2009 07/11 14:20
Category : 日記
京都府の長岡京市の友丘二丁目、新西国街道と旧西国街道が分かれて行く地点から、旧西国街道を西に歩いていくと石塔が建っている。
この石塔は「与市兵衛の墓」と言われる供養塔だと言う。
「与市兵衛」と言うのは、「忠臣蔵」の登場人物の一人である人物で、「萱野三平」の妻の「お軽」の父であり、萱野三平にとっては義父に当たる人物である。
ただし、実際の赤穂浪士の物語とは違って人形浄瑠璃や歌舞伎でお馴染みの「仮名手本忠臣蔵」と言う物語での話である。
現在でも実際の事件や出来事を映画や芝居にする時には名前を変えたり、仮名にしたりするのはよくあることである。
江戸時代など実在の事件を扱った芝居など観客には受けるのだが、当局からのお咎めを避けるために名前や時代背景や設定を変更する必要があったそうだ。
そこで、仮名手本忠臣蔵では、実際は江戸時代の五代将軍綱吉の時代であるが、物語では時代背景を太平記の時代に変更し、登場人物の名前も少し変えているのである。
「役名」(モデルとなった人物)として少し書き留めてみた。
「塩治判官」=(浅野内匠頭)
「高師直」=(吉良上野介)
「大星由良之助」=(大石内蔵助)
「顔世御前」=(浅野内匠頭の妻・阿久里)
「斧九太夫」=(大野九郎兵衛)
「斧定九郎」=(大野九郎兵衛の息子・大野郡右衛門)
「お石」=(大石内蔵助の妻・理久)
「大星力弥」=(大石主税)
「早野勘平」=(萱野三平)
「お軽」=(二文字屋阿軽)
「原郷右衛門」=(原惣右衛門)
「千崎弥五郎」=(神崎与五郎)
この、仮名手本忠臣蔵での創作されたお話が忠臣蔵の中でのお話として取り込まれていったり、後年に作られた話とかも加わって忠臣蔵の物語として史実と創作の部分が混同して広まって行ったようだ。
さて、与市兵衛のお話の核となるお軽と勘平の物語である。
「塩治判官」(浅野内匠頭)の家臣である「早野勘平」(萱野三平)は、塩治判官のお供で鎌倉の御所(江戸城)に向かい、判官が登城したので勘平は門前で控えていた。
そこへ、かねてから恋仲である「お軽」が「顔世御前」(阿久里)の文使いとしてやってきた。
お軽と勘平はしばしの逢瀬を楽しむためにその場を離れてしまう。
しかし、その間に御所内では「高師直」(吉良上野介)に辱めを受けた判官が怒りに任せて刃傷沙汰に及んでしまう、忠臣蔵で言う松の廊下の刃傷事件である。
戻ってきた勘平は思わぬ事態に慌てて門内に入ろうとしたが中に入ることも出来ない。
主人の一大事に逢引で持ち場を離れていたとはなんと言う失態だろう。
早野勘平は責任をとって切腹しようとするが、お軽に止められて、二人はお軽の実家へと駆け落ちすることになった。
やがて、判官は切腹となり館も明け渡すこととなった。
一方、お軽の実家で猟師となっていた早野勘平は、山崎街道の松かげで雨宿りをしていた。
そこへ通りかかったのがかつての同輩である「千崎弥五郎」(神崎与五郎)である。
早野勘平は千崎弥五郎と再会し、昔のよしみで主君の仇討ちの計画と御用金調達の話を聞くと、何とか資金を工面するので自分も一味に加えてくれるように由良之助に取り成して欲しいと懇願する。
その頃、お軽の父親で勘平には舅にあたる「与市兵衛」は、娘のお軽との逢引のせいで勘平が武士を辞めることになった事を気にかけており、何とか元の武士に戻すために資金調達を考えていた。
そして、娘のお軽を京都の祇園にある一力茶屋で遊女奉公させようと考えた。
与市兵衛は話を付けると半金の五十両を受け取って山崎街道を変える途中に、山賊と成り果てた「斧定九郎」(大野九郎兵衛の息子の大野郡右衛門)に刀で惨殺されて所持金の五十両も財布と一緒に奪われてしまった。
