カバームービー概要メモ2.3
サブエピソードのタイトル+カバームービー 2003.02.03

1.航海技術を学ぶ
「はじめに人ありき」
東京商船学校の母体となった三菱商船学校
明治8年、大久保内務卿の海運三策により、日本海運育成のための政府保護が決まったが、同時に商船学校を設立し海員の養成を行うことなどの義務も課せられた。当時の三菱会社は東京、横浜、大阪、神戸、長崎、函館、高知、四日市、馬関(下関)、上海に支社が置かれ、40隻近い汽船を擁し、乗組員は総数1000人を超えていた。
そして大半の船では、船長をはじめ一・二等士官、一・二等機関方などの高級船員を外国人が占め、彼らの高い賃金が経営を圧迫し、日本人高級船員の養成が急務の一つだった。政府の命により、霊岸島に係留した成妙丸を校舎にあて、三菱商船学校を開設。遠洋航路に乗った最初の日本人船長は明治29年ボンベイ航路の島津五三郎。明治34年には米国航路に、39年には欧州航路に初めての日本人船長が登用された。大正9年には、最後の外国人船長が下船している。
三菱商船学校は後の東京商船学校となり、日本の海運界の礎石となった。


2.欧州航路開設
「地球横断第一船の名は、土佐丸」
欧州航路を開く
世界の銀座通りと称された欧州航路の第一船となった土佐丸は、イギリスで明治25年に建造され、旧名は「イスラム」。日清戦争直前に購入され、当時の日本船としては最大のものだった。「日章旗が地球横断のときこそ」と弥太郎が語った夢の最初の実現を祝い、弥太郎ゆかりの「土佐丸」と名付けられた。
日章旗を船尾に、二引の旗をマストに掲げた土佐丸は、明治29年3月15日に横浜を出港し、神戸、下関、香港、コロンボ、ボンベイ、ポートサイド、ロンドンを経由し、アントワープに錨を下ろした。日本船として初めてテームズ河を遡上しロンドンに着いた時には、大歓迎を受け、NYKの3文字は一躍有力船会社として知られることになった。さらに翌年から寄港地とした無名の給炭港ミドルスプローは、日本郵船の定期寄港、鉄鉱石鉱脈の発見などが相まって、近代的商港へと急発展していく。その後、世界の寄港地との間で培われた相互関係の原型がここにあった。


3.北米航路開設
「その街の父は大北鉄道。母は日本郵船」
北米航路を開く
欧州に続き北米航路をひらくにあたって日本郵船は、既存の船会社とは異なる選択をする。当時の太平洋航路はサンフランシスコに寄港し、大陸横断鉄道で一気にニューヨークと結ぶ「海陸-一貫輸送システム」が主流だった。後発として競争力を発揮するために日本郵船が選んだのは、航路を一日余り短縮できるシアトルだった。シアトルとニューヨークを最短距離で結ぶ大北鉄道と語らい北米航路の拠点を、人口6000人の無名の小さな港町シアトルとした。第1船となったのは三池丸。市民たちは仕事を休んで岸壁に集まり、大歓迎をした。太平洋と大陸の二つの最短距離が繋がることで、「早く、安く」という輸送の原点を武器に、シアトルはバンクーバー、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどと並ぶ米国太平洋岸有数の大都市に発展する。その後、大北鉄道は「シアトルの父」、日本郵船は「シアトルの母」と市民たちに並び称されることになった。


4.世界一周航路開設
「パナマ運河完成4ヶ月後に日本船第一船通過」
世界一周航路を開く
創業以来の悲願「世界一周航路」を実現したのは大正3年暮れだった。カリブ海と太平洋を結ぶ全長81.6kmのパナマ運河が開通してからわずか4ヶ月後に、欧州航路臨時船・徳島丸が日本船として初めて運河を通過。日本郵船の世界一周第1船となった。急成長する米国経済の中心地ニューヨークとの直通貿易を、東航ニューヨーク航路として実現。さらに東部の商工地帯へと航路を広げていった。また、スエズ運河、パナマ運河の両運河を用い、世界各地に航路を延ばしていく。



5.造船技術の確立
「造船技術も自前であるべしの大英断」
横浜船渠と三菱長崎造船所
日本郵船の海外定期航路拡張への取り組みと、700トン以上の船の建造者に奨励金を交付するという造船奨励法の発布とがあいまって、立ち後れていた国内の造船業界は一気に強固なものとなっていく。それまでのレベルとはまったく次元の異なる世界標準となる優秀船建造に挑んだ三菱長崎造船所の取り組みは明治31年の[常陸丸]となって結晶する。年間100隻以上の外国優秀船が航行する欧州航路に船出したメイド・イン・ジャパン第一号の常陸丸の雄姿は、海運国日本の造船技術の優秀性を強くアピールした。また、三菱製鉄所-日本郵船横浜鉄工所を経た横浜船渠会社も、この時期に造船能力を飛躍的に向上させている。豪華客船時代を彩った秩父丸、氷川丸、日枝丸なども横浜船渠で建造された。世界航路への挑戦は、日本の海運力と同時に、遅れがちだった造船技術にとっても、文字通り巨大なジャンピングボードとなった。


