資料「音」について。古いメールの下書きから
2000年 11/26 00:19
「水の惑星」の音楽についてのメール下書き

たとえば湯浅さんはこんなことを書いています。
「子どもは様々な物を叩いて音を楽しみ、
身の回りの音を口で模倣する。それが『音楽する契機になる』。
『音楽は、楽音だけでなくあらゆる音によってつくられるものだ』
という原則に心を開くことが必要である」
          -音楽の開かれた地平-湯浅譲二箸より

また、11月23日にぼくが聴きに行った
浜離宮朝日ホールで演奏された[新しい合唱団]による
[擬声語によるプロジェクション1979]のプログラムノートに
引用された発表当時(1979)の作曲ノートには
「4年ほど前から擬声語(オノマトペ)のみで声の曲を作ることを
考えていた。この曲は、その現実化を試みたものである。
私はこれまで、言語、なかんずく発声言語と音楽との間に、
新しい地平を見出す、いわばインター・メディア的視点での
作業を続けて来た」とも書いています。

[水の惑星 ジ・アース]のシナリオにかかるにあたって、
ぼくの頭の中には、ここでも書かれている「オノマトペ」による
音の世界へのこだわりがありました。
もちろんその時点では恥ずかしいことですが、
湯浅氏の取り組みについてはまったく不勉強で、
ぜんぜん知りませんでした。
ただ、人の肉声で、自然界のあらゆる音を構成したら
どうなるだろうという素朴な興味だったと言えます。
それが[1000voices]と名付けた合唱団の由来でもあります。

人は何かを前にしたとき、目にしたとき、
それだけでは実はあまり多くの情感を
引き起こすことはありません。
目の前のモノやコトを自分の中に取り込み
不確定なもしくは、はっきりとした言葉にとらえ直すことで
はじめて固有の体験や記憶となっていく。
だから万人に共通する同一のコトやモノというものは存在しない。
川の流れを百人の人間が目の前にしたとき、
正確には、百の川がそこに存在することになります。
でも居合わせた百人の人間は「流れる川」という
認識を持ち、そのことを声に出して身振りで伝えあい、
共感しあうことができます。

絵画も写真も映画は、せんじつめれば、
この百人にとっての百の川を、その中のただ一人の目によって
切り取り再構成し再びカタチにして提示するという
行為だと言えます。
つまり、個人による認識です。
作品の芸術的価値とは、この個人の認識に左右されることは
ご承知の通りです。映画は集団表現ですから、もちろん
ここでいう個人とはカメラマン一人のことではありません。
しかし、対象を切り取り再構成するという意味ではカメラマンの
感性と才能にすべてを委ねることにもなります。

自然の中に潜むさまざまな音の世界もまた同じことが言えます。
わたしたちはぼんやりと外にいるときには、ほとんどすべての音を
認識していないと言ってもよいと思います。
行動をうながす必要な音だけを、必要に応じて取り込んでは
捨てています。
それらの多種多様な音を「言葉」にしてはじめて、
わたしたちはその対象を記憶に残しても良いものとして認めます。
ここでいう「言葉」とは文字通りのコトバの場合もあれば、
ニュアンスとしての音=メロディの場合もあります。

冬から秋にかけて福島の各地の水景をたどりながら、
この豊かさを音の世界として再現するためには、
やはり擬態語/擬声語(オノマトペ)へのこだわりが不可欠であると
感じてきました。
たとえば、びっき沼の静かな水面の底には、湖岸の草むらには
無数の魚や虫や花や草が生きています。とらえられた3D映像に、
その気配はまったく現われることはありません。ただ水面が
風のそよぎにつれてさわさわと揺れるだけです。
しかしそこは「いのちたちのめくるめくようなざわめき」で
満ちています。カメラマンがとらえたのは実はそのざわめきです。
静かな気配におおわれた映像空間が、このざわめきを加えることで
いっきに濃密な「奇跡の空間」へと激変する。
そんなことを夢想していました。
そのざわめきは、即物的な自然音を重ねるだけでは成り立ちません。
なぜなら自然そのものにはいのちであることの認識が欠落してるから。

こうした思いを音場として表現し、
さらに壮大な一つの《音の世界》として構築してくれる
最適とも言える音楽家に、やっとたどりつくことができました。
そんな気がしています。

思い描いた世界は、
カメラマンとCG作家によって明らかなカタチを結ぼうとしています。
あとは湯浅譲二氏の解釈によって最後の息吹を与えられることで、
予想を超えた世界にたどり着けることを胸弾ませて願っています。