2009 07/04 13:00
Category : 日記
7月に入って雨降りが多くて蒸し暑い日が続いているね。
そして、もうすぐ七夕ですな。
私が暮らす寝屋川市の近くにある枚方市や交野市は古代には交野ヶ原と呼ばれ、七夕に関する伝説や史跡が残っている。
ご存知のように、七夕とは天の川に隔てられた牽牛(けんぎゅう)と織姫(おりひめ)とが7月7日の夜、年に一度だけ逢えるという伝説だ。
もともと七夕伝説は中国の伝説で、春秋時代に書かれたと言われる「詩経」にすでに書かれているそうで六世紀には七夕の夜に瓜や茄子などの収穫物を供えたり。針に五色の糸を通して手芸の上達を願ったと言う。
やがて、日本にも奈良時代には七夕が伝わるようになり、和歌などにも多くの歌が残されているのだが、江戸時代になって庶民の間に手習い事が盛んになると、七夕の儀式が拡大されて短冊に願い事を書いて笹に吊るすと上達すると言う事になり、現在のように願い事を書くようになっていったそうだ。
枚方市内には「天野川」(天の川)と言う川が流れており、その名前の由来は諸説あるのだが、川の周囲で稲作が始まった頃に甘野川と言っていたのを後の平安の頃に大空の天の川になぞらえて「天の川」と呼んだと言う説や、川砂が白く光って見えるところから、天上の銀河になぞられて名付けられたと言う説があるようだ。
この交野ヶ原の地は、秦氏などの渡来系の人によって開かれて、大陸からの文化を伝えられた事も多く、秦(はた)や百済(くだら)や王仁(わに)などの地名や史跡も残されている。
また、平安時代には都から近い狩場として親しまれていたようで、桓武天皇などの皇族も御行などで関わりが深く、多くの古典文学にも交野ヶ原や天の川があらわれていて
~狩り暮らし織女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原にわれは来にけり~ 在原業平朝臣
~天の川秋の一夜の契りだに 交野に鹿の音を聞くらん~ 藤原家隆
~七夕の一夜の宿も幾夜寝ん 天の川原の飽かぬ仮庵に~ 後柏原天皇
などの和歌とか他にも多く残されている。
また、交野ヶ原には、この天の川にちなんでかこの辺りは七夕伝説の格好の舞台となり、七夕や星にまつわる史跡や地名も数多く残されている。
天の川が流れる交野ヶ原一帯には星田、星ケ丘、中宮、などの地名が残っており、また、天の川上流の磐船渓谷には物部氏の祖先神、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天上より天の磐船で地上に降臨したという伝説をもつ磐船神社があり「天の磐船」と呼ばれる高さ12m、幅12mもの巨大な岩座がご神体として残されているそうだ。
また、星田の郷と呼ばれる地域には、星田妙見宮・降星山光林寺・星ノ森の三ヵ所に北斗七星が降ったという降星伝説が残されているそうで、星田妙見宮では本殿の前に掲げられた白地の垂れ幕には北斗七星が描かれているのだが、これが柄の部分で二つに分かれていて「北斗八星」になっている。
これは、実はこの部分が二重星になっていて、これが正しいのだが望遠鏡も無い時代になぜこの二重星に気がついたのか不思議である。
さて七夕伝説だが、JR学研都市線の津田駅から南の方に向かった交野市の倉治の地に織姫と言われる「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社(はたものじんじゃ)がある。
この機物神社は諸説あるのだが、だいたい4~5世紀の設立と言われ、この地を治めていた「秦氏」(はたし)に所縁の深い神社で、そもそもこの付近の「津田」の地は「秦田」、また神社のある「倉治」(くらじ)の地は「秦者」(はたもの)と読んでいた時代があるそうで秦氏が住んでいた地と言われている。
秦氏は渡来氏族で京都にも深い関わりのある氏族だが、様々な技術を日本に伝えており、養蚕や機織の技術も伝えたと言われている。
