東国政権正当性の再構築か 江戸中期筆『源平合戦図屏風(一ノ谷)』220524
東国政権正当性の再構築か 江戸中期筆『源平合戦図屏風(一ノ谷)』220524

 「北条氏展vol.2ー 鎌倉武士の時代ー」。鎌倉市内で開催中の企画展示。
 鶴岡八幡宮に参拝した足で、鎌倉国宝館を訪問。三回目の入館と言うことになる。
 最初に展観は『源平合戦図屏風(一ノ谷)』と記憶する。作品の概要は以下の説明なのだが・・・・・・・。

 「六曲一双」の「半双」が公開されていた。狩野吉信筆、17世紀の作品とある。
 『源平合戦図屏風』は「室町時代から江戸時代に至るまで多く制作」との説明があるも。
 江戸幕府の成立後の17世紀、幕府御用絵師の狩野家の作品となれば。自ずと一つの意味がうまれよう。

 そもそも家康は「源氏」を名乗る。ほかには「平」「橘」「藤」の氏を名乗る道があった、が。
 三河に発した政権が、織田・豊臣の例にならわず、江戸に開府した。
 その根拠を源氏・北条氏政権にもとめ、東国を基盤に「征夷大将軍」の称号を得る正当性にしたのでは。

 研究者は苦笑するかも。
 1)島津重豪による頼朝公墓碑再建、
 2)幕府御用絵師による『源平合戦図屏風』の完成、
 3)鶴岡八幡宮を(鎌倉版)表鬼門の比叡山、長谷を石清水八幡宮にならう(同)裏鬼門。
 →上野・寛永寺(江戸版)表鬼門、芝・増上寺(同)裏鬼門。
 家康は鎌倉を超える規模の東京湾を表玄関に江戸に開府、頼朝は当時、中郷貿易船の周回地・鎌倉の海を基盤に

(作品説明)=「ぶんか
 源平合戦図屏風(一の谷・屋島合戦図 げんぺいかっせんずびょうぶ いちのたに・やしまかっせんず)

 作品概要 源平合戦図屏風(一の谷・屋島合戦図)=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401461
 狩野吉信 よしのぶ 江戸時代、17世紀 紙本金地著色 6曲1双
 解説
 源氏と平氏が戦った、寿永3年(1184)の生田森・一の谷合戦、翌年の屋島合戦について、『平家物語』に語られる武勇伝やエピソードをもとに俯瞰的に描きます。

 一の谷合戦図では、画面右側に生田の森、中央に平氏が一の谷に構えた陣、左側に平氏の武将たちが敗走する 須磨の海が描かれ、源義経の坂落としや、平敦盛の討死などの有名なエピソードが散りばめられます。また、平重衡の生捕りや、平忠度や盛俊といった平氏一門の武将たちの討死のシーンも所狭しと描かれており、諸行無常を感じさせます。