若女将のいない夜と、ある願い
夜9時。外を流れる川音だけがかすかに聞こえる。その水の音に混じってときおり階下のスタッフたちの笑い声。
湯の花温泉末廣旅館の二階竹の間は怖いくらいに静かだ。
部屋の明かりがこぼれたぶんだけ屋根と庭の木々の雪がぼっとやわらかな白い塊となって見えている。外は零下五℃。

風邪を引いたか、両方の鼻が完全に詰まって口を開けて息をしているのでカラカラである。
舘岩村の雪の闇の中でおれは犬の演出家である。

今日の昼前の迂回騒ぎの原因となったのはニトログリセリンが大量に散逸したからだったとか。おかげでめったに通ることのない鬼怒川から会津へと抜けるいにしえの塩の道を味わえた。塩ではなく真っ白な雪景色だったが。

こぶりの桧の風呂に身を沈めると「あー」とため息が出る。このため息は思えば二十歳の頃からだった。賢明と一緒に温泉に入ったときに彼がつく満足げなため息をまねているうちにいつか身に付いたらしい。

末廣旅館は若女将のたみさんが手の手術で仙台の病院に入院中だという。スタッフたちはたみんがいないと手づくりのパンが出ないことに気づき、嘆いていた。

一年の間に、この小さな宿に、ずいぶんと泊まったのだな、と思う。

夜食の塩握りを食いながらぼんやりと去年の撮影をふりかえった。

心の底に焼き付くような、ワンカットに追い込みたい。ここまでたどりついたのだから、なんとしても納得のいくシーンにしあげたいと切望する。

雪よ降れ。太郎の屋根も次郎の屋根もジョンの屋根もタマの屋根も、すべての屋根をうめつくす雪よ降り積もれ。