6.日露戦争と日本郵船
「天気晴朗ナレドモ波高シは信濃丸の発見から」
外国船社との友好関係を元に戦時下の世界航路を維持
「東郷ビール」として愛されたこのビールは日露戦争後にフィンランドでつくられた。ロシアのバルチック艦隊を殲滅し、フィンランド独立の発端をつくった東郷元帥に感謝をこめてつくられた当時の「地ビール」である。この日露戦争の火ぶたを切って落としたのが実は日本郵船のシアトル航路就航船・信濃丸だった。海軍の仮装巡洋艦として徴用された信濃丸は、明治38年5月27日の早暁、長崎県五島白瀬付近を哨戒中、東の水平線上に大艦隊の船影を発見。「敵艦見ゆ」「敵は対馬東水道を通過せんとするものの如し」と打電。この信濃丸の発した一通の電文が、後世に知られる東郷平八郎連合艦隊司令長官の大本営への開戦報告となった。いわく「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」である。
日本郵船は日露戦争下、大型の外航船の大半を徴用され信濃丸に見るようなエピソードを残したが、その間の定期航路は、それまでの外国船社との友好関係を元に協力を依頼。他の多くの不定期船市場が開戦と同時に運賃を上げたにも関わらず、4つの定期航路の運賃を可能なかぎり戦前の水準で維持した。


7.第1次大戦下
「利ではなく船会社として名誉を賭けた」
奉公心と犠牲的精神で維持した第一次大戦下の欧州航路
大正3年に勃発した第一次世界大戦下の日本は、参戦しながら戦局の中心から遠く離れている利点を活かし、未曾有の戦争景気となった。とりわけ戦時用船による世界的な船舶不足にともなう海運・造船界の好況ぶりはすさまじく、船成金という言葉が生まれるほどだった。しかしこの戦争景気は日本郵船にとっては無縁のものだった。国を代表する定期船会社として、危険も利益も度外視し、さまざまな被害を被りなが゜らも、欧州航路を維持した。日本海運発展史に、このときの日本郵船の姿が「まったく会社の奉公心と乗組員の犠牲的精神から発した長期連続の冒険航海として、日本海運史上に特筆されるべき功績」と記されている。
また、英国西海岸最大の貿易港として世界の船会社の憧れの港だったリバプールは、それまでブルーファンネル社が一社で独占していたが、戦時徴用による船腹不足のため、日本郵船に寄港の申し入れがあった。このとき、社長近藤廉平の指示で英国政府から日本政府への正式依頼という形をとったことが、大戦後のリバプール配船に引き継がれていくことになる。


8.第二次世界大戦
「5312人。172隻」
第二次世界大戦の戦争被害
照国丸/横浜丸/龍田丸/諏訪丸/対馬丸/能登丸/阿波丸/全船
の8タイトルチャプターメニュー表示をカバーストーリーに換える






9.復興
「インディラは平和の使者となった」
内外航路の回復
日章旗を下ろし、社旗をたたみ、SCAJAPの旗と番号の元での運行を強いられた占領下にあって、その後の復興を予感させるようなエピソードがあった。昭和24年に、インドのネール首相から平和のシンボルとして贈られることになった象のインディラの輸送である。輸送を担ったのは日本郵船の延長丸。壊滅的な戦争被災からはい上がるようにして復興に取り組んでいた日本国民に、平和の使者インディラの話題は明るい兆しと元気の源となった。インディラと前後するように、内航用新造船第1船・舞子丸が昭和23年に竣工。外航用新造船第1船・平安丸が昭和26年に竣工され、内外航路ともに復興への道筋が明らかになっていく。


10.専用船
「高度成長を支えた船」
さまざまな専用船
タンカー/重量貨物運搬船/パルプ専用船/チップキャリアー/鉄鉱石専用船/LPG
の6タイトルチャプターメニュー表示をカバーストーリーに換える。
なお各タイトルはそれぞれムービーコンテンツで展開する。


11.コンテナリゼーション
「世界を変えたコンテナ革命」
海陸一貫輸送システム
コンテナは昔から海上輸送で、壊れやすい荷物、傷つきやすいものなど「特別の荷物」を運ぶ手段として使われていた。ほとんど「すべての荷物」をコンテナ詰めし、高能率だが距離に比例し輸送コストがかさむ超大型トレーラーと海上輸送を組み合わせることで、「ドアツードア」の海陸一貫輸送システムが実現した。標準化と中抜きを二大ポイントとするコンテナリゼーションは、今日のIT革命のもたらす社会的インパクトに似て、流通と積み荷の構造を革命しながら、世界の輸送システムを一気に変容させていった。日本郵船ははやくからコンテナリゼーションに着目し、昭和43年竣工の第1船・箱根丸など、日本のコンテナ化に先鞭をつけた。


12.進化と効率化
「より大きくより速くより効率的に」
船の進化と効率化
大型化/高速化/省エネ化/PCC/LNG
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なお各タイトルはそれぞれムービーコンテンツで展開する。


12.NYK21
企画展終了後に整備


13.海洋レジャーの紹介
「日本郵船のエキスを注いだ飛鳥」
新世紀の海洋レジャーを担って
外航クルーズ船《飛鳥》は、日本郵船の基本設計、三菱重工業長崎造船所が詳細設計に展開・建造した日本籍最大の客船として1991年秋に就航した。濃い群青色の太いラインと細い金色のラインが純白の船体を引き締め、煙突にはあざやかな赤い二本の線「二引」のファンネルマーク。日本を中心に、東南アジア、オセアニアを日本郵船ならではのアメニティに満ちたサービスを提供しながらクルーズする《飛鳥》は、モノよりサービスの《スローモード》時代にベストマッチした新しい海洋レジャースタイルとして、その存在感をますます強めつつある。社内に脈々と流れていた客船への想いが、再び現実となった。