歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
「かなりあ」詩・西条八十

 歌を忘れたカナリアは後ろの山に棄てましょか
 いえいえ それはかわいそう
 歌を忘れたカナリアは背戸の小薮に埋けましょか
 いえいえ それはなりませぬ
 歌を忘れたカナリアは柳の鞭でぶちましょか
 いえいえ それはかわいそう
 歌を忘れたカナリアは象牙の舟に銀のかい
 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す 
          「かなりあ」詩・西条八十

象牙の舟はひんやりしみじみ底冷えし、銀のかいなど重たくて腕があがらない。カナリアは、忘れた歌を思い出すのではなく、きっと苦しくて声にならない叫びをもらすのだ。西条の抒情は禍々しく品がない。

鳥にも、限界点がある。それぞれの極限がある。ある高さを越えれば、どんなに羽ばたこうと呼吸ができなくなるはずだ。もってうまれた力以上に高く飛ぶことは不可能だ。

ハードルを取り払う、と書いた途端に箍が外れた。必ず開いていたpowerbookもバッグから取り出されることもない。起きて古河に向う力が残っていればと願う。届いたのだ、と自覚はしたが、やはりこの体で確かめておくべきだろう。誰にというわけではない。己ひとりの儀式として。起きて、たどり着ければいいのだが。

●ウエブをたどっていたらこんな話を読んだ。どこかの医者のページだった。
「歌を忘れたカナリヤという歌がありますが、カナリヤは実際に歌を忘れる鳥なのです。
 春になると雄のカナリヤの脳の「歌う中枢」は、約2倍大きくなります。
 雌を自分のところへ引きつけるために歌を覚え、そしてみごと夫婦関係が成立すると、この歌の脳中枢は半分(つまり元に戻る)となります。
 こうして次の春がくるまでカナリヤは実際に歌を忘れてしまうのです」