ところが、早野勘平は猟師をしていたので猪を鉄砲で撃とうとして見間違えて斧定九郎を撃ってしまったのである。
「しまった、人を撃ってしまった」
勘平は慌てて介抱しようとしたが撃たれた人はすでに行き絶えている。
介抱するうちに懐の財布に気が付いて調べてみると五十両の大金である。
ふと悪心が心を過ぎり、このお金があれば仇討ちの資金調達に役立てて、自分も仲間に加わることが出来る。
勘平は懐の金を盗むと急いで千崎弥五郎の後を追いかけると五十両の金を渡したのだった。
さて、山崎村の百姓である与市兵衛の家では与市兵衛の女房の「おかや」と娘のお軽が帰りを待ちわびていた。
そこへ、祇園町の一文字屋亭主のお戈が駕籠でお軽を迎えに来たのだった。
お軽が連れて行かれようとした所に勘平が戻って来たが、ことの仔細を聞くと、半金を入れて舅の与市兵衛に渡したものと同じ縞の財布を見せられて顔色が変わる。
昨夜、死体から奪った財布と縞柄の財布が瓜二つなのである。
さては、猪と思って撃ったのは舅の与市兵衛であったのかと錯覚してしまう。
そうしているうちにもお軽は駕籠で連れて行かれてしまって家にはおかやと勘平とが残った。
そこへ、殺されていた与市兵衛の遺骸が運ばれてきたのである。
しかし、与市兵衛の亡骸が運ばれても目をそむける早野勘平の態度を不信に思ったおかやは、さきほどちらっと見かけた勘平の持つ縞の財布が気になり、勘平の懐から取り上げて与市兵衛を殺して財布を奪ったのではないかと責めるのであった。
ちょうど訪ねて来た「千崎弥五郎」と「不破数右衛門」は、おかやから事情を聞くと勘平から預かった五十両を突き返し、舅殺しを厳しく非難するのであった。
そして二人が立ち去ろうとする時に、進退きわまった勘平は刀を腹に突き立てて切腹する。
千崎弥五郎が念のために与市兵衛の亡骸を改めると死因は鉄砲傷ではなく刀の傷だったのである、
しかも二人が来る途中で「斧定九郎」が鉄砲傷で死んでいるのを見つけていたことから、与市兵衛を殺したのは斧定九郎で、勘平が間違って撃ったのが斧定九郎で、勘平は与市兵衛の敵を討った事になるのであった。
こうして早野勘平の与市兵衛殺しの疑いは晴れたのだった。
しかし、時すでに遅く切腹した早野勘平は、仇討ちの連判状に加えられて血判を押すとした息絶えて行ったのである。
以上が早野勘平やお軽や与市兵衛夫妻の大まかな物語であるが、身売りされて連れられていったお軽は大星由良之助と関わりあっていろいろあった後に身請けされる事になる。
先に書いたように、これは赤穂事件を元に創作された物語の仮名手本忠臣蔵での物語である。
早野勘平のモデルと言われる「萱野三平」はお軽と思われる女性の姿もなく、そういうラブストーリーとも縁がない。
萱野三平の父である萱野七郎左衛門は、旗本の大島出羽守に仕える家老格であったと言う。
萱野三平は、13歳のおりに大島出羽守の推挙によって浅野内匠頭に仕官することになった。
そうして浅野家に召抱えられて江戸詰めの中小姓として浅野内匠頭によく仕えたと言う。
やがて浅野内匠頭が江戸城「松の廊下」での吉良上之介への刃傷を起こしたのであるが三平は内匠頭のお供をして伝奏屋敷に詰めており、仮名手本忠臣蔵のように逢引してるどころか、その現場にいたわけである。
そして萱野三平は「早水藤左衛門」と供に、伝奏屋敷からそのまま事件のあらましを伝える第一報を持って第一の使者として江戸から赤穂へと早駕籠で飛ばしたのであった。
しかし、途中で実家の側を通った折になんと母が亡くなって葬儀が行われていたのである。
