奥州征伐で散った同朋追善 国指定史跡永福寺跡220524-後-
 奥州征伐で散った同朋追善 国指定史跡永福寺跡220524-後-

 永福寺は「応永12年(1405)に焼失し、以後は再建され」ず、とある。
 現代の遺構発掘調査で「二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂」の基礎を確認。
 湘南工科大学のCG図でその偉容が復元された(写真)。当時の旅日記に記載。

 史跡整備のポイント
 1)遺構の東南隅に境界表示の掲示が据えられていた。
 2)前庭の池はその一部が埋められており、見取り図で「本来の池の範囲」を図示。縁辺は30センチ土盛りして保存した。
 3)発掘調査で確認できた遺構の上に60センチの暑さで土盛り。その上に柱の礎石を排して「二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂」を表示。上屋はコンピューター・グラフィックで全容を示す。
 4)整備地の西。標高60.2メートルの地点に展望設備を設けているようで、階段が配されていた(登山・ 登攀=とうはん)して、整備地を鳥瞰=鳥の目のように見下ろすことは試みなかった。

 「その姿形は極楽の様子をそのまま表したようだ」とあるそうで。

 写真撮影中、連れ合いは見学グループの昼食時に参加者から話を聴いた。
 「鎌倉市民ではない」「近隣から来たが、調べているのみではダメ」「現地を歩いてみなくてわ」。そう語っていたそうで。
 一行は17名、持参の弁当を取り出して、ベンチに腰をおろし昼食を始めたようで。

 域内及びその周辺の居住者が、何度目かの訪問。そのつど「新しい発見と気づき」があるそうで。
 我々、テレビ大河テレビの影響をうけ、物見遊山で訪問の「観光客」とは別な角度で見学。参加者の説明も、「胴に入っていた」。話を聞いてきたヒトの報告。