北方の《水滸伝》第二十五回
小説すばる10月号の《水滸伝》第二十五回を読む。単行本が途絶えてからやむを得ず雑誌で連載しているのを読むというまだるっこしさに耐えているが、耐えるだけのことはある。北方がなぜここまで《水滸伝》に思いを深めていくのか不明だが、一昨年の《三国志》とはまったく異質で次元を越えた世界はさらにホットさを増大させている。これまで数ある《水滸伝》を読んできたが、北方の世界にもっとも近いのは真崎守が未完のままにしているものといちばん近いように思う。あの未完の書のラストで真崎が描こうとした「教育論」はこれまでに目にしたもっともすぐれたイメージを残している。

それにしても三段組でぎっしり埋まったちっぽけな活字で読まされるのは高校時代にさぼって読みふけった平凡社版以来のこと。

北方は、この《水滸伝》が代表作となるだろう。新世紀に書き改められことの意味が、ひしひしと伝わってくる力作である。

官に向かって、大勢に向かって、体制に向かって翻す叛旗の意味は、いつの時代にも哀切で雄々しい。

無数の無辜の市民を殺戮するのが憎むべきテロリズムであり、全世界はテロリズムを許さないという。そりゃあたりまえだ。
広島に長崎に無垢の市民はいなかった。
ベトナムに無垢な市民はいなかった。
少なくとも遺伝子にまで影響を及ぼしいくつもの世代を越えて殺戮を続けるような武器に敗戦の趨勢が見えた後に実験代わりにさらさせる無垢の市民はいなかったよな。
ネバダで再開したという「実験」て何だ。
真珠湾を忘れるなというキャンペーンは何だ。



《水滸伝》とは何の関係もねえけどな。