早水は寄って来いと勧めたが、三平は急ぎの使者であるので断って、しばし黙祷すると涙をのんで寄らずに通り過ぎて行ったと言う。
その後、故郷の萱野村に戻って母の供養をし、また浅野家の同僚や大石内蔵助とも連絡を取り同志として仇討ちの機会を待っていたのだった。
先に書いたように、大島家には父と供に兄も仕官していたが、その兄が三平の挙動に不審を覚えたのか詰問にやってきた。
「お主は浅野家の大石内蔵助らと供に吉良上野介を討つつもりではないのか、もしもそういう行動に出れば大島家や父や私にも迷惑がかかるのだぞ」
それを聞いて三平は
「それほどお疑いなら私を絶縁してくださいませ」
しかし兄は
「絶縁などとんでもない。お主には嫁をめとらせて新しい仕官先もさがしてやる」
そう言って三平に迫ったのであった。
こうして萱野三平は浅野家の同志と父や兄との板挟みになり進退窮まってしまった。
仇討ちの同志と交わした密約があるが父や兄を裏切ることもできない、もしも仇討ちに加われば、それを見抜いているであろう兄は大島家に迷惑を掛けないためにも公儀に訴え出るであろう。
思いつめた挙句に萱野三平は大石内蔵助に宛てて手紙を送った。
「春には江戸へ下るべきなのですが、父に強く静止されてしまいました。父に仇討ちの意思をすべて打ち明ければ喜ぶことはわかっていますが、たとえ父といえども打ち明けるわけにはいかず、どうにもなりません。これより自害いたします」
亡き主君への忠義や同志達との仇討ちの盟約、それに反して父への孝と兄への恩、さらに大島家への礼などが三平を追い込んでしまったのだろう。
そして、討ち入りに先立つ11ヶ月前の元禄15年(1702年)の主君の命日でもある1月14日の早朝、萱野三平は28歳の命を自刃して果てたのだった。
そのかたわらには辞世の句があった。
~晴れゆくや、日ごろ心の花曇り~
三平の死を知った父の嘆きは深く悔やんだそうである。
三平の亡骸は母の墓の側に埋葬されたそうだ。
また、萱野三平の死を知った大石内蔵助ら同志達も大いに嘆いたと言う。
討ち入り後に、細川家にお預けになっていた大石内蔵助は、もしも萱野三平が存命ならば必ずこの仲間に加わっていただろうにと語ったと伝えられている。
ちなみに、討ち入りの赤穂義士のなかに「横川勘平」と言う人物も居るが、この横川勘平と早野三平が混ぜられて仮名手本忠臣蔵の「早野勘平」のモデルになったとも言われている。
さて、早野勘平のモデルは萱野三平であったが、一方のお軽のモデルになったと思われる女性も存在するが、萱野三平とは関係は無い。
通称は「お軽」であるが「可留」や「於可留」と書いたようだ。
二文字屋と言う版木屋の二文字屋次郎右衛門の娘であったそうで大石内蔵助の妾であったそうだ。
元禄15年に京都の山科にいた大石内蔵助の元に呼ばれたそうで18歳であったと言う。
内蔵助が討ち入りで江戸へ向かう時には、お腹に内蔵助の子供を身ごもっていたのであった。
そして、お軽は内蔵助の江戸下向後に男子を出産する。
この男子は寺井玄渓の手によって里子に出され、幼名を石之助、長じて「大石良知」を名乗るが、九州平戸へ向かう途中、佐賀の伊万里で没したという。
なお、その後のお軽は29歳の若さで世を去ったそうである。
このように、お軽と勘平の物語は仮名手本忠臣蔵の中で、実在の人物をモデルとして創られたお話であり、お軽の父親とされる与市兵衛も架空の人物と言うことになる。
この与市兵衛の墓といわれる物も真偽には疑問が多い。
石碑の中央には「南無阿弥陀仏」と書かれ、その下に「到空清欣信士」と「清誉妙寿女」の戒名が記されているそうだ。
