1000杯のコーヒーと44行詩
湯治部MLに出したメール
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『家』
1911.6.25.TOKYO

今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顏洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了えて帰り来て、
夕餉の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひょっと心に浮び来る……
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鉄道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさっぱりとしたひと構え、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても、
広き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし度に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ラムプの笠の真白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ身湯る心地して、
泣く児に添乳する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑みものぼり来る。

さて、その庭は広くして、草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の腰掛を根に置かむ……
雨降らぬ日は其処に出で、
かの煙濃く、かをりよき埃及煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事のしらせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく若き日にわかれ来りて、
月日のくらしのことに疲れゆく。
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも、
なつかしくて、何時までも棄つるに惜しきこの思ひ。
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず恋せしときの眼付きして、
妻にも告げず、真白なるラムプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

       第二詩集『呼子と口笛』より


  
  1911年、明治四十四年という年は中国で辛亥革命が起き、
  日本最初の洋風劇場である「帝国劇場」がオープン。
  暇を持て余した金持ちの奥さん達が
  「今日は三越、明日は帝劇」とモダンな浪費生活をはじめた年。
  同じ年、35歳の野口英世はニューヨークでスピロヘータの培養に成功し、
  25歳の平塚らいてふは雑誌「青鞜」を創刊している。
  松井須磨子が女優としてデビューし、「人形の家」のノラを演じ、
  フランスでオートクチュール協会が設立され、
  「大洋裁師」ポール・ボワレが会長となった。

  この詩を書いた啄木もまた若く、二十五歳だった。
  啄木は翌年、二十六歳で夭折した。

  電通テックの熊上さんが古河での1000杯ものコーヒーづくりの
  疲れにもめげず、石川啄木の『家』の全行の載っている本を
  探しだして送ってくれました。
  書き写しながら、ぼろぼろ涙がこぼれた。
  時代が若く人も精神もみずみずしい日々には
  こんな二十代が成り立ったのだな、そう思うと、ね。

  この詩の中の一部だけを使って、
  こんどのシャーウッドに引用しようと考えていたけど、
  全行を読み、その不明を恥じました。
  ベルサは、たしかに今までのシャーウッドの中では
  すぐれた佇まいのある家だけど、啄木の詩には似合わない。
  大量につくられ売られていくものにはどんなに糊塗してみても
  見えてきてしまうものがありすぎるんだね。
  恥ずかしいです。
  
  いつか、こんな詩が似合う映像をつくってみたい気もするけどね。