その秦氏である「秦者」の人々が祀る神社と言う事で「秦者の社」(はたもののやしろ)と言われていたのを、後に七夕伝説と結びついて「はたもの」の名を「機物」と置き換えて、現在の機物神社になったそうだ。
養蚕や機織を伝えた秦氏の神社が織姫の神社になるのはなるほどとうなづける部分もある。
機物神社の祭神は、「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめのおおかみ)と「栲機千々比売命大神」(たくはたちぢひめのみこと)の二神なのだが、もとは「天棚機千幡栲機千々波比売命」(あまのたなばたちはたたくはたちぢわひめのみこと)だったのを長いと言うので二つに別けたそうだ。
普段は静かな古社であるが、七夕の時期には境内に笹の木を立てて多くの願いを書かれた短冊が吊るされて賑わうようだ。
また、境内には機織機が納められているのもそれらしくて良い。
さて、この織姫を祀る機物神社の天の川を挟んで対になる位置に牽牛石(けんぎゅうせき)と言われている岩が祀られている。
京阪電車の交野線の「郡津」駅の西の方、香里団地の藤田川の「けやき通り」を西に向かった香里ヶ丘4にある「観音山公園」(かんのんやまこうえん)の、東の端の少し高くなっている場所に牽牛石は鎮座している。
この辺りは、中山観音寺と言う奈良時代のお寺があったそうだが、南北朝の戦乱で焼けてしまって、今は小高い丘に石碑が残って観音山公園として親しまれているそうだが、牽牛石がいつの時代の物かはっきりしない。
牽牛石はそれほど大きくは無いが、牛と言われれば牛に似ていないこともないが、普通にあればただの岩と思うだろう。
横に牽牛石の立て札があるので、これが牽牛石で「ひこ星」の化身だと判るようになっている、高台になっているので見晴らしは良く、古代にはここから織姫のいる機物神社がながめられたのだろうか?
あと、余談になるが、この近くに「茄子作り」(なすづくり)と言う面白い地名がある、平安時代に交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言う事があり、そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けたのが茄子作りに変化していったようだ。
そこで七夕伝説なのだが、機物神社の織姫と牽牛石のひこ星が年に一度、天の川にかかる「逢合橋」(あいあいばし)という名の橋で二人が逢い、愛し合うというロマンチックな伝説が伝えられているそうだ。
現在の逢合橋は普通のコンクリートの橋で、橋に付けられた「逢合橋」のプレートくらいしか往時を思わせるものは無いのだが、昔は木の橋だったそうだ、逢合橋は車の通行も多くて危険だが、隣りに歩行用の橋もかけられているので、七夕の夜に逢合橋で好きな人と星を見るのも素敵かも知れない。
他にも、天の川が流れる枚方市の京阪枚方駅の近くには、七夕の夜に、鵲(かささぎ)が羽根を広げて橋を作り、織姫とひこ星の二人が逢うのを取り持ったという伝説にちなんだ「かささぎ橋」や、天の橋という意味で織姫とひこ星が船で渡って出会うと言われる「天津橋」(あまつばし)など、七夕伝説にちなんだ橋がかかっている。
いろいろと古代からの史跡や伝説の残る交野ヶ原の地、七夕の日にそれらの伝説を巡りながら散策して見るのも楽しい物だし、恋人と思い出を作るのも良いかも知れない。
天の川や七夕伝説は現在で言う遠距離恋愛になるのかも知れない。
逢いたくても遠くて逢えない、でも、心は近くに感じていたい。
私自身、遠距離恋愛で婚約までしながら破れて、独りの生活を続けている身である。
今も多くの遠距離恋愛をしている恋人達の幸せを七夕に祈りながらこのお話を終る事にしよう。
~一年に 一夜と思えど たなばたの 逢い見む 秋の限りなき哉~(拾遺和歌集 紀貫之)
