歌手の小室等さんが。。。
 違い超える試みに期待 弱者はより追いやられ。。。

 生々しく震災のことが綴られていましたので、そのまま引用させていただきたいと思います。。。

 −震災から10日ほどして、被災地に入った。

 船で神戸港に入った。ラジオのリポートの仕事で、神戸市内をあちこち、歩き回った。店がつぶれた中華料理屋が店の前で食べ物を売っていて、まんじゅうを買い、歪んだ港に腰掛けて食べたことを覚えている。

 避難所に泊めてもらったことがある。ラジオ番組のディレクターに言われるままギターを担いで来て、みんなの前で歌うよう提案されたが、しなかった。あれだけ大きな出来事を前に、そんなに簡単に、音楽が人の心を癒すと思っていいんだろうか、と感じたから。外から入ってきた自分が乱暴に、被災している人の前に立つことへの恐れがあった。

 −復興の流れをどうみる。

 震災までの神戸は、いろいろある街の一つだった。僕を迎えてくれる人がいて、屈託なく寄り添い、飲んだくれていい街だった。震災後、外見はあれよあれよという間に復興を遂げたけれど、街を歩いても、どこかで居座りの悪さを感じる。

 人々の復興を願う気持ちを前に、行政は、震災という現象を道具に、いろんなことを都合のいいように整理してしまったような印象を持った。区画整理などもそうだろう。

 何度か訪ねるうち、整理の過程の中ではじき出されてしまった人は置き去りだと感じた。行政の用意した避難所に入らず、集まって生活していた人たちの居場所に公的な名前はなかった。存在がないことにされている、と思った。

 震災後、見えてきたさまざまな問題にきちんと光を当て、より良い社会をつくっていく可能性はあった。あれだけ多くの人が一瞬、支え合えたということで、未来に明るさを感じたとも思う。だが、いろいろなことをあいまいにしたまま、今、弱者はより弱者として追いやられている。日本全体がそうだ。

 ー神戸市長田区で、多言語で情報発信している「FMわぃわぃ」のイメージソングを作った。韓国などの歌手らとともに音楽祭に参加するなど、異文化とのかかわりが深い。

 異なる文化の人が一緒に暮らしていくのは、難しいことだと思う。人は歳を取れば保守化するもので、香辛料のにおいがする日常を受け入れられるかといえば、理屈ではいかない。音楽だって、簡単に国境を超える、とは思っていない。

 だが長田区などでは、それでも、どうすれば自分と違う人と折り合いを付けて生きていけるか。という試みをしていると思う。それは、地球全体がこれからやらねばならない試み。震災という不幸から生まれた、かけがえのない「幸」がある。期待を大きく持ちすぎず、ゆっくりやってほしいなあと思う。

 −震災時に障害者を支援するネットワークを全国につくろうと活動するNPO法人「ゆめ・風基金」(大阪市)。永六輔さんの後を継ぎ、呼びかけ人代表に就任する。

 正直、責任を伴うことはなるべく避けたいというためらいもあるけれど、断るパワーがない、というか・・・。入場料を取る自分のコンサートで文句を言われてもいいが、趣旨や目的がある場で歌うのは、自分の責任の範囲を超えているように感じることもある。

 それでも、活動している人たちへの尊敬があり、少しでも手伝いになれば、とやっている。夢を託せる事業だと思っている

 −来年には、震災から10年を迎える

 自分と意見の違う人とかかわらなくても生きていけるまち作りを、僕らは戦後、してきた。

 でも、人はひとりで生きていけないと肝に銘じておかないと、孤立してしまう。そして、僕は人付き合いなんかしたくないんだ、という人にも社会は窓を開いておくべきだ。

 また、緑を増やすとか、防災のためにすべきことは多いが、金になるか、という目で見てしまうから、なかなか進まない。まちを良くしていくには、時間がかかる。

 また、取材を終えて。。。

 信じることあきらめない と題して、

 震災後、幾つかの仕事を通じて被災地とかかわってきた小室さん。あの体験が残したものが今、どれだけ受け止められているか、「楽観できない」と言う。けれど復興の営みのなかに、数々の小さな「幸い」がある、とも言った。

 歌の力に話題が及んだ。「歌は人を戦争に連れて行くこともある」と語り、「正義」や「勇気」を叫びながらみんな同じ気分で歌に接することから、注意深く距離を置いていたい、とも。だが、この春出した本では、「人生を肯定するもの、それが音楽」とつづった。

 世の中に目を凝らし、でも信じることをあきらめない。インタビューの仲で、時に腕を組み、丁寧に言葉を捜していた小室さんは、そんなことを思っているのかもしれない。。。

 震災10年を語るというコラムを見つけましたので、そのまま書きました。。。