届きました、新聞!
 随想欄に、敬愛大学助教授・水口章氏が、建前と本音のバランスと題して。。。

 先日、大学の授業で小泉首相の北朝鮮訪問について学生たちが討論した。その中、北朝鮮入国経験者の留学生が「現体制下では、拉致被害者も体制維持のために働かざるを得ないだろう。なぜならば治安や情報機関などの事情を知る彼らが自由になるのは難しいだろう」と現実を突いた。その瞬間、日本人学生の間に動揺が走り、「拉致は国家への侵略行為だ。日本政府は強く抗議し、原状回復を要求すべきだ」といわゆる正論で応える声は沈んでいた。

 とかく、公式・建前論で議論が進みがちな日本社会で、建前と本音、公式と非公式等の二重性を各『個人』が多様なバランスで使い分けている現実を、学生たちが知る良い機会であった。

 今回のイラクでの日本人報道者殺害事件、サウジのアルホバルでの外国人襲撃事件のニュースを芽にした時、この授業が頭に浮かんだ。「人が人をころしてはいけない」という倫理観は建前論なのだろうか。世界的に個人の価値が多様化している中、『主観的価値基準』で他者の命を奪うことが容易になっているのではないか。宗教が公式に殺人を禁止していても、個人の勝手で『聖域』を掲げることにより特定の殺人に正当性が与えられる状況だとも言える。

 以前訪れたパレスチナ難民キャンプの幼い子供の瞳は澄んでおり、まだ『憎しみの炎』は兆していなかった。中東和平問題で激論を交わしたアラブ報道者とは『人間愛』の必要性で共感しあった。彼らには『人間として』尊重し合える思いを感じた。しかし、建前と本音の間で社会との調整を図ってきた知恵と忍耐がグローバル化の中で薄れつつあるのだろうか。他者への配慮もなく、手前勝手だけをぶつける人が増えていると感じるのは私だけだろうか。

 と、結んでいました。他者への配慮。。。思って思い過ぎるということはないと思います。。。

 雨の日の傘の扱いにもこうしたことが出るのですよね。遊びに来てくださるmokkoさんのサイトでも、触れられていましたが、傘の先って、凶器にもなるのですよね。気をつけなければと思います。凶器は、物ばかりとは限らず、言葉にも鋭く突き刺さるものがあったりするのですよね。。。