高野聖寄宿供養名号碑ではないかとも言われているが、真偽はともかく与市兵衛の墓として親しまれ、今でも献花が絶えないのは忠臣蔵の物語が広く愛されているからではないだろうか。
この石塔は「与市兵衛の墓」と言われる供養塔だと言う。
「与市兵衛」と言うのは、「忠臣蔵」の登場人物の一人である人物で、「萱野三平」の妻の「お軽」の父であり、萱野三平にとっては義父に当たる人物である。
ただし、実際の赤穂浪士の物語とは違って人形浄瑠璃や歌舞伎でお馴染みの「仮名手本忠臣蔵」と言う物語での話である。
現在でも実際の事件や出来事を映画や芝居にする時には名前を変えたり、仮名にしたりするのはよくあることである。
江戸時代など実在の事件を扱った芝居など観客には受けるのだが、当局からのお咎めを避けるために名前や時代背景や設定を変更する必要があったそうだ。
そこで、仮名手本忠臣蔵では、実際は江戸時代の五代将軍綱吉の時代であるが、物語では時代背景を太平記の時代に変更し、登場人物の名前も少し変えているのである。
「役名」(モデルとなった人物)として少し書き留めてみた。
「塩治判官」=(浅野内匠頭)
「高師直」=(吉良上野介)
「大星由良之助」=(大石内蔵助)
「顔世御前」=(浅野内匠頭の妻・阿久里)
「斧九太夫」=(大野九郎兵衛)
「斧定九郎」=(大野九郎兵衛の息子・大野郡右衛門)
「お石」=(大石内蔵助の妻・理久)
「大星力弥」=(大石主税)
「早野勘平」=(萱野三平)
「お軽」=(二文字屋阿軽)
「原郷右衛門」=(原惣右衛門)
「千崎弥五郎」=(神崎与五郎)
この、仮名手本忠臣蔵での創作されたお話が忠臣蔵の中でのお話として取り込まれていったり、後年に作られた話とかも加わって忠臣蔵の物語として史実と創作の部分が混同して広まって行ったようだ。
さて、与市兵衛のお話の核となるお軽と勘平の物語である。
「塩治判官」(浅野内匠頭)の家臣である「早野勘平」(萱野三平)は、塩治判官のお供で鎌倉の御所(江戸城)に向かい、判官が登城したので勘平は門前で控えていた。
そこへ、かねてから恋仲である「お軽」が「顔世御前」(阿久里)の文使いとしてやってきた。
お軽と勘平はしばしの逢瀬を楽しむためにその場を離れてしまう。
しかし、その間に御所内では「高師直」(吉良上野介)に辱めを受けた判官が怒りに任せて刃傷沙汰に及んでしまう、忠臣蔵で言う松の廊下の刃傷事件である。
戻ってきた勘平は思わぬ事態に慌てて門内に入ろうとしたが中に入ることも出来ない。
主人の一大事に逢引で持ち場を離れていたとはなんと言う失態だろう。
早野勘平は責任をとって切腹しようとするが、お軽に止められて、二人はお軽の実家へと駆け落ちすることになった。
やがて、判官は切腹となり館も明け渡すこととなった。
一方、お軽の実家で猟師となっていた早野勘平は、山崎街道の松かげで雨宿りをしていた。
そこへ通りかかったのがかつての同輩である「千崎弥五郎」(神崎与五郎)である。
早野勘平は千崎弥五郎と再会し、昔のよしみで主君の仇討ちの計画と御用金調達の話を聞くと、何とか資金を工面するので自分も一味に加えてくれるように由良之助に取り成して欲しいと懇願する。
その頃、お軽の父親で勘平には舅にあたる「与市兵衛」は、娘のお軽との逢引のせいで勘平が武士を辞めることになった事を気にかけており、何とか元の武士に戻すために資金調達を考えていた。
そして、娘のお軽を京都の祇園にある一力茶屋で遊女奉公させようと考えた。
与市兵衛は話を付けると半金の五十両を受け取って山崎街道を変える途中に、山賊と成り果てた「斧定九郎」(大野九郎兵衛の息子の大野郡右衛門)に刀で惨殺されて所持金の五十両も財布と一緒に奪われてしまった。