七夕の夜に・・・
多くの愛が星になってあなたに降り注ぎますように
そして・・・あなたの愛の願いがかないますように・・・
そして、もうすぐ七夕ですな。
私が暮らす寝屋川市の近くにある枚方市や交野市は古代には交野ヶ原と呼ばれ、七夕に関する伝説や史跡が残っている。
ご存知のように、七夕とは天の川に隔てられた牽牛(けんぎゅう)と織姫(おりひめ)とが7月7日の夜、年に一度だけ逢えるという伝説だ。
もともと七夕伝説は中国の伝説で、春秋時代に書かれたと言われる「詩経」にすでに書かれているそうで六世紀には七夕の夜に瓜や茄子などの収穫物を供えたり。針に五色の糸を通して手芸の上達を願ったと言う。
やがて、日本にも奈良時代には七夕が伝わるようになり、和歌などにも多くの歌が残されているのだが、江戸時代になって庶民の間に手習い事が盛んになると、七夕の儀式が拡大されて短冊に願い事を書いて笹に吊るすと上達すると言う事になり、現在のように願い事を書くようになっていったそうだ。
枚方市内には「天野川」(天の川)と言う川が流れており、その名前の由来は諸説あるのだが、川の周囲で稲作が始まった頃に甘野川と言っていたのを後の平安の頃に大空の天の川になぞらえて「天の川」と呼んだと言う説や、川砂が白く光って見えるところから、天上の銀河になぞられて名付けられたと言う説があるようだ。
この交野ヶ原の地は、秦氏などの渡来系の人によって開かれて、大陸からの文化を伝えられた事も多く、秦(はた)や百済(くだら)や王仁(わに)などの地名や史跡も残されている。
また、平安時代には都から近い狩場として親しまれていたようで、桓武天皇などの皇族も御行などで関わりが深く、多くの古典文学にも交野ヶ原や天の川があらわれていて
~狩り暮らし織女(たなばたつめ)に宿からむ 天の河原にわれは来にけり~ 在原業平朝臣
~天の川秋の一夜の契りだに 交野に鹿の音を聞くらん~ 藤原家隆
~七夕の一夜の宿も幾夜寝ん 天の川原の飽かぬ仮庵に~ 後柏原天皇
などの和歌とか他にも多く残されている。
また、交野ヶ原には、この天の川にちなんでかこの辺りは七夕伝説の格好の舞台となり、七夕や星にまつわる史跡や地名も数多く残されている。
天の川が流れる交野ヶ原一帯には星田、星ケ丘、中宮、などの地名が残っており、また、天の川上流の磐船渓谷には物部氏の祖先神、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天上より天の磐船で地上に降臨したという伝説をもつ磐船神社があり「天の磐船」と呼ばれる高さ12m、幅12mもの巨大な岩座がご神体として残されているそうだ。
また、星田の郷と呼ばれる地域には、星田妙見宮・降星山光林寺・星ノ森の三ヵ所に北斗七星が降ったという降星伝説が残されているそうで、星田妙見宮では本殿の前に掲げられた白地の垂れ幕には北斗七星が描かれているのだが、これが柄の部分で二つに分かれていて「北斗八星」になっている。
これは、実はこの部分が二重星になっていて、これが正しいのだが望遠鏡も無い時代になぜこの二重星に気がついたのか不思議である。
さて七夕伝説だが、JR学研都市線の津田駅から南の方に向かった交野市の倉治の地に織姫と言われる「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめおおかみ)を祀る機物神社(はたものじんじゃ)がある。
この機物神社は諸説あるのだが、だいたい4~5世紀の設立と言われ、この地を治めていた「秦氏」(はたし)に所縁の深い神社で、そもそもこの付近の「津田」の地は「秦田」、また神社のある「倉治」(くらじ)の地は「秦者」(はたもの)と読んでいた時代があるそうで秦氏が住んでいた地と言われている。
秦氏は渡来氏族で京都にも深い関わりのある氏族だが、様々な技術を日本に伝えており、養蚕や機織の技術も伝えたと言われている。
