴明の式神の威力を目の前にして、晴明の呪力に、その場にいた者達は顔色を変えて恐れおののいたと言う。
そんな安倍晴明のライバル的な位置で語られるのが「蘆屋道満」(あしやどうまん)である。
蘆屋道満は道満法師とも呼ばれて法力を持った法師陰陽師であり、陰陽寮に所属する公的な陰陽師ではなく、民間の陰陽師で播磨国(兵庫)を拠点としていたとされている。
蘆屋道満は、晴明と術比べで負けた方が勝った方の弟子となると賭けを行って、晴明に敗れて弟子となったとのお話も創られている。
安倍晴明と蘆屋道満との話ではこういう伝説も残されている。
左大臣の藤原道長が、自ら建立した法成寺に行こうとして愛犬を連れて外出し、寺門の所まで来ると急に連れていた愛犬が前を塞ぐように激しく吠えまわった。
道長が入ろうとしても直衣を咥えて門内に入らせないようにする。
普段は大人しい愛犬がこれほど邪魔するのは何か意味があるに違いない。
道長は不審に思って、急遽、馴染みの陰陽師であった安倍晴明を呼びつけたのだった。
晴明が急いで駈けつけると道長はこれまでの様子を説明し、なぜ愛犬がそういう行為にでたのか尋ねてみた。
晴明は話を聞いてから占いを行い、こう言った。
「これな何者かがあなたを呪詛する目的で厭物(いみもの)を埋めておいたのです、おそらく、あなたがここを通るのを知っていたのでしょう。犬には不思議な力がありますので危険を察知してあなたに知らせようとしたのでしょう」
道長が、その厭物がどこに埋められているのか聞くと、晴明は再び占ってある場所を示した。
その場所を掘らしてみると、土器を二つ重ね合わせて黄色い紙縒りで十文字に縛り付けた物が見つかり、中には何も入ってないが、土器の底に朱砂を用いて呪文が書かれていた。
晴明はそれを調べているうちに険しい顔となり
「これは本格的な呪詛の秘術で知る者はほとんどございません。私以外でこれほどの秘術を行えるのは道満法師(蘆屋道満)くらいのものでしょう。これから居場所を突き止めてみましょう」
そう言うと懐から紙を取り出して鳥の形に折り、呪文を唱えて空に飛ばすと紙で折られた鳥は本物の白鷺となって南をさして飛び去っていった。
晴明は部下の者に白鷺を追って降りた場所を知らせるように命じた。
部下の者が追っていくと六条坊門、万里小路の民家の中に白鷺が飛び込んだので、急いで晴明に知らせたのだった。
そこは、やはり蘆屋道満の家であった。
道満を捕らえさせて呪詛の件を詰問すると、道満は観念して堀川左大臣・藤原顕光からの依頼であったことを白状した。
顕光と道長は縁戚関係にあるものの確執のあるライバル関係にあり、道長を怨んでいて顕光の邸宅が法成寺に近かったために道長が法成寺に来るのを知っていたのだと言う。
こうして道長を狙った呪詛は阻止され、蘆屋道満は本国である播磨に送られたそうだ。
この伝説は事実としては矛盾もあるので、創られた伝説だと思われるが、呪術の様子や式神の術もよく現している物語だと思う。
他にも晴明にまつわる伝説は数多いが、それらは、また機会があれば書きたいと思う。
やがて、安倍晴明は数々の活躍を行った上で、寛弘2年(1005年)に85歳で没したとされている。
また晴明は土御門家の祖になったとも言われている。
安倍晴明の人気は後年になり高まって、物語や伝説が創られたり語られたりしていったのだろう。
また安倍晴明塚と呼ばれる史跡は全国に多く伝えられているが、京都にも幾つか建てられていたそうだ。
まず、東山区大和大路松原の現在の宮川町歌舞練場の付近にあったようだ。
この辺りは当時の五条橋、現在の松原橋を渡った鴨川の付近なのだが、当時の京都にとって大雨などによる河川の氾濫は深刻な課題だった。
その鴨川の氾濫を鎮めるために安倍晴明は「法城寺」と言う寺を建てたそうだ。
「法は水が去る、城は土が成る」の意味を持ち「法城寺」の名がついたそうだが、晴明の死後はその遺体がこのお寺に葬られたと言う。
ところが、後にこのお寺が廃寺となり、お寺が無くなって晴明の墓だけが残されて晴明塚と言われていたそうだ。
また、貞享3年(1686)に刊行の「雍州府志」には晴明塚の由緒を、鴨川の氾濫を鎮めるために陰陽師の安倍晴明が五条橋の東北に寺を建立し、晴明が死ぬとその寺の境内に埋葬され、のち塔婆が立てられ、その後、この地に法城寺という名の寺を建立したと記してある。
法城寺は、何度も鴨川の氾濫に見舞われたために、慶長12年(1607)に三条橋の東に移転して「心光寺」と言う浄土宗のお寺に改めたそうで、この時に晴明塚も移転したそうだが現在は晴明塚は残っていないそうだ。
他にも、元禄2年(1689年)に刊行の「京羽二重織留」や正徳元年(1711年)に刊行の「山州名跡志」にも鴨川東側の宮川町付近に晴明塚があったがいつの間にか無くなったと言う内容の記述がある。