ところが、早野勘平は猟師をしていたので猪を鉄砲で撃とうとして見間違えて斧定九郎を撃ってしまったのである。
「しまった、人を撃ってしまった」
勘平は慌てて介抱しようとしたが撃たれた人はすでに行き絶えている。
介抱するうちに懐の財布に気が付いて調べてみると五十両の大金である。
ふと悪心が心を過ぎり、このお金があれば仇討ちの資金調達に役立てて、自分も仲間に加わることが出来る。
勘平は懐の金を盗むと急いで千崎弥五郎の後を追いかけると五十両の金を渡したのだった。
さて、山崎村の百姓である与市兵衛の家では与市兵衛の女房の「おかや」と娘のお軽が帰りを待ちわびていた。
そこへ、祇園町の一文字屋亭主のお戈が駕籠でお軽を迎えに来たのだった。
お軽が連れて行かれようとした所に勘平が戻って来たが、ことの仔細を聞くと、半金を入れて舅の与市兵衛に渡したものと同じ縞の財布を見せられて顔色が変わる。
昨夜、死体から奪った財布と縞柄の財布が瓜二つなのである。
さては、猪と思って撃ったのは舅の与市兵衛であったのかと錯覚してしまう。
そうしているうちにもお軽は駕籠で連れて行かれてしまって家にはおかやと勘平とが残った。
そこへ、殺されていた与市兵衛の遺骸が運ばれてきたのである。
しかし、与市兵衛の亡骸が運ばれても目をそむける早野勘平の態度を不信に思ったおかやは、さきほどちらっと見かけた勘平の持つ縞の財布が気になり、勘平の懐から取り上げて与市兵衛を殺して財布を奪ったのではないかと責めるのであった。
ちょうど訪ねて来た「千崎弥五郎」と「不破数右衛門」は、おかやから事情を聞くと勘平から預かった五十両を突き返し、舅殺しを厳しく非難するのであった。
そして二人が立ち去ろうとする時に、進退きわまった勘平は刀を腹に突き立てて切腹する。
千崎弥五郎が念のために与市兵衛の亡骸を改めると死因は鉄砲傷ではなく刀の傷だったのである、
しかも二人が来る途中で「斧定九郎」が鉄砲傷で死んでいるのを見つけていたことから、与市兵衛を殺したのは斧定九郎で、勘平が間違って撃ったのが斧定九郎で、勘平は与市兵衛の敵を討った事になるのであった。
こうして早野勘平の与市兵衛殺しの疑いは晴れたのだった。
しかし、時すでに遅く切腹した早野勘平は、仇討ちの連判状に加えられて血判を押すとした息絶えて行ったのである。
以上が早野勘平やお軽や与市兵衛夫妻の大まかな物語であるが、身売りされて連れられていったお軽は大星由良之助と関わりあっていろいろあった後に身請けされる事になる。
先に書いたように、これは赤穂事件を元に創作された物語の仮名手本忠臣蔵での物語である。
早野勘平のモデルと言われる「萱野三平」はお軽と思われる女性の姿もなく、そういうラブストーリーとも縁がない。
萱野三平の父である萱野七郎左衛門は、旗本の大島出羽守に仕える家老格であったと言う。
萱野三平は、13歳のおりに大島出羽守の推挙によって浅野内匠頭に仕官することになった。
そうして浅野家に召抱えられて江戸詰めの中小姓として浅野内匠頭によく仕えたと言う。
やがて浅野内匠頭が江戸城「松の廊下」での吉良上之介への刃傷を起こしたのであるが三平は内匠頭のお供をして伝奏屋敷に詰めており、仮名手本忠臣蔵のように逢引してるどころか、その現場にいたわけである。
そして萱野三平は「早水藤左衛門」と供に、伝奏屋敷からそのまま事件のあらましを伝える第一報を持って第一の使者として江戸から赤穂へと早駕籠で飛ばしたのであった。
しかし、途中で実家の側を通った折になんと母が亡くなって葬儀が行われていたのである。
早水は寄って来いと勧めたが、三平は急ぎの使者であるので断って、しばし黙祷すると涙をのんで寄らずに通り過ぎて行ったと言う。
