雑感。
渡辺と東京フォーラムに。
川田親子と待ち合わせ。
中庭に面したカフェで1時間ほど談笑。
須賀川のフィナーレの夜以来。
川田君もまた、夏以来、混迷の時間をおくっていたようだ。
《福島》のことがなぜかくも多くの関係者に余韻を残し続けるのか、いまだに整理しきれない。

が、
大きなイベントやプロジェクトが終ったことの反動というだけではない《何か》が、あの日々にはあったのだと考えたい。

それが《森に沈む都市》という、野放図とも言える旗印のもとに、ある時間を過ごしてしまった《運動体》に身を置いた意味ではないのか。

東京組だけでもこれたけ影響が残っているのだから、《福島》全域に散った人たちを加えると膨大な負のベクトルが行方定まらずに浮遊し続けているわけだ。

マイナスを掛け合わせてプラスに転ずる意外に、落とし前のつけどころはない。

川田君と会って、そのことを強く思った。


東京フォーラムのミレナリオはまだ点灯されておらず、白いペンキで塗られたその仕掛けが澄んだ冬空の下でやけに物悲しく見えた。
去年、博報堂の現場担当と激しくやり合いながら撮影したあのミレナリオの白昼の姿の無残さに、本質的な限界を感じた。
しょせんは《イベント芸術》どまりなのだ。
縁日のアセチレンガスの灯のほうがまだほほ笑ましい。あれはのっけからキッチュだから。
ミレナリオの時代錯誤な《くそ芸術》に1年遅れて気がついた。幽霊の正体見たりである。
なんであんなものを撮らせろと喧嘩腰になれたのか、いまさらながらばかばかしい。