文久2年(1862年)に刊行の「花洛名勝図会」には、宮川町の晴明塚が「晴明社」と呼ばれてお堂を構えて「晴(清)円寺」とされ阿弥陀仏を安置したとあるのだが、寛文年間に宮川町に新道を造成する折に取り壊され、その跡地に「晴明大明神」の祠を建てられて晴明社として再生したようだが、この祠も明治の廃仏毀釈によって取り壊され、本尊として祀られていた阿弥陀像と安倍晴明像は河原町六角松ヶ枝町の「長仙院」に移されたと言う。
もう一つ、やはり鴨川の近くに安倍晴明塚があったと言われている。
これは、現在の御所の東側、蘆山寺の南側付近の北之辺町にかつては「遣迎院」と言う寺院があり、その裏側に安倍晴明塚があったとの伝説があるが、この付近には市井の陰陽師の居住地があったとの話もある。
なお、遺迎院は天正年間に上京区の寺町広小路に移った後に昭和29年に鷹ヶ峯に移転され、元の地には祀堂が残されたが明治の廃仏毀釈の煽りで取り壊されたそうで、大正3年に南遺迎院として復されたそうだ。
また、現在の東山区の東福寺駅の付近で、かつては鳥辺山・今熊野・泉涌寺の辺りから小川が合流して伏見街道に至って鴨川に注ぐ「今熊野川」(一之橋川)が流れており、その「一之橋」と言う橋(本町十丁目と本町十一丁目に架かっていたと思われる)の西南に安倍晴明の別荘があったとの伝承もあると言う。
さて、現存する安倍晴明の史跡としては京都の観光地として知られる嵯峨野の地に「安倍晴明の墓」と言われる史跡が残されている。
嵐山の桂川に架かる「渡月橋」の北詰を東側に歩くと瀬戸川と言う小さな川があり「芹川橋」と言う橋が掛かっている。
その瀬戸川に沿って北に歩いて行くと「長慶天皇・嵯峨東陵」があるが、その手前(南側)の道を東に進むと「安倍晴明の墓」がある。
墓所の入り口には「陰陽博士安倍晴明公嵯峨御墓所」と書かれて石碑が建てられている。
もともとは同じ嵯峨野にある「天竜寺」の塔頭である「寿寧院」の境内に置かれていたそうであるが、長く荒廃状態にあったために先に書いた「晴明神社」が墓所を買い取って昭和47年に新しく建て替えたそうである。
また、墓所の隣りには「角倉稲荷神社」が祀られており、ここでも安倍晴明と稲荷との関わりを感じてしまう。
安倍晴明の塚や墓所、それに住居と言われる伝説や伝承のある場所は川や橋に近いところが多いように思われる。
これは川の氾濫に対する治水を陰陽師が担う事が多かったからと供に、橋があちらとこちらを繋ぐ境界であり、異郷からの出入り口に当たる所から陰陽師などによる護りや監視が重要な意味を持っていたからではないだろうか。
また、各地に安倍晴明に所縁とされる史跡が多いのは、有名な陰陽師となった安倍晴明の名前を利用し、安倍晴明を祖と仰ぐ弟子を名乗る市井の陰陽師などが活躍していた事と関わりがあるのかもしれない。
今でも安倍晴明は陰陽師の代名詞的に人気が高くて有名で、小説や漫画などにも多く取り上げられ、映画なども作られている。
その影響か、かつては荒廃していたという安倍晴明の墓所にも多くの人が参拝しているようで、献花が絶えることはないようだ。
安倍晴明の伝説の締めくくりにもう一つの史跡がある。
安倍晴明の人気を示す石仏が西京区の洛西ニュータウンに近い洛西東緑地にある「竹林公園」に置かれている。
この竹林公園の一角に多くの石仏が置かれているのだが、これらの石仏は京都市内の地下鉄工事のための発掘調査で発見されたものだそうだ。
発掘調査されのは、織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城(今の二条城より東、二条新第とも言う)の跡であった。
信長は二条新第の石垣に多くの石仏を使い、都の人々に恐れられたとも伝えられているが、実際に発掘されたその石垣にも多くの石仏が使われていた事になる。
その中の一つに、「清明 ☆」という銘文が彫られている石仏があり「晴明石仏」と呼ばれているそうだ。
石仏群の中でガラスで囲われた石仏(かつて彩色されていたと言う)の隣りに置かれた石仏がその石仏である。
石仏の左腕の外側の部分に、刻まれた文字は見えずらくなっているが「清」の文字はうっすらと、そして「☆」の形は割とはっきりお見る事ができる。
「清明」は「晴明」のあて字であり、☆のマークは、晴明のシンボルである五芒星である。
石仏はおそらく鎌倉時代後期の物で、文字が彫られたのは室町時代と推測されているようだ。
陰陽師の安倍晴明と石仏の組み合わせは不思議ではあるが、安倍晴明が信仰の対象になっていた事と伴に、石仏に望む祈りを晴明の名と印によって増幅し、より強い力にさせようとしたのかも知れない。
このように陰陽師・安倍晴明は多くの信仰と高い人気を持ち、それは現在でも変わらずに続いているのは、実在の人物である事と陰陽師としての神秘性と呪術の力による信仰によるのかも知れない。