その秦氏である「秦者」の人々が祀る神社と言う事で「秦者の社」(はたもののやしろ)と言われていたのを、後に七夕伝説と結びついて「はたもの」の名を「機物」と置き換えて、現在の機物神社になったそうだ。
養蚕や機織を伝えた秦氏の神社が織姫の神社になるのはなるほどとうなづける部分もある。
機物神社の祭神は、「天棚機比売大神」(あまのたなばたひめのおおかみ)と「栲機千々比売命大神」(たくはたちぢひめのみこと)の二神なのだが、もとは「天棚機千幡栲機千々波比売命」(あまのたなばたちはたたくはたちぢわひめのみこと)だったのを長いと言うので二つに別けたそうだ。
普段は静かな古社であるが、七夕の時期には境内に笹の木を立てて多くの願いを書かれた短冊が吊るされて賑わうようだ。
また、境内には機織機が納められているのもそれらしくて良い。
さて、この織姫を祀る機物神社の天の川を挟んで対になる位置に牽牛石(けんぎゅうせき)と言われている岩が祀られている。
京阪電車の交野線の「郡津」駅の西の方、香里団地の藤田川の「けやき通り」を西に向かった香里ヶ丘4にある「観音山公園」(かんのんやまこうえん)の、東の端の少し高くなっている場所に牽牛石は鎮座している。
この辺りは、中山観音寺と言う奈良時代のお寺があったそうだが、南北朝の戦乱で焼けてしまって、今は小高い丘に石碑が残って観音山公園として親しまれているそうだが、牽牛石がいつの時代の物かはっきりしない。
牽牛石はそれほど大きくは無いが、牛と言われれば牛に似ていないこともないが、普通にあればただの岩と思うだろう。
横に牽牛石の立て札があるので、これが牽牛石で「ひこ星」の化身だと判るようになっている、高台になっているので見晴らしは良く、古代にはここから織姫のいる機物神社がながめられたのだろうか?
あと、余談になるが、この近くに「茄子作り」(なすづくり)と言う面白い地名がある、平安時代に交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言う事があり、そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けたのが茄子作りに変化していったようだ。
そこで七夕伝説なのだが、機物神社の織姫と牽牛石のひこ星が年に一度、天の川にかかる「逢合橋」(あいあいばし)という名の橋で二人が逢い、愛し合うというロマンチックな伝説が伝えられているそうだ。
現在の逢合橋は普通のコンクリートの橋で、橋に付けられた「逢合橋」のプレートくらいしか往時を思わせるものは無いのだが、昔は木の橋だったそうだ、逢合橋は車の通行も多くて危険だが、隣りに歩行用の橋もかけられているので、七夕の夜に逢合橋で好きな人と星を見るのも素敵かも知れない。
他にも、天の川が流れる枚方市の京阪枚方駅の近くには、七夕の夜に、鵲(かささぎ)が羽根を広げて橋を作り、織姫とひこ星の二人が逢うのを取り持ったという伝説にちなんだ「かささぎ橋」や、天の橋という意味で織姫とひこ星が船で渡って出会うと言われる「天津橋」(あまつばし)など、七夕伝説にちなんだ橋がかかっている。
いろいろと古代からの史跡や伝説の残る交野ヶ原の地、七夕の日にそれらの伝説を巡りながら散策して見るのも楽しい物だし、恋人と思い出を作るのも良いかも知れない。
天の川や七夕伝説は現在で言う遠距離恋愛になるのかも知れない。
逢いたくても遠くて逢えない、でも、心は近くに感じていたい。
私自身、遠距離恋愛で婚約までしながら破れて、独りの生活を続けている身である。
今も多くの遠距離恋愛をしている恋人達の幸せを七夕に祈りながらこのお話を終る事にしよう。
~一年に 一夜と思えど たなばたの 逢い見む 秋の限りなき哉~(拾遺和歌集 紀貫之)
七夕の夜に・・・
多くの愛が星になってあなたに降り注ぎますように
そして・・・あなたの愛の願いがかないますように・・・