2003 06/19 04:47
Category : 日記
科学的想像
電磁場をどうやって想像するか。
わたしが実際に見るのは何だろう。
科学的想像の要請とは、なんだろう。
部屋いっぱいに、見えない天使がいると想像しようとするのと、ちがうだろうか。いや、見えない天使を想像するようなものではない。
電磁場を理解するには、見えない天使を理解するより、高次の想像がいる。 なぜか。
なぜかというと、見えない天使を理解するために、わたしがしなければならないことは、彼らの性質を「ほんの少し」変えることだけである。・・・・・彼らをわずか見えるようにすると、彼らの翼、からだ、後光の、かたちが見えるだろう。
一度、見える天使を想像することができると、必要な抽象・・・・ほとんど見えない天使をとり、彼らを完全に見えないと想像すること・・・・ は、割合にやさしい。そこで、諸君はいう、
「先生、電磁波を近似的に記述してください。すこし不正確でもかまいませんから。そうしたら、わたしもほとんど見えない天使を見るくらいには、みえるようになるでしょう。それからその映像を修正して必要な抽象をしましょう」と。
残念ながら諸君のために、そうするわけにはいかない。わたしにはどうしたらいいのか、わからない。どんな意味であれ、正確な電磁の絵など想像できない。わたしが電磁場を知ってから長い− 25年まえ、わたしは諸君とおなじようだった。そしてわたしは、この波のうねりについて、25年余計に考える経験をもっている。わたしが、空間を伝わる磁場を記述しようとするとき、わたしは、E 場やB 場の話をして、腕を波うたせるので、諸君はわたしに、それが見えると想像するだろう。
わたしに何が見えるかいおう。
わたしには、ぼんやりとした影のような、くねった線が見える。
そこここにE とB がそのうえに何とか書いてあり、おそらく線のどれかは、矢印をもっている。
わたしが、あまり近よって見ようとすると、ここの矢、あそこの矢が消失する。空間をさっとすぎていく場というとき、わたしは物を記述するために使う符号と物そのものとのひどい混乱をひきおこす。ほんとうの波に大体でも似ている絵を描くことをむづかしいと思っても、諸君の困難が特別だと気にする必要はない。
われわれの科学は、想像力にひどい要求をする。要求される想像力の程度は、ふるいむかしの観念に要求されるのに比べると非常に厳しいものがある。
電磁場をもっと温度に似た何か、たとえばゼリーの各部位の変位のようなものであらわせないか。
まず最初に、世界はゼリーのようなものでみたされていて、場は、のびとか、ねじれとか、そういう変形を表すと想像してみるとしよう。こうすると、場を視覚化できる。どう見えるかわかったら、ゼリーを取り去ってしまう。
これが、長い間やってきたことである。マクスウェル・アンベール・ファラデーなどは電磁気をこのように理解しようとした。(かれは、抽象的ゼリーを゛エーテル゛と言ったこともある)
しかし、電磁場をこのように理解しようとする試みは、実は進歩を妨げるものであることがわかってきた。
不幸にして、抽象的概念、装置による場の検出、数学的記号による場の記述など以上にでるわけにはいかないのだ。
それでもなお、ある意味で場は現実のものである。
というのは、数式をいじりまわし、絵や図面を書いたり、物を視覚化しようとしたり、しなかったりのあとで、装置をつかってマリナー2号からの信号を検出し、何十億マイルもむこうの星雲について発見したりするからである。
われわれの言う電場や波動は、すきなようにできる、のんきな考え方ではなく、既知の物理学の法則のすべてと合う考え方でなくてはならない。
既知の自然法則と明らかに矛盾する物をまじめに想像することはわれわれに許されない。このようにわれわれの空想はむづかしいわざだ。
見たことも、聞いたこともない物を考える想像力も持たねばならない。
それと同時に思考は、いわばきゅうくつな服を着たようなもので、自然のほんとうのあり方に関する知識をもとにした条件で制約されている。
新しいが、これまでみたすべてと矛盾しない物を創造する問題はきわめて困難なものである。
この問題から離れないうちに、
わたしは「見えない物の美」を想像できるものかどうかについて話したい。
面白い問題だ。
虹をみると、われわれには美しくみえる
このスペクトル曲線をみて、直接に虹を眺めるのと同じ美しさを見るだけの想像力がわれわれにあるだろうか。わたしには、わからない。
しかし、塩化ナトリウム結晶の反射率を、赤外領域の波長の関数として、また角度の関数としてグラフにしたとする。そうすると、もしわたしの眼に赤外線がみえるとしたらどうみえるか表示することはできるだろう。
恐らくあざやかな、つやのある ゛緑゛に、゛メタリック・レッド゛色の面からの反射のまじったというような。それはきれいだろうけれども、ある装置で測定したNaClの反射率のグラフを眺めて同じ美しさがあるとわたしが言うかどうか、わたしにはわからない。
これに反して、個々の測定結果の美がわからなくても、物理の一般法則を記述する方程式にある美をみると主張することはできる。
