2年前の夏[これが、極上至極である。]
オフィスのウエブページにアップした「奄美」の余白を埋めようと2年前のメーリングを見ていて見つけた。読んでいてその7月の記憶が再生。あの3週間は、何だったのかと、また奇妙な想いにとらわれた。

件名: [japanesque:00242] これが、極上至極である。
送信日時: 2005年 7月 19日 火曜日 1:29 PM
差出人: Toru Mashiko <mashiko@mars.dti.ne.jp>
返信先: japanesque@sml-z4.infoseek.co.jp

ある水準を越えてしまうと正確な判断というのは、じつはとても難しくなることがあ
る。昨日、井口から再提案された曲に切り替えようと決めた瞬間、その懸念がかすか
によぎった。受け入れられなければ、作品丸ごと引き下げるから、とスタッフに言い
はしたものの。どこかでそれはねえだろうともタカをくくっていた。

もめているらしい、と聞き部屋に戻りながら、きたか、とは思ったが半信半疑いやま
さかな、とまだ思っていた。クライアントの西宮さんが哀願するような顔で目を伏せ
「音楽を代えてもらうわけにはいかないでしょうか」と切り出したとき、徹夜あけの
朦朧もあってか3秒くらい両目がブラックアウトした。腰から崩れそうになったと思っ
たとき誰かが背を支えてくれた。IPMの長山だったことは残念だったが。

「この時点ではこれ以上のものは考えられない。僕自身が予想していたことをはるか
に上回ったものであり、音楽は切り離すことができない。もし受け入れられないとい
うのであれば作品をお渡しすることはあきらめる」
という内容のことを、整然とではなくきっと悄然し蚊の鳴くような声で告げたはず。
しばしの間があり、電通の誰かが「電通としても最高の作品ができたと自負していま
す。どうかこれを社長試写していただきたい」と、これは強いはっきりした口調で切
り出した。その瞬間、鼻の奥が痛くてたまらなくなった。暗くて良かったからいいけ
ど。あの6月23日の夜にクライアントの前で殴り合いの寸前までいった電通マンからこ
んなコトバが飛び出てくるとは思ってもいなかったから。その後は、電通テックの川
田、田中両プロデューサーが必死となった。

ありがたいというより、行く末を考えていた。いまのおれは仕事の9割が電通がらみに
なっているから、ここで引かなければエキスポ超電導リニアの不始末と合わせ出入り
禁止になるのは当然。なにしろ持ち逃げ焼却のつもりだったから。さて、これからど
うするか。それだけを考えていたように思う。短い時間だったけどね。そういうとき
だけは頭が回るらしい。で、結論を出した。広告をやめる。食えなくても東京星菫
派=digital_Japanesque一本に賭けよう、そう結論した。せめて念願の「女鬼」はもの
にしよう、とね。もうみんな忘れてるかもしれないけど、あれがおれの発端だったか
ら。

そこまでたどり着いて顔を上げた瞬間に西宮さんと目が合った。西宮さんは泣きそう
な顔をしていた。そしてこう言った。

   「わかりました。neo花鳥風月行2005、納品してください。受領します。ただし、
    (ここから笑顔になった)うちも企業です。万が一販売上の理由でどうしても
    他の対応をしていただきたいと要請したときは聞いてくれますか」と。

これが、昨夜の顛末。
一夜明けて、おれの首は皮一枚で残り
うんざりしながら積水ハウスのナレーション原稿に取り組んでいる。
つまり、日常に戻った。いつもと何もかわらない時間に戻っている。

ひとつだけ、昨日と今日が違うとすれば
長い仕事歴のなかで、ゆうべおれははじめて現実に
受け入れられなければ渡さない、という態度を貫いたこと。
他人はしらず、おれは見た目と差があってジェントルだから
乱暴な言い方をすることはあっても乱を好まない。
おれの乱は10代の終わりに逮捕された時で終止符を打っているから。
ゆうべはひさしぶりにいや仕事の上ではじめてその禁を解こうとした。

   「粉砕あるのみ」

と、10代の頃にバカの一つ覚えで使っていたコトバを吐こうとした。
たぶん、いろいろなタイミングが10秒くらいズレていたら、怖かった。
おれはこのスィッチが無反応になるために20代の10年間を
何の仕事もせずにヒモとして暮らしていた。
スイッチはどこかに霧消していったのだと思い込んでいた。
でも、あったんだよなあ。すぐそこに。見なかっただけで
あそこにもここにもそっちにもゴロゴロ転がっていたんだよ。
気づいてしまったおれが、忘れていた日々と同じように
この日常を消費していけるのかどうかよくわからない。
ただ、みなさんにこうなったよ、ということを正直に伝えておきたい。
ちなみに、ぼくの辞書に「キレる」という語彙はありませんので。
若い頃からいまに至るまで「キレた」ことはいちどもありません。
仕事の場で大声上げたりしているのは、単なるハズミ。いつも5分で忘れてます。
10代のときの暴発は確信の末。あれはかくめいだと思っていたからね。

東京がいきなり梅雨明けとなった、この夏一回だけの三連休の最後の日。
六本木のあのMAVルームで起きたできごとの意味を書き残しておきたかった。

美瑛から奄美へという無節操とさえ言える大変更から三週間あまり
長いともあっという間とも思えるが、ま、速かったか。
映像も音も音楽も仕事の進め方も
微塵の心残りもないパーフェクトな仕事となったこと
関わったすべてのみなさんに感謝とともに報告しておきます。
益子透の仕事歴としては、最高のものが

  「極上至極」

な作品が誕生したことをお伝えしておきたい。
みなさんひとりひとりにとってもまた、
この作品が最上のものとなっていれば、言うことはありません。

まことに、たいへん、しみじみとおつかれさまでした。
どうかそれぞの場所で乾杯を。

    2005年7月19日十三夜 益子拝




PS長岡君
きのうスタジオのディレクター席の小さなスピーカーの上に忘れてきた
ブルーシーサー一組は、奄美から密輸してきたおれの守り神なので
確保し大切に保管しておいてください。オールスタッフの時に受け取ります。