その後、故郷の萱野村に戻って母の供養をし、また浅野家の同僚や大石内蔵助とも連絡を取り同志として仇討ちの機会を待っていたのだった。
先に書いたように、大島家には父と供に兄も仕官していたが、その兄が三平の挙動に不審を覚えたのか詰問にやってきた。
「お主は浅野家の大石内蔵助らと供に吉良上野介を討つつもりではないのか、もしもそういう行動に出れば大島家や父や私にも迷惑がかかるのだぞ」
それを聞いて三平は
「それほどお疑いなら私を絶縁してくださいませ」
しかし兄は
「絶縁などとんでもない。お主には嫁をめとらせて新しい仕官先もさがしてやる」
そう言って三平に迫ったのであった。
こうして萱野三平は浅野家の同志と父や兄との板挟みになり進退窮まってしまった。
仇討ちの同志と交わした密約があるが父や兄を裏切ることもできない、もしも仇討ちに加われば、それを見抜いているであろう兄は大島家に迷惑を掛けないためにも公儀に訴え出るであろう。
思いつめた挙句に萱野三平は大石内蔵助に宛てて手紙を送った。
「春には江戸へ下るべきなのですが、父に強く静止されてしまいました。父に仇討ちの意思をすべて打ち明ければ喜ぶことはわかっていますが、たとえ父といえども打ち明けるわけにはいかず、どうにもなりません。これより自害いたします」
亡き主君への忠義や同志達との仇討ちの盟約、それに反して父への孝と兄への恩、さらに大島家への礼などが三平を追い込んでしまったのだろう。
そして、討ち入りに先立つ11ヶ月前の元禄15年(1702年)の主君の命日でもある1月14日の早朝、萱野三平は28歳の命を自刃して果てたのだった。
そのかたわらには辞世の句があった。
~晴れゆくや、日ごろ心の花曇り~
三平の死を知った父の嘆きは深く悔やんだそうである。
三平の亡骸は母の墓の側に埋葬されたそうだ。
また、萱野三平の死を知った大石内蔵助ら同志達も大いに嘆いたと言う。
討ち入り後に、細川家にお預けになっていた大石内蔵助は、もしも萱野三平が存命ならば必ずこの仲間に加わっていただろうにと語ったと伝えられている。
ちなみに、討ち入りの赤穂義士のなかに「横川勘平」と言う人物も居るが、この横川勘平と早野三平が混ぜられて仮名手本忠臣蔵の「早野勘平」のモデルになったとも言われている。
さて、早野勘平のモデルは萱野三平であったが、一方のお軽のモデルになったと思われる女性も存在するが、萱野三平とは関係は無い。
通称は「お軽」であるが「可留」や「於可留」と書いたようだ。
二文字屋と言う版木屋の二文字屋次郎右衛門の娘であったそうで大石内蔵助の妾であったそうだ。
元禄15年に京都の山科にいた大石内蔵助の元に呼ばれたそうで18歳であったと言う。
内蔵助が討ち入りで江戸へ向かう時には、お腹に内蔵助の子供を身ごもっていたのであった。
そして、お軽は内蔵助の江戸下向後に男子を出産する。
この男子は寺井玄渓の手によって里子に出され、幼名を石之助、長じて「大石良知」を名乗るが、九州平戸へ向かう途中、佐賀の伊万里で没したという。
なお、その後のお軽は29歳の若さで世を去ったそうである。
このように、お軽と勘平の物語は仮名手本忠臣蔵の中で、実在の人物をモデルとして創られたお話であり、お軽の父親とされる与市兵衛も架空の人物と言うことになる。
この与市兵衛の墓といわれる物も真偽には疑問が多い。
石碑の中央には「南無阿弥陀仏」と書かれ、その下に「到空清欣信士」と「清誉妙寿女」の戒名が記されているそうだ。
高野聖寄宿供養名号碑ではないかとも言われているが、真偽はともかく与市兵衛の墓として親しまれ、今でも献花が絶えないのは忠臣蔵の物語が広く愛されているからではないだろうか。