2014 01/11 17:06
Category : 日記
今日は、病院でのリハビリが終わった後に、少し足を伸ばして大阪堺市の南宋寺へ行って来た。
南宋寺は、阪堺電車の御陵前駅の近くにある臨済宗の禅寺なのだが、室町幕府の実力者であった三好長慶によって造営されたが、大阪夏の陣の直前に豊臣側によって焼かれてしまったが、豊臣が滅び、家康が亡くなった3年後の元和5年に沢庵宗彭らによって再建されたお寺である。
さて、徳川家康の墓といえば、誰でも日光東照宮と思われるでしょうが、この南宋寺にも家康の墓があると言う伝説が伝わっている。
伝説によると、大阪夏の陣のおり、家康は茶臼山における戦闘に敗色が濃くなり堺へと敗走する途中で後藤又兵衛によって倒されてしまう。
家康の遺骸は死を秘されて南宋寺の開山堂下に隠されて、夏の陣が終り豊臣が滅んで徳川の世になってから久能山に改葬された後に日光へ移送されたと伝えられているそうだ。
この伝説を裏付けるような出来事も幾つかあるのである。
まず、家光が三代将軍に就任した後に、父で大御所となった秀忠と相次いで堺に訪れて、この南宋寺に足を運んで坐雲亭に上がって景色を眺めたと記録されている。
なにゆえに、秀忠・家光の二人の将軍がわざわざ堺まで来て南宋寺を訪れたのか?
続いて、かつて境内には堺東照宮と東照宮へ続く唐門が造られていたが、東照宮は太平洋戦争の戦火で消失したが、唐門は焼けずに残った。
その唐門には徳川家の家紋である三つ葉葵が使われており、また唐門は将軍と堺奉行以外は通行を許されてない。
東照宮として家康を祀る神社は各地にもあるが、どうして堺の禅寺の境内に造られたのか?
さらに、家康の遺骸を隠したとされる開山堂も堺東照宮と同じく戦火で消失したのであるが、その焼け跡から卵形の無名の石碑が発見され、開山堂の建物の中に隠すように置かれていたと思われる。
そして、その石碑の近くには幕末の山岡鉄舟の筆とされる碑があり、そこには「無銘ノ塔 家康サン諾ス観自在」と彫られているのである。
これらから、卵形の石碑が家康の墓ではないかと考えられて、現在も祀られている。
こうした事から、昭和42年には水戸徳川家の家老の末裔である三木氏が新たに徳川家康の墓を建立し、表面には「徳川家康墓」と刻まれ、その裏に刻まれた賛同者には、あの松下幸之助の名前も残されている。
徳川家康が、ほんとうに堺で亡くなり、その遺骸が南宋寺に隠されたのか本当の事は謎に包まれたままであるが、まったくの作り話とも思えない確証も幾つかあるのも事実である。
家康の伝説を追って堺まで出かけたが、この南宋寺は他にも茶道と深い関わりがあり、千家一門の墓や利休の師である武野紹鴎の墓や利休好みの茶室、それに水琴窟など他にも見所が多いお寺である。
南宋寺は、阪堺電車の御陵前駅の近くにある臨済宗の禅寺なのだが、室町幕府の実力者であった三好長慶によって造営されたが、大阪夏の陣の直前に豊臣側によって焼かれてしまったが、豊臣が滅び、家康が亡くなった3年後の元和5年に沢庵宗彭らによって再建されたお寺である。
さて、徳川家康の墓といえば、誰でも日光東照宮と思われるでしょうが、この南宋寺にも家康の墓があると言う伝説が伝わっている。
伝説によると、大阪夏の陣のおり、家康は茶臼山における戦闘に敗色が濃くなり堺へと敗走する途中で後藤又兵衛によって倒されてしまう。
家康の遺骸は死を秘されて南宋寺の開山堂下に隠されて、夏の陣が終り豊臣が滅んで徳川の世になってから久能山に改葬された後に日光へ移送されたと伝えられているそうだ。
この伝説を裏付けるような出来事も幾つかあるのである。
まず、家光が三代将軍に就任した後に、父で大御所となった秀忠と相次いで堺に訪れて、この南宋寺に足を運んで坐雲亭に上がって景色を眺めたと記録されている。
なにゆえに、秀忠・家光の二人の将軍がわざわざ堺まで来て南宋寺を訪れたのか?
続いて、かつて境内には堺東照宮と東照宮へ続く唐門が造られていたが、東照宮は太平洋戦争の戦火で消失したが、唐門は焼けずに残った。
その唐門には徳川家の家紋である三つ葉葵が使われており、また唐門は将軍と堺奉行以外は通行を許されてない。
東照宮として家康を祀る神社は各地にもあるが、どうして堺の禅寺の境内に造られたのか?
さらに、家康の遺骸を隠したとされる開山堂も堺東照宮と同じく戦火で消失したのであるが、その焼け跡から卵形の無名の石碑が発見され、開山堂の建物の中に隠すように置かれていたと思われる。
そして、その石碑の近くには幕末の山岡鉄舟の筆とされる碑があり、そこには「無銘ノ塔 家康サン諾ス観自在」と彫られているのである。
これらから、卵形の石碑が家康の墓ではないかと考えられて、現在も祀られている。
こうした事から、昭和42年には水戸徳川家の家老の末裔である三木氏が新たに徳川家康の墓を建立し、表面には「徳川家康墓」と刻まれ、その裏に刻まれた賛同者には、あの松下幸之助の名前も残されている。
徳川家康が、ほんとうに堺で亡くなり、その遺骸が南宋寺に隠されたのか本当の事は謎に包まれたままであるが、まったくの作り話とも思えない確証も幾つかあるのも事実である。
家康の伝説を追って堺まで出かけたが、この南宋寺は他にも茶道と深い関わりがあり、千家一門の墓や利休の師である武野紹鴎の墓や利休好みの茶室、それに水琴窟など他にも見所が多いお寺である。