「苧足糸 ヲタ・エト」の地名を聴くも ぶぶる釧路街歩き2nd-続-220922
対岸に「苧足糸 ヲタ・エト」の地名を聴くも “石炭・鉄道の地”から“海洋・汽船の地”を ぶぶる釧路街歩き2nd-続-220922

「原田さんの作品に<オタエト>の地名があって・・・・」。
2022年9月22日午前、釧路川右岸の岸壁を歩きながら、ご参加のお一人から提案が。
念頭に浮かんだのが掲載の銅版画画像。『北海立志図録』という書に掲載の絵柄。

釧路港の修築で姿を消したのである、が。
釧路川左岸にシッカリと<舌状>の砂州が発達していた時代がありまして。
その砂州が由来となって、アイヌ民族の言葉に語源をもつ「ヲタ・エト=ota・etu 砂浜・岬」、もしくは「沙の・岬」が命名されてきましたです、よ。

その砂州の付け根には、釧路川にとって明治期の新時代、その到来を意味する著名な施設が設けられます。
「硫黄山安田事務所釧路出張所」。『北海立志図録』の図柄タイトルにある施設です。
川湯・硫黄山で採掘した硫黄原石を標茶の精錬所で製品化します。釧路川を下る川舟で到着したのが、画像の位置。現在の釧路シーサイドホテルの先にあった砂州の付け根です。

砂州の地形は明治41年から始まる釧路港の修築工事で消えました。
河口に防波堤を建設し、釧路川下流部の水深を確保するため浚渫=川底の掘り返しと土砂の除去をおこなったためです。
佐々木米太郎翁は昭和7年8月、その「ヲタ・エト=ota・etu 砂浜・岬」の地を「入舟」と呼ぶことにしました。

正確には「ヲタ・エト=ota・etu 砂浜・岬」を「苧足糸」と書き、読んでいました。
そこに、次の命名理由を書き加えています。注目しましょう。
「旧名入舟町の一部及苧足糸の一部に属し大半は明治34年の埋立地である釧路川左岸内港部」。