「光の子」 安藤栄作
「光の子」 安藤栄作
   河北新報より

私たちはいったい何をやっているのだろう。
光のようにこの世に生まれてきて、
「さあ思いっきり世界を愛しなさい」と神様から、
きれいな水と空気と太陽の光を与えられて、
歩み始めたはずなのに、
水は飲めなくしてしまい、
空気は汚してしまい、
空には巨大な穴まであけて、
体に悪い光を浴びて、
揚げ句の果ては人の上に爆弾をバラバラばらまいて、
人の歩く道に爆発物を無数に埋めて。
本当にこんなことをしようと思って
生まれてきたのだろうか。

雨上がりの朝に、
水蒸気と水滴で光輝く草原を見た時の
胸の震えを忘れないでほしい。
突然吹いてきた風に洗われて悩みが体からはがれていく
あの心地よさを忘れないでほしい。
夕日を受けて輝くあなたのその頬が
世界にやすらぎと、ときめきを与えていることを
忘れないでほしい。

この手は
土をほじくって地雷を埋めるために
与えられたのではないし、
人の上に爆弾をまくために与えられたのでもない。
この口は人をののしるために与えられたのでもなければ、
食べきれないほどの食物をガツガツむさぼるために
与えられたものでもない。
この心は人をさげすんだり、
出し抜くために与えられたのではない。

自分は自分以外の世界のすべてのためにある。
この宇宙が生まれた時、その創造のスピリットは
すべての空間や物質の内に受け継がれている。
宇宙の一部でもある私たち一人ひとりの中にも
それは宿っている。
世界をいとおしいと思い、祝福することは
自分自身をいとおしみ祝福していることなのだ。
すべては宇宙の一部であり一体だ。
一つの命を抹殺することは宇宙を抹殺することなのだ。
それを見聞きして私たちの魂が沈むのは
私たちの内にある宇宙の創造のスピリットに
逆行するからだ。

その手も口も心も世界を愛するために与えられた道具だ。
互いの魂を救いあったり、
風や光の中にあるスピリットが
自分の中にもあることを感じること。
世界を思いっきり愛すること。
私は宗教家でもなんでもない。
ただ山の中で地球を回って吹く風にあたって、
宇宙を旅してやって来た光をあびながら
彫刻を彫っていると、どうしてもそう思えるのだ。