小和田哲男著「山本勘助 〝義〟を貫いぬいた策士」
 小和田哲男著「山本勘助 〝義〟を貫いぬいた策士」。NHK教育テキスト「戦国名軍師列伝」の第2話。

 『甲陽軍鑑』の資料性について、成立過程と評価を紹介。国語学者の酒井憲二氏による「成立のいきさつ」(119p)がひとつの考え方で、「原本の部分」と「加筆の部分」を「ふりわけていく作業が必要」とする(120p)。

 なぞめいている勘助の出自。生国は駿河国、本国は三河と考える(122p)、
 
 釧路市で発見された「市河文書」の、「山本菅助」記載文書を読んでいる。文書に記載のある「市河藤若」なる人物への理解があるので、藤若が信玄に与するかいなかの境目にあるとき、勘助が単に書状の運び役ではなく「自分たちの作戦を話し、味方となるよう説得する大事な役目」(129p)と解する。

 勘助の「参謀型軍師」の、「イメージ化を決定づけているのが、永禄四年(1561)九月十日の川中島の戦い」とする(134p)。信玄・謙信間の4回目の戦いにして、世にいう「啄木鳥の戦法」の進言であるという。

 勘助が「これまでふれた軍使ではなく、軍配者でもなく、また築城名人としてでもなく、信玄に作戦を進言する参謀型の軍師がイメージされ」、有名になったのだとする(前頁)。