電磁場をどうやって想像するか。
わたしが実際に見るのは何だろう。
科学的想像の要請とは、なんだろう。
部屋いっぱいに、見えない天使がいると想像しようとするのと、ちがうだろうか。いや、見えない天使を想像するようなものではない。
電磁場を理解するには、見えない天使を理解するより、高次の想像がいる。 なぜか。
なぜかというと、見えない天使を理解するために、わたしがしなければならないことは、彼らの性質を「ほんの少し」変えることだけである。・・・・・彼らをわずか見えるようにすると、彼らの翼、からだ、後光の、かたちが見えるだろう。
一度、見える天使を想像することができると、必要な抽象・・・・ほとんど見えない天使をとり、彼らを完全に見えないと想像すること・・・・ は、割合にやさしい。そこで、諸君はいう、
「先生、電磁波を近似的に記述してください。すこし不正確でもかまいませんから。そうしたら、わたしもほとんど見えない天使を見るくらいには、みえるようになるでしょう。それからその映像を修正して必要な抽象をしましょう」と。
残念ながら諸君のために、そうするわけにはいかない。わたしにはどうしたらいいのか、わからない。どんな意味であれ、正確な電磁の絵など想像できない。わたしが電磁場を知ってから長い− 25年まえ、わたしは諸君とおなじようだった。そしてわたしは、この波のうねりについて、25年余計に考える経験をもっている。わたしが、空間を伝わる磁場を記述しようとするとき、わたしは、E 場やB 場の話をして、腕を波うたせるので、諸君はわたしに、それが見えると想像するだろう。
わたしに何が見えるかいおう。
わたしには、ぼんやりとした影のような、くねった線が見える。
そこここにE とB がそのうえに何とか書いてあり、おそらく線のどれかは、矢印をもっている。
わたしが、あまり近よって見ようとすると、ここの矢、あそこの矢が消失する。空間をさっとすぎていく場というとき、わたしは物を記述するために使う符号と物そのものとのひどい混乱をひきおこす。ほんとうの波に大体でも似ている絵を描くことをむづかしいと思っても、諸君の困難が特別だと気にする必要はない。
われわれの科学は、想像力にひどい要求をする。要求される想像力の程度は、ふるいむかしの観念に要求されるのに比べると非常に厳しいものがある。
電磁場をもっと温度に似た何か、たとえばゼリーの各部位の変位のようなものであらわせないか。
まず最初に、世界はゼリーのようなものでみたされていて、場は、のびとか、ねじれとか、そういう変形を表すと想像してみるとしよう。こうすると、場を視覚化できる。どう見えるかわかったら、ゼリーを取り去ってしまう。
これが、長い間やってきたことである。マクスウェル・アンベール・ファラデーなどは電磁気をこのように理解しようとした。(かれは、抽象的ゼリーを゛エーテル゛と言ったこともある)
しかし、電磁場をこのように理解しようとする試みは、実は進歩を妨げるものであることがわかってきた。
不幸にして、抽象的概念、装置による場の検出、数学的記号による場の記述など以上にでるわけにはいかないのだ。
それでもなお、ある意味で場は現実のものである。
というのは、数式をいじりまわし、絵や図面を書いたり、物を視覚化しようとしたり、しなかったりのあとで、装置をつかってマリナー2号からの信号を検出し、何十億マイルもむこうの星雲について発見したりするからである。
われわれの言う電場や波動は、すきなようにできる、のんきな考え方ではなく、既知の物理学の法則のすべてと合う考え方でなくてはならない。
既知の自然法則と明らかに矛盾する物をまじめに想像することはわれわれに許されない。このようにわれわれの空想はむづかしいわざだ。
見たことも、聞いたこともない物を考える想像力も持たねばならない。
それと同時に思考は、いわばきゅうくつな服を着たようなもので、自然のほんとうのあり方に関する知識をもとにした条件で制約されている。
新しいが、これまでみたすべてと矛盾しない物を創造する問題はきわめて困難なものである。
この問題から離れないうちに、
わたしは「見えない物の美」を想像できるものかどうかについて話したい。
面白い問題だ。
虹をみると、われわれには美しくみえる
このスペクトル曲線をみて、直接に虹を眺めるのと同じ美しさを見るだけの想像力がわれわれにあるだろうか。わたしには、わからない。
しかし、塩化ナトリウム結晶の反射率を、赤外領域の波長の関数として、また角度の関数としてグラフにしたとする。そうすると、もしわたしの眼に赤外線がみえるとしたらどうみえるか表示することはできるだろう。
恐らくあざやかな、つやのある ゛緑゛に、゛メタリック・レッド゛色の面からの反射のまじったというような。それはきれいだろうけれども、ある装置で測定したNaClの反射率のグラフを眺めて同じ美しさがあるとわたしが言うかどうか、わたしにはわからない。
これに反して、個々の測定結果の美がわからなくても、物理の一般法則を記述する方程式にある美をみると主張することはできる。